目指せ死亡グラフ回避
前世の記憶が蘇ってから早一ヶ月。
無駄な抵抗かも知れないが、あの日以来しばらく仮病を使って床に伏せっていたりもしたが遂に痺れを切らせた養母に一喝されて布団を剥ぎ取られてしまった。
「全く!たかが結婚だというのに一体全体何がそんなに厭だと言うのですか?」
この時代はまだお見合い結婚が当たり前で、結婚当日に互いの顔を初めて見るなんて事も普通にあった。
養夫婦も華族の家同士だ。無論、政略結婚だったと教えられた。
それでも養父はそれなりに養母を愛していたと感じられたし家族も大切にしていた。
確かに遊郭通いはあったけど、外に愛人を作る訳でもないし仕事以外では滅多に家を空ける事もなかった。
「お母様はお父様に愛されていますが、私はきっと彼の方に愛される事はないと思います。」
「どうして、そう思うのです?」
まだ起こってもいない事を何故そう言い切れるのかと養母は厳しい目を此方に向けている。
「仮病とは言え、婚約者が病に伏せていると聞けばお見舞いや、せめてお手紙の一通くらい寄越してもバチは当たらないと思うのです。」
「あなたね、仮病しておいて減らず口も大概になさいよ?
あなたが倒れた事は先方様にお伝えしていませんわ。」
(…え?)と問いかける瞳に養母が優しく頬に垂れた髪を耳に掛けてくれた。
「あなたがこの家に来てから体調を崩した事はありません、健康優良児なのは自信を持って保証できます。
体調を崩したと言えばせいぜい食べ過ぎによる腹痛くらいなもんです。」
クスッと穏やかに笑みを浮かべて、養母は私の瞳を覗き込む。
「例えば、あなたが主人の隠し子だったなら私はこんな風にあなたを受け入れたりは出来なかったでしょう。
遠い異国の友人が苦渋の決断で置いて行った子どもを引き取りたいのだと告げられた時にはそれは吃驚もしましたが、友を思い、身寄りを失った幼い子を憂いたあの人の優しさに私は感動したのよ。」
「お父様がそのような事を…」
えぇ…と頷いて養母は続けた。
「あの人に手を引かれてやって来たあなたを初めて目にして(あぁ…こんな天使の様な愛らしい子どもが新しく我が子になるのね)と嬉しさが込み上げた。しおらしく照れながらもキチンとご挨拶もしてくれてね…けれど、感心したのはそこまで。
あなたは意外にも頑固で負けず嫌いだったわ。
全く、その外見とは裏腹にお転婆な所もあるしお裁縫やお料理も真面に出来ないしね。」
なんだろう…最初こそ穏やかな笑みを浮かべていた養母の眉間に皺が寄っていくのが分かって私は少し肩を竦めて次の叱咤に備えた。
裁縫や料理だって一通りは出来るつもりだが、養母の言う真面に…とはもっとレベルの高い次元の事を示すのだろう。
例えば裁縫なら美しい刺繍を刺せる事とか、料理なら盛り付けやテーブルセッティングのセンスも含めてのものだ。
「別にね、私はあなたに完璧を求めてはいないのよ?どんなにそうであったとしても養女である貴女には由緒正しい良家へは嫁がせてあげられないのだから。
だからと言って、誰でもいい訳じゃない。
久乃、私達(本城家)はあなたの幸せを切に願っているのよ。
妓楼の家といえ雨空さんは家業にはついていないし、気性の激しさもない穏やかな性格の方だと聞いているわ…それに、お金の苦労もないでしょう。」
「お母様…」
そう言って瞳を僅かに潤ませながら宥める様に肩を抱く養母に、私はもうそれ以上は何も言えなくなって「はい…」と掠れた声で返事を返すとそのまま養母の背中に抱きついた。
「大丈夫よ…この縁談を決めたお父様を信じなさい。
そして何より夫となる雨空さんを信じて付いて生きなさい。」
ぽんぽんと背を撫でられながら私は静かに涙を流した。
嫁いだ先の結末は分かっている。
どんなに拒んでもきっと、この結婚はやめられない。
物語の強制力とでも言えばよいのか…
だってそうしないと私の…(本城 久乃)の真の人生が始まらないのだから。
だとしたら、嫁いでからが勝負だ!
幸い、雨空の性格もこれから起こる出来事も知っているのだし冷遇に耐えて自殺を回避すれば良い。
久乃が自死するのは凡そ半年後ー…
それを過ぎて生きた時にきっと物語の強制力から外れて新たな人生を得る事ができるはず。
そうしたら、雨空とは離縁して自由に生きて行こう!
大丈夫、絶対に上手く行く。
不安を押し込み何度も胸の中で大丈夫と繰り返したー…
ー…
それからはあっという間だった。
本城家の子女とはいえ、世間に公にしていない手前結婚式や披露宴は行えない。
尾形の家も次男だからと式などは省略して構わないと返答があった。
そんな訳で、私は事前に婚姻届に名前だけ記入して家令が尾形家に届けただけで無事に婚姻が成立してしまったのだ。
家同士の顔合わせがないのは、仮にも華族の子女と楼閣の息子の婚姻が世間にバレない様にとの配慮らしい。
つまりは全て本城家の体裁を守る為の都合に過ぎない。
資産で言えば吉原の老舗楼閣、尾形家だって負けていないはずだが立場としては圧倒的に本城家の方が上なので、此方の言い分を聞くしか無かったのだろう。
原作でも後々この触りが出てきた。
お得意様の本城から持ちかけられた縁談だったから仕方なく雨空と久乃を結婚させたー…と。
吉原界隈で格式ある尾形屋としてはこの本城家の振る舞いには些か苛立ちを持った。とあった…
実際、久乃が亡くなった際にも尾形家の面々は差して悲しまなかったのだ。