白縹に映る世界は
あなたは、一緒に過ごしている最中にも「まだ一緒にいたい、これからもずっと一緒にいたい」と願うことはありますか?その相手への思いは、『恋』だ『愛』だ、または『親友』だと名付けられないことはありますか?
主人公の朔羽は、質問に全てに「はい」と答えるでしょう。朔羽は幼い頃から、花凪と一緒に過ごしてきました。高校生になり有名人の楝 凛都に出会ったことで、生活が一変します。花凪を傷つけてでも守りたいと決心する朔羽。
隣にいることがてきたからこそ、気づけない気持ち。朔羽と朔羽の隣のいる人のそれぞれの想いが交差するストーリーです。
「花凪ちゃんのことが大好きだよ。ずっと一緒にいようね。」私は右手に花凪の少し吸い付くような温もりを感じながら、そう約束した。
夢だと分かっている。それでも、花凪が側にいる感覚が懐かしい。もっと感じていたいと切望する。しかし、願いに反して夢は進んでいく。高校の入学式。いつも通り私達は笑い合っていた。「さく、高校でもよろしくね!これからもずっと一緒だよ。」私は返事をしようとするのに声が出ない。左手に感触があり、振り向くとそこには―。
ピピピピピピー
目覚まし音が鳴り、ゆっくり目を開ける。「起きた?」と言って、私の隣で微笑むルームメイト。そして、顔が近づいてくる。私はいつも通りおとなしく目を閉じた……。
私は高校三年生になった。高校ニ年生の途中からはあまり登校していない。今はほとんど寮に引きこもるようにして生活している。そんな風にできるのも、今私の目の前にいる楝 凛都の影響だ。楝 凛都は中学生で企業し、現役高校生のCEOとしてテレビや雑誌に取り上げられるほど有名人だ。高校側も、楝 凛都が在籍している事を前面にアピールしている。加えて楝 凛都は多額の寄付金まで学校に納めている。高校内で自由に振る舞う楝 凛都に、とやかく言うような教師は皆無だ。生徒間でも、楝 凛都はトップに君臨している。私が通う高校の生徒は一部を除いて富裕層の子供ばかりだ。その中でも超富裕層な集団で構成されたメンバーが、常に楝 凛都を取り囲んでいた。
私は全ての記憶を辿っても、鮮明に思い出すのは花凪のことだけだった。しかしそんな私でさえ、楝 凛都のことは初めて見た時を鮮明に思い出せる。楝 凛都は気にも止めるはずのない一瞬の出来事。髪がさらりと頬を撫で、風が吹いている方を見る。艶やかな黒髪、自信溢れる目元を見ていると漆黒の澄んだ瞳に思わず吸い込まれそうな感覚に陥った。圧倒的な存在感、周りの景色は白縹に染まる。あまりにも美しい同級生。花凪以外にこんな人がいるのかと思わず笑み、感嘆の意を表す。その薄い唇が何か言葉を紡いだのを見て、やっと視線を話すことができた。楝 凛都とはそれ以降関わることはなかった。
いつも通り花凪だけを見て、穏やかな時間を過ごしていた。ある日、突然担任教師が寮室の変更を告げた。訳も分からず言われた部屋へ向かった。庶民代表とも言える私は、卒業まで足を踏み入れるはずもなかった豪華な学生寮。そこにはあの楝 凛都がいて驚いた。楝 凛都は一人部屋のはずだ。そもそも接点もない私が突然ルームメイトとはどういうことなのか。戸惑っていると突然楝 凛都の手が頬に触れた。その手が冷たくて、一歩後ずさった。しかし、次の瞬間には楝 凛都が私の手を取り、抱きしめられていた。頭の後ろで一本に結んでいたはずの髪の毛がさらりと楝 凛都の肩に落ちる。頭が混乱して楝 凛都から離れようとした。その瞬間、部屋に一つしかない大きなベットに押し倒された。私より背が高い楝 凛都は、完全に私の体に覆いかぶさっていて逃げ場が無い。それでも掴まれている手首に力を込めた。そして腕を振り払い体を起こしかけた私に、より至近距離になった楝 凛都が言葉を発した。「聴 花凪がどうなるか覚えときなね。」楝 凛都の左右対称な薄い唇が、冷ややかに弧を描いた。翌日には花凪の親の会社が困難に陥っていた。花凪は普段通りを装っていた。しかし、「親の会社が助かりそうなの。どこか大企業の援助が受けれることになったみたいで。」と安堵の涙を流しながら話してくれた時に、心が締め付けられるようだった。寮に戻ると、楝 凛都が話しかけてきた。「聴 花凪の親の会社に支援するのは私の会社だけど、白藍さんの態度によってはやめるよ」私には選択肢なんて無かった。「何でも言うことを聞く。だから花凪に手を出さないで。」と返答するしかなかった。楝 凛都の顔が近づいてくる。目を閉じると頬に涙が伝った。初めのうちは思わず顔を背けたりと、抵抗してしまう時もあった。その数だけ花凪が苦しむ日々。楝 凛都から受ける行為に抵抗しないよう、薄氷を踏む思いで過ごしていた。それからも、楝 凛都からの理不尽な要求は積み重なっていき、私が花凪の近くにいく事も決して許さなくなった。だから花凪とは距離を置き、花凪が駆け寄ってきても名前を呼んできても、無視を決め込んだ。そうすることが、花凪を守るために自分が出来ることなのだと言い聞かせていた。花凪は何も知らない。花凪を悲しませている。突然私が裏切ったと思っているかもしれない。胸が張り裂けそうだ。楝 凛都に振り回される日々に気が狂いそうになるが、花凪だけは何としても守りたかった。見ることさえできなくなった花凪の笑顔を瞼の裏に濃く描き、静かに耐えていた。
「朔羽、学校行きたい?」凛都の気まぐれな様子の問いかけ。何か企んでいるのかとも思ったが、花凪がどう過ごしているか気になって頷いてしまった。
高校三年生になって初めての登校。花凪は違うクラスのようだ。花凪を探す。廊下を歩く時も、教室から見える運動場も合同体育の時間も……。凛都に気づかれないように探すのは難しくてあっという間に放課後になった。次はいつ登校できるか分からない。美術部員であることを理由に美術室に寄ってもらう。ここに来ると、想像していたよりも花凪との思い出が蘇ってくる。戻れない時間を思うと切なくて堪らない。休み時間は寝て過ごすほど、退屈で怠惰な私。それが、いつからか花凪を目で追っていた。ペアで絵を描く授業の時に声をかけたことがきっかけで仲良くなった。それから放課後はよく花凪と美術室で過ごした。あの頃は、花凪と過ごした思い出や一緒にしたいと話したことなど、色んな情景が浮かび絵を描き連ねていた。凛都は知らないだろう。私にとって花凪は特別な人。花凪を親友と呼ぶのなら、誰のことも親友とは呼ばない。花凪のことが大好きだった。大好きだと事あるごとに言っていたし、花凪も私にそう言ってくれていた。花凪は芸能人でないことが不思議なほど可愛い。最初は花凪が近くにいるだけで嬉しくて、緊張していて、少しでも優しくしたかった。可愛すぎて周りから一目置かれている花凪の、少し天然なところを見つけた時には嬉しくなって、そんな時軽口まで言い合えるような幸せな関係に何年も浸っていた。そんな私がいた時間を凛都は知らない。どこで何をしていても、花凪の存在が私の支えだ。凛都と同じ空間や時間を共有していても、私は花凪との思い出をなぞる様にして生きている。
そろそろ帰らなければと扉の方に足を向けた。その時、ガラッと扉が開く。 そこにはずっと会いたかった花凪の姿があった。もしも花凪に会えた時には視線を合わせない、会話もしない、と対策を立てていたのに、久しぶりに見た花凪からすぐに目が晒せなかった。
「さく……!」花凪が名前を呼んでくれた。嬉しさが胸いっぱいに込み上げてきて、興奮の余り歯が浮くような感じがした。今この空間には自分と花凪しかいないとも思えた。しかし、「朔羽」と凛都の声がして我に帰る。凛都に手を掴まれ、思うように動かない足を引きずられるようにして寮に帰った。「久しぶりにあの子に会えて嬉しかった?」と問いかけられる。左右に首を振るが、その瞬間ガッと顔を掴まれる。「バレてないと思ってるの?またあの子が苦しむところを見たいの?」背筋がヒヤリとして恐る恐る目を開ける。凛都は美しく口角を上げた。笑っていない目を見て、繋がれた左手にぎりぎりと力を込められて震えてしまう。凛都の恐ろしさを改めて思い出した。震えが止まらない。また花凪を苦しめてしまうかもしれないという恐怖。何とか声を振り絞って「もう間違えないから花凪に何もしないで。」と凛都に言う。久しぶりに呼んだ名前―。声に出した瞬間に、自分の中の花凪が溢れてきた。また昔に戻りたい。
そんな私に近づいてきた凛を見て、何をされるか察して目を閉じた。案の定頬に手が振り下ろされる。その後頬をゆっくり撫でられ唇に触れた。息をつく間もない。これは私への罰だ。私が花凪に会いに行ったから。会いたくて仕方がなかった。どう過ごしているか、それは確かにずっと気になっていた。でも、自分の欲の大きさに抗えなかった。一目花凪の姿を見たかった。もし見れたら、あわよくば花凪に気づいてほしかった。どんどん願望は膨らみ、花凪は私に気づいたら、声をかけてくれるだろうか?できたら名前を呼んでほしい、とそんな事を空想していた。「さく」と呼ぶ花凪の声はどんなだっただろうか。誰もいない部屋で朧げになった記憶に落ちていっていた。ある時テレビから聞こえてきた女優の声にハッとした。花凪に声が似ていると思った。この声で「さく」と呼ぶ花凪の声を、頭の中で反芻する。こうでもない、ああでもない、と。もう一度「さく」と呼ばれたい。花凪が「さく」と呼んだ時から、その呼び方は特別になった。花凪以外誰にも呼ばせないと決めていた。自分の中の花凪に対する真っ直ぐで重たい気持ち。私が花凪に近づかなければ、こんな事にはならなかった。だから、凛都に束縛され好きに触れられ、何もかも嫌になる。もう諦めるしかない……。花凪の親友には戻れない。花凪の側には行けない。花凪の視線も声も二人の思い出も、何もかも諦める。もう決して望まない。
それから、三年半の月日が経った。凛都の会社で働き、凛都と暮らす家に帰るというのを繰り返している。花凪は大学に進学し友人もできた。その友人は、余りにも花凪のことが好きな人達だから安心できる。私もあそこにいられたら、と夢想するが、きっとあの人たちは私を受け入れない。何人かは私が花凪に無視を決め込んでいた過去を知っている。口も効いてもらえなそうだな、と自嘲し薄く笑った。しかし、会社の帰路で花凪の友人が待ち伏せしており、花凪からの伝言を告げられた。「会いたい。話したい。一生のお願い。」と。『一生のお願い』は、子供の頃に花凪から何度か聞いたことがある。離れている時間の花凪を知らずに生きていることが寂しかったから、自分の知っている花凪がいるようで嬉しかった。しかし決心は揺らがない。会いに行かない。何度も花凪の友人が会いにくる。そろそろ凛都が黙っていないだろう。花凪の友人は守らなければならない。私にできることは凛都の前でわざと強く当たることだけだ。もう来ないようにと願う。それから時期を置いてまた友人はやって来て言った。「これが最後だから会ってやってほしい」と。花凪に会ってはいけない。そう思いつつ花凪が会いたいと言ってくれた事に心躍る自分。遠目から見るだけだと自分に言い聞かせて、花凪が待っているという場所まで行く。待ち合わせ場所で花凪を探していると「さく!」と声がする。声がした方を向いた瞬間大きな音と衝撃があった。体に強く感じる痛み。近くに花凪が倒れていた。それでも花凪の方が衝撃を強く受けているのは明白だった。花凪が私を庇ったことに気づいた。私はまた間違えたのだろうか。恐怖でなかなか動かない足をなんとか動かして花凪に近寄る。声をかけると花凪はゆっくり目を開けた。とても自分がどうにか出来る状態ではなく、急いで携帯電話を取り出そうとした。すると震える右手が掴まれた。それが花凪の手だと気づき花凪に視線を向ける。花凪は目を閉じている。いつ来たのか、凛都が私の腕を引っ張る。私は、凛都とルームメイトになった日以来初めて、凛都の手を振り払った。もう花凪から離れたくない。瞳に花凪を映したまま、何度凛都が私に声をかけようとも、立たせようとしようとも動かなかった。凛都は「許して、こうなるとは思ってなかった」と繰り返す。この状況は凛都がしたこと?それなら私のせいだ。花凪をずっと守りたかったし、守れていると思っていたのに、何故こうなったのか。花凪の友人が駆けつけて来て、そのうちの一人が「お前のせいだ!花凪はずっとお前を信じて待ってた!早く会いにきていれば!花凪はお前を!お前のせいだ!」と罵倒する。その言葉が胸に突き刺さりその大きな大きな棘が、いつまでも消えない。友人が花凪に駆け寄り、連れて行こうとする。私は花凪の左手を離さない。「ごめんなさい、ごめん、ごめんね、花凪ちゃん。お願い、目を開けて!一生のお願いだから!花凪ちゃん!花凪ちゃん……!。」花凪を守る事以外全てを諦めたあの日から失っていた言葉も表情も、全てを捧げて堰を切ったように花凪の名前を叫び続けた。救急車が来て花凪が運ばれるまでずっとそうしていた。花凪がいなくなってからも私はその場から立つことができず、花凪がいなくなった場所を見つめていた。凛都が肩を抱き立たせようとするが、その姿を目に映すことはなく、その手を振り払う。雨が降り花凪がいた跡形が流されていくのをただ見つめていた。
花凪の友人が来て小さな箱を側に置いた。花凪がずっと大事にしていたのだと言われ開けると中身はブレスレットだった。昔お互いに持っている大事なものを交換しようと言って、私が渡したものだった。美術室で会った後、私は花凪を徹底的に避けたが、いつからか花凪も私を避けている事に気づいた。だから、もう花凪は私に幻滅して話しかけてこないのだと思っていた。でも違ったのかもしれない。大人になり、花凪を避けるだけではなくもっと方法があったのではないか、もっと早く会いにいけば何か変わったのではと後悔する。
花凪と一緒に遊んだ場所を巡り私が昔花凪にあげたブレスレットを取り出す。そして、もう一つ。大切なものを交換する時に、私が花凪からもらったネックレスだ。ずっと隠して大事にしていた。全てを諦めても花凪との過去が恋しくてたまらない時、こっそりとこのネックレスに触れていた。あの日、友人からブレスレットと一緒に渡されていた手紙を読む。「さくへ。直接会って話せないかもしれないから手紙を書いてみるね。まず、今まで守ってくれてありがとう。さくが私を守るために楝さんと一緒にいるのを知ってたよ。さくの寮室に行けば話せるかもって思って行ったんだけど、そこで楝さんとさくの会話を聞いてしまったの。いつも謝りたかった。何も知らずに、さくと一緒にいられないことに寂しさを感じて、さくに腹まで立ててしまった。そして、もう一つ謝らないといけない。それはさくと楝さんの関係を、応援出来なかったこと。昔、さくが楝さんを見つめていて、その視線にすごく焦ったの。それから楝さんがさくを見つめる視線にも……気づいてて長い間知らないふりしてた。楝さんが見てるのを分かってて、二人だけで過ごす時間を手放したくないと思ってた。そのあと、結局さくと楝さんが一緒にいるようになって、やきもちを妬いてしまった。入りこめないさくと楝さんの二人の雰囲気に、ただ二人を見守ってあげられなかった……。きっと私とさく、二人だけで長い間一緒にいたから、その関係に名前をつけそびれて混乱したんだと思うんだよ。今まで私は強くて優しいさくに甘えてた。さくは私の前で泣いたことないけど、楝さんの前なら泣けるから。私に出来ることは、今度こそさくと楝さんの関係を応援すること。さく、私は大丈夫だよ。私とさくはずっと親友。さく、楝さんのこと私を抜きにして考えてみて。さくが本当に好きな人と一緒にいられるますように。さくの親友、花凪より。」
何度も何度も思い返す。花凪と笑い合った日々。花凪の笑顔。花凪を好きな自分。花凪を超える人なんていないと思っていた。なのに、気づいてしまった。ずっと花凪との思い出だけを反芻して誤魔化していたけど、集団の中にいる凛都を見て心を奪われた自分に。心の中で凛都と呼び、他の誰とも違う特別な存在だと頭のどこかでは分かっていた。
ホテルの一室。黒鳶からベッドに押し倒される。「私、凛都さんの役に立ったよね?なのに無視されるの。あの時もそうだった。ずっと私の事見ないし、声も聞こえてるのかすら分からない。でもこれでやっと凛都さんが私を見てくれる。」うっとりとした表情で、一人矢継ぎ早に呟いている。
花凪が倒れたあの日、凛都があの場に駆けつけたのは私の後を尾けたからだった。調べていく中で、計画も直接手を下したのも黒鳶だと知った。黒鳶は学生時代の凛都の取り巻きの一人だった。黒鳶は愚かにも凛都を手に入れようと高校卒業後から企んでいた。結局凛都の新事業を潰す計画を立てており、このままでは凛都は多額の借金を負いCEOから降りるよう仕向けられる。最初は花凪の仇を取るために黒鳶に近づいたが、烏滸がましくも凛都に手を出そうとしている事に腑が煮え繰り返る。「凛都さんが感じたもの全てを感じたい。凛都さんの大事にしているものを奪いたい。お金も肩書きも白藍さんも!全て失ったら、私の元に縋るしかなくなるよね。白藍さんをめちゃくちゃにしたら、凛都さんはきっと私を見てくれる。」凛都のことだからすぐにこの場に来るだろう。早く終わらせないといけない。凛都さ私がめちゃくちゃにされた状況を見たら怒り狂うだろう。でもそれだけだ。きっと凛都は自分のものに手を出し、ましてや壊されたとしたら、そんな事をした人を存在ごと抹消するだろう。凛都の記憶に残ることはない。薄ら笑いを浮かべ黒鳶からの暴力を甘んじて受け入れよう。この一部始終は全て凛都のパソコンに転送されるようにして録画している。いざという時は、CEO退任を迫られたとしても、これを使って黒鳶を排除できる。凛都がやってくる。流石のGPS管理だ。凛都は私に泣きついて「ごめんなさい、私を許さないで」と繰り返す。何で『許さないで』なんだろう。もう愛してしまったというのに。凛都の願いを聞いてあげたいのに。私は手が動かないから震える肩を抱きしめることも出来ない。あれだけ好き勝手触れておいて、今は私に触れないでいる。私は凛都に触れたいのに。泣き叫んで私を見ない凛都。私が凛都を愛した事に気づくだろうか。長いようで短いような私たちの青春時代が終わりを迎えようとしている。遠のく意識の中で力を振り絞って、名前を呼ぶ。「凛都」視線が合う。2度目だ、と思う。出会った時以来初めて凛都を真っ直ぐ見つめられた。凛都は驚いた様子だ。その顔を見たら笑みが溢れる。笑い声も漏れないほど、声が枯れているけれど、どうか届きますように。凛都が苦しみませんように、と願いを込めて言う。「許す」と。目を閉じると涙が頬をゆっくりと伝っていく。
朔羽は最後に笑顔を見せた。私が恋に落ちたあの時と同じ笑顔。ずっとその笑顔を向けてほしいと願っていた。名前も呼んでくれた。朔羽は聴 花凪のことだけしか下の名前で呼ばないはずなのに。
常に自分がトップだと信じて疑わなかったあの頃。望むものは全て手に入れられた。順調な日々の一日に、朔羽の存在はまさに晴天の霹靂だった。朔羽は覚えていないだろう。私たちは一瞬だけ視線を交わしたことがある。あの日見た朔羽を忘れたことはない。透き通るような白い肌、桜色に色づいた頬と唇。柔らかそうな髪がさらりと風になびき、窓の方にいた私と目が合った。その瞬間、朔羽の周りだけ滴をつけた紫陽花を纏っているような雰囲気に思わず見惚れてしまった。そしてその他の景色が白く滲むような錯覚に気を取られぼんやりとしていると、朔羽の唇が上品に弧を描く。思わず「笑った……。」と声が出ていた。「どうしたの?」と、あの時声をかけてきたのは取り巻きの誰だったか。答えずにただ朔羽を直視していた。
朔羽とはクラスが離れていたが、あれから朔羽を遠くから見つめていた。もっと見たい、声を聞きたい、出来るだけ近くに行きたい。初めて他人に抱く感情だった。朔羽が座った席に座って、朔羽が食べたメニューを選んで、そうして過ごしているだけで幸せだった。なのに、いつも朔羽隣にいる聴 花凪に苛立ちを抱くようになり、朔羽が聴 花凪だけに見せる表情に気づいた時、我慢できなくなった。その視線も、手も、存在全てが自分のためだけにあってほしい。だから無理矢理、朔羽とルームメイトになった。朔羽に会ったら何を話すかも思いつかなくなるほど、興奮していた。ずっと見てきた朔羽と対面したとき、朔羽の視界に自分が入れた奇跡に酔いしれて、この状況が現実か確かめたくて気づいたら朔羽に触れていた。戸惑う朔羽に慌てた。嫌わないでほしい、と言う思いと、繊細で汚れのない朔羽に傷をつけてでも自分を刻みたいという願望。制御の効かない感情が溢れ出して、気づいたら押し倒していた。確かに自分はパニックになっているのに、身体は勝手に動いて朔羽に気持ちをぶつけていた。腕を振り払われたと気づいたときに、リミッターが外れてしまった。本当は分かっていたのに。自分が手を出しては行けない美しい二人の絵の中に私が紛れ込んでしまったのだと。朔羽をずっと見てきたから分かる。朔羽は聴 花凪のことだけを見ていること。自分を愛すはずもないから傷つけるしかない―。聴 花凪といる時の朔羽は透明感の中に芯の強さを宿していた。そんな朔羽が自分の前だけでは傷つき、瞳を潤ませる。なんとも言えない感情が湧く。朔羽に愛してほしいのに愛される行動は何一つできず。本当は朔羽のクールな表情からは想像できない笑顔に一目惚れしたのに自身自分が分からなくなって朔羽を縛り付けることしかできないでいた。朔羽が聴 花凪と会おうとしていることを知ってから、何としてでも朔羽と聴 花凪を引き離したい一心でいた。そんな時、取り巻きの口車に乗せられて朔羽と聴 花凪の待ち合わせ場所を教えてしまった。あんな事になるなんて思っていなかった。壊れていく朔羽。自分以外が朔羽を傷つけられる事実に打ちひしがれる。どんなに朔羽と自分が同じ時間を過ごして、聴 花凪でも見たことのない朔羽の表情を見れたとしても、結局朔羽にとって大切なのはいつだって聴 花凪だ。朔羽の最後の言葉が、朔羽を手に入れられなかったことを表していたと思う。あの時、どうせ私から離れていくのなら、それがどうしようもないことならば、せめて私のことを憶えていて欲しかった。そんな思いで朔羽に許さないでと懇願したのに、『許す』だなんて。それもとびきり優しい言い方で。自分を朔羽に刻みつけたかったのに、逆に広く深く朔羽が自分に刻み込まれてしまった。一緒に暮らしていたが、朔羽と過ごすのはベッドの上だけだった。朔羽らしい整頓された部屋を見やる。朔羽を感じられるのはベッドの上だけだ。そうして朔羽の布団に縋って幾月も経った。日に日に朔羽の香りが薄れていく。朔羽の服を取り出そうとクローゼットを開けた。丁寧に布で包まれた絵が幾つもある。それを見た瞬間目を見開いた。涙が溢れ嗚咽が漏れる。声を上げて泣いた。朔羽を初めて見た時の感覚を感じた。そこには朔羽がいた。そして隣には私が描いてあった。私を見て微笑む朔羽、私はとびきりの笑顔でいる。どの絵も私たちには無かった日常が描かれている。でも確かにそこには朔羽と聴 花凪と私が存在している。初めて朔羽の心に触れた気がする。もしもまた朔羽に会えるとしたら、この絵のように一緒に買い物したり、ドラマを観て泣いたり笑いあったりしたいなぁ。想像して朔羽に会いたくてたまらなくなった。
この物語を読んでいただきありがとうございました。朔羽含め、登場人物の気持ちに共感していただいた方はいるでしょうか?
隣同士に座り、会話して、いつも一緒に過ごしている二人を『友達』『親友』だと自然に名付けている気がします。朔羽と花凪の関係、朔羽と凛都の関係を見てくださった方は、どう名付けるのかとても気になります。私は名付けるのが難しいです。どのような名前がついても、当人たちが幸せだといいなぁと思います。