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第1話 ハンナという女

 イリアの住んでいるのはノバリヤの街の戦士団「白狼の牙」の頭領が代々住んでいる屋敷である。前庭は小さな住居であればもう一軒建てられそうなほど広い。青々と広がる芝生。芝生を左右に分けて正門につながる石畳の歩道の上。3人集まって話をしていた。


「アビリティーの語源が精霊言語で『魂の器』を意味する『アール ブ イリティ』だってことは教えたっけ?」


 自称家庭教師のハンナが問うた。生徒であるイリアは少し考えて、答える。


「教わってはないと思うけど、どこかで読んだ気がする」

「それならたぶん『飲み屋でウケる雑学120選』という本だろう。以前キミの父上に買わせたはずだ」

「あぁ……」


 そういうたぐいの本であればもう屋敷の図書室の本棚からは消えているだろう。団員の誰かが持ち出して回し読みにされ、今も誰かの家の床に転がっているかもしれない。表紙の装丁も無く、数十頁の植物紙を糸でじているだけの、本というよりは冊子だ。


 ハンナはこのモバリヤの街に住んでいるわけではない。

 遊歴ゆうれき学者として大陸中を旅しながら人にものを教えたり、独自の研究の成果をなにがしかの方法で金に換えて生活している。図書室には彼女が去年(あらわ)した研究書も収められている。専門的かつ非実用的で誰が読むのか、はなはだ疑問な内容だ。


 イリアは5年前からこのハンナに学問を教わっている。

 と言ってもこの自称家庭教師は年に1、2度ノバリヤを訪れて数日から数週間滞在するだけである。付きっ切りで読み書き計算を習うということではない。

 滞在中に用意される様々な課題を、次の訪問までにこなして提出。採点されて指導を受けるという形だ。

 一昨年からはそれに加えて研究の手伝いもさせられている。

 ダンゴネズミを捕らえるための罠を工夫し、それを十数個も組み立てたイリアの名前は『北東部森林魔境における小型魔物の繁殖について』の奥付で研究協力者の一人として記されていた。


「先生さん、せめて明後日まで居てもらうことは出来ませんかね。イリアもその方がなんというか、心強いというか……」

「そうもいかないんですよイヴァンさん。明日、ソキーラコバルで人と会う約束がありまして」


 「白狼の牙」1番隊隊長のイヴァンは副団長も兼任している。

 団長はイリアの父ギュスターブである。戦士団の団長は公式には頭領と呼ばれている。

 父より少し年上のイヴァンはギュスターブの仕事をよく補佐してくれるだけでなく、こうして家族のことまで気にかけてくれる。そつの無い優秀な人物としてイリアは尊敬していた。


 ハンナが近づいてきて、イリアの頭に右手を置いた。今日14歳になったイリアの身長は同年代の男子の平均より少し低い。女性としては若干大柄なハンナはイリアよりも拳一つ分背が高かった。


「気にすることは無いよ、イリア。アビリティーの種類なんて別にどうでもいいじゃないか。私を見なさい」


 ハンナの髪は長く、腰まで伸びている。前髪の一部だけを編み込み、後頭部に回して結わえている。その他の大部分が無造作に伸ばしっぱなしだ。波打つ黒髪がまるで外套のように体を包んでいる。

 髪の外套の下には、僧服に似た丈の長い上着。これも色が黒であるが、所々白くくもっていてあまり清潔そうにみえない。「人間は中身だ」が彼女の口癖である。

 一人で世界を股にかけるハンナはアビリティーのレベルを十分に上げていて、並の男など相手にならないほどに強い。だがそのアビリティーは【能丸】という種類だ。

 世界で一番人口の多いアビリティーでもある【能丸】は、他のアビリティーなら必ず付随している「異能」が無い。有害な異能も存在するので【能丸】が最悪のアビリティーというわけではないが、一般的には間抜けな、冴えない印象を持たれている。


「もし戦士として使い物にならないという結果になったら私に相談しなさい。君は私の生徒の中でもかなり賢い方だ。人生、いくらでもやり(よう)はあるだろう」

「相談するって言ったって、ハンナはいつ来るかわからないじゃないか」

「駄目なアビリティーに目覚めたからって追い出されるわけじゃあるまい? 一年以内にはまた来るよ。待っていなさい」

「まぁ覚えておくよ……」


 嫌いな人物というわけではないが、イリアはこの家庭教師もどきの事をあまり信頼していなかった。


 教師としての報酬は普通には支払われてはいない。

 ハンナの指定する書籍をギュスターブが購入し、滞在中にそれを読ませることが報酬替わりになっている。

 本の所有権はハンナではなく家のものであるが、高価な本を年間に十冊近く買わされるその出費は結構大変だ。購入代金で一人や二人の人間が働かずに食べていけるだろう。イリアの教育に役立つ本も少しは含まれているので文句が言いづらいのもいやらしい。


 それに本来ならイリアだけでなく弟と妹の勉強も見る約束のはずなのだ。ハンナはそれを怠けている。本人たちは街の塾に通っているので不満は無く、むしろ「勉強しないとハンナに預けるぞ」と脅しに使われているくらいなのだから問題は無いのかもしれないが。


「先生さん。これ、団長からの『感謝の印』だ」

「いやぁ、これはすまない」


 イヴァンが差し出したものを受け取るハンナ。小さな革製の小袋の中を覗いてニヤついている。契約とは別の金銭だろう。「報酬は本を読ませるだけ」というのが父にとっては名誉にかかわることらしく、毎回支払っているようだ。


「そんなしかめっ面をするものじゃないよ、イリア君。『ゲヘナの苦楽も金次第』と言うだろ?」

「ゲヘナ?」

「『マナ大氾濫以前の文明』の、古代人の死生観という項に載っているよ。調べたまえ」

「それはいいんだけど、今回の課題をもらってないよ?」

「明日からしばらく、君は学問よりも自分自身と向き合うことに忙しくなるはずだ。課題は無しだよ」

「……」


 課題を作るのが家庭教師としての一番大きな仕事のはずなのだが、ひどい話である。


「じゃあそろそろ行くよ。明日は頑張りたまえ、イリア」

「……うん」

「お元気で、先生さん」


 今回ハンナは10日間屋敷に滞在した。午前中はイリアの指導。午後は街にくり出して何かしていたようだ。

 鉄板入りのつば無し帽を被り、足元の巨大な筒袋(つつぶくろ)を担ぎあげてハンナは門に向かって歩いていく。一見スカートに見える下半身は足元のすぼまった太いズボンであり、その歩みは力強く活動的だ。


「あの先生、まだ若いんだよな?」

「去年30歳になったって言ってましたけど」

「もうちょっとなんかこう、ならないのかね。磨けば光る感じだと思うんだが」


 長めの金髪の前髪をかき上げながら、何とも言えない微妙な表情で副団長はハンナを見送っている。イヴァンは5人の子持ちで、近所にある自宅では妻と一人立ち前の4人の子と仲良く暮らしている。


「……」

「そういう意味じゃないぞ? やめてくれよ? 変な風に言いふらすなよ?」


 イリアは面白がってそういうことをする性格ではない。

 気易い感じでおどけたように話すイヴァンだったが、ハンナに対する時ほどは打ち解けた気持ちになれないイリアであった。

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