第69話 昔話
幕屋広場を襲った赤グマはニコライの作った地溝に閉じ込められたまま、マリヤ婆さんの火魔法で頭部を焼かれて死んでしまった。
そのマリヤは今、燻製所に戻って自分の仕事の続きをしている。
イリアの助けを呼ぶ声はマリヤ婆さんにしか届かなかったようで、結局ニコライと二人、赤グマの死体のそばでぼんやり待つことになった。
井戸番のマルクが揉み療治師を連れて帰って来たのは1刻以上も経ってからだった。
「いやー、まさかだぜ。なんでこんなことがたまたま俺がいない時に起きるんだ? まったくついてねえよお前さんらは」
ケダモノにはケダモノなりの、人間にはわからない勘のようなものがあるのかもしれない。もともとこの幕屋広場は人里離れて自然のど真ん中という環境なのだ。
赤グマが出たのは、強者であるマルクが居なくなった事を何らかの方法で察知したからとも考えられる。ついているとかいないではなく。
広場の幕屋が受けた被害を確認して回ってから、マルクは200キーラムを優に超える赤グマの死体を引き上げてマリヤのいる燻製所まで運んでくれた。
そして今は溝の埋め戻し作業をしている。
その背中にはイリアの背丈ほどもある巨大な両刃剣。
【大武器使い】というアビリティーを除き、『武技系・把持器強化型』の異能で強靭化できる武器の大きさには限度がある。総鉄製の武器であれば約8から10キーラムほどにあたる。
重さではなく体積で制限されるので、鈍器の場合は中に鉛を仕込んだりするらしい。
マルクの背負っている大剣は少なく見積もっても十数キーラムはあるだろう。身幅も厚みも長さに比例するように大きくなっている。
巨大な武器を使っている者は、ほとんどの場合異能で武器を強靭化できない者たちだ。強靭化できない武器で頑丈な魔物を攻撃するには、どうしても大きさが必要になる。大きければ威力も耐久性も高くなるのは道理である。
マルクがその大剣の破壊力を十分に発揮したなら、赤グマくらい一撃で倒せたのだろう。
「潰された幕屋の被害って、誰が弁償するんですかね」
「ん? 弁償なんて誰もしないだろ? 俺がここを盗っ人から守ってたのは、盗みが悪いことで、そんな卑怯なことで金を儲けるやつがねたま…… 許せなかったからそうしてただけだ。腹減らしたケダモノがやったことまで責任とる気はねぇよ」
「そうですか。いや、俺が弁償しなくてすむならそれでいいんですけど」
「したけりゃしてもいいんだぜ? この赤グマ、結構な金になるんだろ?」
ニコライは今自分の幕屋で揉み療治師に治療を受けている。
「うっ」とか「いっ」とかいう声がイリアの背後の幕屋内から聞こえてくる。
マルクを待つ間、ニコライがしていた話によれば赤グマ一頭はそれなりの金になるのだそうだ。
イリアは風味があまり好きではないが、栄養が豊富だとされている肉は10キーラムで小銀貨3枚半の値が付く。この赤グマなら70キーラムは採れるという。つまり肉だけで約大銀貨5枚分になる。
染色しなくても鮮紅色をした毛皮はかなりの値が付くらしいが、それは冬の話。毛並みが貧弱な夏の皮はせいぜい小銀貨3枚。それは脱毛革としての売値であり、夏毛の場合その赤い毛は全て抜き取られ、刺繍用の毛糸に加工されるらしい。
その原料としての価値が意外と高く、大銀貨1枚になる。
内臓にも値が付く部分があるらしいが、それはマリヤ婆さんの取り分という事になっている。
地魔法で赤グマを拘束したニコライは自分の取り分を辞退していた。
つまりこの赤グマからイリアは大銀貨6枚半の利益を得ることになったのだ。
「俺も死体をあっちまで運んだし、こうして埋め戻しを手伝ってるんだから、小遣い銭くらいは分けてくれよな、イリア」
手伝いというか埋め戻しに使っている板鋤は一つしかなく、背中の傷が開いてまた包帯を巻きなおしたイリアは作業に参加していない。
赤グマは今マリヤ婆さんが解体している。
イリアは突如として得られることになった収入のうち小銀貨2枚をマルクに渡すことを約束した。
翌日朝。イリアはニコライと共にセイデス川上流に赴いていた。
赤グマとの死闘から一夜明け、揉み療治で腰も肩も回復したというニコライはイリアの短鉄棍を担いでいる。
万一、赤グマがもう一頭出てきたとしても本来のニコライなら撃退するのはわけも無いと、本人はそういきまいていた。
「無心じゃ、イリア。釣ろうと考えてはならん。川の流れと一体になることに集中するんじゃ」
「はい」
ニコライの言葉に従い、イリアは川の狙い目に向かって無心で仕掛けを投げ入れ続けている。
陽光はだんだんと強さを増し、そろそろ鎧を着ているのが辛くなってきた。
岸から6、7メルテほど離れた位置。水流の乱れに投げ入れていた浮きが不自然に沈んだのがイリアの目に映った。続いて糸をもつ右手の指に重さが掛かる。
緊張が糸に伝わるとせっかくの当たりが無駄になる。心を乱さず、無心。
二度目の手ごたえ、森青グモの釣り糸が強く引きこまれた。マスの口をちぎってしまわないように慎重に糸を手繰っていく。
背びれが見えて、やがて銀色の鱗が陽光を反射して光り輝く。澄んだ水面に鮮やかな青と緋色が映り、無事引き上げたマス。
体長は普通だ。大きくも小さくも無い。
「ついにやりました!」
「うむ。よかったな。せっかく道具をそろえたのに釣果無しでは帰るに帰れんものな」
セイデス川に来るための準備や、来てからの経費で大銀貨4枚は使ってしまっている。だが結果として、予期せぬ赤グマの収入で差し引き大銀貨2枚以上のもの利益を得ることになった。
それでも、やはり一回くらいは最初の目的に沿った事をしておきたい。
マスを針から外す際は汚さないように手袋を脱いでいたわけだが、魚の表面はイリアが思っていた以上にヌルヌルであった。
ニコライに借りたナイフでマスの命を絶ち、腹を開いて内臓も取り出す。
初めての行為に心臓がキュッとなったが、それ以上の異変は心身に起きない。
これもニコライのものである塩をすり込み、エラにその辺の草の茎を通してぶら下げ、二人は広場に戻った。
暑いので鎧は外し、実際、経過観察中のはずの二人は幕屋の日陰でだらしなく横になった。
人生初の釣果はマリヤ婆さんに預けてある。イリアはソキーラコバルまで持ち帰るつもりだ。一晩たてば保存性の高いマスの燻製が出来上がるらしい。
「しかし燻製を作るためにもう一晩泊るってのは、どうなんじゃ? もしよけりゃ、もう出来上がっとるわしのやつと交換してやってもよいが」
「いや、いいですよ。ここは宿賃が掛からないんだし、気楽にのんびりできますよね。むしろずっとこうしていたい……」
「若いんだから、あまりそうなってはいかんと思うぞ」
「まあ、明日は街に戻りますよ。荷物を背負って帰らなきゃならないんで、背中の傷がもうちょっと治ってからの方がいいのかな、と」
そうしてイリアはニコライと午後の間中話をつづけた。
主に『虎の爪』団員時代の活躍ぶりを聞かされ続けただけだが、89歳という高齢者と話をするというのが初めてのこと。
ニコライが25歳で正団員になったKJ暦714は第三次ベルザモック戦争からわずか10年しかたっていない時代。9代王パヴェルの治世だ。
『焼却王パヴェル』の二つ名ももつ好戦的なチルカナジア王は、一度王国から独立したコルバル地域を武力によって再統合するようなこともしている。今と違い、人間同士の戦争が身近にあった時代と言える。
今よりももっと武張っていて、名誉とか誇りとか、合理性以上の何かを重視していた当時の戦士団の有様を聞くのは昔話のようで面白かった。
イリアの母ポリーナはもともと天涯孤独の女戦士であった。そして父ギュスターブは先々代の頭領の家に養子として入っている。
州最南端の街ボーロトニエとノバリヤの中間あたり。東方、ラハーム教自治領への細い交易路が繋がっている小村キリビリスで農家の子として育ったギュスターブ。
戦士団との縁は薄かったが、初代頭領エミールの血を引いていて、なおかつ【剣士】に目覚めたことで、実の両親から引き離されて先々代頭領であるブライアンに引き取られた。
厳しい鍛錬とレベル上げを課され、22歳の若さで頭領の座に就いている。イリアが生まれた頃だ。
ブライアンと先代の頭領との間に血縁は薄かった。
女性の【剣士】保有者であった先代マルゴットを追い出すような形でギュスターブを擁立した後、たった3年でブライアンは亡くなっている。
なので、イリアは祖父や祖母といった存在に縁が無かった。正確には3歳ごろまで養祖父は生きていたことになるが、記憶は一切ない。
自分をブライアンに引き渡した実の両親についても、ギュスターブは何も言及することは無かったように思う。
いつか、まだ存命らしいキリビリス村の実の祖父母に会う事もあるのだろうか。とめどなく続くニコライの話を聞きながら、そんなことをイリアは考えるのだった。




