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第64話 指ぬき手袋

 結局ニコライが最後に釣り上げたマスは小さく、午後の最終的な釣果は3匹だけだった。

 幕屋広場に戻ると大勢の釣り人がすでに火を焚いて飲み食いをしている。

 いちおう石を組んで(かまど)のような物を作ってはいるが、強い風が吹けば火が飛んで幕屋に燃え移り、火事になってしまうだろう。

 その懸念をニコライに伝えると呆れ顔をされた。


「そりゃそうじゃ。そのくらいのことはみんなわかっとるから、ちゃんと桶に水を入れて傍において火を焚いとるんじゃ」

「……俺、桶持ってないです……」

「最初に会った時にわかっとったよ。野営もろくにしたことない小僧がここを荒らしたらかなわんと思ってな。だから声をかけたんじゃ」

「……」



 自分たちの幕屋の所に帰る前に、広場の東の端にある煉瓦造りの建物に寄った。

 そこにはニコライと同じ程年を取った、腰の曲がった老婆が一人。


「マリヤ婆さん、一匹頼むよ」

「あいよ」


 ニコライが開いて塩をふってあるマスを渡すと、老婆はそのエラに麻紐を通した。麻紐には何故か結び目がたくさん作られている。


「あんたのは14番だ、覚えといておくれよ」

「14じゃな。イリア、お前も覚えててくれ、どうも最近は物覚えも悪くなってな」


 14というのはマスを識別するための番号なのだろう。麻紐の結び目の数は確かにそれくらいだった。

 老婆は1辺2メルテの真四角の形をした建物の扉を開けた。煙がもくもくと出てくる。夕日にテカる老婆の顔は彼女自身燻製されているかのようだった。



「あれ? 一匹だけしか預けないんですか?」

「2匹は今晩食うからな」

「……ひょっとして、俺も食べていいんですか?」

「マスが嫌いじゃなけりゃな。その代わり薄焼きパン焼いてくれ。お前さんの小麦粉使ってな」



 自分たちの幕屋の場所に戻ったイリアは、周りと同じように大きめの川石を集めて竈を作り、帰り道で拾ってきた枯れ木で焚火を起こした。

 火付けに使ったのはノバリヤから持ってきた灯壺の付属品の火打石だ。


 取っ手付き平鍋と一緒に購入していた塩漬けの豚脂をひとかけ。火にかけた平鍋に落とす。

 直径2デーメルテの平鍋の底にきれいに脂が回ったところで、水で溶いた小麦粉を流し入れる。小麦粉を混ぜるのに使った大きな木椀はニコライの物だ。

 そういう物が無ければ小麦粉の調理などできないに決まっているのに、買い忘れていた。


 5枚の薄焼きパンを焼いたところでニコライが川から帰って来た。ニコライの分は2枚でいいと言われている。イリアも3枚あれば十分だった。


「できました」

「それじゃあ、ちょっと平鍋貸してくれ。洗って返すから」


 そういうと、ニコライは何かの骨で出来た容器を荷物から取り出した。平鍋にその中身を流す。


「なんですか、それ」

「西の方の国でよく使われる、木の実からとった油じゃ」

「輸入品ですか。高くないんですか?」

「まぁそこそこするな」


 そうして平鍋が温まったところを見計らって、マスの開きを一匹投入した。ジュウと音がして、香ばしいにおいが立ち込める。

 ニコライは持ち歩いている袋から塩を取り出し、マスに振りかけた。


「うわ! しょっぱくなりますよ、干す前あんなにすり込んだのに!」

「ちゃんと井戸の水で塩は流してあるわい」

「え? わざわざ塩を流して、それでまた味付けに塩を使うんですか?」

「そうすると臭みが抜けてより一層うまい」


 チルカナジア王国は南の方で大湖海に通じている。なので岩塩だけでなく海塩も同じくらい簡単に手に入る。

 それでも1キーラムで小銀貨2枚ほどはするし、そんなに無駄に使っていいものではない。


「あの……、マスの燻製って一匹いくらくらいで売れるものなんですか?」

「そうさなぁ、卸値でだいたい銅貨6、7枚ってところかの」

「そんな、それしか儲からないのに、輸入品の油や塩を使って料理して、損じゃないですか」

「だから言ったじゃろ、マス釣りは趣味、生計を立てるなんて無理じゃと。今日はたまたまうまくいったが、剃刀イタチにやられればマスも毛針も持っていかれる。ひと夏すぎて儲かって終わる事なんか、一度も無かったぞ」

「……じゃあ俺が読んだ本は、嘘が書いてたんですね……」

「まぁ、川に網を張るとかして、えげつなくやれば儲からんことも無いじゃろう。だがそれをやったらマスはこの川から居なくなってしまう。だから、そんなことをしようとする(やから)が居れば、ここにいる釣り愛好家たちにボコボコにされるじゃろうなぁ」


 拳の骨をボキボキと鳴らしてから、ニコライは帰り道に摘んでいた香草をマスに散らした。ワクス草という香草で、魚によく合うのだという。

 焼き上がったものが薄焼きパンと一緒に木皿に盛られ、先に食べていいと言われたので、無作法ではあるがニコライの言葉に甘えた。


 焼きたてのマスの油焼きはイリアがこれまで食べたどんな魚料理よりも美味だった。輸入品だという木の実油の、青っぽい香りが僅かに残るマスの生臭さを完全に覆い隠している。

 ちぎった薄焼きパンに肉を挟んで、次々に口の中に放り込む。

 ニコライが自分の分を焼き終えるまでに、イリアは食べ終わってしまっていた。




 言った通りニコライは平鍋を自分で洗いに行った。

 マスの塩を流すのは川でしたらしいのに、油を流すのはなぜか駄目だそうで、少し離れた、(かわや)のある水場までいって来たらしい。


 日は暮れて、幕屋広場で野営する男たちは皆釣りから帰ってきたようだ。

 焚火の明りがそちこちに見える。


 平鍋を焚火で乾かしてイリアに返したニコライ。一度自分の幕屋の中に入って、出てくるとまた何か渡してきた。それは分厚い手袋だった。


「なんですか?」

「お前さんの戦い方を見て思ったんじゃがな。その短剣、刃が付いておらんのじゃろ?」

「……」

「理由を聞いてもいいか?」

「だから、言った通りですよ。魔物を倒すだけでレベル上げが上がるんですって」

「まあ、わしもこの年じゃし、娘っ子のようにきゃいきゃい他人の事情を聞くつもりは無いがな」


 娘っ子というものはきゃいきゃいと人の事情を聞きたがるものなのだろうか。イリアはそういう年頃の女子と話したことがあまり無いのでよくわからない。

 しいて言えばジゼルがアビリティーについて聞きたがっていた記憶があるが、いたって控えめで誠実な聞かれ方をされたはずで、きゃいきゃいというような感じではなかったが。


「信じられないのは分かりますよ」

「……まぁどっちでもいいわい。憎き魚盗人の魔物といえど、わしらもほいほい殺すのは控えとるし。それよりもこの手袋じゃ。お前さんは右手で持った短剣だけで剃刀イタチを攻撃しとったじゃろ? 切るのではなく、結局殴るなら左手でも殴れるようにしたらどうかと思ってな」



 剃刀のように鋭い牙を持った魔物を素手で殴るのは恐ろしい。

 だがニコライがよこした厚手の手袋なら、少なくとも手の皮膚の身代わりに切り裂かれてくれるくらいはしてくれそうである。

 よく見れば手袋は右手の人差し指の部分が無い。


 イリアが不思議そうにしているのを見て、釣り糸にマスが掛かる感触は素手でなければ感じ取れないとニコライは言った。

 イリアはまだ一度もそれを味わっていない。

 その感触こそが釣りで一番楽しい要素なのだと、ニコライの話は夜遅くまで続いた。

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