第67話 有害
背中の傷に響かないようイリアは衣類を下に敷いてうつぶせで寝た。
起きれば日の2刻はじめ。空は晴れ渡っている。
いちおう鎧も装着し、身支度を整えてニコライの幕屋を覗くと本人は起きていた。
「どうですか? 具合」
「あー、寝てもやっぱり治りはせんな…… 揉み療治を呼んでもらわにゃならんかもしれん」
ニコライは毛布の上にあおむけになったまま、あまり動こうとしない。夜明け前に自分で起き上がって小用を済ませたらしいのだが、痛みだけでなく足腰に力が入らずに難儀したという。
腰痛になった人を見たことも無いイリアにはどうしていいか分からなかった。
「お前さんは行っても良いんじゃぞ? 昨日、ほとんど釣り上げるところまでいったんじゃから、もう一人でもやれようが」
「やめておきますよ、背中もまだ不安ですし」
「そうか…… しかし、情けないもんじゃな年寄るというのは。戦士団の正団員にまでなったわしが、剃刀イタチごとき相手に腰をやっちまうとは」
「ノグッティグラーノの戦士団というと、『虎の爪』ですか?」
「おう、知っておるか」
ニコライが『虎の爪』正団員だったのは釣りを本格的に始める前だそうで、つまりは50年も前のことである。
そんな大昔の事なら戦い方など忘れてしまっていてもおかしくないが、34だというレベルとそのステータスは死ぬまで減ることは無い。最近まではちゃんと自分が対魔物戦力である自信があったのだろう。
ニコライの荷物の中に大きな鍋と大麦があるというので、イリアは朝食に麦粥を作ることにした。
両手に一掬いくらいの乾燥させた大麦と、その4倍量の水。
薪の出し入れによって火力を調整する、焚火での火加減にも少し慣れた。調理用匙で鍋をかき混ぜていたら、マルクがやって来た。
「よおイリア。麦だけじゃ食いでが無いだろ? これ使っていいぞ」
そういって渡してきたのは一つかみほどの大きさのチーズの塊だった。所々青くカビている。
イリアは礼を言って、これもニコライの荷物に入っていた小さなナイフでチーズを粥に削り入れた。
チーズの中には気泡ができていて、そこを中心に青カビが生えている。食べる分には無害であり、むしろカビの部分が美味だという者も居る。だがイリアは色合いが気持ち悪くて嫌いなのでそこは削り落とした。
「聞いてみたんだがな。なんでも今ここに朝食を売りに来てるのはマリヤ婆さんの村の人間じゃないんだと。だから、揉み療治の先生を呼ぶには誰かムセゼ村までやらなきゃならない」
「俺が行けばいいんですかね?」
「いや、イリアは場所しらないだろ? 足も遅いだろうし。俺なら半刻で行ける距離だ」
「でも……」
井戸番の仕事があるマルクはここを離れられないのではないのか。
「だからさ、ムセゼ村に行って、揉み療治連れて戻ってくるまでの、2刻間くらいかな? イリアが代わりをしてくれよ」
「出来ますかね」
「ここに泊まり込んでる釣りバカの連中はどうせ夕方になるまで帰ってこねえし、俺が居ない隙を狙って他所から盗っ人が来るとも思わん。ちょっと見回ってくれりゃそれでいいし、何かあっても責任とれとか言わねぇから」
特に問題なさそうなので、その案をイリアは承知した。
マルクが出かけてしばらくして麦粥が出来上がり、イリアはニコライと共にそれを食べた。どうという事の無い普通の味であったが、生涯で始めてする調理らしい調理であったので無難に出来ただけでイリアは十分満足であった。
ニコライも「悪くない」と褒めてくれた。
厠の近くにある水場で鍋を洗う。
顔を洗えるくらいの大きさの鉄鍋をぶら下げ、戻るついでにイリアは直径100メルテ以上ある幕屋広場をぐるりと見回ることにした。
川に一番近い広場の北の端。最悪の光景が広がっていた。
複数の幕屋が潰され引き倒されている。背負い袋や麻袋など、食料の入っていたと思われる荷物が引き裂かれ、その中身を食っている大きな陰。
十数メルテ先に居たのは赤グマだ。
鼻先から背中にかけて、血の吹き出したような鮮紅色の毛皮。距離があるのでわかりづらいが、四つん這いで新たな幕屋の中に潜り込んでいくその頭の高さは、イリアの身長とそう変わらないように見える。
もともとクマは雑食性で、普通のクマでも時に人を襲う。その上さらに、多少なりともマナの恩恵で強力かつ頑健になっている半魔物である。人にとって並のクマより安全なはずがない。
みるからに巨大な筋肉を纏っている赤グマの体、その体重はイリアの4倍を下らないだろう。魔石を持っていないから「本魔物」ではないとかは関係ない。あれと戦うくらいなら剃刀イタチ数匹に同時に襲われる方がずっとマシだ。
イリアは音を立てないように注意しながら、それでも急ぎ足で移動しようとした。川石だらけの地面では、いくら気を付けても石同士が擦れてじゃりじゃり音がする。
ニコライの幕屋まで行ってその中に駆け込んだ。鍋を抱えたまま。肌着は嫌な汗でびしょ濡れである。
「ニコライさんニコライさんニコライさん赤グマですどうしますかっ!」
小声で叫ぶと、ニコライは上半身を勢いよく持ち上げた。
「ッ! ……ンガァア!」
「ちょ、大丈夫ですか⁉」
「腰のことなど気にしとる場合か! すぐ逃げろ! イリア!」
ニコライは肌着に下着姿のまま、四つん這いで幕屋の外に出ていく。
「どうします? 勝てますかね? レベル34もあるんだから勝てますよね?」
後ろから話しかけるイリア。ニコライは数十メルテ遠くで荷物を荒らす赤グマの鮮紅色を認めた。その場に膝を付き、そのまま脚を折りたたむように腰を下ろした。背筋がすっと伸びている。そうした方が腰の負担が少ないのだろうか。
「……イリアよ。南に大きく回り込んで…… そうじゃな、上流のほうに誰か呼びに行け。年寄りではない大人が二人いれば、赤グマくらいはなんとかなるじゃろう」
「え、ニコライさんだけだと、あれなんですか……?」
「腰がまともであれば、な……」
イリアは隣にある自分の幕屋に飛び込んだ。短鉄棍を持って出て、ニコライの横に立つ。もう半月は武器として使っていない短鉄棍だが、暇があれば筋力鍛錬のために振り回していた。
「なにしとるんじゃ? 早く行かんか!」
「大きな声やめてくださいよっ! あ、こっち見たじゃないですか! ……いちおう聞きますけどニコライさんを背負って逃げた場合、追いつかれずに逃げ切れると思います?」
「無理じゃ。短い距離なら奴らは馬並みに速い。よいか聞け、わしの骨身はレベル相応に頑丈じゃ、あのケダモノも、こんな硬いのはごめんと食いたがらないかもしれん。殺されるとは限らん。じゃから逃げろイリア。若いお前さんがこんなジジイのために命を落とすなど、あってはならんのじゃ」
ニコライの声は、後半はほとんど嘆願のような色を帯びていた。
イリアは大きく一呼吸すると、こちらに顔を向けてゆっくり歩きだす赤グマから目を離さず、言った。
「俺は、8大戦士団の『白狼の牙』頭領家男子として生まれました」
「……それがなんじゃ?」
「俺のために戦って、体を痛めて。動けなくなったお年寄りを見捨てて逃げたとか、そういう評判は困るんです」
「恰好をつけとる場合か!」
「格好をつけなきゃいけないんですよっ! まともな戦士になれなかった俺が、負うべきだったものを弟に押し付けた俺が、そんな不名誉まで被ったら二度と顔を合わせられなくなる!」
なんとか興味を失ってどこかに行ってくれないか。そんなイリアの願いを他所に、赤グマは幕屋の間を縫ってこちらにどんどん近づいてくる。
「……難儀じゃな。弟はいくつになる」
「来月12歳になります。父親に似て目つきが悪いんです」
イリアは短鉄棍を構えた。背中の傷の痛みなど、緊張のためにもはや少しも感じない。
イリアの知る限り、最も危険な半魔物がもう10メルテの距離に迫っていた。




