可哀想な子ども
その日はひどい雨で、男はずぶ濡れで帰路についた。その途中で丸い薄汚れた麻袋が転がっていた。普段なら彼はそんなものを無視する。でも、その日は何故か足を止めた。今思えば、この時点で予感がしていたのかもしれない。男が近づくと布は小刻みに震えていて、それを慎重に開けると小汚い子どもが入っていた。その身体に触れると異常なほど熱く、風邪を引いているようだった。風邪を拗らすと死ぬということを経験的に知っていた男はその子供を抱えて歩き出した。惨めな子どもがこれ以上濡れないように男は自分の外套を上から被せた。
家に連れて帰り風呂に入れると驚くほど水が汚くなったし、その子どもは女で二度驚いた。ひどく短く切られた白金の髪を見て男だと思っていたから、こんなに小さい身体でどんな苦労をしてきたのだろうと可哀想に思った。
彼はその子どもを看病するべく彼女の身を清めた。
ぶかぶかの服を着せて氷嚢を頭に載せる。汗をかけば水で濡らした布で拭いてやる。子どもが起きた時に何か食べれるようにスープと粥も作った。男は粥を啜りながら子どもが回復するのを待った。尿を漏らせば服とシーツを変えてやった。次の日は安息日だったため、男は子どもに付きっきりで世話をした。子どもの熱はだいぶ下がり呼吸も安定していた。男は胸を撫で下ろした。
次の日は仕事があったので男は子どもを家に残して出ていった。ずっと寝ていたから大丈夫だろうと思い出ていったが、彼が仕事を終えて帰ってくるとスープと粥が全てなくなっていた。子どもの元に向かうと、彼女はベッドに横たわったままこちらをじいっと見つめていた。アメジストのような紫色の瞳はこの辺りでは見ない色だった。男はそれを美しいと思った。ガリガリに痩せているから目だけが爛々と輝いているようだった。
「あなた誰?」
男が予想していたよりも落ち着いた声だった。もしかすると思っているよりも年齢が上なのかもしれない。十二、三くらいに見えるが実際はどうなのだろうか。男は本人に確認すれば良いかと思い子どもからの質問に返事をした。
「俺の名前? そんなものは別に良いだろう? 好きに呼べ。それよりお前、なんであんなところにいたんだ?」
子どもは気分を害したように眉間に皺を寄せる。
「わからないわよ。くそばばあに殴られて、気付いたらこの家にいたんだから。あなた変態なの?」
「生意気なガキだな。看病の礼くらい言ったらどうだ?」
「それは、ありがとう。助かったわ。着替えも、あなたがしてくれたのよね?」
「何か問題でもあるか?」
「いえ、別に」
「お前は捨てられたのか?」
「多分そうね、警備隊に突き出す?」
「お前がいたいなら、ここにいてもいい。どうせ気ままな一人暮らしだ。お前みたいな小さいガキの面倒くらいは見れる」
「え? 本当に良いの? あなたお人好しね」
少女は紫色の目を眩しそうに細めて彼のことを見た。男は何だか気まずくなり目を逸らした。
その日から男と子どもの同居生活が始まった。男が子どものために服を買い、料理や掃除を教え、本を読ませた。子どもは頭が良いようで次第に男が理解できないような難しい本を貸本屋で借りて読んでいた。初めは懐かない野良猫のようだったが彼女がきちんと食事をしてガリガリの身体がほっそりと言えるくらいになった頃には男に対して全幅の信頼を寄せているようになっていた。子どもの髪が背中くらいまで伸びてくると彼女がとても美しいことに気付いた。子どもだと思っていたが彼女と男の年齢差は五つしか無く、初めて年齢を聞いたときは男はとても驚いたのだった。
成長した彼女は下町では珍しい代筆屋で働くようになった。彼女はもう庇護すべき子どもでは無くなっていた。荷運びの仕事をする寡黙な男といるには彼女は上等過ぎた。町の男たちはその美しさの虜になり次々と求婚してくる。花やお菓子、アクセサリーに靴や服、中にはヒラヒラとした下着まで入っていて男はげんなりした。そして、引き伸ばしにしていたことを彼女に告げようと決意した。
彼女は薄手のシャツ一枚でベッドの上に胡座をかいて本を読んでいた。男の目があるのだからそんなはしたない格好はするなと何度伝えても彼女はそれを変えなかった。
「おい、お前。大事な話があるからよく聞け」
「もしかしてプロポーズ? こんなところじゃ色気ないわよ?」
「違う。お前に大店の倅から見合いをして欲しいと言われてる。あそこは仕事で付き合いがあるが経営もしっかりしているしまともな店だ。お前が嫁ぐにはこれ以上ない条件だと思う」
「嫌よ。絶対に嫌。私はあなたが良いの」
「だから、それは助けてもらった恩とか長く一緒にいた情があるから勘違いしているだけだ。第一、お前はもう一人でも生きていけるだろう? 立派な仕事もある。こんな狭い家で見窄らしい男と生活する必要なんてないんだ」
「何で私の未来や私の気持ちをあなたが決めるの? 私はあなたといたいのよ。周りからなんて言われても私にはあなたしかいない」
「こんなことは言いたくなかったが、俺は可哀想な子どもだからお前を拾ったんだ。可哀想な子どもを助けたら俺は可哀想じゃなくなると思ったから。なのに今はこんなに惨めだ。お前がこんなに綺麗になってたくさんの縁談が舞い込むようになると知っていたら、あの雨の日にお前を拾わなかった。日々、美しくなるお前と一緒にいるのは俺にとって苦痛なんだ。わかってくれ」
「嫌よ。絶対に離れない。私はあなたが好きなの」
「それは、お前が恩義や親愛を勘違いしているからだ。確かに俺はお前を拾って育てた。でも、お前はお前自身のもので俺がどうこうするものじゃないんだ。わかったら出て行ってくれ。お前の結婚する姿なんて俺は絶対に見たくない」
「それは、私に惹かれているって思って良い? つまり、私に対して性的魅力を感じるから嫉妬してしまうってこと? なら良いじゃない。私をあなたの妻にしてよ。愛しているの。あなたと初めて話したあの日から、私の全てはあなたのものよ」
「俺が、嫌なんだ。お前とはあまりに釣り合わない。取り柄もない冴えない男だ。お前といると惨めになる。だからもう出ていってくれ。それが駄目なら俺が出ていく」
「嫌よ。私は結婚するならあなただってずっと決めてたんだから。今更追い出そうなんて虫が良すぎるわ。私がいなくなったらまた可哀想な子どもを拾って私にしたみたいに愛情を注ぐの? そんなの許さない。私にはあなただけなんだから。絶対に許さないわ。だから、そばにいさせてよ」
「子どもはもう拾わない、と思う。俺は、お前のことが好きだ。でも、お前に何かして欲しくて拾ったわけじゃないんだ。だから、聞き分けのないことは言わないでくれ。他の、もっと立派な人と幸せになってほしい」
「他の人なんていらないの。私はずっとあなたといるんだから。他の子を拾ったら邪魔して上手く行かないようにするし縁談を持ってきたらめちゃくちゃにぶち壊してやるんだから。あなたが死ぬまで、ううん、死んでからも私はあなたのものよ。あなたが死んだらすぐに後を追うから。絶対に逃さない。だから諦めて私のことを愛して。今までみたいな家族の愛じゃなくて女性として見て。私をあなたの妻にしてよ。前に約束したよね? なんでもひとつお願いを聞いてくれるって。今使うわ。私と結婚して。これは気の迷いなんかじゃない。私はあなたを愛してる。私の幸せは私が決める。それに、ありえないけどもし万が一あなたが恋人や妻を作ったら私は何をするかわからないわ。こんな危険な女を外に出しちゃ駄目よ。だから、責任とって私を妻にして。じゃなきゃ、ここであなたを殺して私も死ぬわ」
「お前は、馬鹿だ。こんな男のために狂ってしまうなんて。本当は聡明なのにどうして俺に対してだけ目が濁ってしまうんだ。俺は、お前を幸せにする自信がない。でも、こんな情けない男でも良いって言うなら、お前の願いを叶えよう」
男は、少女を抱きしめた。ここ数年は触れることすら避けていたのに、一度それを破ればもう止まることはできなかった。あの日のように窓の外は土砂降りの雨だった。明かりを消した薄暗い部屋で二人は睦み合った。男は自分がしていることへの背徳感で気がおかしくなりそうだった。少女は紫色の瞳を滲ませ、うっとりとした顔で男のくちびるに自分のくちびるを重ねた。愛する人の温度と重さが心地よくていつの間にか眠ってしまった。
目を覚ますと男が規則正しい寝息を立てて眠っていた。平凡な茶色の髪も瞳もがっしりとした体もこれで全部自分のものだと思うと少女の笑いが止まらなかった。早く二人の証を作って彼を縛り付けたい。そのために邪魔なものをどう排除するか彼女は思案した。でも、とりあえず目の前にいる愛しい人の頬や瞼や額や頸にキスをして痕をつけた。それから彼女はうっそりと笑う。
「ねぇ、大好きよ。もう絶対に逃さないから、諦めてね?」
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