断章 SCARS
その男の職場は、とても美しかった。けれど同時に醜くもあった。
ねじくれているというべきか。
要は人工物特有のわざとらしさなのだが、どれもこれも皆きっちり整然と、あまりに隙なく造られているせいで、逆に型崩れしているようにしか見えないのだ。
現に今、彼が歩いているこの後宮の庭園もそうだ。花が咲き乱れ、小鳥がさえずり、透き通った湖面の下では五色の鱗をまとった魚が悠然と泳ぎ、まるでこの世ならざる楽園へと足を踏み入れたかのようなある種の多幸感、安心感を覚えるものの、やはりどこか作為的で芯から美しいとは思えない。
いや。
そもそも彼にとって美しいものなど、たった一つを除いて存在しない。
執事として、従者として、自らが仕える主。
この世界におけるすべての美と徳をその身に宿した女神。
――女神、だと?
男は服の襟を文字通り正し、右目にかけた単眼鏡をずれてもいないのに一度外してかけ直した。
気持ちを引き締めたところで、人工湖に渡された橋に踏み入る。目的地はその最果て――浮島の上の小さなガゼボ。今は開口部が薄いヴェールで覆われ、中の様子を窺い知ることかなわぬあの白亜の建造物だ。
「昼時のご休息の最中、誠に申し訳ございません――」
そして、ほどなくそこへと至り、男は恭しく頭を垂れてのち己が主の名を呼んだ。
リラレル様――と。
しかし返事はなく、代わりとばかりに一匹の仔犬がヴェールの隙間からちょこんと顔を出した。男は少々面喰いつつも、こちらを真っすぐに見上げるつぶらな瞳と相対する。
「コッチにいらっしゃい、ドゥリーヴ」
どのくらいそうしていただろう。やがてガゼボの中から聞こえてきた声に、男の肩がびくりと震えた。同時に仔犬も中へと戻っていった。
「いえ、私めはこちらで結構でございます」
努めて冷静に言う。主の憩いの空間に足を踏み入れることはできない。恐れ多い。
「ソウではないの。今、妾がよんだのは、そちではなくってよ」
主の言葉に男は「はい」とだけ答えた。意図が汲み取れないのはたしかだが、それを質すこと、主人に対して疑問を投げかけることもまたできない。そんな非礼は万死に値する。
「よしよし、ドゥリーヴ、そんなに妾にかまってほしいなんて、そちはホントに甘えん坊さんねェ」
なるほど、とここで男は合点がいった。内部から漏れ聞こえてくる愛くるしい鳴き声は、即ち主人が自分と同じ名前を先の仔犬につけ、寵愛している証なのだと。
――光栄でございます、リラレル様。
感激の念を心中で噛みしめつつも、しかし男は他方でまったく別のことを考えていた。考えるべきではないと解っていながらも、考えてしまっていた。
「では、そちらのドゥリーヴも、ココへ」
「――っ!」
「どうかして? ハヤく入って来なさいな」
「は。失礼致します」
断りを述べ、ヴェールをくぐって中へ。
「オモテをあげなさい」
命じられるままに男は、ドゥリーヴは黙って正面を向いた。
「ごキゲンよう、ドゥリーヴ」
リラレル――。
彼が仕える主にして、西の大国ブロドキン帝国を統べる皇帝カぺリ十三世の妻。
人前に一切姿を現さない、秘皇后。
齢は十か十余り一つがせいぜいだろうか。衣服らしい衣服をまったく身に着けずに露わになった裸躯は小さくか細く、いわゆる〝春〟を迎えた女性特有の丸みや起伏はほとんど見られない。幼妻、と称してしまうにはあまりに年若い、まだほんの小娘である。
「り、リラレル様」
しかし。
そのつるりとした未成熟の肉身には。
「リラレル様におか、おかれましては、本日も大変お美しく」
生々しい傷痍が。
思わず目を覆いたくなるような痕跡が。
二つ。
躯幹と顔面に。
前者は裂傷だ。体前面に十文字に刻まれている。あまりに深く、長く、広く張り裂けている為、ほのかに膨らんだ両乳房の突起は左右共に潰滅して見受けることができない。一見すると剣創のようだが、それにしてはやけに切り口が粗く、真実そうであるのかは判らない。
そして、後者は――あれは一体どのようにしてついたものだろう。炎熱による組織の死滅か、はたまた過度な擦過で削げ落ちたか、左頬の皮膚が耳の辺りに至るまで根こそぎ――そう、まさしく根こそぎに剥がれ、その下の筋繊維ばかりか歯列までもがむき出しになっている。
「美しい――ですって。ドゥリーヴは口がおジョウズねェ」
幼皇后が、瑕のついたあどけない顔をゆがめて笑った。
「アナタもソウ思うわよねェ、わんこのドゥリーヴ」
呼びかけに心底喜んだ様子で、仔犬も鳴き始めた。
途端にガゼボの中が騒がしくなる。
クスクス。
キャンキャン。
ケラケラ。
クゥンクゥン。
キャハキャハ。
深紅のビロードを張ったカウチに寝そべり、仔犬を胸に抱いて哄笑する主の姿にドゥリーヴは我知らず口元を手で覆う。
くにくにと、色白の小さな肢体がのけ反り微動する――。
さらさらと、背丈を超える長い長い黒髪がまばらに遊ぶ――。
ぎちぎちと、露出した顔面の筋繊維が窮屈そうに引っ攣る――。
ヘラヘラ。
ワンワン。
ぎちぎち。
ゲタゲタ。
さらさら。
くにくに。
ワンワン。
ワンワン。
ぎちぎち。
ワンワン。
くにくに。
くにくに。
ぬめぬめ。
ぎとぎと。
どろどろ。
アハアハ。
「ドゥリーヴ」
「はい」
「どこか体の調子でも、ワルくって?」
「いえ、決してそのようなことは」
ドゥリーヴは言った。主人の眼を、傷痍箇所の直上に見開いた紅い瞳を直視しながら、涼しい顔と声で。
「それならイイのよ。ところで、妾にナニか用があったのではないの?」
「は。陛下がお呼びで御座います」
「陛下が? 場所はどこかしら」
「遊興室に御座います」
その言葉を聞いてリラレルは薄く笑う。「好きね、アノ人も」
「それじゃあ、アト片づけ、お願いね」
「かしこまりました」
「またネ、ドゥリーヴ」
ヴェールをめくって、幼皇后は外へと消えた。
ドゥリーヴは主人が去った方向に対し、たっぷり五分ほども慇懃に頭を垂れていたかと思うと、
「もう――大丈夫そうで御座いますね」
卒然と前に向き直り、そして――
「ぁ……ぁぁああ……あああああああ」
全身を激しく震わす、否、痙攣させる。
「り、りりり、リラレルぅ、すぅむぅわぁぁあああああーーーーーー!!」
彼の中で、それまでずっと抑え込んでいたモノが弾けた瞬間だった。単眼鏡をむしり取り、まずは手始めとばかりに傍らのカフェテーブルに置かれた飲みかけの紅茶をずずずずぅぅぅぅぅ、と豪快に音を立てて喉に流し込む。
「リラレル様のっ――唇、唾液、美味しゅう御座いますぅ! 誠に誠に、美味しゅう御座いますぅぅぅぅぅ!」
もう止まらない。止められない。
ドゥリーヴは続けて、ケーキスタンドからこちらも食べかけの丸い砂糖菓子を引っ掴み、小さな歯形がついた箇所にむしゃぶりつく。
「おおお、お赦しくださいぃぃ、リラレル様ぁぁあああ! ほんの一瞬でも貴女様のことを女神、女――神などと貶めてしまった私を、貴女様という崇高な存在の内面に女を見出してしまったこのいやらしく穢れた私めを、どうかどうか、どうかお赦しくださいませぇぇぇぇぇぇ!!」
絶叫がほとばしる。砂糖菓子は涙と鼻水と涎にまみれ、ぐぢゃぐぢゃになっている。
「…………ぅえ? ゆ、赦してくりゃさるのれすか、リラレルひゃま。淫らなこのわりゃくひを。…………っ! かわいがっれ、くりゃひゃる、仔犬みひゃいに?」
呂律の回らない舌で意味不明な発言をし、ドゥリーヴは、
「わぅぅぅぅぅぅうううううううううううううううううんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん!!!!」
衣服を一切脱ぎ捨て、全裸となってカウチに身を投げ出した。そしてそこにほのかに残る主人の薫香に、体温に酔いしれ、さらには抜け落ちた毛髪を舐め取り、口腔内でぺちゃぺちゃともてあそぶ。
「わりゃくひはイヌ……あなりゃひゃまのイヌにごひゃいまひゅよぅ……きゃぅんきゃぅん」
背徳。愉悦。恋慕。崇拝。妄想。堕落。隷属。奉仕。慈愛。官能。絶頂。
脳髄が焼け付くようなありとあらゆる観念に彩られた、昏く赤裸々な遊戯はそのまましばらく続くかに思われたが、
「ぬぅん……?」
不意にドゥリーヴが、怪訝そうに眉根を寄せた。いつの間にか辺りに異様な臭気が漂っている。
「これは」
腐乱した生物の体液に麝香を混ぜたようなこの臭いを彼は知っている。『研究室』でいつも嗅いでいる、あの臭いと同――
「なっんっっ、だとぉ、貴様はぁぁぁあああああああーーーーーーーーー!!」
一瞬の出来事だった。ドゥリーヴの左中指と薬指が根元から食いちぎられた。襲撃者の正体は――犬。最前からずっと姿の見えなかった仔犬である。
「リラレル様か! 私の知らぬ間に食い込ませておられたとは、とんだお戯れを!」
いや、これはもはや犬ではない。先刻までの愛嬌たっぷりの小動物とは違う。
怪物だ。
白目を剥き、全身の穴という穴からブビュ! ブビュ! と膿とも血液とも知れぬ粘液を噴き出し、牙とても元の何倍にも伸びているとあらば――そう呼ぶより他にあるまい。
「なるほど、事情は概ね承知いたしました。それでは、一時でも私を差し置いてリラレル様の御寵愛に与ったその罪、廃棄処分という形で以て贖っていただきましょう」
床に脱ぎ捨てた執事服へ手を差し入れ、ドゥリーヴは紫丹に輝く一挺の鋏を取り出すと、
「さあ、出ていらっしゃい、深淵に棲まう狂精たちよ」
素早く空を薙いだ。
じくり、と景色が割れる。
闇夜を彷彿とさせるその真っ黒な裂け目から、声が。
「遊びましょ」
「うん、遊ぼう」
「ジグザグ斬って」
「グリグリ抉って」
「殺して遊ぶの」
次の瞬間、背中から秋津様の翅を生やした小さな小さな少女たちが、景色の裂け目よりどっと湧いた。少女たちは手に手に鋭利な鎌を持ち、ある者は笑いながら、またある者は歌いながら、かつて仔犬だった怪生物へと喜々として突撃していく。
それからものの十秒足らずで、床の上に使い古したぼろ雑巾のような物体ができあがった。
「いかがでしたか、私が駆使する封魔物――『シザーズ・オブ・マックスウェル』の味は。貴様のごとき畜生には勿体ない、それそれは甘美な苦痛だったことでしょう」
ドゥリーヴは冷酷な笑みを浮かべ、左手の中指と薬指をしゃぶった。……再生していた、すでに双方とも。
「――いけない、この私としたことが、リラレル様に命じられた後片づけがまだ途中ではないか!」
かくて後宮の午後は慌ただしく過ぎていった。
人の手による造形美たちは、素知らぬ顔でただそこに在った。
断章 SCARS 了