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第48話 無責任な女

 ハインリヒ邸の狭い庭。中天へと昇っていく太陽の光を浴びてイリアとハンナはで相対(あいたい)していた。

 ハンナは昨日森へ行ったのと同じ格好をしている。


 一歩踏み込んだハンナが腕を振り回してくる。沈み込んで避けたイリアの頭上を右拳が通り抜けた。少し背の高いハンナの(あご)めがけて、今度はイリアが拳を突き出す。

 見事に命中。ゴンッという音が庭に響いた。


「いってぇっ!」

「駄目だってイリア。しゃがんで避けるのは大人の喧嘩じゃ悪手だよ。自由落下より速くしゃがむ方法はないし、『速さ』の高い者にとって落下速度ってのは遅すぎる」


 イリアは痛む拳を揉みながら、見た目に似合わず岩のように硬いその顎を睨んだ。

 ハンナは間合いを取って構えを取り、「かかってこい」という意味の仕草で手を動かしている。


 もう1刻ほどこうして格闘訓練をしている。

 急速にレベルが上がったイリアはまだ体を思い通りに動かせていない。

 昨日は重い鎖鎧を着こんでいたから気にならなかったが、普段着の今のイリアはレベル5になりまた軽くなった体の感覚に戸惑っていた。


 すり足のようにして間合いを詰め、ハンナが前に出している右足を右足で蹴り払った。

 ハンナが体勢を崩す。イリアが正しい動きをしている時は、こうしてやられた振りをしてくれる。そうでなければ訓練にならないだろう。力量技量が違いすぎる。


 ハンナはのけぞるように半歩下がり、そこから立て直すようにして右拳が突き出された。こんどはしゃがみ込まず、横に踏み込んで避ける。

 拳を避けられて前かがみになったハンナの胃袋のあたり。人体の急所である()()()()めがけて、下から左拳を突きあげようとしたイリア。


「はい駄目」


 ハンナの手刀がイリアの首の根元、右の鎖骨の上あたりに叩き込まれた。


「片手で攻撃、片手で防御。それが基本って言っただろ。全力で攻撃するのは基本の型が出来てからだ」


 両膝を地面に着いたイリアの視界が白くぼやけている。めまいが収まらず、芝生の上に手をついて(うずくま)った。



「おっと、強く打ち過ぎたか。脳に影響してるかもしれないし、これまでだね」


 玄関へと続く階段に座らされて、しばらくじっとしていたら体の不調は収まって来た。


 ハンナは一本に結い上げられていた髪を解いている。

 なぜ普段ばさばさ髪にしているのかと聞いたら、経験上その方が余計な人物が近寄ってこないからだそうだ。


「今私が打った場所が一番簡単に人を倒せる急所だよ。脳に血を送ってる太い血管に衝撃が届くんだ」

「……」

「みぞおちも悪くないんだが、腹筋は大きな筋肉だからね。よほど正確に肋骨との境を突かないと効かない場合が多い。その点、首筋は骨も無いし守る筋肉が少ない」

「人の倒し方なんて訊いてないよ」

(つの)ザルにも効くよ。相手を殺さずに倒す方法は一つでも多く学ぶ必要があるだろ、キミの場合」


 両手の指を組んでそのまま、手のひらを上に突き上げるようしてハンナが大きく伸びをした。腕を降ろし、両肩を動かして(ほぐ)している。


「さて。大人になったかわいい生徒へ贈れるものはとりあえずこれで全部かな。本当は遠隔攻撃で魔物を倒した場合の検証もしてみたかったが」


 そう言って玄関から邸内に戻っていった。


 今朝の食卓で、ハンナはソキーラコバルを去ると表明している。

 9月にデュオニア公国で学者の会議があり、それに参加するのだという。途中何人かの生徒の家に寄って家庭教師業をしなければいけないそうだ。




 部屋に戻り、汗をかいた肌着を着替える。

 イリアはハンナの客室に向かい扉を叩いた。返事があったので中に入る。

 ハンナはすでに旅装を整えていた。さすがに季節柄、外套の前は開けている。


「これ」

「ああ、鎖鎧か。忘れるところだったよ。でも鉄棍は買ったものだから返す必要は無いよ」

「高いんじゃないの。警士が使ってた物なんだろ」


 半分に切られているとはいえ、質のいい鋼鉄製の武器だ。同じ重さの鉄剣なら金貨一枚はする。


「いいや、格安だったよ。なんでも警士宿舎でよからぬことに使われたらしくてね。屑鉄屋に叩き売られてたんだ」

「……」


 イリアは短鉄棍を体の前で持ってうつむいていた。

 ハンナが寄ってきて顔を覗き込む。


「大丈夫だよ? 使われたのは方は切り落とした側だそうだから」

「……俺を連れて行こうとは思わないわけ」

「ん?」


 顔を上げてハンナを見た。自分の耳が少し熱くなっているのをイリアは感じている。


「連れて行くって、デュオニアの学会にかね?」

「どこだっていいけどさ。ハンナはアビリティー学の専門家なんだろ。俺は恰好の研究対象じゃないのか?」

「いや、それは無理というものだよイリア。新種アビリティーの研究なんてのは、一介の遊歴(ゆうれき)学者の手には余る。まして史上最強で間違いない【不殺(仮)】保有者を国外に連れ出したりしたら、チルカナジア王国に何をされるか分からないよ。少なくとも二度と入国できなくなる」

「……じゃあ、何であんなに熱心に検証したんだよ」

「だから言っただろ、大切な生徒への贈り物だよ。自分のアビリティーの性質をちゃんと認識することは重要だろ? とても楽しく興味深い、高揚する検証だったよ」


 発言の前半と後半がかみ合っていない。これだからこの女に完全な信頼を置くことは出来ないのだ。

 イリアは短鉄棍を持ったまま、口を真横に結んで客室を出た。




 アビリティー学園ベルザモック分校の敷地の北にソキーラコバルの西門がある。ここから西に街道を進めば王都に着く。

 さらに300キーメルテ先にボセノイア共和国。その向こうにティズニル連合の小国家群があって、デュオニアはその先だ。


 イリアとジゼルはハンナの見送りに出ていた。

 大きな筒袋(つつぶくろ)一つを担いでいるだけのハンナ。背負子(しょいこ)は売り払ったらしい。


「先生、お元気で。またこの街にいらっしゃったときは訪ねてくださいませ」

「うん。次に来るまでに例の調査を完了させておいて欲しいな。あと課題もちゃんと済ませておくように」

「はい」

「イリア、ちょっとこっちに来なさい。ジゼル、内緒の話だ」


 西門前広場の隅。筆記具の絵看板が掛かっている店の横の路地。その入り口辺りにイリアは連れて行かれた。


「これを返すのを忘れていた」


 差し出されたのは革の巾着袋だ。

 預けていた魔石剤である。まだ5つ残っているはずだ。自分にとっては無用なものでしかないそれをイリアは無言で受け取った。


「いいかいイリア。キミのことはキミ自身で決めるべきだが、一つだけ助言しよう」

「……何?」

「実家に帰りたまえ。お父上の力を借りて、ノバリヤの政治力を総動員してイリアの権利を守ってもらうべきだ」

「……」

「嫌かね? けどそれが一番確実で簡単な方法だと思うよ。少なくとも、『レベル上げをするのに研究処の手なんか借りる必要はねぇ』と、そう言えるような強さが必要になる。そうじゃなきゃ交渉できる立場にさえ立てない。【不殺(仮)】のレベルを、上げずにずっと過ごすことなんて誰も許してくれないだろうからね」

「考えておく」

「うん」




 西門から走り出ていくハンナを見送ったあと、その足でイリアは東門に隣接する審査所に向かった。一時滞在許可証の期限が今日までなのだ。やたらに内容の濃い5日間だった気がする。


 審査所は相変わらず混んでいたが、最初に聞いた説明通り、無料で5日先の日付のものに更新できた。これで7月7日まで気軽にソキーラコバルに出入りできる。

 無責任な女の助言に従う気はまだ無かった。

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