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雨と雪と人魚姫

外に目をやれば、日が高い位置にあった。

もう昼くらいなんだろう。

今日はちゃんと帰れと叱責されたばかりだが気が進まない。

今夜の宿は琴子の部屋にしようか。

琴子は上野のカフェーで女給をしている。

これから行って彼女の仕事が終わるまで珈琲でも飲んで待っていようか…そんな事をぼんやり考えていると、


「…人魚姫だ。」


あの写真を手に雪がポツリと呟いた。


普段なら聞き逃してしまうくらいの小さな呟きがハッキリと聞こえたのは雪が久乃を俺と同じ例えで言ったからだ。


食い入るように写真の久乃を見つめるものだから、なんだか面白くない。

俺の意地の悪い所が出てしまう。

雪が女に興味を持つのは珍しいと、少々揶揄ってみようと思った。


「お前はそんな下手物(ゲテモノ)が趣味かよ。」


久乃のような混血は横濱あたりではごく偶にいるらしいが、この帝都ではまず見かけない。

金色に近い髪や青や真っ白な肌は鬼か妖怪の類いだと恐れられ忌み嫌われる。


「下手物…なるほど、雨にはそう見えるのかい?

僕は、とても美しい人だと思う。

今まで沢山の女性を見て来たけど、彼女はその中でも…いや、群を抜いて美しいと思う。」


俺に向いた雪の瞳はまた久乃の写真に戻された。

本当に面白くない。

「チッ」と舌打ちをして雪の手から写真を取り上げる。

雪はそんな俺に、仕方ない人だな…と眉毛を下げてまた穏やかな笑みを浮かべた。


「だったら、こんな女、お前にくれてやるよ。」


これでどうだ、少しは困った顔でも見せてみろ。

口の端を上げて雪の反応を待つ。

ピラピラと写真を目の前にチラつかせて。


「僕はさ、こんな所(逢引き宿)まで女将への使いを口実に結婚の祝いを告げようと思って来たんだ。」


いつもの様にダメな弟を余裕の笑みで宥めるのかと思っていたが、その声は低くく、何処となく怒りが混ざっている様にも聞こえた。


「でも、やめた。

雨にとったらこんな結婚、おめでたくもなんともないんだろ?」


射抜く様な双眼に、負けじと俺も雪を睨みつける。

互いの視線が火花をちらす。


「…乗り気じゃなかったのはお前も知ってるだろ?」


それなのに、母も雪もなぜ俺を咎める?

悪いのは俺だけか?

双子は縁起が悪いからと15歳で家を追い出されて大事にされたのは後継の雪だけだー…


挙げ句の果てには公爵家から押し付けられた結婚の生贄にまでされたんだ。


本来なら長兄の結婚が先だろ?

これは、本来ならお前が担う役目だったはずだ。

それを、つまらない正義感で俺を責めるのか?


「そうだね、確かに彼女は雨には相応しくないかもね。」


「そ…そうだろ?」


同情的な態度にホッとしたのも束の間、雪は俺がした様にピッと写真を取り上げると、


「お言葉に甘えて、久乃さんは僕が貰うとするよ。」


そう言って冷徹な笑みを浮かべた。

そこに居たのは鏡合わせの俺だ。


そんな雪の顔を見たのは初めてだった。


「お前、そんな顔も出来たんだな。」


「そりゃ、双子だからね。」


そして、「もう行くよ」と写真を大事そうに懐へしまうと、部屋を出て行ってしまった。

いつもニコニコと微笑んでいた雪の真顔が、こんなにも恐ろしいとは…。


「ちくしょう、写真…取られちまったな。」


静けさの戻った部屋に虚しい独り言が響いた。


そんなにあの女が気に入ったんだろうか。

少しだけ見開いた瞳で、けれど何故か愛しむように写真を見つめていた雪の姿が浮かぶ。


「人魚姫か…」


子供の頃、店の馴染みの客からアンデルセンという異人が書いた本を土産としてもらい受けた。

女向けの物語だと聞いたが遠い海の向こうの話に夜な夜な雪と二人で夢中で読んだ。

小さな灯を点して頭から布団を被って物語りに集中している間は、あの忌わしい男女の褥の音から逃げられた。


人間の王子との恋が叶わなかった人魚姫は海の泡となって消えてしまう悲恋の物語り。

生まれ育った愛おしい海を捨てて、美しい声と引き換えに足をもらってまで人間になったのに終ぞ王子の愛は得られなかった憐れな姫だ。


まさかの悪い結末に、俺は怒りを覚えて今まで読んだ時間を返せ!と乱暴に本を投げつけたが、雪は粗末に扱われた本を拾い上げながら涙を浮かべていた。


「僕なら、姫が泡になる前に助けるのに…。

僕が姫を愛してあげたのに…。」


本を抱き締めて浮かんだ涙が畳に落ちるのを、俺はただ黙って見ていた。


「雪なら…」


昔を思い出して、今朝見た夢と重ねた。

久乃が湯船に沈む前に、雪なら引っ張り出せるのだろうか…。

掴もうと伸ばした俺の手は決して久乃を掴む事は出来なかった。

でも、雪ならその腕を掴めるかも知れない。


久乃が人魚姫なら、王子は俺じゃなくて雪なのかも知れない。


そう思うと何故か胸の奥がチクリと痛んだ。


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