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第63話 剃刀イタチ

 幕屋広場から川沿いを遡っていくと、途中10人以上の釣り人を見た。

 ほとんどの者がニコライやイリアと同じく釣り糸を手で持って釣っていたが、一人細い木の棒の先端に糸を繋いで使っている者がいた。


「あれって、どうなんです? あっちのほうが釣れたりしますかね?」

「いや、あれはもっと大物を釣るときのやり方じゃな。でかくて力の強い魚にいきなり引っ張られると糸が切れちまう、その対策のための釣竿じゃ。あと、仕掛けを遠くに飛ばすのが楽になるが、セイデス川ではそんな必要もないしな」



 半刻ほど歩き続けた。やはり何があるのかわからないので鎧を再装着していたイリアはだいぶ汗だくである。

 最後に見た釣り人から300メルテほど離れた場所でイリアとニコライは午後の釣りを開始した。




「何が違うんですかねぇ……」


 太陽の位置は日の9刻の終わりを示している。少し前暑さのために釣りを中止し、木陰で休んでいたイリアはニコライの背中に嘆きの言葉を投げた。


 ニコライは荷物の大半を幕屋に置いてきていたが、塩は持ってきていたらしい。

 地面に斜めに刺した長い棒には身を切り開かれたマスが塩をすり込まれて干してある。その数は3枚だ。


「簡単には言えんが、まず第一には殺気じゃろうな」

「殺気とは?」

「マスをだまして殺して食っていしまおうという、わしら人間の欲じゃ。200年とか300年とか、あるいはもっと昔から釣り人とマスは真剣勝負をしてきたんじゃ。殺気を避けられるマスだけが今生き残っとる」

「魚ってそんなことできるんですか」

「実際、わしは殺気を抑えるようにするまでほとんど釣ったことは無いな」


 午後の間にニコライが釣ったのは全部で5匹。午前中に釣ったのと同じ、手首から肘までよりも小さい個体は生きたまま川に戻していた。

 ニコライは一匹釣れるたびに場所を変えつつ釣っていて、イリアもそれに付き合って、ここまでで合計5キーメルテは山がちな地形を行ったり来たりしている。

 暑さと疲れでいくぶん鈍くなった頭で質問をつづけた。


「その、殺気っていうのはマナにかかわる現象なんですかね? 魚には釣る人間のことなんて見えも聞こえもしないだろうし」

「どうじゃろな、そういう事ではないと思う。マスは魔物でも半魔物でもないからマナなど関係ないし、わしに釣りを教えてくれた師匠もアビリティーを持っていなかった。つまりマナなど無関係に生きていた人間という事。常人(つねびと)というんじゃが、最近の若いもんは知るまいな」



 ニコライが本格的に釣りを始めたのは30代後半になってかららしいが、釣り自体は子供のころに教わっていたそうだ。

 教えてくれたという師匠にあたる人物は出会った10歳のころにはもう老人だったという。


 イリアは大人なのにアビリティーを持たない人間に会ったことが無い。

 なので実感としてはよくわからないが、80年前に既に老人だった人間が生まれたのは、140年も150年も前だろう。

 『魂起(たまお)こしの水晶球』が開発されたのが170年前。チルカナジア王国は比較的早く導入した国ではあるが、その普及にかかった年月を考えれば当時アビリティーを持たない者が居たのは、考えれば当然と言える。


「はぁ、なんだか歴史を感じますねぇ」

「師匠は子供のころ金が無くて魂起こしを受けられんでな。大人になって多少ゆとりができてからも、ひねくれちまって受ける気にならんかったんじゃと。それで魔物を狩るのも無理なので、釣りに没頭したと言うとったな」



 ニコライの持つ糸に振動があった。

 老人は糸を切らないように、ゆっくりと丁寧に手繰(たぐ)ってゆく。午前中と合わせればもう7度目の光景である。

 特に関心も無くイリアが見ていると、ニコライが叫んだ。


「おい、イリア! お前さんの出番が来たみたいじゃぞ!」

「なんですかぁ?」

「気の抜けた声を出すない! 剃刀イタチじゃ!」



 イリアは木陰から立ち上がり、ニコライのところまで駆け寄った。ニコライが糸を手繰りなら、右手で指し示す場所。


 こちらの岸に引っ張られてくる魚の後を追うようにして、何か黒っぽい影が泳いでくる。イリアが想像していたものより大きい。


「やつらに何度糸を切られ、魚を持っていかれたことか。ぜひともやっちまってくれ、細眉小僧」


 ニコライが糸を勢いよく引っ張って水面からマスを抜き取ると、その後を追って剃刀イタチが飛び出した。数歩下がるニコライ。左腰から無刃の短剣を抜くイリア。


 相手は硬さではなく素早さが特徴の魔物だ。短鉄棍は幕屋の中に置いてきている。

 川岸に跳び上がって来た剃刀イタチは人間の姿を見て戸惑ったのか、首をかしげってこちらを見ていた。


 水にぬれていてもへたらない暗灰色の毛皮を持つ魔物。その姿は意外とかわいらしく見える。

 顔の造りも含めて全体にほっそりとした、胴長短足で耳の丸い猫と言った感じ。

 大きさは普通の猫の倍はあるが、目はずっと小さく、黒くて(つぶら)らである。


 剃刀イタチは大きく口を開き、そして閉じた。その動きによって口中の牙を露出させたようだ。猫より一回り大きなその頭部の、下あごから上に突き出る二本の牙。長さはイリアの小指程度だが、見るからに鋭い。

 半透明にも見える真っ白な牙が陽光にきらりと光った。

 口角を持ち上げる筋肉の作り出す表情に、『凶化』の気配を感じる。


 砂利を蹴散らしながら左右に飛び跳ねつつ、剃刀イタチは接近してくる。あっという間に1メルテの距離。足元の対象に短剣で切りつけることは難しい。

 イリアは右足で蹴飛ばそうとした。

 厚革の半長靴が命中したかに思えたが手ごたえがない。足ごたえというべきか。


 格闘術は素人同然のイリアの蹴りは速度も無く、剃刀イタチは命中する前に跳び退(すさ)って衝撃を逃がしたのだろう。

 猫の倍はある生き物がイリアの右脚に巻き付くようにして膝の上まで登り、そして太腿を蹴って離れた。


 イリアは硬いものが硬いものをこする不吉な音を聞いていた。脛も腿も黒革の鎧で防御されている。その鎧の表面に白く傷跡が走っている。


 針葉樹の樹液を中心に配合された特殊な樹脂を染みこませ、熱処理で硬くなっているイリアの革鎧。

 これを着ていなければ自分の脚はどうなっていたのだろう。そう思うとイリアの背中に暑さのためではない汗が流れた。



「お前さんから仕掛けるのは無理じゃな。()()に徹しろ」


 後ろからニコライの助言。

 剣の間合いよりだいぶ離れた位置で、隙を伺うかのように、ゆっくり左へ回り込むように動く魔物。


 イリアは右手に持った短剣を左肩に担ぐように、一動作で片手横なぎが可能な構え。腰を最大限に落として重心を下げる。

 腰を落としすぎて脚が自由に動かないが、自分から仕掛けるのではなく、相手の攻撃を避けるのでもなく、低い姿勢で駆けてくる相手を迎撃をするならこの態勢でいい。

 剃刀イタチの動きに合わせて、常に相手を正面に捉えるように方向転換をする。


 そのまま1分もの間、魔物とにらみ合い続けた。



 先にしびれを切らしたのは剃刀イタチ。真っ赤な舌ののぞく口をカッと開き、イリアに向かって疾駆。

 イリアの右手は手の甲まで黒革で保護されている。寸法がぴったりと合い、軽い鎧はイリアの動きを阻害しない。


 全力でふりきられた無刃の短剣。だが魔物の動きの方がなお早く、剣身が当たらずに鍔の部分が剃刀イタチの横顔にぶち当たった。

 暗灰色の魔物のひょろ長い体がイリアの右側に転がったが、まだ勝負がついていない事が【不殺(仮)】の性質により分かる。


 一撃を喰らったにもかかわらず、むしろ怒りに燃えるかのように顔を歪ませ、起き上がった剃刀イタチの額。右腕の筋力全てを速度に変えて、短剣の打ち下ろしを見舞った。


 刃もなく、長さは柄まで含めてたったの半メルテ。それでも鋼鉄の棒である。

 半キーラムの衝撃。それを頭蓋を通して脳に与えられた剃刀イタチは動きを止めた。やがて口を開き、鋭い牙を口中に収納。

 イリアがゆっくりと立ち上がるのに合わせるかのように後退り、2メルテ先で方向転換。尾を翻してセイデス川に飛び込んだ。



「なんじゃい、逃がしてしまったのか? レベルを上げたいんじゃなかったのか?」

「俺は魔石を食わなくても、倒しただけでレベルが上げられるんですよ」

「あん? なんじゃそのくだらん嘘は」


 成長素の感覚は勝負が決した時に得ている。

 剃刀イタチの仮想レベルは3から5。約半月前に倒した渦蟲(うずむし)の分も合わせれば、あと4匹倒すことでイリアは確実にレベル6に上がるはずだ。

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