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死にたかったか、龍馬 その十 完結

 私たちは小泉さんの家の庭に出た。

 コスモスが風に吹かれて静かに揺れていた。

 「龍馬は晩年、船を今で言うと、自家用車代わりに使っていました。世の中には、暇な方もいらっしゃるようで、龍馬晩年の約五年間の間に船で動いた距離を計算した方が居ります。計算結果、何と二万キロになったそうです。これは、地球半周分に相当する距離だそうで、いかに龍馬が精力的に、江戸・大坂・神戸・下関・長崎・鹿児島・高知を船で駆け回っていたことが判りますね。少し生き急いだという感がありますけどね」

 「龍馬の死後、お龍さんは気の毒な生涯を送ったねえ」

と小泉さんがシクラメンの鉢を手に取って眺めながら、ぼそっと呟いた。

 「だってさあ、律儀な三吉慎蔵に伴われて、土佐の龍馬の実家に引き取られたものの、

京都とか大坂の水に馴染んだ女性に土佐の田舎は合うはずが無い。まして、愛する龍馬は

居ないし、知らない小姑と親類ばかりではねえ。何ケ月居たのかは知らないけれど、終に

は出ていかざるを得ない雰囲気に追い込まれたんだろう」

 「まして、龍馬命の乙女さんが嫁いだ岡上家を不縁になり、実家に帰っていていつも一

緒に居るのでは尚更ですよねえ。おそらく、乙女姉さんはお龍に対する一番辛辣な批評家

になったのでは無いでしょうか」

 「そうかも知れないねえ。龍馬が居れば、何とか折り合いを付けて龍馬の手前、適当に

仲良く暮らしたのかも知れないけれど、肝心の龍馬がいない状態では、何かとウザイ姉さ

んだこと、と思うお龍さんと、私の可愛い龍馬がこんな女を妻にしたなんて信じられない、

と思う乙女姉さんでは、双方強い女同士、角突き合わせることになるだろうねえ」

 「で、お龍さんは去り、横浜あたりで行商人の西村何某と所帯を持って暮らすものの晩

年は困窮して生活の垢に塗れることとなりました。名も変え、西村ツルとして亡くなりま

す。享年六十五歳です。しかし、西村何某はいい男ですね。お龍の墓石に、『坂本龍馬室』

と刻んであげたそうです。結果的に、お龍さんは、龍馬の妻として葬られたわけです」


 更に、私は話を続けた。

 「さて、千葉佐那子さんの話に行きましょうか。佐那子さんの一生も悲しい一生でしたよ。龍馬より二歳ほど下のこの女性は生涯を独身で終えました。一時は、学習院女子部の舎監をしていましたが、老年になって針仕事で細々と生計を立て、慎ましやかな生涯を送ったそうです。学習院女子部の舎監をしていた時期に、龍馬の紋付の片袖を人に見せ、自分は龍馬の許嫁でありました、と話していたそうです。きっと、少しは自慢げであったのでしょうね。死後、佐那子さんの墓石には、『坂本龍馬室』と彫られたということです。生涯、龍馬と出会った十五歳から龍馬が江戸に来た際、よく立ち寄って話した二十四歳の頃までの想い出を大事にして生きた女性であったと僕は思っています。美しい女性でした」


 「乙女姉さんはどのように生きたのだろうか」

 「岡本家から実家に戻された乙女さんは岡上との間に生まれた娘・菊栄と共に暮らし、四十七歳で亡くなっています。坂本のお仁王さんと仇名されたほどの大女で、身長は何と龍馬と同じ、五尺八寸、つまり百七十四センチほどあり、体重も三十貫、百十二キロあったそうです」

 「身長は僕くらいだねえ。でも、あの当時の男女は小さかったんだろう」

 「そりゃ、そうですよ。慶喜なんて、百五十センチしかありませんでしたし、龍馬の盟友の中岡慎太郎だって、五尺一寸というから、百五十三センチくらいしかありませんでしたから」

 「確か、幕末の頃の成人男子の平均身長は百五十七センチ程度だったという話をどこかで聞いたことがあるよ。その時代の百七十四センチは今風に言えば、十センチほど足して、百八十五センチ程度の大男、大女ということになる」

 「西郷隆盛とか大久保利通なんか、六尺近い五尺九寸、百七十七センチですからね。まして、西郷さんなんか、肥満体ですから、それこそ相撲取りのような巨体ですよ」

 「乙女さんの写真を見たことがあるけれど、何と言っていいか、うん、どこか悲しげな表情で写っているんだよねえ」

 「ああ、小泉さんもそのように見えました? 実は、僕もそうなんです。どこか、頼りなげで悲しそうですよねえ。最愛の弟を失い、人生は悲しいことが多い、と思っているようなぼんやりとした表情で」

 『さよならだけが、人生』か、私は青く澄んだ空を見上げながら、そう思った。


 「幕末という時代は多くの人、特に若者の流血を必要とした時代だと言えます。龍馬と密接に関係した人の生年と没年を少し整理してみました。ざっと、こんなところです」

 私は一枚の紙を小泉さんに渡した。


勝海舟   

一八二三年三月十二日生・・・一八九九年一月二十一日没

七十五歳

  明治の世で伯爵となり、『氷川清話』を残した。

  だが、妻には愛されず。


松平春嶽  

一八二八年十月十日生 ・・・ 一八九〇年六月二日没

六十一歳

  明治という年号の命名者と云う。

  明治をどのような思いで見たか。


西郷隆盛  

一八二八年一月二十三日生 ・・・一八七七年九月二十四日没

四十九歳

  西南戦争で死去。

  武士の時代を完全に終わらせた。


大久保利通 

一八三〇年九月二十六日生・・・ 一八七八年五月十四日没

四十七歳

  西郷死去の翌年、路上で暗殺される。

  怜悧な人、だが財産は一切残さず。


木戸孝允  

一八三三年八月十一日生 ・・・ 一八七七年五月二十六日没

四十三歳

  西南戦争の最中、西郷の馬鹿、いいかげんにせんか、と言いながら病死する。


橋本左内  

一八三四年四月十九日生 ・・・ 一八五九年十一月一日没

二十五歳

  刑死する際、落涙する。

  自らを惜しみて、無念さ故の涙。


坂本龍馬  

一八三六年一月三日生 ・・・ 一八六七年十二月十日没

三十一歳

  維新の奇跡と言われる快男子。

  男なら、かくありたいと思わせる男だった。


中岡慎太郎 

一八三八年五月六日生 ・・・ 一八六七年十二月十二日没

二十九歳

  謹厳実直な顔の写真と魅力的な笑顔を見せる写真。

  どちらもいい。


高杉晋作  

一八三九年九月二十七日生 ・・・一八六七年五月十七日没

二十七歳

  幕末を疾風の如く駆け抜けた快男子。

  だが、もう少し生きたかったか。


久坂玄瑞  

一八四十年五月生 ・・・ 一八六四年八月二十日没

二十四歳

  師の吉田松陰の教えそのままに激しく生きて死んだ。

  生き急いだ好漢。


楢崎 龍  

一八四一年七月二十三日生 ・・・一九〇六年十一月十五日没

六十五歳

   面白きおんなと龍馬が愛した女性。

   龍馬の死後は全て晩年であったのか。


 私たちは龍馬に関する調査を終えた。

 寺田屋遭難の際、百名を越す幕府役人に囲まれた絶望的な状況の中でも諦めず、果敢に脱出を試みた龍馬には、こんなところで死んでたまるか、という生への執念、執着を強く感じさせる迫力があった。

 一方、幕府のお尋ね者になり、幕吏の探索の目を常に意識せざるを得ない状況の中で、京都に潜入しても土佐藩邸にも入らず、襲撃されやすい民家に寄宿する龍馬の姿にはどこか生自体への執着を既に打ち捨てたという感を持たざるを得ない。

 龍馬をそのような心情に追い込んだ要因は何か、ということを考えていく中で、私たちは或る結論に至った。

 それは、龍馬をこよなく愛する者としては辛い結論であった。

 梅毒という当時では不治の病とされた死病を患った龍馬には暗殺の危険性よりも確実な死が身近に迫っていたのである。

 迫りくる確実な死は人に虚無感と共に焦慮感をももたらす。

 虚無感は危険に対する感受性を失わせる。

 一方、焦慮感は残された生命(いのち)の激しい燃焼を引き起こす。

 龍馬は維新という日本の回天の時代に稀代の仕事師として活躍し、そして流星の如く去って行った。

 混迷の時代に生きる私たちは、その流星の光芒の輝きを忘れてはならない。

 その輝きはきっと美しいはずだ。




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