第58話 怪力
イリアをこの店に誘った『自由労働者組合』の受付の男が、ルアージマルの拳に殴られ店の一番奥までふっとんだ。舞台から舞台裏に続く通路の上に逆さに落ちる。
舞台裏からアイーダが飛び出してきた。細身の綿服の上下を着ていて女らしい服装とはいえないが、それでも十分女に見える。
「ルアージマル! こんなこと、許さない!」
「アイーダか! 子分が世話になったってな! 今日は武器なんぞ使わねぇ、大人同士の素手の喧嘩だ、拳で白黒つけようじゃねぇか!」
もみ合う客をかきわけながらアイーダが前に出る。その間もルアージマルに殴り飛ばされた客の男たちが次々に宙を舞っている。
イリアは酒が置かれた棚の前の、長卓の裏に隠れていた。
ルアージマルが笑っているのが見える。肩から上が群集の頭上に出てしまっているほどの巨漢である。
アイーダが最前線にたどり着くと、ヤクザの一人に蹴り飛ばされたドランがその足元に転がった。
「ドラン!」
「アイーダ、……君は隠れてるんだ、まだ足が……」
「そういう訳にはいかないのよ!」
つかみ掛かっている客を投げ飛ばした、長い後ろ髪のヤクザの一人。近寄るアイーダに向き直ると素早い足運びで接近。腰の入った突きを放つ。
拳が鼻に命中したようだが、アイーダはそのまま何事も無かったかのように反撃の拳を打ち下ろした。
頭頂部を打たれたヤクザは鼻から何かを出してよろめいた。アイーダの異能は防御に強いだけでなく、当然拳も硬くなる。
「やっぱり、【剛躰】は強いな……」
長卓の裏に隠れ、顔だけ出して乱闘を見ていたイリアがそうつぶやくと、同じようにして隣りにいるルカがイリアに聞いてきた。
「【剛躰】って、あの人か? あの女の人知り合いか?」
「ああ。もともとこの店一番の歌い手はあのアイーダさんだったんだよ」
「なるほど、あの人が復帰するからイリアは辞めるのか」
「まぁ……そうかな」
もみ合いへし合いながら喧嘩を続ける40人の男たち。その集団から少し離れていたイリアとルカ。
喧嘩に参加しない年寄りや女性の客たちはナタリアら踊り子たちに誘導され、舞台裏の裏口から逃げ出している。
喧嘩に参加しようとするイーヴァを箱琴弾きのローランが抱き留めていた。
体重だけはルアージマルに匹敵するだろう調理係のシモンが、どこから持ち出したのか巨大な鉄の杓子を振り回している。武器は無しというのが決まりだったように思うのだが、調理用具だからいいという事だろうか。
シモンに体当たりされ、ふっ飛ばされた誰かが長卓にぶつかって来た。
立ち上がり、振り返る。
イリアとルカを見たその男は、ルアージマルの息子だという短髪の大柄な男子だった。
「ルカ、てめぇ俺を裏切ってこんなところに居やがったのか……」
「何言ってんだよワジム…… 親父さんに言われて取り巻きを解散させたんだろ? ワジムから離れるのは、どっちにしろ遅いか早いかだったじゃないか」
「うるせぇ!」
ルアージマルの息子の名はワジムというらしい。
大柄に見えたが父親と比べれば2周り小さいワジムは長卓を乗り越えてきた。
「おい、女男。こっち来い」
「やめろワジム! 親父さんは大人同士の喧嘩だって言ってただろ!」
「黙れっ! このまま何もできねぇでいたら、俺は子分どもにバカにされっぱなしなんだ!」
ルカが綿服の懐から何かを取り出して投げつけた。
その右手から放射状に飛び散った、20本ほどの白く輝く糸。ワジムの右脚に纏わりつく。
こぼれた酒の染みが目立つ床板と、ワジムの頑丈そうな編み上げ長靴が、貼り付く糸によって接合されたようになった。
「【蜘蛛】野郎、そんな異能が【怪力】の俺に通用すると思ってんのか!」
ワジムが鼻から息を吹き出すと、白い糸はぶちぶちと音を立て、やがてすべて千切れてしまった。
「くそ、森青グモの縦糸なのに……」
700年以上前から≪賢者書庫≫によってアビリティーの情報が蓄積されていることを考えれば、約300年前に確認された【蜘蛛】は比較的新しい種別と言える。
鎖を操って戦う【鎖士】に代表される、『念動系』に属するアビリティー。『武技系』のように使う物を強化したりは出来ない。
糸状の細く柔軟なものであればマナを消費して操ることが可能なのが【蜘蛛】の異能であるらしいが、ただ操るだけではなくその糸を任意の対象に接着させることまで可能なのだ。
これは手足にマナを纏って触った物を接着させる『現象系』アビリティー【屋守】の性質に似ている。
【蜘蛛】は『念動系』なのか『現象系』なのか、実は書物によって分類は違う。
対してワジムの【怪力】は単純明快。『ステータス系』のアビリティーで、余剰マナの消費で『力』の恩恵を倍加する。そうでなくても細い糸の10本や20本でレベルが高い者を拘束できるものでもないだろう。
【蜘蛛】はもっと、不意を突くなど戦術的な戦い方をしなければ勝てないアビリティーだ。
ルカが長卓の長辺の方向にふっ飛ばされた。
力任せの不器用な動きでワジムはイリアに迫る。あと少しでその右手がイリアの上着に届く。
「逃げろよ!」
叫びとともに、イリアの左横を通ってルカがワジムの下半身に突進した。
組みつかれてもワジムは倒れたりせず、ルカの背中を殴りつける。
二人のレベルがいくつか知らないが、仮にハインリヒ家のジゼルと同じ15だとした場合、平均的に育ったステータスなら75程度だろう。
『耐久』が75しかない相手を、異能で150に倍加した『力』を用いて殴りつける。これは危険だ。背骨に怪我をすれば、ただの怪我で済まないこともあり得る。
後ろ首を殴られたのか、ルカの膝が崩れ落ちた。ワジムはなおも拳を振り上げる。
イリアの頭の中で何かがはじけた。
ヤクザの理屈も、ヤクザの息子の理屈も知らない。だがこれはあまり理不尽だ。 喧嘩に参加していないイリアを襲い、それをかばう自分の元の仲間を半殺しの目にあわせる。そんな事が許されるはずがない。
イリアは腰を落とし、スカートの裾を床に擦らせながら素早く敵に接近した。
ワジムは驚いた顔をし、握ったままの拳をイリアの頭部めがけて打ち下ろしてくる。力任せの、無様な攻撃。ハンナの格闘術とは比べるべくもない。
レベル差、ステータス差がある上に【怪力】の異能≪力倍加≫。まともに当たれば命取り。だが当たらなければ関係ない。
打ち下ろしを横に避け、ハンナの得意技である後ろ回転蹴りの要領で、イリアは床を踏み込み横に一回転。カツラが外れて宙を舞う。
攻撃を避けられ体勢を崩したワジムの、丸出しの弱点。
右鎖骨の上、首の付け根に回転の勢いと体重を全て乗せた手刀を叩きこむ。
ワジムの体は、やはりレベル差を感じるほどには硬かった。だが、守る筋肉も骨も無い首筋への衝撃。それは血管内の血液を通じて脳へと直接届く。
吐息を漏らして動きを止めたワジム。膝をつき、そのまま前のめり。倒れているルカの体の上に崩れ落ちた。




