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第57話 乱闘

 給仕中に着ていた絹の上着を脱ぎ、イリーナは黒毛皮の上着を身に着けていた。スカートは膨らんだ赤。初日の舞台と同じ格好である。

 舞台中央に立つ。店一杯の客が自分に集中していることを確認し、両手を胸の前に組んでゆっくりと、澄んだ声で歌いだす。



『夜の帳が 覆い隠した 春の ソキーラコバル


   羽根を痛めて 飛べなくなった 私の ための止まり木


  幼い日々を 送った街に 私 いま 帰れないけど


     あなたがそばに 居てくれたの 夜の ソキーラコバル』



 舞台横で箱琴を伴奏するローランがイリーナの最後の舞台のため、作詞作曲した歌だ。完成したのは昨日昼のことで、二日掛けてイリーナは自分のものにしていた。



『朝の光が 赤く照らした 私の ソキーラコバル


   傷を癒して くれたのは 私を 愛したあなた


  大人になって 捨てた街に 今はまだ 戻れないけど


    もう一度 空に 飛び立つのよ さよなら 私の止まり木』



 イリーナは歌い終え、自分の両手の指先に口づけをしてからそれを客席に向けて放り投げた。

 およそ50人の客のそのほとんどが立ち上がり、イリーナに拍手と歓声を贈る。 投げ銭の雨が降り注いだ。




 ナタリア率いる踊り子が舞台に立っている。リリーは腰にぶら下げた小さな太鼓で拍子をとり、ナタリアは大きな竪琴をかき鳴らす。

 4人の踊り子が揃うときはこうして演奏と舞踊を組み合わせた演目ができる。

 イリーナが給仕をするようになったからできたことである。


 客席の間を縫いながら酒やつまみを運び、そのたびに客から「名残惜しい」とか「いつでも帰ってきてくれ」とか声をかけられた。


 イリーナが丸卓の席の注文を伝えるため長卓席の方に近づくと、そこでも声をかけてくる客が居た。


「イリーナ、店をやめてどうするんだ? よければ私の家に雇われないか?」

「お客さん、そういうのは困りますよ。一歩外に出ればお互い知らないふりをする、それがこの店の決まりでしょう」


 身なりのいい客はドランに窘められ、手振りで謝ると高い酒を注文した。



 長卓の左の端、いつもの席に居る金髪が手を挙げている。

 いつもはドランに直接ブドウ酒の水割りを頼んでいた金髪だが、店の決まりでは手を挙げれば給仕係が注文を聞きに行くことになっている。

 最後くらいは、ということなのだろうか。イリーナは金髪に歩み寄った。


「ご注文はなんですかー? イリーナが承りまーす」

「あ、ブドウ酒の水割り……」


 少し年上、おそらく16歳くらいに見える金髪はちらちらとイリーナの方を見たり、見なかったりしている。黒っぽい半そでの綿服を着て武装はしていない。

 『イーヴァの止まり木』だけでなく夜に酒を飲ませる店で武装するのは、あまり品のいい行為とされていないのだという。

 明確な規則というわけではないが、誰だって酔ったうえでの喧嘩で血を見たくはないのだ。


 代金ちょうどの銅貨8枚を受け取り、それをそのまま長卓の向こうに居るドランに渡す。ドランは愛用の水差しですぐに注文の品を作り、イリーナに渡した。無意味な手順であるが、客はそれを喜ぶ。


「お待たせしましたぁご注文の品でえす」


 にこやかに手渡したガラス杯を金髪は受け取らない。今度は目をそらさず、じっと照明に照らされるイリーナの顔を見ている。


「えーっと……」

「……」

「……え?」



 若者は特に何の特徴も無い、普通の顔立ちをしている。普通の長さの金髪を、真ん中分けにしている。

 その前髪と額との境目。親指一本くらいの長さと幅で、縦に傷跡があった。


 魔物が存在し、安全な世界とはいいがたいが、子供は保護され「半大人」は学園などで手厚く適切なレベル上げの後援を受けている。

 16歳でこんな大きな傷跡をもつ者はそう多くはない。


「……まさか、ルカなのか?」

「よう、イリア……」


 よく見れば面影がある。6年前の冬。雪の降りはじめたあの日。

 亡き母を侮辱されたことをきっかけに8歳のイリアが額をかち割った相手だ。

 2歳上のルカとイリアはそれほど親しかったわけではないが、大きくはない街で同じ学問塾に通っていたのだから、ともに遊んだ記憶は少なくない。


「なんで、こんな所に……」

「……それは、俺の言いたいことなんだけどな……」



 イリアが何か言おうとした、その瞬間。大きな衝撃音が耳に響いた。

 音のした方向を振り返ると、両開きの扉が吹き飛び、そこに大きな人間の脚が突き出していた。


「なんだ! 何事だ!」「なんか飛んできたぞ!」「俺の酒が!」


 騒乱する店内。壊れた入り口をくぐって2メルテを優に超える大男がゆっくりと入って来た。

 給仕用の盆を近くの卓に置いたイーヴァが客を背中に庇うようにして大男の前に出た。


「ルアージマル。ずいぶんなご挨拶だね」

「ようイーヴァ、この前はこのバカが世話になったみたいだな」


 やけにゆったりとした、袖付き外套のような型の服を羽織った大男。ルアージマルの後ろから、以前ドランに対してナイフを突きつけた大柄な若者が入って来た。ルカの居た4人組のうちの一人だ。

 ルアージマルと同じく、極めて短く刈り上げた灰色の髪。誰かに殴られたのか左の頬骨あたりが大きく青あざになっている。


 さらにその後ろから剣呑な雰囲気を纏った7人の男たちがぞろぞろと続き、店の出入り口を完全に占領してしまった。


「こんなバカ息子でもいちおう、うちの跡継ぎでね。素人さんにコケにされたまま黙ってたら、子分に示しがつかねぇんだわ」

「ふん、もっともらしいこと言うんじゃないよ、あんたは最初からこの店をつぶす気だったんだろうが。保護料だって他の酒場の3倍もふっかけやがったくせに」


 そう言ってルアージマルに向かって行くイーヴァをドランが羽交い絞めにした。


 イーヴァのアビリティーが何で、レベルがいくつなのかイリアは知らないが、どうであれ年齢的な衰えは影響する。いくら『耐久』が高くても年と共に骨がスカスカになれば、折れる時は折れる。


「こんな真似をして、市政府にばれたらどうなるか分かってるんでしょうね」

「あんたドランさんっつったか、軍に居たらしいな。息子をペテンになんかかけねぇで普通にぶちのめしてくれれば、もう少し穏当に事を進めたられたぜ、俺はな」

「あなたの息子さんだと解っていたら対応も違いましたよ。それよりどうなんです、今なら壊した扉含めて、何もなかったことにしてもいいですよ」


 ルアージマルは肩を左右に揺らし、ゆっくりとドランの居る店の中心に向けて歩みを進めた。50人の客はその迫力におびえたように舞台のある奥に下がっていく。


「だからそういう、お利口ぶったところがよくねぇと、俺は言ってんだ。俺たちの稼業はな、理屈とか勘定で動くと思われたら、終いなんだよ」


 そばにあったガラス杯が載っている丸卓を大きな両手で掴み、それを胸元まで持ち上げる。落ちたガラス杯が音を立てて砕けた。

 厚さが1デーメルテある天板を両手で挟み、まるで紙でもくしゃくしゃにするように、ルアージマルはそれを木っ端と木くずに変えてしまった。



「それに、たとえこの店を俺たちがぶっ潰したところで、ここに居る連中がお上に証言なんかしてくれるもんかね? 出入りしてることすら大っぴらにしてねぇ旦那方が多いんじゃねぇか? 黙ってるんなら痛い目に合わせねぇから、帰ってくれても構わねぇよ?」


 ざわつく客たち。その中から一人の男が出てきた。拳を振り上げ声を上げる。


「ふざけるんじゃねぇぞ、ヤクザ風情が! 俺らがそんな情けねぇ気持ちでこの店に通ってると思ってんのか!」


 その、頭頂部が完全に禿げあがっているひげの男が『自由労働者組合』の受付の男であることにイリアは気づいた。


「そうだとも! 何を、潰した後の事なんか話してんだ!」「潰させてたまるかよ俺たちの楽園を!」「そうじゃ!」「おう!」「やったらぁ!」


 客の男たちの半数が、腕まくりをしたり上着を脱ぎ捨てたりしながらルアージマルの一味を取り囲んだ。


「フン、女男(おんなおとこ)の尻を追っかけるような奴ら。俺にはまるで理解できねぇが、タマがある奴もいるようだな。お前らを()()りって目にあわせりゃ、この店もおしまいになるだろうよ!」


 天井の吊り燭台の炎が怒声の合唱による空気の振動でゆらめく。

 30人近い客と、10人足らずのヤクザ者。

 『イーヴァの止まり木』の店内全てを舞台にして、二つの勢力が音を立ててぶつかり合った。

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