虚偽の愛
俺の悪行と居場所を、ご丁寧にも尾形屋の面々に言い付けた昨夕の門番にきちんとお礼をしてから吉原を出る。
門番は暫く腹を押さえて蹲っていたが、このくらい大した事ではないだろう。
吉原には近づきたくもないが、美紗緒がこの場所から出られないとなると俺が足を運ぶしかないのだ。
そろそろ潮時か…
しかし、美紗緒ほど割り切って身体の関係を持ってくれる女もいない。
あっちの相性も良いし、切り捨てるのは些か惜しい気もする。
そんな下衆な考えをしていると、あっという間に上野公園にたどり着いた。
浅草同様、今日も上野には沢山の人出があった。
桜の満開の時期もあって一際多いのだろう。
行き交う人々の肩が触れない様に琴子が勤めるカフェーを目指す。
すると、この人集りの中で一部だけ空いた空間があるのに気付いた。
なぜ、あそこだけ人が避けて通っている?
好奇心からそちらに足が向いた。
「久乃…?」
中心にいたのは紛れも無く俺の妻となった女だった。
こんな所で何をしている?
周囲から好奇な目で見られているのに気付いていないのか?
時々聞こえて来る、悪意のある言葉も聞こえていないのだろうか?
久乃はまじまじと店の品を見定め、コレと思った物を主人に言付け金を払い笑顔を受け取るとまた群衆の中に消えて行った。
「なんだい、あの奇妙な女子は?」
「あれは、異人の子だよ!
敵国かも知れない異人相手に身体を売る様な女がいるんだって、恐ろしいねぇ〜。」
「まったく、恥も醜聞あったもんじゃないねぇ。
あんな恥ずかしい成りじゃ、私なら家に引き篭もって一生大人しくしてるよ。」
ある女は堂々と悪口を垂れ、ある子連れの女は自身の子供の目を塞いで久乃を見るなと諭す。
それでも、久乃は凛と前を向いて開かれた道を進んで行った。
自身への好奇な視線も、悪意にも久乃は気付いてる。
知らないふり、聞こえないふりでこの場をやり過ごしたのだろう。
どんな心情だろう。
蔑まされて悲しいか?侮辱されて悔しいか?
それとも、何も感じてないのか?
顔色一つ変えないで真っ直ぐ前だけを向いていた瞳の横顔に、どんな心情の色が浮かんでいたのか。
それだけを知りたかった。
だから、勝手に動いていたとしか言いようがない。
何人の肩とぶつかっただろう。
久乃の後を追いかけて、その姿を捕らえると彼女の手からぶら下げられた買い物籠をヒョイと掻っ攫う。
振り向いて驚く顔に、あくまで冷静を装って乱れた息を悟られてはいけない、心臓がドキドキいうのは見失うまいと走ったからだ。と自分に訳の分からない言い訳をする。
「雨空さんっ?!」
「こんな所で何をしている。」
咎める様な口調に一瞬、まずい!と思ったが、久乃は特に気にしていないようだった。
「何って、お買い物です。
雨空さんの家には湯呑みや茶碗も一組しかありませんもの、まさか私が雨空さんの物を使う訳にはいかないでしょう?」
なるほど、買い物籠の中身を見やれば少々の食器類と少しばかりの食材や調味料などが入っていた。
でも…
「なぜ1人分なんだ?
これじゃ、夕食には足りなくないか?」
食材は鯵1匹と玉子が2個、大根とほうれん草くらいなもんだ。
「だって、雨空さんは朝も昼もいませんでしたし、きっと今晩も戻るとはおもいませんでしたから。
ですから、夕飯も私一人分を買いました。」
そこまで言われて先程発した疑問が恥ずかしくなった。
二人で食事を摂るなんて考えてもいなかったのに、あれでは「俺の分はないのか?」と聞いている様なものではないか。
あぁ…失言だ。
「そうか、ゴホン…買い物の邪魔したな。」
なんとか咳払いで誤魔化して買い物籠を久乃に返した。
ひさのは「?」を頭に浮かべた顔で首を傾げて買い物籠を受け取った。
「じゃあ、俺はこれで。」
気不味くて早々に踵を返したが、やはり久乃が俺を呼び止める声はしなかった。
普通の妻なら初夜に帰らない夫を叱咤したり、責めたり、泣き付いたりするのではないか?
少なくとも俺が知る女というものは、そういう生き物だった。
(きっと今晩も戻るとは思いませんでしたから。)
久乃が言った言葉だ。
あれは嫌味ではかった。
諦め、とも違った。
なんだかまるで知っていたようではないか。
「何を考えているのですか…?」
鼻先に柔らかな毛先が触れて、意識を腹上に跨がる女に戻す。
「いや、別に…っ」
なんでもないと、言いかけたところで唇を塞がれた。
密に濡れた舌が唇の隙間を割って入り、俺の舌に絡まる。
結局、当初の予定通りこうして琴子との逢瀬に励む事となった。
久乃があんな風に言うから帰るに帰れなくなってしまった。
まぁ…これも言い訳だな。
琴子の愛撫を受けながら、やはり浮かぶのは久乃の事だ。
昨日、初めて会った時から今時までずっと浮かんでは消した顔。
たった一瞬、顔を合わせただけなのに焼き付いて離れない。
そして何より、不安と恋慕のような胸の騒めきが常にある。
時間が経てば経つほどそれは酷くなるのだ。
「愛しています。」
琴子が耳元で囁いた。
「雨空さんは?
あぁ…どうか雨空さんも言ってください。」
琴子の目に俺はどう見えているのだろう。
愛を囁かれても何とも思わない、この虚で腑抜けた
顔が。
琴子は純粋だ。
カフェーに入った時、女給達の俺に向ける好意には直ぐに気づいた。
取立て珍しくはない、外を出歩けば大抵の女は俺にそういった感情を隠せずに露わにするから。
それはもう、辟易する程に。
琴子は俺に珈琲を運ぶと顔を真っ赤にして恥ずかしそうに「ごゆっくりどうぞ。」と言って砂糖とミルクを置いた。
その初々しさが面白く、好ましかった。
カップを下げる時にわざと指先が触れるようにして照れて慌てる反応を楽しんだ。
「俺と逢瀬をしませんか?」
そう言って誘ったのはカフェーに通って何度目の時だったか。
雪がするような柔らかい笑みで誘い出し、琴子はまんまと俺の女になった。
琴子は恋に夢を見る女だ。
今、自分を抱いてる男に他に女がいるとは思ってもいないし俺が真剣に自分と交際していると信じている。
「…愛してるよ、琴子。」
俺にとっては意味の無い言葉ですら、こうして満足そうに微笑むのだからお愛でたい。