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愛は広がってゆくものだから

作者: モンブラン

久しぶりに完全新作短編を書きました!

難産だった分、力作です。

感想・レビューをいただけたら幸いです。

「バカな人ですね」


 窓から差す月明かりだけがその一室を照らしていた。その部屋にはベッドと側にある椅子しか置かれていない。

 ベッドには白髪の老人が横たわっている。肌艶はなく、枯れ木のように生命力が欠けているものの、目鼻立ちと眉からは気品と堂々とした風格が窺える。若い頃は美男子であったのかもしれないが、今の彼は老衰で命の灯が消えかかっている。

 しかし、老人とは異なる意味で傍らに座る少女からは生命の息吹が感じられない。覇気がない、とも言い換えられるだろうか。真っ直ぐに流れるショートカットは烏の濡れ羽色で、老人を見つめる瞳もまた光のない暗黒だった。

 少女は抑揚のない低い声色で尚も話しかける。


「王宮のお偉方に気に入られ、賢人として尊敬を集めた貴方が、こんな寂しいところで孤独に死ぬなんて。バカみたいですね」


 ベッドの老人は重たげな目蓋を開きながら、少女の真っ黒な瞳を見つめ返す。


「僕にとっての学問は権威からは遠いところにあった。自ら選んだ道に後悔はないよ」


 表情のない彼女に老人は微笑みかける。


「それに、十分に長く生きた。そんな僕が寿命を終える瞬間に君という生徒が傍に居てくれる。過ぎた幸福だよ、僕には贅沢だ」

「それがバカだと言っているんです」


 表情は変わらないが、口調に僅かに非難の色が混ざる。


「貴方の他の生徒たちは立派な方々ばかりなのに、ここに居る私は貴方の志から一番遠い生徒でしょう。……私の両手がどれだけ血で汚れたか、私の全身がどれだけ返り血を浴びたか、貴方はご存知のはずです」

「ああ、知っているとも。しかし、それは君の罪であって君の罪ではない、別の道を選び進む権利があると、僕は言ったはずだ」

「…………」


 沈黙が流れる。幼い齢にして修羅の道を生きた過去の質量が、その沈黙の重さである。

 それを知りながら、諭すように語り掛けられるのはこの世で唯一人、この老人しか居ないだろう。


「貴方が逝けば、私は再び剣を取るでしょう。そういう生き方しか知らない。私の取り柄はそのくらいだから」

「違う。それは違うよ。君は才ある人間だ。……いや、その物差すら些末なことだ」


 老人は苦しみながらも深く息を吸い込んだーーけれど、瞳には少年のような輝きを帯びている。


「平等は幻想。この世には多くの矛盾と格差が蔓延っている。その事実、その苦しみからは逃れられない。けれど、僕たちは抗うことができるーー逃れず向き合い、研鑽と努力をやめなければ、己の選んだ道を歩むことができる。僕はずっと君たちにそのことを教えて、それ以上に君たちから教わってきた」


 少女は生まれて初めて笑顔を作ろうとしたーーいつも笑って夢のような絵空事を語る先生を笑い飛ばそうとした。でも、ダメだった。日頃表情の失せている顔が硬って、どうしても笑えなかった。

 老人は生徒をただ真っ直ぐに見据えて、少女の内を満たす思いを見渡して、柔らかく微笑んだ。


「安心しなさい。ひたむきな心は継がれ、愛は広がってゆくものだから……」


 そう言い残すと、老人の目蓋はゆっくりと閉じられた。首が僅かに傾くと、彼は永久の眠りについた。

 総てを悟った少女は、老人の痩せ細った手に自身の手を添えた。


「最期の最期まで、綺麗事ばかり言って、世迷言ばかり言って……。本当に、バカな人なんだから……」


 少女の頬を一筋の雫が伝った。









 踏み込む足音が一つ、そして木刀同士がぶつかり軋む音が稽古場で静かに響いた。

 頬を伝う汗も厭わずに、目の前の相手目掛けて一心不乱に木刀を振るうのは年端もいかない少年。小柄な体型に防具が重く見えるものの、その動きにぎこちなさは見られない。

 相対するは、涼しげな表情で少年の渾身の一撃を受け止める長身の女性だ。微かな笑みを浮かべる顔から括った長い髪の先まで汗一つ流していない。こちらは防具のない軽装である。

 少年は木刀を押し込む反動で一歩下がる。そして、再び角度を変えて木刀を撃ち込む。

 だが、女性は手首の角度だけ変えて、少年の別方向からの撃ち込みをいなした。

 こうした打ち合いが二十合ほど続いたところで、少年は呼吸を荒らげた。

 これを見た女性はクスリと笑うと、少年の木刀の柄に近い部分に素早く自身の得物を振り下ろす。堪らず少年は木刀を落としてしまう。ガラ空きになった正面を、そのまま木刀が上向きに弧を描き、少年の顎へと打ち払われた。

 少年は五メートルほど背後の壁にまで吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられると同時に煙が上がるのように埃が舞った。

 女性は木刀を腰元に収めて、少年の方へと近づいて行く。


「惜しかったですね。イイ線行っていたと思います」


 にこやかに朗々とした口調で女性は言った。


「先生、イイ線ってどの線なんすか?」


 少年は尻もちをついたまま憮然とした調子で返す。


「その線です」

「どこだよ?」

「海と陸の境界。わかりやすいようでいて曖昧です」

「そりゃ海岸線だろ」

「なら、この線です」

「どれだよ?」

「経度0°。時刻の基準になりますね」

「本初子午線な。今は地理の話してんじゃねーよ」

「やっぱりあの線でした」

「そろそろ真面目に話せ。なんだ?」

「貴人が持っている扇ありますよね。アレなんて言うんでしたっけ?」

「芭蕉扇な。つーか線でもねーし。訊いてんのは俺の方だし」

「私にも教えてください。一体どの線なんでしょうか?」


 少年は答えず、ただため息をついた。

 もう先生は木刀を取り出す気配はない。今日の稽古はこれで終わりのようだ。少年が倒されたのは今ので今日通算十回目。無理もないだろう。

 少年が自分の後ろをついて来る気配を感じて、女性は短く息をついて笑みを零す。

 少年の名はフラッド。女性の名はラズリア。

 師弟の力量差は未だに大きく開き、埋まる様子は見られなかった。







 大陸の東端に大きく版図を広げるウルシュという国があった。季節風の影響で、一年中温暖な気候の中でも気温や気候に変化が見られる。肥沃な土地ゆえに他国から領土を狙われることもしばしばあるものの、他の追随を許さぬ屈強な軍備と外交政策によって、ウルシュと他国との争いは小競り合いの域を出ない。

 この国の西側、関所からは50㎞ほど離れた南に広がるシヴルナの森の近くに小さな村がある。北方から流れる川沿いを囲むようにして人口約50人が暮らすこの村に、今から二年前、奇妙な二人組が現れた。

 一人は背の高い女性。年齢は読み取りにくいが、三十歳前後だと思われる。丈の長い薄手の羽織りものにパンツを履いており、長い黒髪を一本に縛っている。腰元にはかなり使い込まれた剣を鞘に納めていて、穏やかそうな物腰とは裏腹に凛と張り詰めた雰囲気を漂わせていた。

 もう一人は子供だ。年齢は八歳ほど。赤茶色の頭髪はボサボサで、垂れた目尻は眠たげに映る。しかし、その身のこなしには不思議と隙がなく、女性について歩く振る舞いに違和感はない。

 子供を連れた女性は村長を訪ね、その後間もなく村に居着き、私塾を開いた。

 その場所は十年ほど前に指導者が居なくなったため使われなくなった教室で、彼女がそれを改築して再利用することにしたのだ。

 半年ほどで準備を整え、彼女は塾を開いた。無償ということもあり、村中の親たちが仕事の合間に子供たちを通わせるようになった。街に出てより多く稼ぐためには、教養が必要なことを村の大人たちは理解していたのであるーー遠くない将来、子供たちの流出によって過疎化するリスクについて、村長は考えていなかったようではあるが。

 閑話休題。以上のような経緯で塾を開いた女性は“ラズリア先生”として生徒たちに慕われ、彼女が連れてきた子供、フラッドも生徒の一員となったのである。







 稽古を受けた翌日のこと、ボロボロになっていたフラッドは教室で他の生徒たちから注目を集めていた。


「フラッド、また手酷くやられたもんだな」


 親しげに声をかけてきたのはルーク。馬を飼う家の息子だ。フラッドはフンと鼻を鳴らし、


「俺がこんな目に遭うのはあの人相手だけだ。それまで大人にだって負けなかったんだぜ」


 言われてルークは口を噤む。ラズリアに連れられて村にやって来たこの少年の出自については謎が多い。少なくとも、剣術の練習試合でフラッドは他の生徒相手には負け知らずだった。

 雰囲気を察したフラッドは、「ま、それでもいつか一本取ってやるけどな」と、小さく笑った。

 それからもしばらく生徒たちが談笑していると、引き戸が開かれラズリアが教室に入ってきた。白いシャツに紺色のパンツを履いている。余談ではあるが、フラッドを含めて彼女がスカートを履く姿を見た者は居ない。

 席を立っていた生徒たちは、自然とそれぞれ自分の席に戻っていく。その様子を見届けてから、ラズリアは側に持っていた本を開いた。


「それでは授業を始めましょうか。今回は歴史ですね」


 生徒たちは一斉に教本を開いた。全てラズリアが無償で提供したものである。

 ラズリアは書かれている内容を読み上げ、時折解説を加えた。生徒たちはそれぞれ教本に線を引いたり、別に用意したノートに書き込んだりしている。


「ーー生活用水を安定して使えるようになることが求められました。そこで用水路を提案し開発に乗り出したのが……おや?」


 ラズリアが途中で読み上げるのをやめた。教本に目を落としつつ生徒たちの様子を見ていた彼女が、フラッドの退屈そうな様子を見つけたからだ。彼はペンをくるくると回して玩び、大きく欠伸をしていた。


「フラッド、歴史の授業は退屈ですか?」


 ラズリアから直截的に言われて、フラッドは慌てて姿勢を正した。


「いや、別に。用水路ってアレだろ、この後三回の改良が加えられて今の形になったんだろ?」


 取り繕うようにそう答えたが、ラズリアは何の返事もなくただ薄く笑みを浮かべていた。

 そのまましばらく二人は黙って見つめ合っていたが、やがて根負けしたフラッドが大きくため息をついた。


「あーもう、そうだよ。確かに退屈だよ。簡単とか難しいとか以前に勉強する意味が分からねえ」


 ラズリアは睨んでくるフラッドの視線を僅かに目を細めただけで受け止める。すると、彼女はパタンと開いていた教本を閉じて、教室の前方を歩き回り始めた。


「君がそういう不満を持ち、疑義を呈することは何も間違いではありません。己の行為に意味を求めるのは君らしいですね。大いに結構」


 教室全体を見回してから、ラズリアは続ける。


「他の皆さんもどうですか? 歴史に限らなくて結構です。自分が今机に座り学びを得ている意味がわからなくなった瞬間はありませんか。国語や算数を何故学ぶのか。理科や歴史の知識は何の役に立つのか。疑問に思ったことはきっとあったはずです」


 教室がざわつき始めたが、きちんとした反論や主張を述べた生徒は一人もいなかった。ラズリアの言ったことが図星だったからだ。


「最初に断言しましょう。私は君たちに意味のあることを教えています。君たちの貴重な時間を割いてまで私が教えているのは、君たちがこれから生きるために必要な武器を持つきっかけを与えるためなのですから」

「武器を直接くれる訳じゃねーんだな」フラッドが口を開いた。

「ええ。あくまできっかけです。武器は人それぞれ形が異なりますから。私と同じものをそっくりそのまま与えても何の意味はありません」


 生徒たちは自然と自分の手元を見る。フラッドは仮に自分が武器を持つとしたらやはり剣だろうなと、ぼんやりと考えていた。


「学ぶ意味について、もう少し具体的に考えてみましょう。私たちは生きている。死にたくはありませんね。生き続けるには何が必要でしょう。トルネ、君は何だと思いますか?」


 指名された少年は少し考えてから「お金です」と答えた。トルネは道具屋の息子である。


「その通り、お金は生きるために欠かせない。では、何故お金が必要になるのでしょうか。どうでしょう、ローラ?」


 次いで指名された機織り手伝いの娘は「食べ物や服、他にも暮らすのに必要なものを買うためです」と答えた。そのはっきりとした口調にラズリアは大きく頷いた。


「素晴らしい答えですね。そうです。我々が生きるためには最低限衣食住が整っていなければならない。そして、お金がなければ何も得ることができません」


 ラズリアは再び一同を見渡してから、


「まとめると、私たちはお金で着るものや食べものや住む場所を得る。皆さん、想像してみてください。自分がお金を持ってそれらを買いに行く姿を」


 生徒たちは言われた通りに頭に思い浮かべてから頷いた。ラズリアは小さく頷くと、晴れやかな調子で言った。


「それでは、一連の行動の中でどの教科の内容が使われていたでしょうか?」


 ラズリア以外の全ての人間から吐息が漏れた。アッと驚き、ざわめき戸惑い、頭を巡らせる呼吸。

 十秒ほど空けて、ラズリアは敢えて指名はせずに自由に発表を促した。


「算数。お金を数えなきゃだから」「やっぱり算数だろ」「算数だよ、算数」


 多くの生徒たちが算数を挙げる中で、一人だけ欠伸を噛み殺したような声で言った。「人と人とが話すんだ。コミュニケーションのために国語も要るだろ」フラッドだ。

 フラッドの言葉を皮切りに生徒たちの意見は活発に表れ始めた。


「歴史! お金で物を売り買いするのは昔の人たちから続いてきたから!」「理科! そもそもお金は……お金って何からできてるんだっけ?」


 ラズリアがパンと手を叩いたのを合図に教室は静まり、彼女の方へと再び注目が集まる。


「その通り。私たちの暮らしには様々な勉強の成果が現れているのです。保証しましょう。私たちがここで学ぶことには必ず意味がある。そして、学んだことをどのように活かすかは君たち次第です」


 ラズリアは再び教本を開いた。先程まで開いていたページとピッタリ同じ場所を。


「君たちの学びが意味となって、君たちの幸福に繋がることを、私は願っていますよ」


 教師の顔に浮かんだのは、慈愛と祈りを込めた、どこまでも優しい笑みだった。







「なあ、一つ訊きたい」


 授業が終わり、他の生徒たちが去った後の教室で、フラッドは訊ねた。

 頭の後ろで腕を組んでどうでも良さそうに、しかしそれでいて声色は真剣味を帯びて。


「こんなところで子ども相手に手習を教える理由はなんだ? そんなことに意味はあるのか?」


 ラズリアは黙ってただ少年を見つめる。


「あの時、戦場で俺を拾った理由を答えられなかったアンタのことだ。さっきまで散々意味を説いていたアンタだって、その理由を答えられないんじゃないのか」


 フラッドの問いは最早詰問に近い。ただ、無表情のラズリアからは心中の細波すら窺えない。


「そうですね」答える彼女の声は硬い。

「君の言う通りです、フラッド。君の問いに答えるための明確な回答を、私は持ち合わせていません」


 フラッドがフンと鼻を鳴らして言葉を継ごうとしたところで、「ただ」女性はそれを制した。


「ただ、修羅の道を行く私の前に垂れた一本の糸。それを手繰り寄せて這い上がった先が、今の私なのかもしれません」


 黒く鈍く輝く瞳を、彼女は一人の小さな子どもに向ける。


「そうかい」


 フラッドは投げやりに一言そう言うと、視線から逃れるように教室を出て行った。







「ルーク見っけ。缶踏んだ!」

「クッソ〜! やられた〜」


 不敵な笑みを浮かべる少年の髪を風が撫でる。周囲の木々が揺れて、草花はひたすら煽られる。岩の陰から別の少年がトボトボと力なく歩いてくる。


「少しは加減しろよな〜、フラッド」

「ばっか、遊びはいい加減にやっちゃつまらねえだろ。ムキになってやるから楽しいんだろうが」


 フラッドやその他の子供たちは缶蹴りをして遊んでいた。ジャンケンに負けたフラッドが鬼になって始めたものの、彼の勘の良さと足の速さには誰も敵わず、次々と見つかってしまっていた。

 弾けるように笑いながら、彼は周囲を見渡す。


「さてと、あとはエイミーだけか。とっとと見つけて、鬼を交代してもらうぜ」


 フラッドは革の靴で地面を踏みしめながら、三つ編みの少女の姿を探す。幹の太い広葉樹の陰や、岩の側からはもう既に見つけている。

 反対の方角から探してみるか。そう思って、見回してみても隠れられそうな場所は見当たらない。開けた草地が広がるのみである。


「森の方角ではエイミー以外の全員を見つけたしな……」


 居るとしたらこちらの方角だと思っていたのに。

 フラッドはここで今日のエイミーの服装を思い出した。今日はスカートじゃなくてズボンを履いている。動ける範囲が広がったと考えると……。

 彼は木の上の方を見た。まさか木の上に登ったんじゃないだろうな。恐る恐る木の方へと近づいていく。葉の内側を覗けるほど近づいたところで、背後から足音が聞こえた。

 即座に振り返ると、エイミーが岩の方から飛び出して缶目がけて走り出しているのが見えた。

 しまった。二人いた。岩の陰に隠れていたのはルークだけではなかったのだ。

 慌ててフラッドも缶の方へと走り出す。缶との距離は二人に差はない。走り始めはエイミーの方が早かったが、フラッドの方が走るのが速い。

 エイミーは缶を蹴れば勝ち。フラッドは缶を踏めば勝ち。しかし、走った勢いから踏み止まって缶を踏むのは難しい。

 フラッドは減速するどころか、さらに加速して行く。エイミーとタッチの差でフラッドの足が先に缶に触れた。そして、


「うぉらぁぁぁぁああああ!!」


 足を思い切り踏み抜いて缶を思い切り蹴飛ばした。フラッドが。


「ちょっとアンタ! 何やってんのよっ!」


 エイミーは薄黄金色の三つ編みを揺らして猛抗議する。

 フラッドが蹴り飛ばした缶は、木々の上を越えてさらに向こう側まで飛んで行ってしまった。


「もしかして、木の向こう側の道の方まで飛んで行っちゃったんじゃない?」

「悪かったよ。急いで拾ってくっから待ってろ」


 そう言うと、フラッドは缶の飛んで行った方面に走って行った。







「全く、戦場帰りにこんな田舎に寄らされるなんてな」

「寄り道にしては破格の手当が出るんだ。サクッと済ませて帰ろうじゃないか」


 村の入り口付近から二人の男たちが歩いてきた。愚痴を零す大柄な男はザウール。窘める細面の男はコルド。いずれも村の人間ではない。

 歩くたびに鎧がガチャガチャと音を鳴らす。


「にしても、ただの村の塾を見て来いって割には稼ぎが良過ぎると思わないか」

「ああ、多分何かある。不審な徒党を組んだり、子どもに国家転覆の教えを説いていたりなんかすれば俺たちでしょっぴかなければならないしな」


 しかし、そのように言うコルドの口調は呑気なものだ。本気で大事になるとは思っていない。

 ザウールのこめかみにどこからか飛んできた缶が当たる。

 やがて缶が飛んできた方向から小さな少年がやって来た。悪びれた様子もなく、呑気に「大丈夫か、おっさん?」と声をかける。

 ザウールはそんな態度に本気で気に障った。


「小僧、貴様か? 俺に缶をぶつけたのは?」

「違げーよ。俺の蹴った缶がたまたまおっさんの頭に吸い寄せられたんだよ。缶返してくんない? 缶蹴りの最中なんだ」


 子どもの不遜な態度に対して、ザウールはあらぬ方向へ缶を放り投げることを返答とした。


「うわ、何すんだ。王国の兵士がひでーことしやがらァ」

「貴様の礼儀を欠いた態度が……何故我々が王宮から来た兵士だとわかった?」


 ザウールが訊ねると、少年は赤茶色の髪をボリボリと掻きながらどうでも良さそうに答える。


「ンなもん見ればわかるだろ。その無駄に高級そうな装備してれば、最近まで隣国とのドンパチやってた帰りの兵士にしか見えねーよ。提げてるデケー剣も対集団用のものだしな」


 傍で聞いていたコルドは舌を巻いた。少年の言葉は真実であり、その洞察力は年齢に似合わぬものだ。同時に、少年が帯刀していることが気になった。


「お前の言う通りだ、ガキ。我々は王国の兵士だ。仕事でもない限り、こんな辺境まで来るものか。して、この村には学校があるらしいが、何か知っているか?」

「あん? 知ってるも何も俺はそこの生徒だ。曲がりなりにもあの女の一番弟子だぜ」


 “女”と聞いた時、ザウールは眉をピクリと動かした。

 そのまま“女”のことを探るために軽く話を振るーー後から思えば口を滑らせたとしか言えないが。


「ならば、取るべき態度があるのではないか。俺の報告次第でこんな田舎の学校は簡単に潰せるんだ。尤も、お前のようなガキが生徒なのだから、教育の程度が知れ……」


 そこまで言いかけたところで、少年の顔が目の前に現れた。つい先ほどまでは眠たげだった目を剥き、ゾッとするような殺気を纏っていた。

 ザウールがその剣を受け止められたのは幸運としか言いようがないーー少年が振り下ろした木刀に対して、これまでの戦闘経験が為せる条件反射が働いたのだ。

 少年の得物は木刀。ザウールが携えるは大戦用の大剣。それ以前に大人と子供とで体格差がある。

 にも関わらず、押されていたのはザウールの方だった。

 攻め込む少年に気圧されているだけではない、技量と相性の問題だ。

 大剣は集団を薙ぎ払うのに適した武器ではあるが、一対一だと剣を振るう動きが通常よりも鈍くなる。少年は敢えて大振りさせるようにザウールの剣撃をいなしながら、生じた隙を狙って的確に攻めてくる。

 この子供は感情に任せて闇雲に剣を向けてくるだけではない、冷静に戦略を立てて確実にこちらを殺そうとしている。

 こんな子供がーーこんな存在が果たしてあり得るのか。


「ーー鬼の仔か⁉︎」


 目の前の少年は脅威となってザウールを襲う。だが、彼とて王国騎士団の一員にして、先の戦を生き残った者だ。簡単に命をくれてやる訳にはいかない。

 ザウールは間合いを取って、剣先で少年に攻める。最早これは命のやり取り。鬼のような殺気を纏った子供相手に容赦はしない。

 大人と子供の手脚の長さの差のため、加えてザウールは大柄な男であることもあり、少年の攻撃は届かなくなってしまった。

 形勢は逆転し、今度は少年がザウールに押され始めた。木々を背景に闘う二人。ジリジリと押され、少年の背中がピタリと木の表面に付いた。追い詰められたのである。

 ザウールは好機と見て、攻める手を緩めず少年目掛けて大剣を突き立てた。

 得物が突き刺さる感覚。やった。

 そう思った瞬間、ザウールは意外なものを目にする。

 大剣が突き刺したのは少年の背後にあった木。躱した少年は飛び跳ねて大剣の刃の上に立っていたのだ。

 振り払おうとするも、大剣は木に引っかかって咄嗟に抜けない。

 少年は刃の上に乗ったまま、逆に自身の木刀をザウールに突き立てる。

 鉄の刃ではない故に、刺傷が致命傷になることはない。狙いは喉だ。ザウールの喉を硬い木の剣で突き通そうとしているのだ。

 ザウールは剣を握ったままの右手ではなく、籠手をつけた左腕を喉の前にかざした。籠手をつけていたとは言え、片腕で少年の突きを防ぎ切ることはできなかった。大柄の男は後ろへ吹っ飛ばされた。

 ザウールの手元には大剣がある。吹っ飛ばされた衝撃で木から抜けたのだ。

 身体を起こしながら彼はその威力に戦慄する。直接受け止めた左腕の感覚がない。もしも木刀ではなく鉄の剣だったならば、籠手を鉄の刃が貫いていたかもしれない。

 対して、着地したフラッドは手応えの薄さに舌打ちしたーー剣を構えてから初めて年相応な感情が零れた。やはり得物が悪い。殺傷能力がないからだ。

 ーーリーチが短いのが難点だが……。

 フラッドは懐に持つ短剣の感触を確かめる。ラズリアにも内緒で持ち歩く鉄の刃だ。リーチの差のある大人相手には扱いが難しいが、木刀で必殺の一撃を加える隙を作れれば不可能ではない。

 少年は再び木刀を構えて、立ち上がったばかりの大人に向かって走り出す。

 剣と剣がぶつかり合う。四合ほどで、ザウールが防御に回っていることを悟った。先程の突きの威力が堪えたのだろう、構えが萎縮している。

 流れを掴めた。

 学校を潰すなどとほざいたこの男を殺せる。

 会心の笑みを浮かべる少年はザウールの目には悪魔のように映った。

 フラッドが短剣に手をかけたその時。


「双方、剣を収めてください」


 女性の鋭い声が割って入った。

 途端にフラッドは手を止めた。ザウールも声の主に注目する。

 走ってきたからか遅れてふわりと流れる豊かな黒髪、冷静にこちらを見つめる真っ黒な瞳。丈の長い羽織りものの下にパンツを履いた、教室に居た時と全く同じ格好でラズリアが現れた。

 息を切らせることもなく、ゆっくりと歩いて近づいてくる。


「大方状況は読めましたが……貴方がたが用があるのはその子どもではなく私でしょう」


 そのまま進み出て、手で柔らかくフラッドを押し除けると無感動な瞳をザウールに向けた。

 ザウールは唖然とした表情から警戒色を強め始める。


「き、貴様は……⁉︎」

「黒髪の女が怪しげな私塾を開いたなんて噂を聞きつけたのでしょう。そして、ここの肝は、国に無断で学校を開いたことでも教育内容でも、増してや徒党を組んだことでもない。黒髪の女性、という点ですよね?」


 ザウール、コルドは共に何も答えない。彼女の言う通りだったからだ。


「一昔前、ある黒髪の女が王国軍をほぼ無断で退役し行方知れずになった。国王陛下は大層お怒りで、その女の行方を探させたが見つからない。他国に亡命した様子もなく、諦めていた折に件の噂を耳にした。半信半疑ながらも、人を送り込んだ。それが貴方たちで、そして見事に当たりを引き当てたという訳ですね」


 流れるような口調で聞き逃しそうになったが、この女、今とんでもないことを言わなかったか。

 ザウールたちの事情をさらいつつ、彼女は自分の素性を明かして見せたのだ。

 話に聞いていた通りなら、この女は……。

 後ろでラズリアを見上げるフラッドも冷静ではない。謎に包まれていた、自らと出会う前の彼女の片鱗を唐突に掴むことになったからだ。

 この場において平然としているのはラズリアのみだった。彼女は薄く笑って、「まあ私の事情はどうでも良いのです。事情はどうあれ、私の生徒に剣を向けたことは捨て置けません」

 それは一瞬の出来事だった。鈍い音の後にラズリア以外の人間が見たのは、あらぬ方向へ飛ばされたザウールの背後の砕けた岩、彼の完全に気絶した姿と、拳を振りかざした後のラズリアの姿だった。

 後から見れば推して量るしかないが、ラズリアが鎧を着込んだザウールを素手で殴り飛ばし、その威力は彼を叩きつけた岩を砕くほどだったということだ。

 殴った彼女の拳には傷一つなく、唖然とするフラッドとコルドを残して、ラズリアはただ一人平静を保っている。

 先ほどまでの子どもとザウールの闘いですら現実感を喪失して見ているしかできなかったコルドは、さらに唐突な相方の退場に呆然としている。

 ラズリアはそんなコルドに語りかける。


「剣を抜くまでもありませんでしたね。ああ、彼は伸びているだけです。死んではいませんよ」


 膝を折ったコルドはラズリアを見上げる。同時に、“煉獄”の逸話を思い出し全身を極寒が走り回った。


「偵察任務だけは果たせるでしょうから、このまま伸びている彼を連れて、どうぞお帰りください。……ああ、それとついでに貴方たちを派遣したお方に伝言をお願いできますか」


 口元だけは微笑み、真っ黒な瞳は鋭く哀れな男を貫く。


「私はここで子どもたちと共に居る限り、人畜無害な“先生”で在りましょう。ただし、この子たちが傷つけられるようなことがあれば……その虚飾の王城ごと国を崩してしまっても構いませんよ」


 彼女から一瞬だけ漏らされた異次元の殺気は、コルドから逃亡以外の選択肢を塗り潰してしまった。

 彼は大柄なザウールを脇に抱えて、村の出口目掛けてあっという間に駆けて行った。死と同等かそれ以上の恐怖が、侵入者を逃亡せしめたのである。

 ラズリアはあっさりと彼らを見逃して、フラッドの方へと振り返る。彼女が浮かべる笑顔はいつもの“先生”として向ける優しいものだ。


「路上ではありますが、授業を一つ。大切な場所を守ろうとする意志は褒められるべきものですが、暴力にばかり頼ってはいけませんよ?」


 そう言って微笑む彼女に、フラッドは訊きたい数多の疑問を堪えて、万感の思いを込めて一言呟いた。


「いや、アンタに言われたくねーよ」


 ラズリアは「あはは」と空笑いするのみである。


「それより、君。遊んでいる途中ではなかったのですか? 恐らくはこの缶を使って」


 そう言って、彼女は手元で缶をぶらぶらと玩ぶ。


「いっけね、缶蹴りの途中だった。早く持ってかねーとエイミーにどやされる!」


 慌ててフラッドはラズリアから缶を引ったくると、元来た森の方へと全力疾走で駆けて行った。


 余談ではあるが、軍人相手に大立ち回りをした少年は、三つ編みの少女にこっ酷く叱られたそうな。









 ラズリアは戦争孤児であり、幼くして抜きんでた戦闘の才能と、物珍しい真っ黒な髪と瞳を持っていた。

 噂を聞きつけたある王国の軍人が黒髪の彼女を拾い上げ一兵卒に仕立て上げたところ、頭角を現し十代半ばにして前線に送られ、多大なる武勲を上げることになる。

 当時の彼女は敵は愚か味方からも恐れられ、たった一人で戦場を塗り替えてしまう“ただ一人の煉獄”と称された。

 しかし、切れ過ぎる刃は疎まれるのが世の常。罠にかけられ四桁にものぼる数の敵をたった一人で相手取り、その総てを退けた時には既に満身創痍であった。

 辺境の村まで逃げ延びたところで少女は力尽きた。そんな彼女を拾ったのが、かつて王宮において“賢人”と呼ばれ尊敬を集めながらも、権力争いの中でさっさと隠棲を決め込んだコダキオ老である。

 コダキオ老はラズリアを介抱し、彼女の傷が癒えたところで自身が村で開く学校に招いた。

 ラズリアはここで初めて学問と触れ合い、学ぶことの意味を理解することになる。

 コダキオ老の開く小さな学校は僅かながらも生徒が居たものの、当時子どもを労働力と見做し学問に触れさせることに理解のなかった村の大人たちから疎まれ、彼自身の老いからくる体調不良を理由に生徒は離れて行ってしまう。

 コダキオ老の元に残った生徒はラズリアただ一人になった。

 彼は、殺戮の道具として育てられた哀れな子どもを、将来に希望を持つ普通の少女にしようと苦心した。

 しかし、道半ばでコダキオ老は寿命を迎え、少女を遺して天国へと旅立ってしまう。

 自らの身元を引き取ってくれていたコダキオ老を亡くした少女ラズリアは、再び軍に籍を戻した。

 その後も彼女は圧倒的な強さで武勲を上げ続けるが、コダキオ老の教えは彼女に違和感を抱かせたーー国の在り方、そして自身の在り方を。

 やがて彼女は一方的に退役を申し出ると、王都から出奔してしまった。

 彼女は旅を続け、多くの土地や人々と出会った。

 戦禍が過ぎ去り、荒れ果てた土地でフラッドという少年と出会ったのはその時である。

 少年はかつてのラズリアのように生きるために強くならざるを得なかった子どもだった。

 ラズリアはフラッドを無理矢理旅に同行させ、道中でかつて自身の師に習ったことを断片的ながらも少年に教え説いた。

 それから二年が経ち、ラズリアはフラッドと共にコダキオ老と過ごした村に流れ着き、師の開いた学校を再興させたのである。



「貴方はこうなることを見透かしていたんですか、先生」


 一人の長い黒髪の女性が、盛り土の上に立つ真っ白な石の前にしゃがみ込み話しかけていた。自身が作った師のお墓だ。鬱蒼とした森に囲まれながらも、日当たりが良く、また心地良い風の吹く場所だ。


「先生の弟子の中で恐らく一番出来の悪かった私が、先生と同じ道を選ぶなんて私自身が一番思いもしませんでしたよ」


 そう言うと、つい苦笑を堪えられなくなる。


「貴方は最期に言いましたね。『愛は広がってゆくものだから』と。その言葉の意味がようやく解ったような気がします」


 ラズリアは“護る”ために剣を取った少年の姿を思い浮かべながら呟いた。

 彼女は今でも確信している。フラッドを連れて来たのは自身と同じような境遇が哀れだったからではないのだ、と。

 少年の未来への道が閉ざされたままであることが許せず、それならばせめて自分と一緒に迷い抗うべきだと、漠然とそう思ったことを覚えている。

 それを少年に伝えるのに相応しい言葉を、未だに彼女は見つけられていない。


「答えられないのも無理はありませんよね。曲がりなりにも教師なのに。まだまだ研鑽が足りないみたいです」


 嘆くように言う彼女だが、その表情からは笑みが剥がれない。笑わずに居るには、心が温かくてどうしようもないからだ。


「まだまだ未熟者ではありますが、私は歩み続けます。見守っていてくださいね、先生」


 ラズリアはすっくと立ち上がると、真っ白な石を背にして去って行った。


 一陣の風が歩く彼女の後ろ髪を柔らかく煽り撫でていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 世界観もとても美しく、話の構成や内容、それぞれの登場人物、物語に引き込まれる言葉の組み立てかたなど、とても素晴らしかったです。シーン毎に情景が目に浮かぶ様でした。戦闘のシーンの描写も細やか…
2020/04/20 16:00 退会済み
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