表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

和の鏡の国のアリス

作者: pegasus

和の鏡の国のアリス


アリス(有栖)十五

鏡弥一 藤丸屋鏡弥一鏡問屋の主人 二十七

七紫しちじ 鏡弥一の妻 二十五

海苔衛門 煎餅問屋の息子 緑次りょくじ 十五

きいきいち 盆栽問屋の職人息子 十四

おちよ 庶民の娘(父は酒蔵で、母は染め物屋で働いている) 十五



 ああ けったい けったい

 不思議を重ね

 妙月 おかしく

 みな 狂う

 おお こっけい こっけい

 こけこっこう

「ああ ばたばたた ばたばたた」

 鳥もあばれりゃ

 踊れや みなも

 あの月を見い

 ひたすらに

 ただ狂い笑うよじゃないか

「わはは あっはは あはあはは」

 俺の顔は白いじゃないか

 妖魔にやられみたよにそれは

 けたけたけたた 笑った人形

 俺はカラクリ操られ

 いつやら童子の狂い笑い

「はい よお はい 踊れ」

 それは地団駄 ほれ跳ぶはねる



 壱、妖



 松に停まっていた雲雀が青い空へ羽ばたいた。

 空の高見は雲もなく、穏やかな風が吹いているので、羽毛をあたためてくれている。今日も羽ばたいていて心地が良い。

 空は雀や鶺鴒がそれぞれの声を響かせていた。遠くには鷹が飛んでおり、あちらでは風が吹いているのか、上空で旋回していた。

 野鳥たちがさえずりを響かせるのを、ガタンと音のした下方を見る。

 下には日本庭園が広がり、その端には池の横に蔵がある。灰色の瓦屋根が日光を浴びて、その上に乗っていた雀が羽ばたいて空に来た。

 庭園にあるその蔵の一階では、一人の男が書物を読んでいた。

「アウチ!」

 上階から声が聞こえ、その本人が階段を降りてきたので藤丸鏡弥一きょうやいちは巻物から顔を向けた。

 お面少女が現れ、蔵の二階から派手な染め物の出で立ちでやって来ると、その背が開け放たれた戸をくぐり庭を囲う回廊を走っていった。すらりとした足がひらひらと着物から覗いて綺麗だ。

「慌てん坊だ。相変わらず」

 鏡弥一はくすりと微笑み、再び顔を戻し巻物に目を通した。

 彼女は厠から戻って来ると、蔵の急な階段を手をついて上っていこうとしたが、一階の旦那様のいる所に顔をのぞかせた。

 鏡弥一は有栖が居候している鏡問屋の主人だ。二十七の齢で、すらりと上品な顔をしている。目の横のほくろが白い肌を引き立てた。いつも渋めの色の着物や羽織を着ている人で、優しい口調と優雅な微笑みをたたえる口元は、小唄を歌わせても素敵だった。

「旦那様」

 鏡弥一は階段から覗くお面少女を見て微笑んだ。

「どうした」

「上で一緒に和菓子を召しませ」

「ああ。そうだね」

 彼は立ち上がり、共に階段を上がる。

 有栖は二階に来ると座布団に座りお面を上げ、紅いお皿に丁寧に和菓子を乗せ、彼の前にそっと出した。

 小さな明かり取りには、漆喰の際に百舌がやってきて停まり、こちらを見てきた。

「どうもありがとう」

 和菓子をいただきながら彼が言った。

「お前が藤丸へきて、どれほどだったかな」

「はい。十の頃からなので、かれこれ五年目です」

 彼は目を細めて微笑み、紅葉の形の菓子を漆塗りの串で半分にして食べ、百舌の停まる先の空を見つめた。

「もう十五の年齢か。いろいろなことがあったものだ。お前が江戸に迷い込んでから」

「はい」

 普段有栖は様々なお面をつける。それらが壁に飾られこちらを見ていた。このところは自分でもお面を作って生業にしていた。

 それを外せば、真っ白い雪肌、淡い撫子色の唇。そして、何より目を引くのが、トンボ玉のような澄んだ水色の瞳だった。

 有栖は列記とした白人である。この国に迷い込んでから五年、お面で顔を隠すようになった彼女は透ける白肌をいっそう澄んだものにしていた。

 そしてこの五年の歳月は、子供だった有栖を大人びた美しい少女にした。

 鏡弥一の視線がその肢体を流れる。

 有栖の視線もまた、魔性の相を持ち鏡弥一の腕をなぞりみた。そして目が合う。

 鏡弥一は流し目で有栖を見ると、手をつき板床から有栖の半身を畳の置かれた所に倒した。

 有栖は頬を染め鏡弥一を見つめる。

 左にぼんぼり、右に南蛮の鳥かごがあり、奥にお面が飾られている。

 有栖の柔らかな体に抱きつくと、鏡弥一は安堵の息を深くもらした。

「こうしていると安心する」

 足袋が襦袢を飾り足袋が重なる。彼女は鏡弥一に心音が伝わるほど胸を高鳴らせて天にも昇る心地である。

 有栖の紅の引かれた唇に接吻が寄せられた。

 彼女は頭から黒い絹をかぶるが、淡い金の髪がもれる。有栖は光る唇をうっとりと微笑ませた。

「旦那様。鏡様」

「有栖」

 有栖は頭上の花器に飾られる白椿を見た。黄金の金粉は雌しべに舞い、「私と鏡弥一様のようだ」と思う。柔らかな手に大きな手が優しく、優しく張った。

 腕を伸ばしたことで花器が転がってしまった。鏡台や畳の手鏡や壁鏡に囲まれる彼等。有栖が黒絹頭巾と金髪を広げ妖しげに微笑む。

 鏡弥一は水色の瞳を静かに見てくる。接吻の先を望む瞳に、鏡弥一は片腕をつき微笑した。

「すぐは駄目だよ」

「よろしいのですもの」

 手首を帯で拘束したら壁の鉤爪に固定した。

 着物の花柄に有栖が咲く。そんな姿がいたずらに妖艶だ。

「お前は私の妾だよ」

「めかけ」

「こうして逢瀬を重ねる仲さ」

「でも奥様は知っておられる」

 鏡弥一の奥方は有栖の恩人だ。有栖は二年間ずっと恋心に悩み続けたものだ。

 いきなりイギリスから江戸に迷い込み、言葉も通じないし、イギリスにも帰れない。ここがどこかも分からない。そしてどんどん年月がたっていった。

 蔵の二階は隠れ蓑で、降りればいつでも一階を書斎にしている鏡弥一がいて、有栖に優しく微笑んだものだ。そして日に増しどんどんと淡い恋心におちていったのだった。

 奥方はいろいろなことに精通した頼れる女性だ。でも生理がはじまった当初、有栖は体が変調を迎える不安を奥方に相談できずにいた。そして自分が大人になったのだという感覚とともに、鏡弥一への恋心は高まっていった。

 言葉も分かってくると、奥方は花街から鏡弥一様が身請けしたということを知り、花街という場所が体を売る女たちの街と知ってからというもの、十三の有栖はますます鏡弥一に対して胸が張り裂ける思を抱く。体の芯から目眩がするほど立ちくらみを覚える感覚に襲われることが多くなった。あの静かで整って素敵な鏡弥一様がまさか夜街に出て女一人を口説き落として、今の奥方を手に入れただなんて。それは必然的に男女が交わると言うこと。

 五年前の一騒動があってからは、鏡でチェシャ猫も帰ってしまい、言葉もろくすっぽ話せないまま。友達といえば、毎回お面をして会う三人。一人が有栖に恋を寄せて好きだと言ってきていたが、すでに雅な鏡弥一に恋をしていた有栖には同世代が子供に見えた。

 十四も過ぎれば有栖はどんどん背が高くなり、今ではたいそうな美女だ。だが屋敷から出ることはあまり許されない。既に五年前にハートの国の敵は去っていったのだから、命を狙われることは無いのだが、時代の違う白人に違いない。

 肉付きもよく色気のあるお嬢さんになった有栖は、外に出るときは着物に頭巾、般若のお面で素肌を隠している。江戸傘をさして夜に出かけた。

 山にある小川の横の離宮でようやく人目もなく、鏡弥一様や奥方とそれぞれ季節を楽しむのだ。桜も、紅葉も、新緑も、菖蒲も、松も、そこにはある。柿も色づき、つくしや撫子、朝顔もかわいい。川には川魚が泳ぎ、ウグイスや鳶の鳴き声も響きわたる。

 雪に閉ざされる時期は迎えないが、一度、ひどく有栖が泣いたことがあった。その時に鏡弥一が駕篭でその山へ連れて行ってくれて、雪に埋まった庭をずっと見続けたことがあった。青く月明かりに染まる雪の世界は美しくて、有栖はずっと見続けていた。鏡弥一に寄り添いながら。

 そのとき、屋内へ入って蝋燭をつけた。ふと、まるで一瞬で目眩がするような視線を強く鏡弥一から発されて、有栖は抱きついていた。その夜に美しい微笑みを及ぼされるほど鏡弥一に全て捧げられていた。いつもの静けさもなく。今年の冬のことで、それは一月のことだった。

 今は七月の始め。屋敷の庭も、それに山の離宮の庭も美しさを今の季節のものに彩らせている。

 有栖はいつでも彼に「I love you」とささやき続けた。「more I wont you!」と。

 鏡弥一の肩に金髪と頬を寄せて彼の膝に座り、倒れて舞った椿を見た。剣山が鋭く光り、アリスの心を刺すかのようだ。七紫から鏡弥一様を奪ってしまっているなんて、罪な子だと。その横には、椿の首が寂しげに転がっているじゃないか。罪を犯した者のなれの果てか愛の名残のように。

「七紫が、知っていると?」

「ええ……。遊女の世界では、遊女の初め奪う儀式があるとききました。鏡弥一様も、幾人もその儀式を頼まれてきたのだって、聞きました。あの子のことも、狙っているの?」

「誰をだい?」

「おちよよ」

 鏡弥一は顔を上げ、有栖の水色の目を間近で見た。

「おちよと関わってもらいたいのかい。それを見たいのか」

「いいえ、嫌よ。おちよは可愛らしくって、妬けます。鏡弥一様が時々、私にお向けになる視線をあの子にも向けるのかと思うと、妬けるのです。ええ、鏡弥一様は、元の最初からわたくしをこの目でごらんになったわ」

「ああ。初めから、分かっていた。こうなることは」

 光沢を受ける鏡弥一の瞳は、優雅な瞼に閉ざされていく。


 海苔衛門は凛々しい顔つきで、蔵の前に立った。

 十五にもなれば彼も立派な青年。日に焼けて精悍。しっかりした体躯である。有栖と同じ背だが。有栖はでかい女で、きい坊ときたら結構ちびな方だった。甘ったるい顔のきい坊は有栖に毎回子供扱いされる。どんどん妖艶さがましていく有栖におちよもたまげていた。

 海苔衛門は有栖を嫁にもらおうと思っている。だが、一度も言ったことは無い。きい坊はよく言い寄っているが、相変わらず押しがいまいち弱くて有栖からはあしらわれていた。海苔衛門は咳払いして、ぱんぱんっと元から整った羽織を払うとずんずん歩いていった。

 今の時間は藤丸様は店にでている時間だ。だから有栖だけのはずだ。

 第一、嫁に欲しいと言っても、相手がお面をずっとかぶってるんだ。両親も納得してくれない。般若や万眉や白狐のお面をずっとかぶって、昼は駕篭、夜は江戸傘をかけて出かける少女のことを、「あやかしなんじゃないか」と言って、「そんな姿で店になんか若女将として出せるもんかね!」と叫ぶ。「あの牙と角で客を突きかねないじゃないか」と。「それはどんな接客だよ!」と海苔衛門は突っ込むのだが。煎餅買いに来て角で突かれるって。般若に。その前に海苔衛門ってどういう呼び名だよっと。

 前は、両親の前に有栖が松の下にいきなり現れて驚いたのだと言う。「藤丸様んちは鏡屋だから、そこから出てきたあやかしで、それで鏡を伝って出たり現れたりするにちがいない」と言っていた。海苔衛門は反対してくる両親にいつも「そんな話にばかばかしい!」と言うのだった。「そんなのは正体を証させてからする話だ」と。

 だがあながち、鏡と鏡が有栖のなかで繋がっていることは事実だった。

 様々な鏡は時空を越えた有栖が見るときに見れば、様々な場所の情景が映る。そして、垣間見られることも。だから注意が必要だった。移ろいの存在なのだ。

「生まれつき顔に痣があるだとか、怪我をしているとかだったら申し訳ないなあ」

 ずっとお面の意味を海苔衛門も考え続けていた。一向に分からない。どこの田舎の出なのかも言わないのだ。

 七紫様に拾われた少女だ。当時は十の年齢だと言っていたが、自分と同じ年齢にしては……。

 海苔衛門は照れてうなじをかいた。あの色香を思い出すと照れる。

 咳払いをして、蔵の入り口に来た。

 心して、戸を開ける。

「もーし!」

 見回す。気配は一階には無い。落ち着き払った場所だ。どうやら藤丸様が書院代わりにしているらしい。棚にはいろいろと積まれている。畳が敷かれ、座布団やぼんぼり、屏風や机、箱や桐箪笥などがある。奥には日本刀も。

 海苔衛門はごくりと息をのむと、二階への急な階段を見た。彼はあがっていく。

 戸があって、開ける。

 廊下になっていた。歩いて、障子を開けた。

「有栖、いるか」

「………」

 人がいる。

 アリスは着替えをしていたところ、障子があいたので鏡弥一様かと思って肩越しに見たが、違ったので驚いた。

「!」

 アリスはとっさに手元でお面を探したが、既に遅かった。海苔衛門だ。彼は呆然として顔を青く、立ち尽くしている。

 それもそのはずで、そこにいたのは青い目をした、真っ白い肌の、黄色い髪をした女だからだ。

「な、なん……、」

 お面の有栖を探すが、いない。

「有栖を、どこにやって、」

「海苔衛門」

「え?」

 海苔衛門はその美しい鬼が有栖の声だったので、一気に歯の奥ががちんと言った。裸身の前に鮮やかな着物を手にして隠し、先程一瞬恐ろしいほど素敵な体つきが露わになっていたのだ。長い足、高くくびれた腰、豊満な胸、しなやかな腕などが。だが今は恐れが海苔衛門を襲っていた。

「お前……鬼だったのか?」

「え? 鬼?」

「そん、そんな、生っ白い肌で、ガラスみたいな目で、生成の髪で、そんな、………」

 海苔衛門が入って来て、アリスは危険を感じて鏡をみようと思った。だが布が掛けられているし、今の変装をしていない姿がどこかの鏡に映ったら鬼と間違われる。

 やはり衝動で押し倒してきて有栖は腕でかばってから海苔衛門を見た。

「お前が鬼でもかまわねえ。本当の般若だとしても良い」

「ちょっと、およしよ! 鬼なんて、そんなんじゃないよ!」

 アリスは怒った。だが押さえられて耳をかんでやった。

 アリスは解かれていた帯で手首を縛られてしまい海苔衛門をざっと見た。

 海苔衛門がにっこり小首をかしげ笑って見てくる。四つ足で。まるで子犬のようにやってくる。アリスはとっさに逃げ道を探した。


 鏡弥一は昼時に店を離れて一度蔵に戻ることにした。

「……?」

 二階の戸があいている。有栖は慎重で閉める性格だ。鏡弥一は奥に行って日本刀を手に、二階に静かにあがっていった。

「有栖! 待てよ有栖! 見えない!」

「あはははは! お馬鹿さん! もっとしっかり探しなさいよ!」

 なんと、海苔衛門が帯で腰を繋がれ、目隠しをされて半裸状態でじたばたと手をかざしていた。有栖本人はしてやったり顔で木馬に座ってゆらゆら揺れ笑って肩越しに見ては、手鏡を手に目元が隠れるお面姿で紅を塗り妖しげに笑った。妖艶にに瞳が光る。

「どこだ! まだいるのか?」

「ええ。あんたの心から離れないようにね!」

 鏡弥一はやれやれ、と思って入っていった。

「あ! しまった」

 アリスは悪戯が知れた少女の顔で、肩をあげて鏡弥一を見た。

 鏡弥一が羽根を手に歩いていく。アリスは見ていた。それを半身が覗く海苔衛門の胴にすーっとなで上げ、海苔衛門はひええっと叫んで髷の頭を左右に動かした。

「な、なん、なんだ?!」

 いつも悪戯をしてきた海苔衛門だが、逆にされて驚いている。

 鏡弥一は意地悪っぽく微笑し、見下ろす海苔衛門のうなじからアリスを見た。アリスも肩をすくめて紅の筆で空に縦を描き「まあまあ」と言った。

 鏡弥一がこうべを垂れて目を開き耳元にささやいた。

「海苔衛門」

「あっ、藤丸様!」

 しまったという顔で目元が隠されたまま肩越しに振り向いた。背筋になぞられるクジャクの羽根は海苔衛門の日に焼けた肌に滑ってぞくぞくとさせた。

「素敵か。どうだ」

「……はい」

 海苔衛門は紅潮してつぶやいた。

「今度来たら、陰間か武士の下男館に連れて行くよ」

「御免被ります!」

「そうか」

 アリスは眉を上げて肩をすくめ、鏡ににっこり微笑んだ。


 「おいきい坊! お前、門の内にこの鉢全部運んどいてくれ。号が大きいのは運ぶなよ」

「はーい!」

 きい坊は手ぬぐいで汗を拭いてから鋏を腰に戻し走っていった。台車に鉢を並べていって裏口の門の内に並べていく。盆栽屋のきい坊の屋敷はかなり立派な盆栽ばかりが集まっている。名匠のものだと圧巻物だ。きい坊は見習いでまだまだ修行の身。

 将来のここの旦那だが、妻にはあの有栖を欲しいと思っていた。だが子供扱いばかりだ。確かにきい坊は優顔で頼りない感じに見えるが、日々重い鉢や土、盆栽や道具を運び続けているし配達もするので足腰も丈夫だし筋肉だってしっかりしている。

 長身で男らしい顔つきで浅黒い海苔衛門は煎餅屋だが、海苔衛門だって煎餅やあられの材料のうるち米俵を運んだりしているので、全体像では痩身に見えても筋肉がついて腕っ節がやはりしっかりしていた。

 小さい頃は高いところが怖いきい坊だったが、今では海苔衛門同様木にでも屋根にでも塀にでも駆け乗る。

 鉢を全て運び終えた。これは荷台に乗せて山にある小屋まで運ぶことになる。

「?」

 きい坊は首を傾げて煎餅屋から出てきた挙動不審の海苔衛門を見た。

「あれ。やけにおめかししてるなあ。海苔衛門のやつ。お得意さんのところに挨拶にでも行くのかな」

 海苔衛門は一個上の十五で、今は若旦那と呼ばれている。いつもは紺などの着物と店の萌葱色の半被を着ているが、昼時だからか、どこか出る予定でもあるのか、しゃれた焦げ茶絣の大人めいた着物など着て、早足で出て行った。午後になるまで半刻は時間があるので、ついて行くことにして手ぬぐいを台車の手すりに置いて歩いていった。

 角を曲がって橋を越えて、飴屋で飴を買って出てくると、また早足で歩いていく。自分はなにをこそこそしているんだと、角に隠れながらきい坊は思ってもみたが、とにかくついて行った。

 川横の往来から離れて、一歩入ると藤丸のお屋敷がある。この通りは工芸品などの店が多い。海苔衛門の家などは乾き物などが売られた店が軒を連ねているのだが。川辺の近くだと、生物など、花や食事処、野菜や魚、旅館などが見られる。

 今は海苔衛門は藤丸屋敷の裏から入って行った。何だろう。七紫師匠に何か指南だろうか。

「あらきい坊」

 工芸針子をしているおちよだ。

「めずらしいのね。あんたがこの辺りにいるなんて。お屋敷に用事? それともうちに?」

 おちよは海苔衛門にホの字だ。寺子屋に通っていた海苔衛門がおちよに教えてやっていた文でこの前海苔衛門に恋文を書いているのを見てしまったが、おちよは渡せずにいる姿を見ていた。

「ああ、な、なんでもないんだけどさ」

「ふうん。変なきい坊」

 おちよがくすくす笑い、自分が働く工芸職人の店に入っていった。


 夜、満月は明るかった。川横の往来。

「午に何やってたんだよ。お前」

「え?」

 明るい宵時は淡い藍色の空で、きい坊は松枝に上り座って竹笛を、海苔衛門は木の幹に寄りかかり草笛を吹いていた。透明な蒼が肌に映るほどまぶしい水面。彼らの爽やかな顔立ちも瞳も光らせていた。

「な、なんでもねえよ」

 顔を背け、きい坊は川辺に沿って遠くを見た。

「有栖来ないなあ」

 いつもは有栖もここに来てお面が妖しく光った。おちよはいつも晩は家の手伝いをしているから滅多に来ない。

 きい坊は横笛を吹きながら、目を綴じた。

「お前、有栖が好きなんだろ」

「え? 知ったことじゃないか」

 きい坊は上から海苔衛門の髷頭を見下ろした。下駄の足をふらふらさせて、また横笛を吹く。

「俺もだ」

「おちよはどうするんだよ」

「え?!」

 海苔衛門がさっきから珍しいぐらいに焦っていた。

「俺、有栖に盆栽屋に来てもらいたいって思ってるし」

「なんでちよちゃんの名前が出てくるんだよ」

 海苔衛門は立ち上がって見上げてきた。

「え? そりゃあ、俺たちの仲だし」

「有栖だって俺等の仲間だ」

「分かってるよ」

 海苔衛門はまたどっかり草地に座ってピープー草笛を吹いた。

「変なやつだぜ」

 きい坊は言って、笛を腰に差して枝に寝転がった。満月が松葉の先に光る。言い夜だ。

 昨日の夜、海苔衛門は藤丸に呼ばれて奇妙キテレツなことをされたのだ。工芸通りの端にある怪しいからくり屋の物だろう、からくり仕掛けの大がかりな道具がからからと動き、鏡弥一は鏡を見て微笑していた。

『ああ、愉快』

 全てが八面の姿鏡に囲まれていた。ろうそくも、玩具も、着物も、全て、海苔衛門達も。あんな奇妙なことは初めてだった。猫のお面をかぶった有栖は、どこか狂ったように笑い続けた。海苔衛門は馬のはみを有栖にかまされて背後に引かれ、背をしならせて鈴がりりりりと口端で鳴った。

『人間木馬よ』

 黄色い髪がゆらゆら揺れて、有栖の声が笑う陰が海苔衛門のいる着物を広げた床に揺れた。

『おほほほほ、ほほほほほほ』

 有栖を藤丸様が背後に立ち頬を逆さにとりお面に口付けを寄せて、そしてその面の唇をなめ続けた。七紫は色香ある目で二人を見てきた。全て鏡に映る。全て。

 普段、お面を作っている有栖の作は奇妙なお面が多い。それはハートの国で見た物だったり、母国イギリスのものを題材にしているので、珍しがられていた。そのお面作りの師匠が、からくり職人が若い頃に通っていた師匠でもあった。元々は面職人になりたくて能楽などを勉強していたからくり職人だったが、どうういうわけか怪しげなからくり職人になり、今では町屋の五丁目にある芸屋敷でもそのからくり人形を使った芝居がある。

 そんな夜を過ごしたのだ。それで、昼は飴を手みやげに行って茶を飲んできた。あの時の話をしながら、七紫様のお琴を聞きながら。

 純朴なきい坊にはそんなこと言えなかった。

 だが、まさか有栖が五年前に追ってきた妖怪や異人達と同じ妖魔だっただなんて、思いも寄らなかった。昨日は有栖はお面を取ると、目のはしに青い顔料を乗せていた。鋭い紅も。美しくも、恐ろしかった。七紫様にあるあったかみなどは有栖からは排除されていた。

 淡い桜色の唇が頭から離れない。

 ぼうっとして海苔衛門は草笛の腕を下げた。

 相手が妖魔なんじゃあ、煎餅売りにはなれないんじゃないだろうか。

 ちよちゃんは確かに可愛い。可愛いのだ。もともと惚れていたし。だが、有栖のあの妖しげな美しさはお面からも、立ち姿からも醸し出されていた。鈴のような声も、どこの方言か今まで分からなかった歌の不思議も。柳とともに風に揺れる打ち掛けも、全て海苔衛門を引きつける夜に咲く花のようだった。

 妖魔だったのでは、蔵から出ずに、藤丸様にかくまわれるわけだ。

 出会った時は物珍しくて追いかけ回したが、今では有栖が鬼のように海苔衛門には感じていた。



 弐、鏡



 夜の町屋は実に静かだ。アリスは江戸傘を回しながら目を細め見た。

「妙月夜だこと」

 アリスが月下で微笑み小さな鏡を出し自分を映した。背面におちよの縫った桔梗がついているものだ。といっても映るのはお面だが。

「……、」

 ギクッとして、アリスは小さな鏡に映った、この場所では無い風景に、瞳を固まらせた。

「有栖……だね」

 ざっと背後を振り返ると、七紫だと思ったら違った。まるで芸者のような着物を来た女で、それは妖しげな微笑み……。

 途端に足下がふわっと浮いて、月光が見えない程の暗さを感じたとたん、そこは森だった。しかも、この辺りでは見ない木々ばかりの。

 暗がりの向こうに、さきほどの芸者がいる。紫の布を頭にかけ紅の唇にくわえ、三味線を左右逆に構え奏でている。その目が、微笑み光っては角がみょきっと生えた。

 アリスは途端に走っていた。ハートの国にはいなかった。しかも、この国と同じ姿の者。だが、雰囲気が違いすぎる。

 必死に走っていって無我になっていた。

「!」

 山の上にお寺を見つけ、走っていく。階段を何段も駆け上がって。

「Help! hey! monks1?!」

 咄嗟の英語がむなしく響き、するとふと上に掲げられた文字を見て、首を傾げた。

「え? 違和感……?」

 アリスは首を傾げ続けて、それが逆さ文字になっているのだと気づいた。そうだ。逆さ文字だ。アリスは町を鏡に反射させて写し見る夜の散策が好きだが、それになっているのだ。

「はい。どなた様でしょう」

 はっとしてアリスは後退り、だが、あの女が迫っていると思ったので門を越えた。

「どうなすったんです」

 お面をつけた面妖な面もちのお嬢さんを見て、和尚さんは招き入れた。アリスは何度も肩越しに振り返る。ふとお堂へ入って御札が目に入ると、また瞬きをして首を傾げた。読みやすい。正確な文字だった。

「!」

 視野端に門の外の芸者をみた。だが、芸者はアリスが見えるお堂を見回してはいるが、いないと思ったのか、すーっとそのまま降りていった。

「どうされましたか?」

 アリスはびくっとして和尚をみた。彼には見えないのだろうか。門の外にいた角の芸者が。

「鬼に追われたんです」

 般若の面のアリスに言われて和尚はほほほと笑い、坊主に持ってこさせた茶を出した。

「まあ、落ち着かれよ」

「ええ……ありがとうございます」

 お茶を手にすると、横を二度見した。そこには丸くて、そして左右に房のついた鏡が置かれていた。

 それは何かを映すまでには磨かれていない。

 アリスはまじまじと見ていた。これが、魔除けとなって門からこの内側はあの鬼は入ってこなかったし、鏡のように文字は逆さでは無かったのだろうか。

「あの鬼は……一体」

 アリスはつぶやいた。

 芸者はアリスを知っている口振りだった。鏡。毎日覗いている。時々英語で自分を見ながら話しかけてもいた。

 だから? だから逆さの世界、鏡の国にきたの?

 七紫様かと思って安心したら、全く違った。七紫様も鏡をよく見ている。遊女に鏡はつきものなんだって言っていた。女が日がな見つめることもおあるものだと。そして、鏡は女のいろいろな面をかいま見ているのだと言っていた七紫。

 そんな鏡に閉じこめられて、籠もってきた女の執念だったというのだろうか? あの芸者は。

「ここはなんて呼ばれるお寺なのですか」

 どこの国かと聞いてもきっと分からないだろう。元々本を読むのが大嫌いで暇だったアリスは地理にもあまり興味を示さなかった母国での思い出を巡らせていた。

「このお寺は間世寺でございます」

「かんせいじ……ね」

「はい」

 アリスに訪ねた。

「鬼、というのは」

「あの鏡みたいな……違う国に繋がっていたのかもしれない。江戸から来たの。さっきまで、町屋を歩いていたのに」

「江戸ですって」

 和尚は驚いて彼女を見た。

「ここは山奥の寺で、江戸は遙か遠くです。国も違い、ここは信州です」

「しんしゅう? どこなのか分からないわ」

「それほど遠いのです」

「わたし、これを見ていたら……」

 桔梗の鏡を出した。だが、なぜかいつもすっと蓋がすべるのに、何かに引っかかっているのか、開かない。

「おかしいわ。開かない」

 困惑しておちよの塗った縮緬の桔梗を見た。漆塗りの手元鏡なのだが、その表には藤丸の鏡らしく装飾が施されている。貝が象眼されていた。それは尾長鳥だ。

「………」

 鏡弥一様が恋しくなってアリスは瞼を伏せた。


 「?」

 呼ばれた気がして鏡弥一は二階部分に繋がる天井を仰ぎ見た。蔵。

 有栖が夜に出歩くのは自由なので、今はいるのかどうかは分からないが、階段を昇っていった。

 戸を開け、障子前に来る。

「有栖。呼んだかい」

 しばらくしても声が聞こえないので、障子を開けた。すると、手にしていた菜種油の火が、ふわあっと、立ち消えた。白い煙をゆらりゆらありと棚引かせて。室内を見た。

「………」

 何も灯らないが、明かり取りから鏡台にまぶしい月光が貫いて光り、鏡弥一は不意に目を細めてから、再び月光で青い座敷を見た。全てが青に染まっている。子供用のおもちゃも、仮面も、あの子の美道具も。お面を一つ手に取り、鏡台に、自然に歩いて行った。

 誘なわれるかのように。

「……、」

 だが、いきなりの感覚に足がひやっとしてを着物の裾をあげた。森で見かけるような蛇が足を伝ってのたうったのだ。

 はっとして鏡を見ると、いきなり大蛇が鏡面からワッと来て鏡弥一の胴を絡め一瞬で鏡に引っ張り込んでしまった。あとは手持ち燭台と床にこぼれた油だけ。

「?」

 鏡弥一は見回した。空気が違う。明らかに。そして寒い。

「森か」

 なぜいきなり森にいるのか。先ほど、蛇が一瞬……

「おほほほほ」

「ほほほ」

「こっちよ」

「こちら」

 遊郭特有の懐かしい声が聞こえ、鏡弥一は森を振り向いた。木々の先に、赤い格子の建物。桜色のぼんぼりに染められて、遊女達が嬌声をあげている。

 影の男達が遊女たちを追いかけている。笑いながら。

「ほほほほほ」

 三味線、嬌声、お香、白粉の匂い。独り身時代を思い出し、引き寄せられていた。

「!」

 だが、格子に手を当てたとたん、影の男達がみな、角を生やして着物を着た黒い鬼だと気づいた。牙を剥いて笑い遊女を追っている。

「鬼さんこちら」

「おほほほほ」

「まてい。待て」

「うふふふふ」

 見ると、遊女達もみな小さな角が生えていた。

「鏡弥一様」

 囁き声が聞こえ、彼は振り返った。向こうの茂みから、いつもの般若の面が覗いている。有栖だ。

 彼は鬼達に気づかれる前に戻った。

 アリスは鏡弥一に抱きついた。彼もその背を抱きしめる。

「ごほん」

「?」

 鏡弥一は顔を向けた。数珠を持った和尚がいる。

「これは失敬……」

「お知り合いですかな」

「ええ。彼女の屋敷の者だが」

「わたくしのご主人様です」

「なるほど。夫婦めおとですか」

 正確には違うのだが。

「そのお面をおつけになっていてくださいませ、鏡弥一様」

 それはアリスが作った物だった。確かに、遊女と鬼の遊ぶ姿を見ると、お面を着けていた方がいい。彼はそれをはめた。

「ここは一体、どこに迷い込んで?」

「鏡から。魔の鏡の国に引き寄せられたんです」

「まさか」

「鏡弥一様の目頭のほくろも逆にございました」

 お面の表面に指を触れた。いつもの癖が、逆の手になっていた。

「こちらにいらしてください。ここには鬼がいます」

 彼らは足早に歩いていった。

 いきなり目の前に白い着物で真っ白い髪を棚引かせた夜叉が現れ、咄嗟に鏡弥一は腰にしていた短刀を抜き間を取っていた。鏡弥一は日本刀の腕が立つ。それは幼少の頃に森を女中に手を引かれ歩いていたときに山賊に襲われた事がきっかけで、父から剣道修行を受けるように言われ、その内のめり込んだためだ。

「おやおや。いきなり刃を向けるとはねえ」

 嗄れ声が頭脳に響くようだった。

「そこのおじょうさんをお渡しよ。あんた見ない顔だが、どこの鬼だい」

「なんでこの子を連れて行くんだ」

「それがここの主人の本望だからさ」

 アリスを後ろに行かせる。夜叉は闇に溶け込むように言った。

「今宵は和尚が出歩いているのか……」

 和尚は念仏を唱え続けていて、すうっと夜叉は姿を闇に溶け込ませ去っていった。

「ここの主って、誰なの! ここは信州だって言ってた」

 しかし返ってくる声はなかった。

「鬼に境界は無いのかもしれません。鏡は鬼の通り道。もしかしたら何か心当たりでもありますまいか」

「ある」

 きっぱり鏡弥一が言い、アリスは彼を見た。

「七紫は……」

 アリスは首を傾げた。すると、彼女の胸元にしまっている桔梗鏡がうずいた。

「?」

 彼女はそれに視線を落とす。アリスは鏡から鏡弥一を見た。

「俺たちの仲を本心では快く思っていないはずだ」

 いつも微笑んで鏡を覗き紅を引いたり、着物を整えたり、かんざしをつける七紫の姿を思い出す。気っ風のいい姐様だ。

「妾ですか」

「………」

 アリスは鏡弥一の腕にしがみついた。

「もしかしたら、同じように恋に破れ命を捨てた女達が鏡の国に潜んでいるのかもしれませんな」

「じゃあ、どこかに七紫様の魂と繋がる鬼がいるの? その鬼を見つけなくちゃ、出られないの?」

「それが鬼か、どうか、それはわかりませぬ」

 うずうずと桔梗の鏡が揺れるので、いい加減アリスはそれを袷から出した。

「きゃ!」

 いきなり開いて、そしてドシンと男が尻餅をついたので誰もが驚いた。

「あてて、いってえなあ……なんだよ……」

 それは海苔衛門だった。

「海苔衛門」

「え?」

 海苔衛門が見回し、そして立ち上がった。

「あれ。なんで森に」

 夜風に当たって派手にくしゃみをし

「あがぐ、」

 いきなり恐ろしい面の者、鏡弥一だが、口をふさがれて茂みに引き込まれてアリスも和尚もしゃがんで円陣を組み、ひそひそと話し合った。

「とにかく今は寺に戻れば鬼はこれますまい」

 口を押さえられて了見を得ない海苔衛門だけは脚をじたばたと放り三人をきょろきょろと見回し、三人は頷いた。

「ほら走るぞ」

「え」

 いきなり鏡弥一が走り、皆も走ったので背後を妙な恐怖に襲われて海苔衛門もだだだっと走っていった。

 間世寺に来ると、海苔衛門はくしゃみをして小僧が持ってきた着物を羽織った。

 向こうで和尚と鏡弥一が話していた。

「先ほどの夜叉ですか。しかし、夜叉は森に住まう悪神なのでしょう。連れて行くと言ったからには、本体と繋がる魂のある場所とは手を組み森を彼ら鬼に住まわせている者と見た方がいいのでは」

「ええ。その解釈のほうが筋が通りますが、本当に奥方が?」

「いや。それは分かりません。彼女かもしれないし、他の何者か、不可思議の力かもしれない」

 アリスは着物を引っ張られて海苔太郎を見た。

「何? 海苔太郎」

「海苔衛門だって」

 まあ、それは本名じゃないのだが。本名は緑次だが。

「ここ、どこなんだ?」

「鏡の国」

 また桔梗がうずく。鏡を出しても、やっぱり蓋が開かない。桔梗の紫は綺麗だった。おちよは大丈夫だろうか。

「おちよは今頃どうしてるかしら」

 海苔衛門はばっとアリスを見た。アリスは首を傾げて見てから、はたとした。

「あはははは! おかしいわ、あんた、おちよも好きなの」

「そ、そっ」

 いきなり桔梗がぐらぐら揺れて、アリスは驚いてまた見た。

 鏡の世では鏡にまつわる物の感情か何かが暴れるのだろうか。おちよちゃんを思い返すが、いつでもお男二人について楽しげにしている。十五になったおちよは頬を染めていていつも可愛い。多少薄い色素の瞳が魅力のある子だ。アリスとは全く違うタイプだった。まるで花で言えば健康的なたんぽぽのような。照れ屋なところもたまにあって可愛い。

「確かにおちよと海苔は似合うのじゃないかしら」

「俺はお前が」

 だが黙って口をつぐんだ。アリスはお面の下で微笑んで、頭をなでた。また子供扱いしてくるので背を伸ばして脚を放り手をついた。

「俺はきい坊とちよちゃんが合うと思う」

「見た目はね。はじけ者みたいな純朴のきい坊とナチュラルなちよは」

「なちうらる?」

「こっちの話よ」

 猫のようにうなって言いアリスも足を放った。

「それにしても」

 アリスは片方肘を突き背後の門を見る。

「夜のままねえ……」

 その通りなのである。夜が続いている。鏡に入った時が夜だったからか。アリスが芸者から逃げて寺に来て眠り、目を覚まして和尚と森を歩いて鏡弥一様を見つけ、海苔衛門まで現れて寺に一時避難したのだが、考えてもすでに朝や昼になっていてもいいというのに。

 和尚もそれを言ってこない。アリスはそちらを見た。まさか、夜を司る和尚だったらどうしよう。アリスはイギリス人なので、妖精や幽霊を普通に信じているが、イギリス人誰もが思うように悪魔は恐い。だがそんなはずもないだろうと貌を戻した。

 耳打ちする。

「いい? ここでは、文字も逆さ。それに鬼だって出てくるし、男を惑わしてくる奴もいる。それは魂を食べるためかもしれない」

 ごろごろごろと、鳴き声が聞こえ、アリスは振り返った。

「………」

 アリスの腰元に、五年前に鏡に飛び込んで「じゃあ」と言って姿をくらませた猫、あのチェシャ猫がすりよってきていたのだ。

「あんた!」

 猫の胴体を抱えると、それがまた満面の笑顔の猫になって目がつり上がり、気がぶわっとなってアリスを見た。

「鏡の国にいたの」

「あたしは神出鬼没なのさ。鏡を伝ってどこにでも行くよ」

「まさか何か知ってるの」

「さあ逢瀬を覗き見る悪趣味はないからね」

「知ってるんじゃあないの!」

 ごろにゃんと言って床に降りると、海苔衛門も鏡弥一も驚いた貌をしてしゃべる猫を見た。とは言っても、アリスも猫もさっきは英語だった。

「きつい方言ですなあ。なんと言ったのやら」

 和尚が振り返り、その姿にアリスは短く叫んで海苔衛門も目を見開いた。

 一瞬和尚の貌が巨大な黒猫になって三本の尻尾が千手観音みたいに背後にうねり、黄色い目を剥いて紅い舌でぺろりとしたからだ。

 鏡弥一は横を振り仰ぎ、目をこするとまた和尚に戻っていた。

「和尚が猫に」

「和尚?」

「この国の司祭みたいな人」

「え? あの猫が?」

 チェシャ猫が言い、アリスはまじまじ猫を見た。

「あんた達、さっきから池の横で猫端会議でもしてるのかい?」

 アリスはお堂を見て、また首を傾げる。

「何のこと?」

 だが、チェシャ猫にはここが巨大な木を前にした池があって、そこかしこに大小の猫がいて、その周りに石が円陣で並べられた草地に人間の三人が寝転がったり座ったりしているようにしか見えない。一人など、猫としみじみ話し合っているのだ。ボス猫で一番大きい猫又だった。

 チェシャ猫はしばらく考えてから、アリスにまた味方して手助けしてやることにした。

 あながち、恋の遊びが過ぎて鏡に気に入られたのだろう。ここは色香が薫る森だ。いろいろな森を渡り歩くチェシャ猫だが。なので、先ほど鏡弥一の奥さんがどうとか言っていたが、女を嫉妬心へと惑わす魔物かエロスか間に入って鏡に宿ってアリスで遊んでいるのかもしれない。

 まあ、ここが何に見えるのかは分からないが、ここは猫又たちのテリトリーなので、他の妖怪は入ってこれない結界が敷いてある。ここにいればまずは安心だとチェシャ猫は毛繕いを始めた。

 普通柵があってその先に観音や大仏様のある台には昇ろうとはしないので、知らずにいる池に足を踏み入れるようなことも無いわけだ。

 猫からみたら猫だが、小僧が来て布団の用意ができましたと、落ち葉を敷き詰めたところを示してきた。アリスたちがそちらに行って、まるで布団に寝るかのように眠り始める。猫又和尚はふふふと笑って、髭を伸ばした。人間どもはぐっすりと眠っている。

「何かたくらんでるのかい?」

「いいや。わしらは鬼とは手は組まん」

「ふうん」

 チェシャ猫は毛繕いをしてから、相づちを打った。

「頃合いを見て食べるつもりかい」

「さあ。どうかねえ。猫又も長くやってれば、気まぐれさね」

 猫又はにゃーとあくびをし、とっととごろごろと集まって一つの大きな毛玉になり、眠り始めた。


 七紫は眠っていた。夢は長い。そこには鏡弥一が現れ、自分に唄ってくれている。時々、扇子をもって踊ることもするし、刀をもって踊ることもする。前、山賊に襲われかけた時に一瞬で殺気立って一撃してくれた。静寂の内にそんな姿がなおも惚れさせた。

 まったく、夢でも妬けてくることで、妻を前にした屋敷内で小娘に心酔しているのだから。七紫は遊郭を出れば旦那様一筋で来た。だから全く心の内じゃ妬けっちまう。十も離れた小娘に嫉妬なんか向けやしないがさ。

 と、七紫はぷんぷん怒って夢で組んだ足をふらふらさせた。

 時々、蔵にうれしげに戻っていく有栖の姿は数年前から見てきていたのだ。だがまさかあんな年上の人に惚れるとも思わなかった。

「くしゅん!」

 七紫はくしゃみで目を覚ました。

「………」

 起き上がり、見回す。

「?」

 障子の向こうに、青い光が通っていった。蝋燭を持つかのように。誰かの影を浮かばせて。

 七紫は肩に羽織を掛け、歩いていった。

 障子を開けるが、誰もいない。旦那様の床に行こうと、廊下を歩いた。

「もし」

 ひざを突き、襖に静かに声を駆けるが声が無い。そっと開けると、布団さえ敷かれていなかった。

 蔵に行くために庭の横の縁側を通る。

「?」

 ぼうっと、また青い明かりが流れて岩と松の先に見えなくなった。首を傾げ、満月を見上げる。見間違いかと、また歩いていった。蔵に来て、戸に手をかけた。だが、開かない。鍵はかかっていないし、それに、何かふわふわしたように動いても開かないのだ。不思議な感覚だ。

 七紫は蔵を見上げた。真上に月があがって、そしてその月に青い明かりが重なって、七紫はまばたきをしてそれを見た。

 手に、桔梗の花が落ちてきた。青い明かりは見あたらなくなった。

 ふとおちよの貌が浮かんだ。

 異常な眠気を感じて、七紫は縁側まで歩き、その場に一度眠りかけたが、またふらふら戻っていった。そして桔梗を横に取り落とし、鏡台に寄りかかって眠り込んだ。

 ああ、また夢で旦那様が有栖といるのだ。おぼろげに思って、夢に入っていった。夢の国の有栖は、しおらしく鏡弥一にうっとりとしている。

 彼女の座る横、桔梗が開けられた障子の満月に照らされている。


 アリスは目覚めると寺で鏡を探すが、見あたらない。あの神仏物だろう鏡はあるのだが。

「鏡があれば、もしかしたら状況が分かったり、それに元の町屋や七紫様が見えるかもしれないのに」

 探し回るがどこにも無いので戻ってきた。とは言っても、本当はお寺は無いのでぐるぐる回っているようにしか見えないのだが。

「本体と繋がる魂を探しに行こう」

「大本は何か分からないけどね」

 海苔衛門は和尚にお面だと渡されて、それを貌につけた。チェシャ猫はうつむいて笑い、その大きな葉に目の所に穴をあけただけの物をアリスに「格好いいじゃない。渋いお面」と言われているのを見てぐすぐす笑って口を押さえていた。「どうやって作ったのかしら」と。

「これで鬼に人間だってばれぬでしょう」

 猫又和尚の言葉に、チェシャ猫は肩を尻尾をばんばん草地にふるわせてぷるぷる笑いをこらえて震えた。

「さあ。行きましょう」

 海苔衛門が先頭切って歩き出したので、チェシャ猫はころころしながらなにかしていて、アリスは仕方ないから抱え上げて連れて行った。

 というわけで、アリスと鏡弥一、猫又と、じたばた笑いをこらえて抱えられているチェシャ猫が海苔衛門を先頭に歩いていった。猫達は見送っている。


 海苔衛門は遊女の館に捕らえられていて、鬼と知っている鏡弥一は抵抗していた。だが海苔衛門はそれが鬼だと気づかずに美酒に女の舞いにはしゃいでいる。肌がぼんぼりに染まって遊女たちがよりたかりゆらゆら笑っている。鏡弥一は七紫を探すが、見あたらない。金魚は尾を引いて踊るように舞い、女たちの笑い声や嬌声が響く。

 襖や屏風に影が踊った。どの遊女も影が入れば恐ろしい鬼の貌になり、明かりが当たれば遊女の貌になり、鏡弥一は全くもって逃げる方法しか浮かばない。海苔衛門はすでに酔っぱらっていていつもの精悍な顔つきも完全に甘くなって若い鬼女に酌をされてよろこんでいる。

 アリスは二人を見つけられずにいた。夜叉が木の上から跳び現れて鏡弥一様が刀で夜叉の刃を防ぎ、そしてその内に視界に遊女たちが回って目眩を起こして、男二人が連れ去られてしまったのだ。夜叉がアリスを連れて行こうとしたら、そこで初めて向こうから朝日が射して、夜叉は振り返る前に木の上に飛んで去っていった。夜の闇を追うように嬌声を響かせ笑いながら裾を棚引かせ遊女達が二人を連れていってしまい、アリスは走ったものの間に合わなかった。

 夜がある場所を探せばいいのだろうか。森をチェシャ猫とともに走る。

 鏡弥一は美しい女に肩に頬を乗せられつい微笑んだが、影に入ると鬼なので目を反らした。

 海苔衛門を見ると丸まって眠っていて、ぎくりとした。

 その上に多い被さるようにおちよが丸まり眠っている。まるで守る様に。こんな遊郭におちよがいるなんてと鏡弥一は腕を伸ばした。すると、はっとしておちよが顔を上げる。遊女が見えてなどいないのか、鏡弥一だけを見て海苔衛門の背にしがみついている。そして、ゆらゆらと目を閉ざすとともに幻と消えていった。

 丸まって眠る海苔衛門の背には桔梗の花がが残るだけとなった。

 鏡弥一は力を振り絞って起きあがって海苔衛門の横に来た。

 ずっと七紫が関係していると思ったが、おちよだったのかもしれない。

いや、おちよなのだろう。海苔衛門に恋をしていたのだ。それに、七紫も間違いは無いのかもしれない。

 桔梗の花を手に取り、眺めて袂に入れてから海苔衛門を揺り起こした。

「海苔衛門」

「ううん、有栖」

 もしかしたら、海苔衛門自身が気づかなければ出られないのだろうか。桔梗の花の存在に。

 桔梗を手にしたからか、格子が扉のように開けられた。肩に海苔衛門を担ぎ上げ走っていった。

 遊郭を出た所で、芸者が三味線を弾いて立っていた。

「鏡弥一様!」

 その後ろにアリスが。芸者が三味線を激しく奏でると、また鏡弥一の周りに花びらが吹き乱れて甘く芳しく、頭がぼうっとする。あの芸者が遊郭の幻影を見せているのだ。アリスが走ってきて鏡弥一の手を引っ張って彼は海苔衛門を持ち上げたまま走っていった。

 走っていくと、だんだんと薄闇になってきていた。陽がさして、森を照らす。

「ううん」

 海苔衛門が目を覚ますと降りた。

「あれ。女のひとは?」

「海苔衛門たら」

 アリスは鏡を見せた。

「どんなにがんばっても開かなかったのに、蓋が開いたの」

 それには針を操るおちよが映っていた。それで、そこに走ってきたのがきい坊だった。

 おちよは瞬きをして、きい坊と走って行く。七紫が現れて、二人も藤丸屋に現れた。これは鏡を伝って見ているのだ。七紫は困った貌で二人と話している。

「俺たちが留守にしているからだ。ちよちゃん、心配してるな。きい坊も」

 いきなりおちよが泣き崩れ出してしゃがみこんだ。海苔衛門は驚いて、それできい坊がしゃがんで貌をのぞき込んだ。

「………」

 海苔衛門はふと振り返った。そこにおちよがいた。しかも、鏡に囲まれた藤丸屋だった。

「あれ」

 七紫は目を丸く驚き、有栖の鏡を持って現れた海苔衛門に驚いた。

 一方、アリスと鏡弥一は海苔衛門と鏡が消えたので目をぱちくりさせて呆然と立ち尽くした。




 参、惑


 「鏡弥一様」

 今、鏡弥一とアリスが残るのみだった。海苔衛門が鏡とともに消えてしまい、自分たちだけが鏡の国に残されている。

 だがアリスはしばらく、この夢の国で鏡様に甘えて居たかった。

「これは夢でしょうか。二人きりの世界……アリスは幸せです」

「アリス」

「わたくしにキスを」

「キス?」

「接吻のこと」

 二人は気づいていなかった。その背後から忍び寄っている妖魔の存在に。鏡に吸い寄せられてその底にわだかまる人間の感情とともに混沌をうねらせる妖魔。

 その妖魔がアリスを引き寄せた張本人だ。日々、美貌を保つ七紫の鏡から彼女の嫉妬心を鏡で吸収し、おちよの深い女心の嫉妬からくる闇を吸い取ったものや、七紫の鏡面に映る目から伝って記憶に残る幾人もの遊女達の狂気に充ちた愛暮れた死に様など、それらが今も脈々と鏡には住まい、妖魔へと姿を変えて潜んでいる。人の感情と鏡が人により生み出された時から。

 異常愛や深い激愛ほどに好んで妖魔は悦を持ち、姿が現れる。エロスとタナトスは隣り合わせでもあるのだ。

「!」

 鏡弥一は振り返り、その背の高い、足下まで長い黒髪の男を見上げた。精悍で美しい顔立ちをしており、武士の様に勇ましい体格と優雅さを兼ね備えている。黒い着物と袷の変わった装いに、銀糸で紋がついているが、始めてみるものだ。腰の辺りでゆったり編まれた紐で結んでいるだけで、美しく笑んで来ている。泉のように瞳は銀色で光り、黒い板と鼻緒の雪駄を履いていた。

 アリスも振り返ると上目で見上げた。鏡弥一はアリスを腕でかばうとアリスはその背にしがみついた。

「!」

 一瞬で辺りが暗くなり、黒い鏡に囲まれた場所になった。そこは藤丸屋であり、だが、全てが黒い。鏡だけではない。そこに色のある二人がいる。そして男がいる。

 その黒い空間に、いきなり四方八方に鮮やかな帯が揺れ降りてきた。それが緞帳のようにゆらめいている。鏡弥一はいきなり足をとられて尻餅をついて足を引っ張られていく。それを刀で切ってから、いきなり帯の全てが大蛇となって鏡弥一に襲いかかった。体をうねってきてその全てがうねうねと、アリスの貌になって微笑し金髪をうねらせる。鏡弥一は目を見開いて本物のアリスを探そうとするが鱗の胴体が流れていき見えない。

「……ああっ」

 いきなり蛇が締め上げた。その蛇の貌だけがあの男の貌になり黒髪が金髪に絡み合う。

「鏡様!」

 蛇がうねって離れていき、目の前に現れたアリスの胴を掴んだ鏡弥一は抱きしめ離さないようにあたりを睨み見る。

「鏡さま、鏡様、」

 アリスはふるえていた。アリスにはどれも鏡弥一の貌の大蛇に見える。その大蛇が鏡弥一の体をがんじがらめにしてうねっていたのだ。しかも妖しく微笑する。アリスはいきなりふっと蛇の幻影とともに鏡弥一までがどこかへ隠れて、目の前に男だけになったので瞬きしてた。視線はすぐに鏡弥一を探した。

「鏡弥一様はどこ、あなたは誰」

「私はエロス」

「神話の?」

 意外な名前にアリスは上から下まで見た。

「着物だし、大人だわ」

「姿というものは全てが虚像。人の作り出したものは変容があるのだ」

 男は純白の布を纏ったギリシャ人の女にもなったし、羽根の生えた子供にもなったし、可愛い貌の少女にもなった。そして、鏡弥一の姿になった。

「鏡様!」

「ふふ……」

 アリスはぴたっと止まり、上目になった。アリスが描いた望みに男を読みとり姿を変えたのだろう。

「あなたは鏡に住まうインキュヴァスなのね」

 その背後に檻に囲まれた鏡弥一が現れた。

「鏡弥一様、ご無事で!」

 アリスは笑顔になって走ろうとしたが、何か黒いものにいきなり全身が絡め取られて上半身と胴、貌しかのぞかなくなって動けなくなった。

「離して!」

 鏡弥一は黒い檻の内側で手首を拘束されていて、檻を掴んで鎖が音を鳴らす。

「暴れたら危ない」

 焦らせないよう、冷静に鏡弥一が言った。

 男が男の姿に戻ってアリスも鏡弥一も男も黒い鏡面になった床に白く浮かび上がって見えた。

 ふと、この五年で見慣れたこの国の男達の髪型だったが、もし鏡弥一様がアリスの国の男と同じ髪型ならどんなだろうと思った。はじめは奇抜だと思ってびっくりした髷姿だが。そう思っていたら、アリスは瞬きして鏡弥地の髷頭が変わったので口をぽかんと開けた。総髪というらしいが、しっかり全部に髪があって肩を一度越してから黒髪がうねると短くなったり癖がついたり前髪が横分けになったりなどしていろいろ変わって、鏡弥一自身が唖然として髪が目元に多少かかったので、まさか髷を切られたなんて恥ずかしい髪型にされたんじゃないかとギクッとした。そこで浮かぶのは下手人が出た時の晒し首でもあった。下手人はカゴメに入れられ町民に石を投げられ見せ物にされ、柵の向こうで磔にされたり、首を切られて町屋の端に台に乗せられ晒し首にされた姿は髷を落とされ肩にうねり乱れているのだ。

 だが頭をふるふる振るといつも頭部に当たる風が当たらない。まるで浪人侍や医者、山賊の様に髪が全体的に生えているのだと分かって大驚きした。

「一体どういう」

 アリスはいきなり鏡弥一が髷頭でなくなっただけでほくろ共々、元から睫が優しげに生えているのも手伝って、甘い顔つきになったのでびっくりした。イギリス風の紳士の優雅な髪型になっていて、それが黒髪でさらさらしているので、髷でもいいが、絶対こっちの方がいいと思った。髪結いの場面はアリスは見たことが無い。あの髪型を解いたり椿油や鬢付け油を落としたらどんな髪型になっておろされるのかいっさい想像を絶していて気になっていた。頑なに鏡弥一様も髷を下ろしたときを見せてくれなかったし、女の人の髪結いしか見たことが無かった。女の人は髪が全部生えていて、しかもとても長いので月に一度日を見て洗うのが大変そうだ。男が髷を下ろした姿など見せるのは恥と言われてしまうし、女には髪結い時は見せてくれない。とはいえ、アリスにはただ悪戯に見せないだけで、男の髷を結う女髪結いもいるし、女が横で髪結いをしている時に縁側で男も髪結いをしたりする時もあるのだが、何か一つぐらいは重大な秘密でもして持たせておいた方がいいかなあと思って見せないだけだった。

「髪を戻してくれ。誰か分からないと店で困る」

「アリスの望みだ」

「鏡様素敵」

「そ、そうか」

 はっとして鏡弥一は咳払いした。

 いきなり解放されてどさっと手をつくと、瞬きをしてまじまじと床を見た。それは、初めて見る髪型をした自分が映っていて、しかも自分で言ってもなんだが結構若々しくて素敵だ……。鏡弥一は自分でそんな事を思って恥ずかしくなり、咳払いして髪に手を当て視線を反らした。

 解放されたアリスはよろこんで抱きつきに来て、鏡弥一視野に映る流れる前髪を見たりしていた。南蛮人の場合は髪を肩を越すぐらいに伸ばして帽子をかぶっているののを思い出していた。

 鏡弥一はアリスの狭い背と、丸い臀部に視線を落とした。背には金髪が流れている。この国の人間とは明らかにやはり体つきが違うアリスは、腰の位置が高くて足が長く腿の肉付きがいい。胸もだ。そして肩は丸く狭くて腰がくびれている。頬の産毛さえも金髪だ。睫も金髪だ。眉毛も。そして、透き通る水色の瞳をしているのだから。そういえば、今まで南蛮人の女の着物をアリスに用意してあげたことがない。どんなに似合うだろうか。今まで南蛮の女は渡来した絵画でしか見たことはないのだが、上半身がすっきりとし、裾の広がった物を着ていた。

 ともに、七紫にもそれらの格好をさせたらどんなに似合うだろうと夢想した。鏡弥一が七紫のことを考え始めたときだった。

「………」

 辺りが明るくなり、二人が貌をあげた。

 どちらもお面を付けたり、鏡の世にきた時の装いで、元の場所にいた。

 アリスは江戸傘を肩に町屋で立ち尽くし、そして鏡弥一はお面を手にしたままアリスの部屋にいた。

 アリスは見回し、そして袷に手を入れた。

「鏡」

 桔梗の鏡はあった。

「夢……だったの?」

「みゃおん」

 驚いてアリスは振り替えた。そこには、大きな黒猫がいて、二股の尻尾を振って、おして夜の町屋に一瞬で溶け込んでいった。

「………」

 アリスは再び鏡を見た。

 自分がいるだけ。町を映す。いつもの、静かな夜の町屋が逆さに映る……。


 「え? 鏡の世?」

 海苔衛門がアリスは見て、横笛を腰に差した。

「鏡って、合わせ鏡か何かの呪術か?」

「あんた、来たじゃないの。鏡の国に迷い込んだ。猫の貌の和尚とか、鬼の遊郭だとか、夜叉が夜を制していたり、したじゃない」

 海苔衛門はわけがわからなくて、お面を作っているアリスの姿を見ている。

 アリスは「夢だったんだ」と言って肩をすくめてからノリの着いた刷毛を置くと、慎重に和紙を重ねていった。それでから馬連で滑らかにしていくと光沢が出てくる。千代紙の綺麗なものを柄に反って切ってお面に貼っていく。

「あんた、おちよに好きだってもう言ったの?」

「え?!」

 最近おちよとアリスの間で揺れている恋心をいきなり言い当てられた海苔衛門は慌てて立ち上がって着物と羽織をさっと撫でてただした。

「全く、あんたいっぱしの男のくせにはっきりしないのね」

「な、なんで知ってやがる!」

「夢の恋のお告げよ」

 微笑して目を伏せがちにどら猫声で言い、刷毛を置いてから肘を突いて手の奥に顎を乗せた。

「あまりに優柔不断だと、紫の花に惑わされて鏡に閉じこめられちゃうわよ」

 海苔衛門は口をまっすぐにつぐみ、壁に背をつけてから横顔で言った。

「おちよはきい坊が似合うんだ」

「いっとくけど、あたしは何度何言われてもあんたと婚姻結ばないわよ。おちよをデートにさそってみたら?」

「でいと?」

「こっちの話」

 アリスは微笑み、膠を塗り始めた。

「桔梗の花言葉はまるでおちよよ」

「俺は桔梗は遊女の花って思ってる」

「へえ。どんな?」

「うーん。まあ、誘惑とか、あでやかとか、妖しげとかさ。それに、お前に桔梗は似合う。紫ってなんか魔力感じるだろ」

「あんたの思う桔梗があたしのイメージなのね」

「いめいじ?」

「こっちの話」

「おちよは何の花が似合うのよ」

「ちよちゃんは、つくしとか、なずなとか、そういう楚々としてるけど元気なやつ。元気に天道を突き刺すアザミとかさ」

「ふうん。可愛いものね。桔梗の花言葉は、変わらぬ愛。遊女が花街の世界にいても、一途に一人だけを愛したら命も投げ出す……確かに、遊女にこそふさわしい儚げな花なのかもね。話じゃ、身を売られて、逃げられずに、酷い目を合うことがほとんど。光りを受けるのは極一滴だけ。あたしの国じゃ、女は大切にされてるからまず分からない感覚だわ」

 な、なん、と海苔衛門は凛々しい顔立ちを困惑させてから、ハッと驚いてアリスにじたばた四つ足で近づいてノリの刷毛で間を取られてのけぞって視線を上目のアリスに落とす。

「ちよちゃんは女を好いているのか」

「はあ~?」

「お前に桔梗を縫って、それであげたんじゃねえか。そこまであいつ、有栖を」

「全く、男ってやつは単純ね。女同士で贈るのなんて、可愛いか、上手に縫えたか、そういう感じよ。贈るのが楽しいんだから」

 けれど、その桔梗に情念がこもったことできっと鏡に魔が通じたのだろう。海苔衛門への愛が絡まって。その花びら一枚一枚の脈に、その花びら同士の間に忍び込んで。

 アリスは藤丸屋でいきなり泣き崩れたおちよの姿が気にかかっていた。きい坊になんと言ったのかしら。三人が姿をくらましたのが、まるで自分のせいだわというかのように後悔に悔やんだ風に思えた。海苔丸に恋しているのは恋しているのだろうけれど。

「海苔丸」

「緑次だって!」

「りょくじ?」

「あ、こっちの話」

「おちよ、あんたが帰ってきて何か言ってた?」

「だから俺は夢でも鏡の世には行ってないから」

「おかしいなー」

 あれからおちよにもきい坊にも会いに行って無い。どっちみち、七紫は来ていなかったから。ただ、一日アリスと鏡弥一の姿が見えなかったので不振に思って探していたと言っていた。海苔丸の話は出なかった。

 アリスは立ち上がり、お面をかぶった。

「きい坊とおちよに聞いてみるわ」

 正直、鏡の世の真相を聞きたいし、あのエロスとどう関係があるのか、何かおちよはしていたのか、気になった。

 蔵を出て裾をあげて歩いていき、ふと、空を見た。

「恋の夢のおつげ……か」

 鏡は恋をもうつす。恋してしあわせな貌。失恋して泣きそぼる姿、きらきら光る目。愛しい人に呼ばれてはっと振りかえる横顔も。それをもし静観している鏡の世の住人がいたら。その一人がエロスであって、性を司って、異常こそを愛す。それで鏡に感情を映して、本体はどこかの世界、きっと人々の心にだろう、そこに住まう魔物となる。

 アリスの面は精巧な柔らかい作りのものまである。睫や眉毛まで埋め込んで、薄い茶色のガラス玉をはめ込んで目にはめて、黒髪を埋め込み、肌色や紅、頬紅をさして彩色すれば、まるでこの国の女のような貌になる。ただ元の花の高さは額の出が違うので、滅多にかぶらない。男なら彫りが深い者もいるのだが、この国の女はそこまでおでこの具合は頻繁には出ていない。時々、南の方から来た旅人は濃い貌の男女が多いのだが。

 アリスは江戸から出ていないので、いつかは行ってみたいとは思っている。

 あれから夢では鏡弥一様とお花畑できゃっきゃする妖しげな夢にアリスは陶酔しているので、彼と旅に出てお花畑できゃっきゃしてみたかった。この国の野原も素敵で不思議な魅力があるが、イギリスの野原はまた印象が違う。夢の鏡弥一様はこの国の野原では髷に着物で、イギリスの野原の夢ではイギリス風の髪型と紳士ジャケットだった。それで紅茶とスコーンを食べたり、する夢。まるで小さい女の子が見るような夢に、アリスはおかしくて笑った。

 海苔衛門はアリスの横顔の面を見て、女というのが何を考えて「うふふ」と言っているのか分からないので、屋敷の壁にとんっと背をつけさせていた。

「………」

 アリスは影の内側で海苔衛門を見た。笑顔も無く、視線が貫いている。狐の面に開いた小さな丸い穴は彼女の瞳の色も、考えも不明にする。この五年で、ずいぶん男らしくなったと思った。はじめは酷い奴と思って泣きながら逃げ回ったが、あれも興味津々で追いかけてきた無垢なものだったようだし、いつもぎらぎら光る焦げ茶色の瞳はまっすぐアリスを見てきた。その顔立ちがどんどん大人になって精悍さを増していく。

「………」

 お面にそっとキスをされた。アリスは静かに閉じていく瞼に爽やかな香りを感じて抱きしめられた。

 それでも、ドキドキしない。

「またされたいの?」

 囁き、海苔衛門は強く抱きしめ、ばっと腕を持ってじっとアリスを見たが、怒ることもなく唇が震えてしばらくして言った。

「……それは……確かに」

 アリスは微笑してから身を返し手を退けて歩いていった。


 おちよはアリスを見ると、微笑んで手を振ってくることは無かった。

「有栖ちゃん……」

 針を置いて、ここまで静かにくると他の職人に言って工房を出た。

「鏡の桔梗、他になにかつけてもらいたいなって思ったの」

 アリスが鏡を出すと、おちよは言った。

「いいよ。もっと上手に桔梗、作れるようになったから、それも変えてあげる」

 おちよが小さく微笑んで鏡を受け取り、アリスを見た。

「おちよ……」

 おちよは桔梗の鏡を袂に入れて、アリスの言葉に目を開いた。

「桔梗に、何か入れたの?」

「………」

 昔、七紫様から話を聞いたことがあった。縫い物の綿に、何か思念のある物を縫い込んで贈ることがあるんだという話。それをこの所、思い出していたのだ。

「有栖ちゃんが……元の国に帰れるようにって……神社の小さな石」

「え?」

 アリスは意外すぎておちよのうつむく睫を見た。

「そしたら、藤丸様も姿を見えないって聞いて、それでどこに行ったかもわからないって話を聞いて、すごく怖くなって、どこに帰りたいのかってわたし知らなかったから、どこに行っちゃったのかって」

 おちよがぽろぽろ泣きはじめ、そして続けた。

「海苔衛門が有栖ちゃんが好きだって分かったから、その前の夜、すごく辛かったの。有栖ちゃんがうらやましかった。すごく、すごく大きな不安に取り込まれて、それで、海苔衛門のこと取られちゃうんじゃないかって思ったわ。海苔衛門の奴、きい坊にも接吻してたし、わたしには何も好きとか言ってくれないのに、わたしだけずっと小さい頃から一人だけで海苔衛門が好きなばっか、ずっとずっと夜、泣いてたの。そしたら、翌日になって、有栖ちゃんは来てないかってきい坊が来て、蔵が全く開かなくて藤丸様も見あたらないって聞いたら、怖くなったの。わたしのせいなんじゃないかって!」

「おちよ、あたしのこと思ってくれてたんだ。イギリスに帰りたいって思ってたこと」

 アリスはおちよを抱きしめた。

「帰れないの、辛いけど海苔とかもいてくれるし、こっちも楽しいわよ。変な奴だけど」

「わたし海苔衛門が好きなの。有栖ちゃんは? 有栖ちゃんはどう?」

「わたしは大人が好きなの。大人で、それで素敵で、落ち着いてて、強くって、色気があって、うふふ、うふふ」

「あ、有栖ちゃん……」

 やわらかい表情の女の面を見て、くすくすとおちよもようやく笑った。

 チェシャ猫は池だと言っていたお堂は、もしかしたらおちよちゃんの心が彼らを守ってくれていた証拠なのかもしれない。




 四、迷


 鏡弥一は夜、夢を見るようになっていた。例の髪の長い男が出てくる。アリスを抱き寄せ連れて行こうとする。

「うう、」

 ばっと起き上がり、見回す。

 襖に囲まれた寝間だ。衣紋駆けに着物が掛けられ、床の間は屏風。それに灯籠。刀と、頭上斜めに金魚の鉢。襖は左右に欄間があるので明かり取りとなっている。その欄間彫刻の影が降りており、どれほどか欠けた月が小さく見える。布の欠けられた鏡の前に行き、座布団に座ると布を取り、丸い鏡を見た。自分は自分だ。白い肌襦袢で、ほくろの位置も変わらない。

「夢か」

 息をつき、再び眠気の襲うままに眠りについた。

 翌朝、目を覚ますと布団で床に就いたときの格好のまま、鏡も布がかかっていた。

 着物を着ると帯を締め、髪を整え身だしなみを見てから息をついた。

「おっと」

 彼は寝間を出ると廊下を歩き、角からいきなり女中が現れたので身を引いた。

「これは失礼いたしました。旦那さ……」

 女中が彼の足袋から顔を上げた時、はて、と思った。瞬きをすると、戻っていた。先ほど一瞬、彼の目の下のほくろの方向が逆に見えた。

「どうかしたのかい」

「いいえ。ところで、有栖お嬢さんのことで」

「朝からどうした」

「奥様のお部屋からお出になられないんです。昨夜から」

 女二人のことだ。女同士で特有に遊んででもいるのだろうと、あまり男の自分が関わるのもはばかれるが、あの鏡の件もあったばかり。颯爽と歩いていった。

「七紫」

 障子に呼びかける。

「起きているのか」

 返事が無く、女中が横に佇んでいた。

「失礼するよ」

 彼が障子を開けると、奥の襖に光りが指さずに開かれていた。寝崩した寝具、灯りの消えた菜種油、お面がいくつも散らばり、玩具などが鮮やかで、そしてその一つが襖の奥に一つ転がっていた。

 鏡弥一は暗がりに引き寄せられるかのように歩いていき、足を踏み入れた。横を見る。

「………」

 鏡台が、青く光っている。暗がりはまるで朝をいっさい感じさせない夜で、座敷の障子窓からも陽が射してなどいなかった。鏡弥一が歩いていくと、足下に匂い袋と蜻蛉玉のついた桔梗の小鏡。アリスの鏡だ。そして、帯留め紐も……。それがはかない色香を強く帯びて思え、鏡弥一は口をつぐんで手に持ち、鏡を見た。

 手を伸ばしていた。

 鏡面がゆらめき、いきなり手首を捕まれ引き込まれた。

「……っ」

 固い地面に一度背をごろんと転がったが身を返して、咄嗟に帯締め紐をまるで鞭のように両手に巻き、睨み見た。

「ふふ」

 あの男だった。そこは明るい野原で、そして見たことのない風景だった。

「!」

 男の背後は林に繋がるが、そのうねる大木の枝から、全裸に紫紐で猿ぐつわと手枷をされ、髷の部分を長く解きおろされた七紫と、それに全裸ではなく見たことの無い腰衣を身につけ同じように拘束されているアリスが吊されていた。ぎしぎしと、揺れている。

「七紫、有栖」

 駆けだそうとすると、自分の視野に映った服に驚いた。見たことのない格好をしていた。足をそれぞれ包む布衣に、胴にすっきりした厚手のものを着ている。手には白い布手袋が、弓道の時の手甲下につけるような手袋がはまって、堅い光沢のしっかりした履き物をはいている。とっさに頭を触るとまたゆったりした総髪になっている。

 男を振り返ると、着物ではなく、黒いのだがゆったりした布でできた衣服を胴に手首は締まり、下にもぴったりしたものを履いていた。

 アリスは金髪が風に揺られ、裾の広がった膝下の腰衣を履き、足に薄い布をまとい、足先に黒い履き物をつけていた。股引に似ているがかなりゆったりしている。

「有栖の国の衣服か」

 七紫が美しい眉をひそめると、目を覚ました。有栖は黒い目隠しをされていてまだ目覚めていないようだ。

 七紫はまず、吊されている圧迫感に貌をしかめてから、自分が吊されて草地が下方に見える裸体に気づいた。

 顔を上げると、二人の人間がいた。一人は女顔だがかなり背が高く、一人は素敵な人……。

「まあ、旦那様!」

 ばりんっと紫色の粉が舞ってなんと猿ぐつわが砕けてしまった。それは紫色のスミレのキャンディーだった。だがそれを七紫は知らない。味わったことの無い甘さと花の香りに包まれて、七紫は驚いて鏡弥一を見た。見たことのない格好をしている。だが顔が鏡弥一だった。

「旦那様は、いつから緊縛趣味を」

「あいにく彼の仕業だ」

「あら! あんたが?」

 元々男勝りな性格の七紫なので、屋敷では諫めていただろうが今は言葉遣いよりもこの状況だった。

「解きよ。有栖まで吊してるじゃないの」

 よじる七紫の姿はじつに妖艶で色っぽく、鏡弥一はそそられた。長い黒髪が何とも色っぽい風情である。

「うう」

 アリスも目覚め、目が開かないので見回した。足が付かないし、久しぶりの感覚のランジェリーを履いているとすぐに分かった。鏡弥一様も七紫様も驚くことに普段何も履いていないのだ。

「ここどこ?」

「有栖」

「七紫様。どこですか? 有栖はここにございます」

「木に吊されてるんだよ。原っぱが見える林でね」

「下に紅いキノコが生えている」

 アリスがもじもじじたばたしていると、肩で目隠しを取って視野が開けた。

 アリスは目を見開いて、イギリスの野原を見た。その木は姉がいつも下に座っていた木で、アリスはいつもその周りで遊んでいたのだ。

「姉さんどこ!」

 だが声が響くだけでだれもいない。しかも、上半身は裸で、あとはスカートとタイツ、靴を履いている姿なのだ。

「!」

 あのエロスがいる。

「あ! 鏡弥一様!」

 イギリス紳士の装いの鏡弥一は木の下で二人を見上げ、どうにか降ろす方法を考えていた。木は昇りやすい感じだった。

 動きづらいジャケットを脱いだ鏡弥一が木に登ってきた。まずは手前の有栖から解こうとしたら、いきなりまるで地面一面の鏡かの様に逆さになって、わっと思った瞬間に咄嗟にアリスを吊す紐に捕まってアリスから花が薫った。

「旦那様!」

「大丈夫だ。天地が変わったと思った」

 アリスは頬を染めている。だが危ない。しばらくアリスのすぐそこの顔を見ていたが、男を見た。

「どこに行った」

 いなくなっていた。彼はぐんっと自分の体を太い枝の上に反動で跳ね上がらせた。アリスを枝の上に引き上げて跨がらせると紐をほどく。アリスは解放されると枝を伝って七紫の所まで行くと、二人で七紫を引き上げて枝に乗せると紐を解いた。七紫の黒い髪がゆらゆらと幽玄に揺れる。

「ここは一体」

「グレイトブリテン、わたくしの母国です」

「なんだって?」

 七紫は裸体なので、枝に跨がるのをすぐに痛がって鏡弥一が彼女の足を揃えさせて膝に乗せ抱き寄せた。

「とにかく、降りよう」

 脱ぎ方がわからない短い襦袢を七紫に着せようとするが分からず、アリスがボタンを一つ一つ解いてあげていき鍛えられた腹部がどんどんのぞいてくる。鏡弥一の顔を見て七紫は旦那様に怒りたくなって顔をぷいと背けた。彼は脱ぐとそれを七紫の腰元に任せて腕を通していた袖を腰で縛らせた。

「降りよう」

 アリスがするする降り、鏡弥一が先に降り始めると、木登りなどした事が無い七紫が足を伸ばしたり引っ込めたりしながら探っていて、下から見ていた鏡弥一はドキドキして頬を染めてうつむいた。

「受け止めるから、降りてみなさい」

 アリスが嫉妬して頬を膨らめ、白シャツからのぞくのだろう七紫様の姿に鏡弥一様が咳払いをしているので早く降りてこないかなと思った。ゆっくり鏡弥一が支えながら七紫が降りてきて、最後に抱き上げてから地面に降ろした。

 アリスはスカートのクチュール上の生地を別にしてチューブトップのように胴につけると裾をチュチュにしまってドレスの様にした。鏡弥一は腰に巻かせていたシャツを七紫に着せ、上着を腰に巻かせて袖を交差させてしまわせ、シャツもしまわせた。

「家に行ってみなきゃ!」

 アリスは急いで走っていった。

 だが、どんなに走っても走っても野原は続いていた。

「鏡の世界……。逆の方角だったかもしれない!」

 また木まで戻ってくるとアリスは走っていった。

「………」

 どんなに走っても野原が続いて、やはり、鏡の世界、なのだと気づいた。ここはイギリスであって、そして自分の心の思い描く場所。だからかえってこれていない。まだ。

「どうやってあたしは一体あの国に来たのよ!」

 アリスは地団駄を踏んで、立ち尽くしてうつむいた。

「………」

 七紫は鏡弥一と顔を見合わせて、アリスを不憫に思って七紫が頷き歩いていった。

 アリスが振り向き、七紫の自分より背の低い肩に泣きついた。

「あれ! アリス!」

「ひゃ!!」

 どびっくりしてアリスは下方を見た。不思議の国の住民の声で、それはあの眠りネズミだった。すでに眠くふらふらして草花に姿を現したり隠したりしている。

「あ、ああ、ももしかして」

「おやおや奇っ怪な格好をしたお客達だ。ほうら紅茶を飲むがいい」

 帽子屋の声が響きわたり、振り返ると、例の、今や懐かしいイギリスの格式張ったティーセットのテーブルがのんびりと横たわっていた。

「やっぱりー!」

 アリスは額をぱちんと叩き、五年前あんなに必死に逃げた相手軍団がいたので不機嫌になった。背を押してきて椅子に三人を座らせてきて、もうテーブルに頬杖をついた。

「お美しいマダム。素敵な装いと言いたいところだが、ちとそれは色っぽすぎますね」

 帽子屋が言うと、七紫は言葉が通じなくていろいろ並んだ昼餉の巨大配膳机の上から、被り物をした異人を見た。

 以前は見えなかった相手なので、七紫にしたら初めてみた相手だ。帽子屋は今は上半身裸で色気をそれだけで振りまいているような色男の、以前は木刀を振りかざしてきて悪魔のような殺気だった男を見た。今は優雅な面もちだが、鏡弥一のことだ。彼にも当時帽子屋は見えなかったのだが。狂ったような声しか聞こえなかったがそれめがけて刀を振ってきたのだ。

「ここは不思議の国? 鏡の国?」

「迷い込んだのかい。鏡の国に」

「鏡に住まうエロスに閉じこめられたの。けどあいつは悪魔に違いないわ」

「おお、こわっ」

 わざとらしくぶるるっと震え、すべてが帽子屋はわざとっぽく茶化して見える。アリスはじろりと睨んだ。

 紅茶を飲んで落ち着く。

「それにしても、大人になったね。十才かそこらだったのに」

「ええ。あのあと五年も帰ってないの」

「一緒に帰ってればイギリスにいられたのに」

「ハートの国にでしょ!」

「これおいしゅうございます旦那様」

「うん。これも美味だ」

 二人はマイペースにしていて、アリスは頬杖をついてむすっとした。

 そのテーブルの先には、見慣れぬ双子の男の子がいて口にいろいろとつっこみ入れている。


 ドンドンッ

「きい坊!」

 きい坊は自分の小間で振り返った。

「藤丸様が姿を見せないっていうの」

「また?!」

 おちよは海苔衛門の声がしたので遊びに来ていると分かった。戸が開く。

「ちよちゃん」

「海苔衛門」

 凛とした顔の頬を染めた海苔衛門が、海苔衛門をどけてきたきい坊を見下ろした。

「どういうこと?」

「分からないわ。七紫様もこんどはいないっていうの。蔵にも。女中さんが、七紫様のお部屋の奥に藤丸様も姿を消したのか、そのまま戻ってきていないって。それで、鏡の前に有栖ちゃんの鏡が落ちてたって」

 おちよの手には、すでに寺の石の入っていない新しい桔梗の工芸品のついた鏡が乗っていた。あの桔梗はお守りになったかもしれないのだと思っておちよは鏡の桔梗を涙目で見つめた。

 三人が藤丸屋へ行くと、番頭や女中達が主様がいない屋敷の庭に集まっていた。店開きはまだの時刻である。

「やっぱりあのお面の有栖が現れてから、あの子がご主人様等を連れてっちまったんだよう! あの子はやっぱり妖怪だったのさ」

 前から厳しい女中頭が言い、三人は振り返った庭師を見た。

「有栖は来てないです」

「海苔衛門様のお屋敷にも」

「俺はきい坊んちにいたんだ」

 おちよは怖くなっていた。七紫様から教わった裁縫の恩がまさか違った形で三人を惑わしているかもしれないなんて。

「奥様のお部屋は奥からは出られないんだよ。どんづまりになってるし、障子窓も開ければ飾り格子になってるんだからね。縁側にあがり回廊を歩くと廊下を歩き、彼女の部屋のその障子を見た。ツバメが格子に飛見事な建具だ。これでは猫も通れない。

「鏡台に飲み込まれたみたいに」

「気味悪いこと言うもんじゃない。鏡問屋で」

 番頭が首を傾げると、顔を皆に向けた。

「店の鏡見てみよう。あっちなんかは、合わせ鏡なんだ」

 店に来るが、まだ暗がりだ。戸や障子窓はずらしていないので陽が入らないのだ。

 鏡を皆くまなく見ていく。

 おちよは貝が象眼された黒漆塗りの手鏡を手にして尾長鶏の装飾を見た。そこで、おちよは桔梗の鏡を懐から出した。同じ鳥なのだ。

 そして、七紫の部屋の鏡台も同じ鳥が実は装飾されていた。

「同じ……」

 と言いながら、手鏡を置き、小鏡の蓋を開き桔梗と並んだ鳥の装飾を見た時だった。

「どうした。ちよちゃん」

 海苔衛門がおちよの肩に触れた瞬間だった。

「うわ!」

 いきなりの勢いに二人が叫び、誰もがばっと振り向いた時だった。その各の驚いた横顔がいろいろな鏡に映っている。

「あれ?」

 番頭と女中等が見回し、きい坊が唖然とした。

「ちよちゃんと海苔衛門は?」


 どしんっと海苔衛門がおちよを抱え込みながら尻餅をつき、おちよはあまりのことに目をぎゅっと閉じていた。だが目を開いて、驚いて紅潮しバッと離れた。

「大丈夫か」

 海苔衛門が背をイテテと撫でてからおちよを見た。

「え、ええ。大丈夫よ。ありがとう」

「いいって。七紫様、番頭長……、え?」

 海苔衛門は瞬きして、あたりを見回した。

 どこかの座敷だ。しかも天井が驚くほど高くて、見慣れないものばかり置いてある。

「ここは……どこだ?」

 そこにいたイギリス人は、いきなり現れた変わった装いの若い男女を見ると、目を丸くした。

 二人がこちらを見る。

「d,dad! mam!」

 おちよを守るように海苔衛門は腕をかざして、この見慣れないお屋敷の女が走っていったので腰を落とした。

 その鋭い横顔に、おちよは海苔衛門に頼りある物を感じて頬を染めた。彼もずいぶん大人になった。

「what?」

「abruptly couple appear by my side!」

 青い目の二人が何を言っているのか分からなくて、海苔衛門はおちよが背にしがみつくのを肩を抱いて落ち着かせた。

 異人の男が現れ、驚いた顔をした。

「who are you!」

「ねえ、海苔衛門、有栖ちゃんと同じ方言だわ」

「有栖と?」

「Alice?」

 いきなり男がこっちに凄い勢いで来て海苔衛門の両腕を掴んで覆い被さってきた。百六十センチ代の海苔衛門からは百八十五センチの異人は大男だ。おちよは百四十九の背丈だった。おちよは怖がって叫び尻餅をついてがたがた震えて見上げ、咄嗟に先ほどの女が怯える黒髪の少女に気づいて、気遣わしげにそこに走って来た。

「wait.dad. she scary about you」

 真横に来た女におちよはどきりとして、黄色い髪のその横顔を見た。恐ろしいほどに美しい女だ。目が空の色をしている。

「do you know Alice my sister?」

 ここはアリスの家だった。五年も前に、姉が木の下にいた時に忽然と妹のアリスがいなくなっていたのだった。それでからずっと本になんか虜になっていた自分を彼女は責めた。

 海苔衛門がおちよを守る為に肩を引き寄せ、何か言い続ける異人二人を強い眼光でまっすぐ見た。

 その目を見て男はまっすぐなものを感じ、怪しい物など到底感じずに、頷いた。

 二人を引き上げた。

「有栖ちゃん、女中さんが妖怪だからお面をつけてるって言ったけど、ここは妖怪の国なの?」

 もともとが有栖は妖しげな雰囲気をまとっていた少女だったのだ。

「いや、分からねえ。二人は南蛮人かと思ってたが、それを言われると分からなくなる」

「でも、有栖ちゃんの名前を言ってたわ」

 おちよはそこで、窓の外を見た。先ほど、何かが動いたのだ。

「! 妖怪!」

 大きな白いウサギが服を着て目に丸い硝子をつけ、さっと窓の外からのぞいてぴょんと一度ジャンプしたのだ。まるで犬のように大きい。

 五年前に町屋で見た奴だ。有栖を連れて行こうとした。海苔衛門が走っていった。

「wait!」

 彼がこの屋敷の出口を探し当てて外に出る。遠くを二本足で走っていくチョッキを着た白ウサギ。見る間に走り去っていった。

「海苔衛門!」

 おちよが追いつくと、ウサギを追いかけていくのでおちよが驚いて走ってついて行った。

「wait!」

 それを姉も追いかける。失踪した妹のことを知る貴重な人物だ。

「!!」

 三人が同時に足下を取られて、その後には逆さに吊されていた。

「うう、」

 うなって見回すと、暗い森になっていた。幾本も蔓などが揺れ影になる。この森の木々の影の向こうは明るい緑の木々が幾重にも緑の濃淡をつけシルエットの先にまぶしい。

 しかも、他にも帽子屋や鏡弥一など、双子やハンプティ・ダンプティも吊されていた。

「え? きゃああっ」

 下着をつけないおちよもだが横の海苔衛門の普段は褌をつけていない姿が混浴銭湯以外で目の前にあって真っ紅になった。必死におちよはひっくり返った裾除と長着の裾を手で押さえる。

 アリスの姉はドレスの裾が顔に覆い被さり、下にはキュロットを履いているのでわけも分からずにそのまま見回していた。裾を退けて顔を出す。仕方なく海苔衛門は長着の裾を足の間から通して帯にまくし入れて隠した。おちよも裾除をもっとしっかりさせていそいそとさせていた。

 その彼らの下に、例のエロスがいて見上げて来ていた。アリスが苔の岩場と太くうねる木の根本にはまった百合の形のユニットバスで花にまみれて、シャボン玉を吹いていた。タイツにガーターベルトの足を揺らし、ミュール姿のアリスは驚いて姉とおちよと海苔衛門を見た。

「ロリーナ姉さん!」

「……アリス?!」

「姉さん、会いたかったわ!」

「私もよ、ずっと心配していたんだから! あなた、一体ずっとどこにいて……!」

 美しいアイマスクのアリスは、ピンク色で藤色の花の硝子エナメルがつく首輪をはめていて、その鎖をエロスが持っていた。

 立ち上がるとユニットバスから出る。

 エロスの横にアリスが立って、その高校生ぐらいになっていて、しかもあられもない格好にをする少女には、確かにアリスの面影があるので驚いた。

「あなた……、五年間もずっとこの妖しい場所にいたの?」

「大和にいたの。向こうの人が養ってもらっていたところのご主人様。姉さんの横の人と女の子があたしの友達よ。奥様とベッドルームで夜遊びしていたら、パウダールームにこのエロスが現れて惑されて、気付いたらこの世界で枝に吊されて鏡の世界に閉じこめられていたの」

「まあ、あなたの恩人だったのね! いきなりその男の子と少女が現れて驚いたわ」

 奥様の七紫は今、宝箱の内側に丸まって眠っていた。スミレの花が彼女の美しい裸体に散らされている。黒髪はすべて解かれていた。得に言われぬ美しさである。

 姉はアリスがエロスと言っていたが、違うと思った。

「彼は、メ……」

 だが口を閉ざす。

 妖精なら、名を言い当てられた瞬間に逃げていくが、それはこの吊されている足もいきなり解かれ落ちると言うことだ。

 彼はメフィストフェレス、人を惑わす悪魔なんじゃないの? 言い掛けた姉は口をつぐんだ。

 おちよも海苔衛門もアリスの装いにずっと紅潮して顔を背けたり着物で顔を恥ずかし気に隠している。

「あなた、とにかく体を隠しなさい!」

 姉の放ったセンスを広げて腰元を隠した。胸は腕を添えた。

「あのチョッキを着たウサギはどこだ」

 海苔衛門が言う。あの足が速いウサギは見あたらない。もしかしたら、ここまで導いてくれたのかもしれない。

「藤丸様!」

 だが鏡弥一は蛇に巻き付かれ吊されながら眠っていた。

「藤丸様!」

「うう」

 髷でなく月代さかやきも剃っていない鏡弥一が、海苔衛門の声に蔵の二階で眠りに落ち夢を見ていたのかと思い、目を覚ました。だが、吊された逆さの彼がその場で振り向こうとしてくるくる回って向くごとに顔を向けてきていた。

「おちよまでいるじゃないか」

「お店の尾長鳥の鏡を伝って来たのです。有栖ちゃんと同じ柄の鏡で」

「尾長鳥? それで、七紫の鏡も扉になっていたのか」

 エロスを鏡弥一は睨み見た。エロスは微笑した。

「謎解きを答えられたら、解いてやろう」

 ただし、と付け加えた。

「不思議と鏡の国の住人は助太刀はいけない。お前たちは解けてしまうだろうからね。それと、図形や数学は大和の人間は得意だろうから違うのを出そうか」

 夜、浚われるまでは七紫とトランプの神経衰弱のような貝合わせをしていたアリスだったが、エロスがアリスを見た。

「お前が軸になるんだよ。解くのは彼らだ」

「え?」

 鎖が鳴り見上げたとたん、あたりがいきなり変わってアリスはアリスに囲まれていた。いや、正確には、鏡の迷路にいたのだ。向こうを見ると、雲の流れる青空の下、鏡の迷路横の巨大な木に彼らが吊されている。そして高いところに左に眠る七紫、右の硝子箱に閉じこめられる姉がいた。

 黒い影が現れ、アリスは鏡から肩越しに見上げた。

「お前は今から鏡の迷路を伝って二人の所にたどりつくんだ」

 アリスは走っていこうとして鎖を引かれた。鎖を掴んで男を睨む。

「何カ所も謎解きの壁がある。それはお前には壁の先の部屋は見えない。吊された者達がそれを解いていくんだ。解けたらその部屋を通って次の通路に行ける」

「まずは謎解きの部屋を探すのね」

 アリスの鎖は解放され、走っていった。

 いきなり逆方向へ行くアリスに、海苔衛門が助言しようとしたが、いきなり吊されていた紐が伸縮して彼は叫び、収まった所を黒い衣装の男を睨み見た。

「迷路の助太刀は認めない」

 アリスはそれでしょっぱなから逆と気づいて戻って走っていった。

「きゃあ!」

 いきなり鏡にあの例の鬼芸者が現れて、次には自分が映っていたり、夜叉が鏡を伝って壁越しに追いかけてきて必死にアリスは走って逃げた。姉は「アリス!」と叫ぶ。あのトランプの兵隊が壁になって立ちはだかったり、紅い薔薇があたりの鏡を受け尽くすその先にハートの女王が迫ったり、迷路を駆け抜ける。ようやく一つ目の謎の部屋、心が落ち着く青の光りが灯る場所に来た。鏡の壁にノブが着いているのだ。

 姉、鏡弥一、おちよ、海苔衛門が吊されたままそれを見ていた。


 たどり着いた七紫の所から、いきなりアリスが蔦をつたって空中ブランコの様に海苔衛門に跳び掴まってきたので彼は驚いて耳を紅くした。だが姉の所まで飛ぼうと必死のアリスは構っていられずバアッと飛び立っていった。そして姉のいる台まで跳び乗る。

 呆然とエロスはそれを見た。

「姉さん!」

「アリス」

 ガラス越しに涙を流し、手と手が触れられずに重なった。

「待っていて。すぐに救い出すわ!」

 だが、蓋が開かなかった。鍵が掛かっているのだ。アリスは必死にあたりを見回し、そして木を見たところ、首を傾げて金色に光る鍵を見つけた。吊されて、木漏れ日が射している。

「みんなを救い出してから、すぐに鍵を持ってくるから!」

 涙を拭ってその台からアリスは木によじ登って、まずはおちよの枝上まできたはいいが、女の自分では到底持ち上げられない。鏡弥一が言った。

「有栖。こちらにきなさい。私が解放されれば彼らを引き上げられる」

「はい、鏡弥一様」

 アリスが枝に立ちながら向こうを見た。海苔衛門は上下でアリスとおちよが鏡のようになっている姿。アリスが枝を伝って走って行ったのでおちよは海苔衛門を見た。

「もうちょっとよ、海苔衛門さん」

「おちよちゃん」

「逆さ吊りで辛いのね、分かるわ。もう、ちょっとの、辛抱よ……」

「ああ」

 すぐそこのおちよから目をそらせずにどきどきした。

 海苔衛門は頭に血を昇らせて歯の奥をかみしめた。おちよは励まし続けている。健気で惚れてしまいそうになる。そうだ。いつでもちよちゃんは健気だった。海苔衛門は横のおちよを見て思った。だが、おちよの方がすでにくらくらしていた。

「しばらくしたら、もう、……、」

 おちよは目を閉じ、ぐったりとした。

「おちよ!」

 鏡弥一はアリスが自分の所まで降りてきて手枷を外してくれたので、一気に腹筋を使って自分の足を絡める縄を掴んだ。そしてどんどんと腕の力であがっていく。

「どうした」

 登り切ると向こうの二人をみる。

「おちよが気絶した!」

 アリスもすぐに来て、鏡弥一と二人で海苔衛門を引き上げたあとに、ぐったりして重いおちよを三人で引き上げた。おちよを海苔衛門に任せると、鏡弥一とアリスは不思議と鏡の国の住人を解放して行った。

「ありがとう。ありがとう。あー。もうティータイムの時間はすぎたが毎日毎時間がティータイムさ!」

 双子が同じようにコサックっぽいダンスを踊っていて、ハンプティダンプティは枝に座ってマザー・グースを歌い始めた。

 海苔衛門はおちよの肩を揺らして起こした。

「ああ、海苔衛門……」

 目を覚ますと立ち上がらせる。

 あたりがまた森に戻っていった。鏡の迷路にどんどんと草や葉や蔦がはびこって木が生え始めさきほどの森に戻った。

 おちよも海苔衛門もようやく着物を降ろし、海苔衛門は耳を染めておちよから向こうを見ていた。

 鏡弥一は紳士服ズボンと革靴姿で上半身はさっきから七紫行きになっていたが、彼女はそれも今は放られて宝箱に眠っている。

 鏡弥一が眠る七紫の場所まで行き、頬を撫でた。

「七紫」

「ううん」

 ようやく七紫は鏡弥一の声で目を覚まし、あたりを見た。

「ああ、旦那様……」

 鏡弥一は彼女を抱き上げて箱から出した。長い髪がゆらゆら揺れる。

 アリスは姉の所に行き、真鍮枠の硝子の蓋を開けて、五年ぶりに強く抱き合った。

「ああ、アリス!」

「姉さん!」

 おちよは海苔衛門に頬を染めて彼の横でいじらしくもじもじしていて、七紫はそのままの裸体に黒髪をまるでヴィーナスの様に覆い鏡弥一と戻ってきた。そんな姿が雅でアリスには七紫に大人を感じた。

 おちよが桔梗の鏡をアリスに返すと、アリスは彼らを浚ってきたエロスを見た。

「あら?」

 だが、男はまるであの鏡の迷路と共に、見あたらなくなっていた。


 海苔衛門の部屋で鏡が光ったので、きい坊ははたと顔を向けた。

 「わあ!」

 いきなりの事に驚いたきい坊は、鏡からどしんどしんとアリス、鏡弥一、七紫、おちよ、海苔衛門が現れたのでがたがた震えて彼らを見た。幽霊のような真似をした彼らを。

 アリスが身を返して鏡を探し、沈金蒔絵のそれを見つけると桔梗の鏡で合わせ鏡をした。またアリスだけ鏡に飲み込まれ、しばらくして戻ってきたのだ。

「イギリスと大和を行き来できるようになったみたい」

 アリスは着物とお面になっていて、鏡の国での格好ではなくなっている。

「何の騒ぎだい、どたどたと」

 まるで海苔衛門が米俵でも投げ込んだとでもいうような音に驚いた煎餅屋の主が障子を開けると、なぜか鏡問屋の主と奥方や屋敷の者がいたので挨拶をした。

「これはこれは鏡屋の。はて、何故海苔坊の奴の部屋に」

「これは突然申し訳ない。いやなに、ちょっと」

 どう理由を付けるべきか、咄嗟にアリスが小突いてきて鏡弥一は言った。

「うちの有栖のことで」

 煎餅屋の主人はいきなり恐い顔になって海苔衛門に言った。

「こいつまだあきらめてないのか!」

 アリスがすっと袂に包まれた手腕を上げて言う。

「わたくしは煎餅を焼いたり杵を突いたりお店で煎餅を売ることは出来ないのです」

「あ、有栖」

 はっきり言われて海苔衛門はうなだれた。おちよは心が痛んでかつてない程がっくり沈んでいる海苔衛門の横顔を見て、肩に手を置いて元気づけて言った。海苔衛門だっていつでもまっすぐな人で、充分素敵な人なのだ。

「でも、海苔衛門だってきっと良い人が現れるわ、ね?」

 必死におちよが言った。

「ああ、おちよ。お前さんこそはずっと縮緬で工芸品作りをしているが、うちへ来ようとは考えていないのかい」

 煎餅屋の主人が言うと海苔衛門の肩を持って立たせて押しつけた。

「おちよならちびの時代からの幼なじみで、よくこの馬鹿息子のことも分かってるんだ。気だても良いし、心根が優しい。手先も藤丸の奥様の手ほどきで器用、うちにくれば、ご両親も生活が楽になろう。そうだそれがいい。縁談を持ちかけたらどうだろうか、なあ海苔坊」

「え、な、どど、なっ、そ、ちよちゃ、んと、んあ、」

 しどろもどろの海苔衛門があたふたと腕を動かして真っ紅になって、アリスとおちよを何度も交互に見た。

 アリスは面の内側で歯を剥き、それは見えないが「グルルル」と唸ってみせて威嚇した。おちよは大好きな海苔衛門の目をまっすぐと見つめられなかった。

「な! 縁談の席を設けよう!」

 おちよと海苔衛門の腕を引っ張り込んで、煎餅屋主人が言うと、海苔衛門は再びしおらしく耳を真っ紅にしてうつむくちよちゃんに視線を落として、彼も頬をもっと染めた。激しいどきどきが止まらなかった。幼い頃からずっときい坊と三人で駆け回ったが、おちよはどんどんしおらしい女になっていく。

「おちよ、どうなんだね?」

 おちよがびくっとして顔を上げ、海苔衛門を見てから、またうつむきながらうれしそうに微笑んだ。

「わたし……、うれしい」

 その恥じらいがまさか自分を好いてくれていたからだなんて!

 アリスは安心して真っ紅な二人を見てうんうん頷いた。

「もしかしたら、望みを果たすために鏡の世界に閉じこめられたのかしら」

 アリスは腕を組み、納得してから恋人同士のように似合う頬を染める海苔とおちよをみた。

 そして、鏡弥一を見る。

 ずっと鏡様といたいけれど、恋は恋のままなのだ。とおぼろげに思った。悲しいけれど。自分は時代も違う江戸に迷い込んだ者。

 鏡弥一も七紫も一つの縁談がまとまりそうでうんうんと頷いていたが、ふと、一人思案している有栖を見た。

「………」

 今に有栖にもこういう相手が正式に決まるのだろう。それを思うと、寂しい。だが仕方のないことだ。同じ国の人間なら妾に召し抱えられても、彼女にはしっかりとした母国がある。

 ふとアリスが愛しい鏡弥一を見ると、彼もはっとして、小さく寂しげに微笑んだ。

 アリスは面の内側で身が張り裂けそうな、恋をし始めた当初の痛みを胸に抱えて「浸っていられない恋」と実感し、つと涙が伝った、それはお面で隠れて見えず、頭巾へと消えていった。


 菊は花咲き

 月に同じに

 黄ぃの色して

 空染めんとや

 ほら 月からは 螺子が跳んだぞ

 やれ 菊花の姿に似て

 隙間に入り花びらとなりや

 月夜に菊は作られたもうや

 人の知らぬは 神秘の花よ

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ