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雨と雪

つい先まで窓に打ちつけるほどにザァーザァーと降っていた雨の音が一瞬にして消え去る。


声すら出ない。


まるで静寂ー…何が起きというのだろう。

止まる思考回路。


帰り道に突然降り出した夕立ちから逃げて濡れた着物を脱ぎ捨てようと脱衣所に入って気がついた。


風呂場の引戸が少しだけ開いていて、その隙間からダラリと落ちた真っ白な腕に…。


静寂な中にピチャピチャ、と白い手首から指先に向かってその下に溜まる血溜まりに赤い滴が落ちていく音だけが耳に響いている。


背中に冷や汗が滲み一気に引き戸を開けて目を見張る。


「ー…っ!?」

驚きの叫び声は喉の奥に止まり、震えた手を其れに伸ばした。

仰向けの状態で浴槽から左腕だけが放り出された状態で既に光を失った蒼い色の目が虚ろに俺を見ている。


「ひ…ひさの?」


その時、初めて己の妻の名を呼んだ気がしたが彼女がその呼び掛けに返事を返す事はないのだろうと呆けた頭で思った。


「うっ…ひさの…久乃っ…」


伸ばした腕に彼女は捕まえられずに遠のいてしまう。

ダメだ、早く引き揚げてやらないとー…

このまま冷たくなった湯船にはいれておけない。


(久乃…ー)


「…か…あまたか…っ、雨空っ!!」


誰かに肩を揺さぶられてハッ!として目を覚ました。

…あれ?夢を見ていたのか…?

前に一度実際に経験した様な現実味のある夢だった。

その証拠に全身、額にまでじわりと嫌な汗をかいている。


「なんだい?まだ寝惚けているのかい!」


顔を上げて知った声の主に向けると思った通り尾形屋の女将、つまりは俺の母が鬼の形相で腕組みをして立ちはだかっていた。


キョロキョロと辺りを見渡して状況を見るに、俺は一服してこの客椅子に座ったままどうやら二度寝してしまったようだ。

美紗緒の姿はない。

俺を起こさずに出たとなると、母が来たと同時に慌てて逃げたな。

この形相だ、当然だろう。


「まったく!結婚初夜から他の女、しかもうちの売り子と現を抜かすとはどういうこったい⁉︎」


「どうもこうも、昨日来たアレはなんだ?相手がガキや混血とは聞いてねーぜ?」


新しい煙草に火を付けて抗議の目を向けると母は呆れた顔で腹の底から溜め息をついて一枚の写真を机に叩きつけた。


「結婚の話があった際、先方様から此れが送られてきた時、相手の顔に興味はないとアンタが屑籠に捨てた写真だよ!」


「は?」


待てよ、そういえば確かにそんな事もあったような?


「可哀想に、大事な初夜に一人きりで夜を明かすなんてねぇ…この、ろくでなし!」


母は向かいの椅子に腰掛けると写真の中の少女を労る様にひと撫ですると、今度はその手を振り下ろして俺の頭を小突いた。


「いってぇな!」


「あぁ?なんだい、やろうってのかい!」


ちゃきちゃきの下町育ちの母は気性が荒く喧嘩っ早い。

その上恰幅もよいから手を抜くと男相手でもあっという間に投げ飛ばされてしまう。


今もまさに俺の浴衣の共衿に手がかかっている。

これはまずいと身を引いた瞬間、部屋の襖が開いて「失礼するよ。」と柔らかく落ち着いた声が届いた。


「な…っ?何してるの、二人とも!」


組み合っている母と俺を目にして、男は慌てて中に割って入ってきた。

決して取り乱さず、どんな時も品の良さを崩さずに冷静に振る舞う。


雪空(ゆきひろ)、あんたまで何で此処にきたんだい?」


そんな男に母はさっき迄の怒りを消して少し困り顔でその男の名前を呼んだ。


面倒くせぇ奴まで来たもんだ。

雪空は俺の双子の兄だ。

尾形屋の8代目になる予定の後継で、端麗かつ清廉潔白という言葉がピッタリと合うような…まるで俺とは正反対の男だった。


双子というのもあり、子供の頃からいつも周りに比べられてきた。


決して兄弟仲は悪くないのに俺は周囲から「完璧」のお墨付きを貰った雪が苦手だった。


「ほら、今晩の指名のない座敷に上げる子を決めて欲しいって旦那様から女将への伝言を使いに来たんだよ。」


雪は父から母への仕事の相談を伝えに来ただけで、どうやら俺を責めに来た訳ではないらしい。

仕事中、雪は父や母の事を「旦那様」「女将」と呼び他の従業員がいない場でもきちんと一線を引いていた。


「おや、そうだった!そしたら店に戻るよ。

ありがとう、雪空。」


「うん、お願い。」


いそいそと落ち着き無く小走りに母は部屋の襖に手を掛けると、不意に振り向いて俺をキッと睨み付けて「今日はきちんと帰るんだよ!」と言うと今度こそ襖の外に消えた。


階段を降りる音が聞こえなくなると、雪は(ふぅ)と

小さく息を吐いてやれやれと言わんばかりに母が座っていた客椅子に腰掛けた。


「まったく!何しに来たんだよ、あのババァは。」


母に対し悪態を付いきながら雪に向かい合い腰かけると脚を組んで外に顔を向けた。

雪の事が苦手と言ったが、一番厭だったのはこの同じ顔だ。

雪の柔らかい雰囲気に優しい目元、ふわりと笑むと花が綻ぶ様だと老若男女、誰でも目尻を下げるものだ。

それを自分の顔がしているようで気持ちが悪いのだ。

だって、俺はあんな顔をしない。

あんな風に笑わないのだから。


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