エピソード2中編 琥珀の牢獄
漆黒の鎧に身を包んだ痩顔の男は、眼下に累々と横たわる王国兵たちの躯を見下ろし、クッ――と、ひどく癖のあるいびつな微笑を漏らすと、
「他愛もない。貴様らごとき低劣なる女王の飼い犬など、余と余が束ねるギルガメシュの敵ではないわ」
吐き捨てるように言った。
そこへ一人の女兵士が足早に参ずる。男と同じ黒光りする重厚な鎧で武装した彼女は、地に片膝を着き、恭しい態度で告げる。
「帝都より入電。独立強襲部隊ギルガメシュ及びその随伴隊はクラスタより撤退、目標を南西のバドゥトゥに定め進軍し、速やかにこれを制圧せよ」
部下がもたらした新たな指令に、男の眉尻がかすかに持ち上がる。
「あちらは手筈が整ったようだな。――当地を引き取る部隊は」
問いかけに対する答えを聞いて、男はまたしてもあの癖のある笑みと共に、
「先ごろ我が国に亡命したとかいう王国の男か。一体どのような姑息な手段を使って陛下に取り入ったのかは知らんが……まあいい、お手並み拝見といこうではないか」
「イエス、マイロード」
「ときにシェール大尉、貴君はいつまでそうして下を向いているつもりかね」
面を上げよ、との命令に従い女は銀色のおかっぱ髪をかすかに揺らし、上官へと顔を向けた。その端麗で一部の隙もなく引き締まった、しかし女性としての美しさを否応なく醸して隠しきれぬ風貌をじっくりと眺め、男が憎憎しげにこぼす。
「元傭兵で、しかも女。ブレア・シェール大尉よ、貴君は卑しいな。実に、実に卑しい」
そして、己が手甲で覆われた右手を差し出し、
「どうした。忠誠の証を見せよ」
「……は」
女のくちづけを受ける。
「これより我が隊はバドゥトゥを目指す! 陛下の御慈悲に付け込み、長らく享楽を貪ってきた愚民どもに鉄槌を下すのだ!」
バドゥトゥを再び真なる帝国支配下に――!
高らかと上がる気勢を受け、鉄の集団は動き出した。
※
アッシュもライもレインも、早朝突如として長屋の戸口に立った妖婦の言葉に二の句を失したまま、ただただ呆然として彼女の美しい立ち姿を眺めていた。
出で立ちは昨日とはやや異なる。琥珀色の腰布や胸の前に垂らした束ね髪はそのままに、抜群の脚線美が深いスリットから除く純白のドレープドレスに濃紺のジレと、昨日のドレスよりはいくぶん砕けた感じではあるものの、胸元は変わらず大きく開放し、程よく盛り上がった二つの膨らみが旺盛に自己主張している。
「――ああ、この格好かい。これはこうして外を出歩くときの、まあ言ってみるなら普段着さね。いやだよ、そうじろじろと食い入るみたいに見るもンじゃあないよ」
ジレの懐から取り出した、長い羅宇に無数の舞い遊ぶ蝶をあしらったいかにも高価そうな煙管を妖婦が口に咥えると、奥からさっと用心棒のものらしき野太い腕が伸び、火皿に丸めた刻みたばこと火種を投じる。ふぅ、と紫煙が艶かしい唇から吐き出される。
服装は元より、白くきめ細かな肌といい、手入れの行き届いた爪といい、しっとりと潤んだ瞳といい、いちいち婀娜っぽい仕草といい、こうしてこの女を改めて見てみるとその濃艶さは同性のレインでさえ見惚れるほど。格の違いというやつに嫉妬すら覚えない。
「俺を情夫として囲いたいというあんたの申し出だが――断る。理由は多々あるが、まず真っ先に俺はこの街に長居する気はない。故あって一日でも早く旅に必要な馬や食料を調達して出発しなければならない。もっとも、その為にはまとまった資金がこちらも必要で、あんたが俺を買うというなら一晩や二晩程度なら相手をしよう」
それなら構わない、と言って締めくくったアッシュの生真面目なことこの上ない面持ちへと、こちらは心底驚いた表情のライとレインの視線が殺到する。
――兄貴、マジでか!
――アンタ、今の自分が男としてどんだけオイシイ情況にあんのか、ちゃんと理解してないだろ!
二人の声なき声など露知らず、アッシュは黙って女からの返答を待っている。
やがて大笑が、薄汚れた食堂兼台所に響いた。
「冗談、冗談だよ、腕利きのお兄さん。たしかにあたいは昨日の闘技会でお前さんに惚れたさ。それはそれはもう熱烈にね。けど、そいつは飽くまであんたの腕っ節に惚れ込んだンであって、イイ男だの囲いたいだのってのはほんの戯れ、馬鹿真面目そうなお兄さんをちょいとからかってやりたくなったあたいの悪戯さ」
ひとしきり可笑しがった後、女は目尻にうっすらと浮かんだ涙を拭い、こう言った。
「申し遅れてすまなかったね。あたいはベアトリーチェ。西のラギア地区にあるアンバーヘイヴンてえ娼館で客をとってるケチな商売女さ」
アンバーヘイヴン――。ベアトリーチェと名乗る女が口にしたこの語にいち早く反応を示したのは、
「今っ、テメェなんつった!」
やはりライだった。腰掛けていた粗末な作りの木製椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、噛み付かんばかりの勢いで女に詰め寄る。
「姉ちゃんは、オイラの姉ちゃんは元気か――って離せコラ! 離せよ! オイラはこの女に話があるんだ!」
立ちはだかった巨漢の用心棒に羽交い絞めにされ、それでもなおライは姉についての情報を少しでも引き出そうと懸命に訴えを続ける。
「なあ、頼むよ、頼むから教えてくれよ! 二ヶ月くらい前に店に入ったメアリィ――肩にかかるくらいの黒髪で、背はわりと低くて、目がまん丸でおっきな、ちょっと野暮ったいけど気立てのいい娘だって言ったらわかるよな! その娘はオイラの姉ちゃんなんだ!」
「二月前、メアリィ……」虚空に吐き出した紫煙を夢見るような瞳で眺めつつ、ベアトリーチェは考え考え、「ン、ああ、あの娘かい」
「知ってんのか!?」
ライの顔がぱっと明るくなる。
「あたしゃこう見えても、お店で抱えてる娘らの面倒見一切を引き受けてるからね。もちろん新人の世話なんかも」
「だったら――」
「息災さ。まだまだ一端には程遠いけど、健気に頑張ってるよ」
これで満足かい、とすげなく言い放ってベアトリーチェはアッシュへと視線を戻した。「さて、こっからが本題だよ」
「ち、ちょっと待ってくれって!」
泡を食ったのはライである。
「他には、他にはなんかないのかい?」
「他、と言われてもねぇ」
「どんなことでもいいからさ、姉ちゃんのこと教えてくれよ!」
食い下がるライ。対するベアトリーチェは相手の必死の形相にずいっと鼻先を近づけたかと思うと、
「ボウヤさぁ、あんた何か勘違いしてないかい? あんたの姉貴は娼婦やってンだよ、娼婦。パン屋でパンを売ってるわけじゃなくってさぁ。それともなにかい、ボウヤは自分の姉様が一体何人の男とどんなイイコトしたのか、そこんとこを詳しく知りたいってお言いかね。そりゃまた変わった趣味だこと」
官能的な声でせせら笑った。その暗く濃密な威圧感は元より、家を出る時点ではいわゆるおぼこであったろう姉がすでにそうではなくなっているという生々しくも厳然とした事実に、ライは他ならぬ彼女の血を分けた実弟としてひどく気後れし、行き場を失った感情を持て余し、うな垂れ押し黙った。
「忘れっちまうことさね、お互いに。それが一番だよ」
解放してやれ、との意図を込めた主の目配せを受けた用心棒によって床に降ろされた後も、ライは動こうとはしなかった。
ベアトリーチェは、手の空いた用心棒が無言で差し出してきた灰吹きに雁首から灰を叩き落とすと、また新たな刻みたばこを詰めさせて悠々と煙を吐き、アッシュに向き直った。
「さっきの話だけどね、お兄さん。結論から言えば、そう、その通りさ。あたいはあんさんを買いに来た。ただし、男としてでなく剣士として」
「用心棒の一人に、というわけか。だが――」
「心配おしでないよ。なにもそう長く召し抱えようってんじゃないのさ。厄介事が済みゃ、すぐにでも給金たんまり弾んで自由にしてやるよ」
「……詳しく聞こう」
ベアトリーチェの話によれば、事の発端は彼女の上客であるさる帝国軍人とのいさかいだという。いつぞやのゾンダスと同じく北のダスーダ地区の役所本部に勤めるその男は、古くからブロドキン帝国及び歴代皇帝に仕えてきた三名門貴族が一角、マディスン卿の類縁者であるのを笠に着た傍若無人な振る舞いが目立つとして、常々どこの娼館でも要注意人物と見なされ毛嫌いされていた。
「そのコンコンチキがさ、あたいを身請けして自分の嫁に――とこう来やがったのさ。でも冗談じゃあないよ。どこの誰が好き好んであんな下卑た男ンとこ。だいたいねぇ、あたしゃあいつに股開くどころか、手さえ触らしちゃいないんだ。それをどう勘違いしたんだか知りゃしないけど、承知するよないや承知しないはずはないってしつっこく迫ってきたもんだから」
「出入り禁止にしたのか」
「そうさ。ウチの若い衆らにさんざんっぱら殴られてベソかいてやがったよ。イイ気味だ」
しかし、数日後に男を袋にした強面の一人がラギア地区のゴミ捨て場にて遺体で発見されるに至り、事態は急転した。
「野郎本人は短剣一本満足に振えない腰抜けだから、どうってこたない。問題は取り巻き連中さ。忌々しいことに手錬れがウヨウヨ。今日までにもう三人も殺られちまってて、いい加減こっちも鶏冠に来てるってわけさ」
「なるほど、直ちに全面戦争の様相だな」
アッシュの言は決して大袈裟ではない。ベアトリーチェが単なる商売女でないことはここまでの諸々の話――たとえばバドゥトゥで一、二を争う大娼館で女たちの世話を一手に引き受けていたり、こちらも相応の有力者であるはずのその男を上客としつつも手さえ触れさせなかったりという点から自明である。時に高位の娼婦は貴族や王族にも優越する。力と金が支配する獄門街であればなおのこと。そして、そんな彼女と彼女が頂点に君臨するアンバーヘイヴンが喧嘩を売られたとなれば、相手も相手だけに街全体を巻き込んだ一大抗争の勃発はもはや避けようのない必然的な流れと思われた。
「とはいえねぇ、ここんとこあたいらンとこも妙に金回りが悪くってさ。どうも原因はお上のお上、帝国本国のきな臭い動きにあるみたいなんだけど、戦争やらかすにしてもとにかく金がない。もちろん、あっちさんもね。そこで――だ」
「双方の合意の許に手打ちというわけか。トカゲの尻尾切りにあった本人はたまったものではないだろうがな」
煙管の吸い口を咥える色っぽい唇を不敵に歪め、ベアトリーチェは言った。「話が早くて助かるよ」
つまるところこういうわけだ。軍上層部は元々厄介者だった男を見捨て、アンバーヘイヴンの面々に対しどうぞ煮るなり焼くなりご自由に――と。
「血の気の多い連中を説き伏せるのには苦労したけどね。なにしろこいつらときたら、自分たちの面子を潰されるのが死ぬより気に食わないと来てる。だけどそこは、このあたいの顔を立ててどうか堪えてくれろと、まあこういうわけさね」
ベアトリーチェの潤んだ流し目に、けれど用心棒の男は顔色一つ変えることなく突っ立っている。
「その様子だと捜索は順調に進んでいるらしいな」
「まあね。遅くとも四、五日中にはひっ捕らえて、あとは野良犬だか野良猫だかの餌さ」
「そうか。それなら決まりだ」
話は終わったようだ。アッシュはやにわに立ち上がり、
「異論はないな、二人とも」
先刻から口をあんぐりと開けてアッシュらの会話に聞き入っていたレインと、暗い顔で床に座り込んだままのライにそれぞれ質した。
「……え、あたし? あたしは異論なし、全然なし! こんな朴念仁でよろしければ、どうぞどうぞ好きに使ってやってくださいませ」
オホホホホ、とレインは乾いた笑いと共にベアトリーチェに何度も何度も頭を下げた。ベアトリーチェが「あんたの男ってわけじゃなさそうだね」と笑みを返すと、「当然ですよー! こんなつまんないヤツー!」とさらに愛想よく破顔して見せた。
「兄貴、一つ頼みがある」
片やこちら、アッシュのことを見もせずにライは、
「あっちでオイラの姉貴に、メアリィ姉ちゃんに会ったら……」
「ああ」
「……ううん、いいや。別にいい。元気でやってるかどうかだけ見てきて、あとでオイラに教えてくれれば、それで」
承知した、と首肯してアッシュはベアトリーチェを顧みた。
妖婦は、いかにも妖婦然とした悩ましく蟲惑的な微笑を湛え、悠然とたばこを喫していた。
ベアトリーチェと、彼女の護衛として長屋まで同行してきていた三人の用心棒とに付き添われ、アッシュは一路西のラギア地区にあるという娼館『アンバーヘイヴン』を目指す。
「お兄さん――てのもよそよそしくってなンだねぇ。これから何日かはウチに住み込んで同じ釜の飯を食うんだしさ、アッシュって名前で呼んでもかまわないかい?」
「好きにしろ」
「じゃ、決まりだね」
くつくつと妖艶に笑うベアトリーチェが言うことには、こうして外へ出かける際にも馬車などは滅多に利用せず、徒歩が基本とのこと。危険はないのかとのアッシュの問いかけには、「あんなものに乗っかって死角が増える方がよっぽど危険さね」
とはいえ、おそらくはバドゥトゥ中にその名を轟かせているであろう大娼館の顔役娼婦が、筋骨隆々のむくつけき偉丈夫たちを引き連れて往来を闊歩するとなると本人の身の危険とはまた違ったところ――街の機能にも深刻な弊害をもたらす。
道行く人々がことごとく立ち止まってはこちらを見るせいで、通行の流れが大きく滞るのだ。
それこそ最低限の危機回避のためと広く整備された街の幹線路を通り、やむを得ず東のマール地区の端を経由している今など周囲は大変な様相である。商人の街としてただでさえ人が多い当地区、しかも朝という誰しもがもっとも忙しなく動き回る時間帯なのが災いし、あっちでもこっちでも押し合いへし合い、挙句の果てには事情を知らない者同士がいがみ合いの末乱闘に突入するなど、騒然としている。
「あんさんももうこの街じゃあ有名人だからね、無理もないってもんさ」
ベアトリーチェの弁にアッシュは閉口を余儀なくされる。わかっている。さっきから喧騒の中に自分の名がたびたび登場していて、その名と同時に語られている内容が昨日の闘技会に始まりベアトリーチェとの恋仲を疑うものや、いやいやむしろおいたをして引っ張られていく最中だなどという流説まで、皆揃いも揃って好き勝手に言うわ言うわ。事の真偽はさて置いて、ここまでの騒ぎにはさすがのアッシュもいささか辟易の感が拭えない。
「なんなら接吻の一つでもして見せつけてやるかい、ねぇ、アッシュ」
「冗談はよしてくれ」
斯様な状態では先行きに一抹どころか多大な不安を禁じえないアッシュではあったが、一向の足がダスーダ地区の土を踏むに至って周囲の様相は激変。道行く人の数が目に見えて減り、街路に沿って立つランプの灯りもまばら。そして何より、
――雰囲気が、変わったな。
そう。アッシュでなくとも、彼のごとき斬った殺したを生業とする修羅の者でなくとも必ずや気づくことだろう。ここに満ちている空気が他とは異なることに。北でも南でも東でも感じられなかった剥き出しの悪意が、敵意が、荒廃が大気中に充満していることに。
「ここへ来るのは初めてかい?」
ようよう自身の庭とも言うべき界隈へと入り、しかし逆にそれまでとは打って変わったどこか物憂そうな様子でベアトリーチェが訊く。アッシュは黙って首肯する。
「半年ほど前だったかねぇ、このラギアで一人の男が死んだのさ。そいつは子供ンころからここいらでは有名なワルで、盗む殺す犯すなんてのは当たり前、気に食わないヤツに生きたまんま火ぃ点けて手前で囲ってる情婦の一人を抱かすわ、クスリ漬けにした旅の女に爆薬括りつけて高利貸しのお店を吹っ飛ばすわ……まあとにかくキレた所業で相当に名の通ったクズだったわけだけど、どういう因果かこいつには人望があった。別に恐怖で支配してるってのじゃなく、モノホンの忠義で仕える手下が何十人もいた」
左右を無骨なレンガ造りの高層建築物に固められた暗く狭い路地を、紫煙をくゆらすベアトリーチェを中心に一向は進む。あれらは店舗なのかはたまた居住用なのか、その使途は新参者のアッシュにはようとして知れない。
「奴さんの腹を包丁でかっ捌いたのは、そうした手下の一人だって話だよ。金か女か権力か、それともそういうの全部か、憑き物にでも憑かれたか、色々と言われちゃいるが動機は不明。なぜってそいつも、頭を取ったそのすぐ後に死んじまったからさ。対立する他のワル連に攻め込まれてね、手下諸共ひき肉にされちまった」
警邏巡回中らしい武装した役人が前方からやって来て、ベアトリーチェの顔を見るなりさっと路肩に退いた。深々と頭を垂れる彼に、ご苦労だね、との労いの言葉がかけられたが返事はなかった。
「あんさんもゆめゆめ気をつけるこった。たとい腕っ節に自信があろうと、このあたいの息がかかってようと迂闊なヤツは即あの世行き、駄目な時は駄目ってのがここの理で流儀ってもんだからね」
助言には応じずアッシュは行く手を振り仰ぐ。
路地を抜けた先、ここまでの狭小さが嘘のような広い丁字路へと面々は至り、
「さ、着いた。ここがこれからあんたが寝泊りする場所――アンバーヘイヴンだよ」
件の娼館はそのちょうど突き当たりに鎮座し、煌びやかな影を彼らの頭上に落としていた。
「この建物すべてが娼館なのか。またずいぶんと立派なものだな」
「そうでもないさ。増築増築で上や横やと野放図に広がっただけでね」
ただ肥えて膨らいだだけさね、と言って妖娼婦は笑うものの、昨日の闘技会の際に訪れた大劇場もかくやというようなまさに規格外の超大規模建造物に、アッシュは目を見張る。
なるほど、たしかに彼女の言に相異なく建物はどこかいびつな形状をしている。丁字路の突き当たりにさながら城壁のごとくそびえ立つ母屋は別として、実に地上五階建てという重厚な造りのその屋根からは長さも太さもそれぞれ異なる塔がいくつも、無数に上空へと向けて突き出しているせいで、結果的に建物全体の均整が崩れて見えるのだろう。
「母屋には客のための食堂、浴場、簡易宿泊所なんかが入ってて、金さえありゃここで暮らすことだってできる。もちろん賭場だって完備してるから、そこで有り金を増やしてより上等な女を買うってのもアリさね」
「ということは、客と娼婦の交渉はもっぱらあの塔の内部でか」
「別にそうと決まってるわけじゃないさ。あン中には女たちが寝起きする私室だってあるしね」
「人数は。一体何名くらいの娼婦がここで働いているんだ」
「今ンとこ、ざっと七十人ってとこかね」
ベアトリーチェの説明に耳を傾けつつ、アッシュは一面琥珀色に照り映える建物の外壁の随所に備え付けられたランプがすべて黄褐色のガラスで統一されているのを見て取る。同時に、ここが何故『アンバーヘイヴン』という屋号を冠するのかも、解する。
「あっ――ベアト姐さん、お帰んなさい!」
用心棒が先立って娼館正面の大扉を開けると、店のロビーに入ったアッシュらを年若い娘が出迎えた。ここに勤める娼婦なのだろうが、ベアトリーチェの姿を認めるや血相を変えて小走りに近づいてくる。
「チェルシーかい。こんな時間に一体どうしたってのさ。あんた、今日はもう上がりのはずだろ」
「それどころじゃないんだってば!」
ベアトリーチェからチェルシーと呼ばれた娼婦は、独特の愛嬌のある童顔を強張らせ、
「フラニーとケイトが大変なの! フラニーのお客をケイトが盗ったってさっきからずっと揉めてて、ついさっきとうとうつかみ合いのケンカに――」
彼女が言い終わるのを待たずして、これまた若い娘が二名、一同の眼前に卒然と転び出た。一方は色白の、もう一方は色黒の娘二人は互いの髪の毛を引っ張り合い、クソだのアマだのと口汚く罵り合いながら、ロビーに敷かれた毛足の高い絨毯の上で壮絶な取っ組み合いを演じる。なお、双方共に全裸である。
「初めは遠まわしにネチネチ言い合ってただけなんだけど、浴場に入った途端にこうなっちゃって。ケイトがね、フラニーのお腹の肉をつまんで、最近あんた太ったんじゃないか、だからあたしにイイ男盗られたんだって吹っかけたらしくってさ」
チェルシーによる補足は、しかし悲しいかなほとんど聞き取れない。そうでなくとも二人を追って浴場から出てきた者たちと、騒ぎを聞きつけ階上や隣接する諸施設から物見に訪れた者たちとでロビーはごった返し、しかも集っているのが皆年頃の若い娘ばかりとなれば姦しいことこの上ない。甲高い声が交錯する現場に、アッシュは思わず嘆息する。「やれやれ、まるでレインが大挙して押し寄せているようだな」
「ったく、ブチョとゴンズはどうしたい。あいつらはどこで油を売ってんだよ」
ベアトリーチェが口にしたのは店に詰めている強面連中の名だろう。揉め事が起きているというのに、彼らが仲裁しないことに腹を立てているらしい。
「ダメダメ、あの二人ならピット3の202でジューン姐さんに心中迫ったバカを取り押さえに行ってるから」
他もなんやかんやでみんな出払ってるよ、とチェルシーより伝え聞いたベアトリーチェが、
「あんたたち、いい加減におしよ!」
見るに見かねてついに動いた。柳眉に怒りの色をくっきりと浮き上がらせ、ずかずかと大股で豪胆にも大立ち回りの中心へと割って入る。
「そこまでだって言ってんだよ、このスベタどもが!」
びしゃりびしゃりと、続けざまに二度響いた音に場が静まった。自分たちの大姐ともいうべきベアトリーチェにしたたか頭を張られ、騒ぎの張本人である両人もすっかり消沈してうな垂れてしまっている。
「わかってんのかい、あんたたち。娼婦の体ってのは大事な商品なんだ。そいつをこんな場所で晒してタダ見さして、挙句に傷までつけ合うたあ一体全体どういう了見だい、えぇ?」
「け、けどベアト姐さん、ケイトったらヒドイんだ! せっかくあたいのこと気に入って通ってくれてる武器屋の若旦那に、あいつは性悪でしかも病気持ちだから相手にすんのはおよし、だなんてウソ言ってあの人のこと自分のもんにしようとしやがったんだもの!」
色黒の娘の訴えを受け、ベアトリーチェは刃のように薄くした双眸でもう一方――色白の娘を流し見た。「ほんとかい、ケイト」
「……ちょっとした冗談じゃないの、そんなの。信じるなんて思わなかったし」
すると彼女は投げやりな態度そう言って、さらに深くうつむこうとした――が、ベアトリーチェはそれを許さなかった。片手で顎を下から掴み上げ、その顔を強引に自分へと向けさせる。
「事実なんだね、今、フラニーが話したことは」
「は……はい……」
「なるほどねぇ」
妖婦は濃艶に嗤ったかと思うと、
「だったらあんたはお払い箱だ、ケイト」
不意に冷然とした口調で言い放った。
「もちろん、落とし前をきっちりつけてもらってからね」
そして、そばにいた用心棒の一人に向かって顎をしゃくる。すかさず色白の娘は野太い腕によって背後からがっちりと拘束されしまう。
「いや、姐さん! お願いだからそれは、それだけは堪忍して!」
「ダメだね。病気持ってる娘が働いてるなんて、そんなお店の評判を地に落とすような法螺を吹くヤツは見逃しちゃおけないよ」
ベアトリーチェが口にした落とし前という文句の意味するところは、部外者であるアッシュにも容易に想像がついた。指を切り落とすか眼球を潰すか、いずれにせよ店の情報を外部に漏らさせないための、要するに口止めを兼ねた凄惨な仕打ちであろう。
いずこかへとひったてられていく最中、憐れな元娼婦は自分がこれから味わうはずの地獄の責め苦に絶望しながらも、涙ながらに叫んだ。
「好きだったんだ、あたし、初めて見たときからずっとあの人のこと、だから――だからっ!」
そうした想いが伝わったのかどうか、ベアトリーチェはほんのわずか表情を陰らせ誰にともなく、「ここじゃ浮かばれないのがほとんどさ」
騒ぎが治まり、集っていた娼婦たちも三々五々散っていった。
アッシュは吹き抜けの天井を仰ぎ、しばし回廊状に配された各々の部屋へと女らが引っ込んでいく様子を何とはなしに眺めていたが、やがてベアトリーチェに呼ばれて正面に向き直った。
「部屋に案内するから、ついておいで」
広々としたロビーを、さきほど二人の娼婦が飛び出してきた浴場の入り口を背にして壁際まで進むと通路があり、アッシュはそこをベアトリーチェの背に従って進む。なお、用心棒たちの姿はない。さすがに店の中では単独行動ということか。
「これからあたいの身辺に置くのはアッシュ、あんさん独りだからそのつもりで。ンまあ、朝から晩まで四六時中、どこに行くにもべったりってのは気が滅入る話だろうけど、精々気張って守っておくんなね」
違うようだ。だが本当にそれで安全が確保されるものかと、アッシュは疑問を呈した。
「あんたがいればウチの男連中十人――いいや、十五人に囲まれてるのと同じさね」
「買いかぶりすぎなんじゃないのか、この俺を」
「冗談。あたいはこれでもそっちの方の目利きにはちっと自信があってね」
通路の途中に現れた幅広の階段を、二人は上階目指して上り始める。
それにね、とベアトリーチェが後ろを振り返った。
「あんたは色事にもさっぱり興味がなさそうで、そこがまた打ってつけさ。いくら腕が立つったって、風呂に入るときも寝るときもすぐそばに置いとく相手なンだから、信頼が置けないとねぇ。こちとら虫ケラ一匹つまみ出せないか弱いご婦人なんだ、襲われたりしちゃ堪らないよ」
「ふむ、安全性を最大限に考慮すれば一緒に入浴し、眠る際も枕を揃えてというのが妥当か。しかし、用便はどうする?」
生真面目な表情で訊いてくるアッシュにベアトリーチェは一瞬きょとんとし、
「あんた、本当に面白い男だね!」
真鍮製の手すりを叩いて呵呵と大笑した。
「風呂釜も褥も一緒だなんて、誰も言っちゃあいないよ。新婚夫婦じゃあるまいに、恥ずかしいったらありゃしない」
「だったら俺はどこに身を置けばいい」
「馬鹿だね。脱衣所でも次の間でも、あんたの足ならひとっ飛びじゃないのさ」
アッシュは首肯した。「最善を尽くそう」
そうこうしている間に妖娼婦と彼女の護衛は四階まで辿り着き、そこからまた長い廊下を進む。左右の壁には同じ造りの扉が疎らに配されていて、ベアトリーチェによるとそのすべてが娼婦たちの私室、それも店の中で特に人気のある売れっ子らの部屋だという。また、ここアンバーヘイヴンには大きく分けて二つの区域が存在し、今まさにアッシュとベアトリーチェがいるこの母屋が『シー』、母屋から伸びた塔は『ピット』とそれぞれ呼び習わされ、ピットに関しては呼称のあとに来る数字が塔の番号、最後が部屋番という具合にきっちり管理されているとのことだった。
「さっきチェルシーが言ってたろ、ピット3の202ってさ。ありゃそういう意味さね」
アッシュが得心すると同時に、ベアトリーチェは廊下の最奥にて足を止めた。これまで見てきた同階他室のよりもいくぶん大きく立派な造作の扉が一枚、二人の眼前にひっそりと佇んでいる。
「掃除する暇がなくってね、ちょっとばかし汚れちゃいるけど……」
お決まりといえばお決まりの前置きをした上で、部屋の主は開錠した扉を開け放ち、アッシュを中へと導き入れた。
ご多分に漏れずというべきか、多くの場合そうであるように前置きは単なる謙遜であった。
出入口の佇まいに反してさほど広くもない室内には塵一つ見受けられず、清潔感にあふれている。天蓋を備えた絢爛な寝台とその傍らにそそり立つ背高の衣装収納を除けば、それらとは対照的な質素極まりない小型の丸テーブルや同種の安楽椅子くらいしか家具を保有していないあたりも、彼女の粋で闊達な気質を反映してか要と不要が実に明朗で、これがまたこの部屋に小ざっぱりとした印象を抱かせるのに一役買っていると言っていい。浴室だの手洗いだのが個別に完備されているのは、娼館の運営にまで携わる重鎮の私室なればこそであろう。
「ちょいとアッシュ、殿方がご婦人の花摘む場所をそんなじっと観察するもんじゃないよ」
あんさんの寝床はこっちだよ、とアッシュは彼が入室するや無遠慮に手をかけ開放した戸とは正反対の方向――次の間へと引っ張られていく。そちらは納戸として機能しているようだったが、せいぜい使われなくなった調度品や古びた長持がいくつか壁際に置かれている程度で、アッシュ一人が寝起きするには充分な広さと清潔さを有していた。
「おっと、シーツを持ってこさせないとね」
そう言うとベアトリーチェは、自室の隅の壁からちょこなんと顔を出した金属管に歩み寄り、
「事務室、あたいだよ。誰か返事しな」
円筒形の内部に向かって呼びかけた。一定規模以上の施設でしばしば見られる斯様な通信手段は、アッシュも王都やクラスタの官舎で日常的に使用していた。
『姐さん、何か用事?』
「なんだい、チェルシーかい。あんたまだ自分の部屋にすっこんでなかったんだね。どうせまたマヘリアやコニーと一緒ンなって下らない与太で盛り上がってんだろうけど、いい頃合で切り上げないと体に障るよ」
『はーい』
お気楽な返事と共に、くすくすと女たちの笑い声が管を通して聞こえてくる。ベアトリーチェはアッシュを顧み、小さく肩をすくめた。
「そりゃあそうと、今日からあたいの身辺警護についた男、そいつが使うシーツを持っといで」
『あ――それってさっきロビーで姐さんが連れてた人?』
「そうだよ。アッシュっていって、今日から数日あたいの次の間に泊まるから、あんたたちもよろしくしてやっとくれ」
すると今度は、きゃあ、だの、やっぱり、だのと色めいた嬌声が漏れ聞こえてきて、ベアトリーチェは堪らないといった様子でこめかみを指先でおさえた。事務室は一階ロビーの受付奥に位置しているそうだが、今そこでチェルシーら噂好きの娘連がどういった手の話題に花を咲かせているかは考えるまでもない。
『もうっ、コニーったら抜け駆けはズルイわよ! マヘリアも、姐さんの部屋にシーツ持ってくのはあたしの役目なんだからね!』
揉めに揉めた結果、数分後にベアトリーチェの私室へと届けられたシーツはきっちり三枚。そのすべてを件の三人娘たちが一斉に持参したとあっては、やはりアッシュはここでの自身の暮らしぶりに並々ならぬ精神的疲労が伴う予感を禁じ得じずにはいられないのだった。
「それでね、あたしは涙ぐむその客にこう言ってやったの――『お兄さん、あんたの気持ちはちゃんと伝わったよ、嬉しいよ。けどいけない。あたしみたいなすれっからしを娶ったところで、お兄さんは幸せになんてなれやしない。あぁ、そうさ、あたしだってあんたのことを好いてるさ。でもね、だからこそあたしは、好いたお兄さんをこの手で不幸せにしちまうのが、どうにも忍びないんだよ。わかってくれるね、あたしの切ないこの気持ち……』。ねえ、ねえねえねえ、そっからどうなったと思う?」
ベアトリーチェの私室の、脱衣所へと続く戸の横の壁に背をもたせかけ、アッシュは護衛対象の入浴が始まってから目下数十分来、この愛らしい猛獣との熾烈な格闘に身を投じていた。
「一体どうなったんだ」
「聞きたい? 聞きたいの、ねえ、アッシュ」
「そうだな。実に気になる」
「仕様のない人だねぇ、アッシュはさぁ」
じゃあ話してあげるぅ、と満面に笑みをみなぎらせて猛獣、もとい童顔の娼婦チェルシーは嘘とも真ともつかぬ自身の色話の続きを熱っぽく語り始める。
「そしたらそいつさ、もしも生まれ変わったらきっと一緒になってくれろと、こう来たの。しかもおいおい泣きながら。あたしったら、あやうく笑っちゃうとこだった!」
「そうか」
「……あれ、なーんか興味なさげだね。あっ、もしかして疑ってる? あたしが何人の男を泣かせてきたか、この可愛い顔でどれだけたくさんの男を手玉に取ったか、そのへんのこと」
「そ、そんなことはない。断じてないぞ」
怪訝な表情のチェルシーに、このままではまたぞろ面倒なことになるとアッシュは泡を食い、頬の筋肉を笑みの形へと強制的にひん曲げた。
「だったらさ、言ってみて。素直な感想。アッシュから見て、あたしってどう?」
「抜群の器量良しだと思うな」
「ほんと? ほんとにそう思う? あたしとイイこと、したい?」
「無論だ」
相手の淀みない返答に気をよくしたのか、ほんのり上気したチェルシーは「ウフフ」と口元に手を添えほくそ笑んで、
「でも、ダーメ。ベアト姐さんからそのことはきつく言い聞かされてるから。アッシュには絶対にちょっかい出すなって。からかうのは結構だけどって」
からかうのは許可したのかと、アッシュは痛む頭を思わず抱えてしまいそうになる。その一方でチェルシーは、ベアトリーチェに持参を命じられるも結局は不要だった石鹸の匂いをくんくんと嗅いで、何やら楽しげにしている。
バドゥトゥきっての大娼館アンバーヘイヴンにアッシュが住み込んでから早二日と半日、万事がこの調子だった。
三度の食事よりも色を優先する若い娘たち。彼女らにとって、ある日突然店に転がり込んできた見知らぬ剣士は恰好の標的だった。精悍な顔立ちだの寡黙で謎めいた性格だのといった、ごく上辺だけの人物評のみでも興味をそそられて仕方がないというのに、この上その美男剣士が数日前の闘技会にて立ち塞がる強敵どもをばったばったと切り倒した手錬れで、しかも自分たちが日頃から憧憬してやまないベアトリーチェ大姐と寝食を一にする専属用心棒とくれば、放っておく手立てはない。鴨がネギを背負ってのこのこ現れたとばかりに入れ替わり立ち代わり会話を持ちかけ、からかってはくすくす笑い、ある娘は色っぽい眼差しで見つめてみたり、また別の娘は変に意地らしく振舞ってみたり、はたまた違う娘などは子供じみた意地悪をしてわざと困らせてみたりと、銘々好き勝手にアッシュをもてあそんで愉しんだ。
果たしてこうした日常はアッシュの精神を蝕むには充分だった。それもそのはず、自分と同小隊に所属する戦友レイン・ヒッチコック上等兵ですら、彼女たった一人分の言動でさえも複雑怪奇で理解不能だと持て余しがちな彼のこと、手前の対応のし方一つでまるで万華鏡のように千変万化する無数の女心は、もはや戦場で命を奪い合う兵どもにも匹敵する厳然とした脅威であった。
たとえば、すげない対応をしてみたとして、当然これにも個人個人で様々な反応が返ってくるわけで、アッシュが記憶している範囲であれば、
『もういい。つまんない』――怒る。
『どうせ時間の無駄よね、あたしの話なんて』――しょげ返る。
『ああん、そういうとこ、そうやって誰にも媚びないとこ、素敵よ』――喜ぶ。
『いやだわ、この人ったら、ほんとは照れてるだけのくせして。ちゃんとわかってるんだから、平気よ』――これに至っては一体どういった感情の発露なのか皆目検討がつかない。
とまあ、アッシュとしてはほとほと困り果て、ついに昨夜は群成す女娼の一団に囲まれ揉みくちゃにされる悪夢にうなされるほど追い詰められている次第なのだが、さきほどチェルシーも言ったように同伴しているベアトリーチェはほとんど助け舟を出してくれず――警護の支障になるような場合は除くが――、ならば是非もないと、アッシュはアッシュらしく持ち前の冷静な思考を巡らせ、ようよう今朝になって状況の打開策に思い至った。
幸いこの二日でたびたび自分にちょっかいを出してくる娘の顔と名前は覚えた。あとは彼女ら一人一人の性格に応じた立ち回りを演じ、それとなく心持ちをよくしてやることで上手くあしらえるはずだと、彼は踏んだのだ。
本質的な話は抜きにして、世の男性の大半が誰から教わるでもなく実行できる自然な異性との接し方を、アッシュは苦心の末にやっと会得しつつあった。
「ところでさぁ、ほんとのとこはどうなのよ」
「何の話だ」
「とぼけちゃって。ベアト姐さんよ、ベアト姐さん」
しかしながら、これにだけは今もって明確な打開案が見出せず、
「またそれか。俺もベアトリーチェもさんざん説明している通り、お前たちが期待しているような浮いた関係などではない」
言葉にしてから、アッシュは頭の片隅で思う。そうなのだ。彼女たちは期待しているのだ。自分たちが色っぽい仲、もしくはどちらかが相手に対して恋慕の情を抱いていると、そうでなくてはつまらないと。といって娘たちの心持ちをよくしてやる回答は、この場合はできない。たしかに、娘たちと適度に友好関係を結び、自身の負荷を最小限に食い止めることは必要とはいえ、偽りの真実を話してまでご機嫌を取るつもりはない。
「そんなつれないこと言わないでさ、ね、考えてみてよ。お願い!」
「お願いなどされてもな」
またぞろ妙なことを言う娘だと、アッシュの内心はいっそう毛羽立つ。
「大丈夫だって。ベアト姐さんったらああ見えてすっごく家庭的なんだから。お料理でしょ、針仕事でしょ、掃除でしょ、洗濯でしょ、とにかく何でもござれ。おまけにとびっきりの美人だし、体だって――ほら、あのとおり抜群じゃない」
浴室の戸を指差すチェルシーにアッシュはにべもない。「見えんし、見たこともない」
「でもほんと、すごい人なんだよ、ベアト姐さんってさ」
ふと、チェルシーの声が勢いを失した。
「お店の一番てっぺんで経営やってる『おふくろさん』たちにこき使われて、あたしら後輩の下らない愚痴に付き合って、用心棒連中にあれこれ指示出して、お金の計算して、組合の会合に行って、食事もたまに作って、店の修繕なんかもして……いつも寝る間も惜しんでがんばってるんだ、姐さんは。そりゃね、顔役やってんだからそれくらい当たり前っちゃ当たり前なんだけど、それでもやっぱりすごいよ」
笑って見せる幼顔は、けれどわずかに悲しげでもあった。
「ベアト姐さんから聞いた? あの人、もう少しで引退するんだ」
「いや、初耳だ」
店を辞めるのかとアッシュが問うと、チェルシーは「あちゃあ、言っちゃまずかったかな、これ」といささか気まずそうにしていたものの、結局は、「ま、いっか」
「店を辞めるわけじゃないよ。ただ、もうお客は取らないんだって。歳も寄ってきたし経営のほうに精出すよ、って姐さんは言うんだけど、実際あたしらとしちゃ複雑。姐さんがまだまだ現役を退くような歳じゃないってのは誰もが知ってるし、けどお客の相手してお店の切り盛りしてってのがどれだけ大変かもわかってるし」
雪のように真っ白な石鹸を鼻先に近づけ、穏やかな表情でチェルシーは言う。
「この店の人間はみんな姐さんのこと大好きだからさ、幸せになってもらいたいんだ。姐さんのことを真剣に好いてくれて、一生大事にしてくれる人――そういう人が身請けしてくれればなって話よ。間違ってもあんなトンチキんとこにもらわれてっちゃダメ」
「ベアトリーチェにしつこく言い寄っているとかいう、例の帝国軍人か」
「そうよ! 寄りにも寄ってあんなゲス野郎が姐さんの現役最後の客ってだけでもヘドが出そうなのに、このうえ身請けだなんてとんでもない! だからぁ」
含蓄ありげな視線がアッシュへと注がれる。
「俺に代わりに娶ってくれと、そういうことか」
得たりとばかりに座していた椅子からチェルシーは立ち上がると、
「まあねぇ、いつ死んでもおかしくない兵隊なんて渡世の男と一緒になったって、すぐにやもめになってツラいだけかもって心配しないでもないけどさ、でもアッシュ、あんたってそりゃもうムチャクチャ腕が立つって評判じゃない。王国では殺戮兵士だとか狂戦士だとか呼ばれてるって」
つかつかとアッシュの眼前に近づいて、脇腹を何度も肘で小突く。
「果ては大佐か将軍か。男っぷりも言うことなしだし、浮気なんかとは縁遠いだろうし、こりゃあ決まりだね」
「なァにが決まりだって?」
唐突に割り込んで来た声に、チェルシーはぎょっとして後方に飛び退いた。同時に脱衣所へと続く戸が開き、中からドレープドレスとジレをきっちり纏ったベアトリーチェが笑顔で、しかし素嬪の滑らかな頬をかすかに震わせつつ姿を現した。
「あららら、姐さん今日は早いのね。もっとゆっくり浸かってればいいのに」
愛想笑いで誤魔化そうとするチェルシーの頭頂部をぴしゃりとやって、
「馬鹿言ってないで粉黛の支度をおし。出かけるよ」
妖婦は簡素な木の椅子に腰を落ち着ける。
いそいそと衣装収納から大振りの化粧箱を取り出し、チェルシーが問う。「行き先は?」
「ジョージ・ワトソン――あんたの上客のとこにさ」
やはり見た目相応の重量があるのか、ちょうどその名が出た瞬間、にわかによろめきかけたチェルシーにアッシュが手を差し出すも、大丈夫だと辞去される。
「ん、ああ、あいつかぁ。いくらくらい滞納してるんだっけ?」
「ざっと4千バルムってとこかね。ったく、あいつンちは祖父さんの代からのお得意様だってんで、こっちも特別に大目に見てやってたってえのに、一向に返す気配がないときてやがる」
ベアトリーチェはジレの懐中から煙管と小振りな巾着袋を取り出すと、巾着袋に詰めてあった刻みたばこを火皿へ押し込み、自らマッチを擦って着火しさもさも憎憎しげに紫煙を吹き散らした。
「お沙汰はどうするの?」
「そうさねぇ……金額が金額だけにあたいとしては生爪の二、三枚も引っぺがしてやりたいところだけど、ヤツのじい様と親父さんにはこっちも借りがあるしね、耳揃えて返すってんなら出禁だけで勘弁してやるよ」
上役の下した裁定が不服なのか、チェルシーは「えぇー!」と叫んで眉をハの字にひん曲げた。
「姐さんったら甘いよ。あいつ、あたしとさんざんイイことしといてそれを踏み倒すつもりだなんて、そんなの絶対許せない。とっちめてやんないとこっちの気が治まらないよ」
これに対しベアトリーチェは紫煙を吐き吐き不敵に笑んで、
「へぇ、あんたも言うようになったじゃないのさ。だったらどうだい、一緒に行って好きにしてみるかい」
「うん! ぎゃふんと言わしてやるんだから!」
白粉を手にした細腕に貧相な力こぶを作り、幼女然とした娼婦は気勢を上げるのだった。
店に多額のツケがあるというワトソン氏の自宅は、アンバーヘイヴンから徒歩で約十分程度、隣接するダスーダ地区の外れにそれなりの風格を漂わせる一軒の屋敷として存していた。
ベアトリーチェの弁によると、なんでも数年前に他界した先々代当主――ワトソン氏から見て曾祖父にあたる人物――が若かりし頃に金脈を掘り当てたとかで、今はその使っても使いきれない莫大な遺産を代々食い潰しながら暮らす、典型的な成金一家なのだという。
「さァて、ご当主。お宅の坊ちゃんがウチにこさえてくれたツケ、一体全体どうしてくれるってんだい」
召使いによって通された不必要なまでに広大な応接間にて、ベアトリーチェは左にアッシュ右にチェルシーをそれぞれ控えて立たせ、客人用の豪奢な革張りの安楽椅子の上で優雅に紫煙を燻らせる。
「もちろん、全額支払わせてもらいますよ、もちろんですとも」
片やこちら、子息である件のワトソン氏、改めジョージ青年を伴って応対に出た彼の父親――ワトソン家の現当主はといえば戦々恐々。安楽椅子と同じ革張りのカウチソファに今にもずり落ちんばかりに浅く腰掛け、隣に座らせた息子を横目でちらちらと睨みながら、青ざめた卑屈な笑みでもって対座するアンバーヘイヴンの歴々と相対している。
「いやはや、まことにお恥ずかしいかぎりですが、私もこのバカ息子にはほとほと手を焼いている次第でして。なにしろこいつときたら邸内で顔を合わせてもろくすっぽ口も利かないどころか、近ごろではまともに家に居たためしがない。まったく、毎日毎日どこをほっつき歩いているのやら、これでは私も安心して家督を譲れるのかどうか、それはそれはもう心中穏やかでなく――」
ひとたび口を開くや当主はなんのかんのとひたすら独りで喋りどおしだったが、要は此度の借金のことを自分は一切関知していない、そもそも日頃より家の金はいくらでも好きに使っていいと言い聞かせているからして自分に落ち度は少しもない、むしろこんなことになっているとは露ほども知らず驚き困惑しているのはこちらの方だ云々(うんぬん)と、ひとしきり自己弁護めいた文句を並べ立てたのち、
「大変遅くなって申し訳ありませんが、こちらにこれこのとおり、全額お返しいたします」
こちらとあちら、対座する両陣営の間を分かつ総翡翠作りの巨卓上に、剥き出しになった分厚い紙幣の束を恭しく供した。
ベアトリーチェは札束を手に取り、流麗な指さばきでしばし中身を検めていたかと思うと、やにわに「おや」と小さく呟いて当主に視線を送った。
「利息と迷惑料ですよ。金額がご不満でしたら仰ってください」
「いいや、充分さね」
紙幣の枚数は実に元本の倍近くあった。これなら文句はないと、ベアトリーチェは返済金をアッシュに手渡し、持参してきた集金袋へと詰めさせた。
「ご納得していただけたようでなによりです。それではこれで――」
「待ちな」
早々に会談を打ち切ろうとした当主は、けれど濃婦の冷然とした声に虚を突かれ、身を固くした。
「まだ……なにか?」
その怯えきった上目遣いには取り合わず、ベアトリーチェはジョージ青年へと視線を移し、
「よう、ずいぶんと久しぶりだね、お兄さん。ところで、ウチの子があんさんにどうしても話したいことがあるってンだけど」
聞いてやってくれるかい、と質したときにはもう、彼女の横に控えていたチェルシーは矢も盾もたまらないといった様子で事を起こしていた。
愛らしい若葉色のシュミーズから蹴出したつるりとした生足で、何らためらう素振りもなく眼前に横たわる巨卓を踏みつけするりと躍り上がると、ちょうど自分と真正面、そこで会談当初から終始うな垂れ沈黙するジョージ青年の後ろ髪に手を伸ばし、鷲づかみにして、その気弱そうではあるが端正な顔を力任せに卓の天板へと叩きつけたのだ。
思わず耳を覆いたくなるような鈍く生々しい衝突音、そして、一見すると十代半ばがせいぜいといった小娘によるこの突然の蛮行に、ワトソン家当主は「ひっ!」と悲鳴を上げてソファから転げ落ちた。完全に腰が抜けてしまっている。
「おい、テメェ、カス野郎。あたしの体でさんざんっぱらイイキモチになっといて、その代金支払わないたぁどういう了見だよ、アア?」
卓上にてがに股で蹲踞し、娼婦はほとばしる感情に身を振わせる。剥き出しの歯、血走った眼、もはやあの人懐っこく愛くるしい容貌は面影すらない。完璧に狂犬のそれである。
「これで終わったと思ってんじゃあねえぞ。たとえ姐さんが許したってなあ、テメェみたいなゴミ虫に手垢つけられたこのあたしの気は収まらないってんだよぉ!」
直後、再度の一撃。いったん高々と吊り上げられたジョージ青年の顔面が急降下し、翡翠の天板にしたたかぶち当たる。すでに鼻からの出血で真っ赤な水溜りが広がっていたその場所に、さらに大量の血液がどくどくと流れ出す。
ここでチェルシーはおもむろにジョージ青年を解放し、ちらりと彼の父親を、愛息を無残な仕打ちから助けようともせずただただ床上で震え慄いているだけのワトソン家当主を一瞥して小さく鼻を鳴らし、またすぐに虐待対象へと向き直って、
「テメェはもちろん、今後一切ウチの店には出入り禁止だよ。けど、それだけじゃあやっぱりあたしの気分は晴れない」
残忍な笑みを満面いっぱいに浮かべると同時に後方を振り返り、手招いた。
「本当にやるのか」
呼び立てられたのは他ならぬアッシュだった。アッシュは、傍らの安楽椅子で頬杖をついてのんびりとたばこを喫し、物見遊山に興じるベアトリーチェに重ねて問う。「いいんだな?」
「奴さんはあの子の客さ。だったら好きにさせてやるのも、また筋ってもんさね」
「承知した。だが、あんたの護衛とはまったく無関係なこの仕事の給金の上乗せは、忘れてくれるなよ」
念を押してから、アッシュは卓を迂回してジョージ青年の許に参じ、どくどくと両の鼻の穴から鮮血を垂れ流す彼の左手を掴んで卓上に押し付け、がっちりと固定した。
「どの指からだ」
「んー、どれにしよっかなぁ」
そうして、チェルシーが元のあどけない雰囲気を醸したのは、ほんの束の間にすぎなかった。
小指、と抑揚を欠いた無感情な声が告げて、苦悶に満みた大絶叫が応接間に木霊した。
ジョージ青年の左手小指の背は手の甲と完全に密着している。アッシュによっていとも容易く、無残にもへし折られた結果だ。
「続けるか」
問いかけに対しチェルシーはきっぱりと首肯し、次なる標的を無言で指し示す。
「薬指だな。承知した」
逃れられないよう、アッシュに背後から万力のような力で羽交い絞めにされたジョージ青年。迫り来る二度目の激痛、その恐怖に耐えかねたのか彼は初めて、「ゆ、許してください……」
「おいおい、今さらなんだよ」
「お願いします、どうか、どうかもう勘弁してください」
「イヤだね」
「そんな――っ! 僕があなたにしたことは謝ります、謝りますから!」
「テメェがあたしにしたことぉ? あれぇ、それってなんだっけか?」
「そ、それは……」
「言えよ」
「それ……は……」
「言えったら! 折るぞ!」
「ぼ――僕はあなたを性欲の捌け口にしました! さんざんイヤらしいことをして、あなたの体を汚しました! にもかかわらずお金を払いませんでした! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 後生ですから、お願いですからもう折らないでっ!」
ダメ、とチェルシーが言い捨て、薬指があらぬ方向へと折れ曲がった。
涙と涎と、血混じりの鼻水を垂れ流し、ジョージ青年は断末魔のケダモノのごとく体をむちゃくちゃによじって暴れる。いや、それだけではない。
「うっわ、汚ねっ! こいつチビリやがった!」
鼻をつくアンモニア臭に顔をしかめ、たまらずチェルシーはアッシュに抱きついた。
「やーだー! こいついい年してお漏らししてるよぅ、ねえ、アッシュ見て、見て見て!」
失禁し悶絶するジョージ青年を、ぶらりぶらりとアッシュの首にぶら下がりつつ揶揄する。実に愉快そうである。
「ま――そういうこった。これに懲りたら金輪際、ウチの敷居をまたぐんじゃあないよ」
頃合と見たか、ベアトリーチェが安楽椅子から立ち上がり、二人を促してワトソン父子に背を向ける。
「毎度あり。アァ、お父上の方は、これからもどうぞご贔屓に」
微笑みかけられた当主もまた、息子と同じくズボンをしとどに濡らしていたのだった。
アッシュがダースダ地区の豪邸でいたいけな借金青年の指をへし折っていた、ちょうどその頃。
「なあ、レインさぁ、勝手にそんなもん買ってきて、あとでアッシュ兄貴にバレたら怒られるんじゃねえの?」
「知ったこっちゃないわよ。だいたいね、自分で稼いだ金であたしが何を買おうと、あたしの勝手だっつーの」
彼がまとまった資金を調達して帰還するその日をただ待つ身のこの二人――レインとライは、そうした物騒な事柄とはおよそ無縁の、のんびりとした日常を謳歌していた。
「そう、それだよ。ここんとこ急に羽振りがよくなったみてえだけど、一体どうやって稼いでんだ?」
長屋から少し離れたいつもの河川敷。アッシュが出稼ぎに赴いた後も、ライは言いつけを守って当地へと通い剣術の訓練に精を出し、レインもレインでお目付け役としての任を一応はまっとうしていたが、
「あんたには関係ない話よ」
「いや、でも」
「あー、もー、ここ暗いわね! これじゃあ綺麗に仕上がってるかどうかわかりゃしないわ!」
ランプ燈の仄明かりの下、長屋から持ち出してきたボロ椅子に座るレインは手鏡片手に青筋を立てる。ちなみにもう一方の手にはおしろいたたきが見られ、どうもさきほどから化粧に専心するあまりライの監督を事実上放棄しているらしかった。
「なあなあ、教えてくれよ。オイラすっげー気になるってばよ」
いつぞやのような使い走りはもうゴメンだと言って、レインはおのずからわりとまとまった額の金子をライに手渡すようになった。もちろんそのこと自体はライにとっては願ったり叶ったりで、異論を唱えるつもりなど毛頭ない。ただ、受け取る金の出所に興味がないわけではなかった。
「んもう、うっさいガキね。恋人ごっこよ、恋人ごっこ」
「こいびとごっこ?」
耳慣れない商売だった。
「要するにぃ、カノジョがほしくてもできない寂しい男と食事してあげたり、一緒に街をぶらついてあげたりして小遣いをもらうのよ」
「それって娼婦とどこが違うんだ?」
「大違いよ。だって、体は許さないもの」
料金次第で手くらいは握らせてあげるけどね、と悪びれる様子もなくレインは白粉を頬にはたく。
「よくそんなこと考えつくな。ていうか、そんなので満足する男がいるんだな」
「うん、これが意外と。最初はあたしを兵隊崩れの娼婦か何かと勘違いして声かけてきた男をあしらったんだけど、そしたらそいつが『だったら食事だけでも』って言うもんだから、金もらって一緒に飯食ったの」
「そいつ、ほんとに手ぇ出してこなかったのか?」
「こなかったわよ。食事が済んだら礼を言って金置いて、さっさとどっか行っちゃった」
「マジかよ……」
げんなりとした表情でライは、「なんか間違ってるだろ、それ」
レインはにやりとほくそ笑んだ。
「そこからはもう、入れ食いよ。草食動物みたいなひ弱な目ぇした男に片っ端から声かけて、ごっこ遊びでがっぽがっぽ。新しい商売の形っていうの? あたし、わりと商才あるかもぉ」
嬉々とするレインであったが、調子に乗っているといつか大変な目に遭うのではないかとライはいささか呆れ気味だった。
「おねーちゃーん」
付き合いきれないとばかりにライが木剣を握り直して訓練に戻ろうとしたとき、堤防の斜面を下って一人の童女がこちらへと駆けてくるのが見えた。レインが厭わしげに眉根を寄せる。「げっ、また来た」
「あそんで」
レインの鼻先に汚れたウサギのぬいぐるみを突きつけたのは、数日前にアッシュの顔面に石つぶてを食らわせ、グレンから叱責を受けていたエルという貧民街の童女だった。
昨日のことである。今と同じように河川敷にてライが訓練、レインが購入したばかりの櫛で髪すきにとそれぞれ没頭しているところへ、エルは一人きりでふらりと現れた。
初めこそ何をするでもなく二人の様子を遠巻きに眺めるだけだった彼女は、けれど徐々に徐々にレインとの距離をつめていき、そして何を思ったかその横でぬいぐるみ相手にままごとをやり出した。
数分後、ちらりちらりと自分へと注がれる横目にレインの辟易はとっとと限度超えし、ひどくおざなりな態度ではあったものの、童女の遊戯に参加することを承諾したのだった。
「でもまさか、今日も来るとはね。アンタも物好きだこと」
「エルがおかあさん、おねえちゃんがおとうさん、ミュウちゃんがあかちゃんね」
「聞いてやしないわ、このガキんちょ」
拒否して泣かれでもしたらそれこそ面倒だという、昨日と同様の理由でレインは渋々遊戯に興じる。
「ねえ、ライは誘わないの?」
「グレンが、ライとはあそんじゃだめだって」
「あ、そう」
そういえば昨日も聞いたな、とレインはライを一瞥した。
さきほどから木剣を振る動作がひどくぎこちない。こちらを意識しつつ、わざと気のない体を装っているのは明白である。
娼館に行ってしまった姉を巡って深く大きな溝が開いてしまった友人が、自身のことについて子供たちにどのように言って聞かせているかを、ライも少なからず察しているのであろう。だからこそ、エルを困らせまいとして敢えて無視を決め込んでいるのだ。
「ガキのくせして、生意気」
食事と称して供された小石を手中でもてあそびながら、レインはぽつりとひとりごちた。
まったりとした時間が、しばし流れた。
ライは邪念を振り払おうとするかのように木剣の素振りに明け暮れ、レインはエルと慎ましくも幸せな家庭をだらだらと演じ続けた。
そして、これはライにとってもレインにとっても想定内の出来事、やがてエルの保護者である丸眼鏡に半外套の少年が彼女を探してこの場に姿を現した。
「勝手にいなくなったらダメじゃないか、エル。心配したんだぞ。さ、みんなのところへ帰ろう」
差し出された手に、童女はむっつりとするばかりで見向きもしない。地べたに座り込み、ぬいぐるみをかき抱いた腕がかすかに震えている。
「昨日もここでこうしてたのか?」
「ん……」
「別に怒ってやしないよ、僕は。だから、ほら、一緒に帰ろう」
「やだ……」
「どうして? もうすぐご飯の時間じゃないか。今日はエルの大好きな甘いパンがあるんだぞ」
「いや! あまいパン、エルきらい! いらない!」
急に癇癪を起こしてエルが泣き叫ぶ。かまわず少年は小さな手を取って連れて行こうとする。レインが、突発的な怒気に双眼を歪ませ腰を浮かせかける。
「待てよ、グレン」
いつの間にそこにいたのか、少年の振り返った先にてライが立ち塞がった。
「エルはレインと遊びたくってここに来たんだ。オイラとじゃねえ」
「そういうことを問題にしてるんじゃない」
どけ、と言って丸眼鏡の少年――グレンはライを押し退けようとするも、
「……何のつもりだ」
そうはいかなかった。排除を強制する腕は相手にがっちりと掌握された。
「グレン、おめぇ……変わったな」
「変わったのは僕じゃない。ライ、お前のほうだ」
「そうかよ。だったらお互い様ってことで――」
グレンの肩越し、瞬間、ライがレインを見る。すかさず無言の応答。面倒だがこいつは気に食わないから付き合ってやるとの意思表示。それを受け、ライは満身の力でグレンを地面に引き倒し、ねじ伏せた。
一瞬の出来事だった。レインにエルを奪われた際に生じたグレンのわずかな隙をついて、ライの電光石火の早業が決まったのだ。
「少しはやるようになったじゃないか。これもアッシュさんの指導の賜物かな」
「いんや、こういうのはそこの――ほれ、その尻の軽そうな女に教わった。ああ見えてもいちおう兵隊だかんな、あいつも」
暴言に対して何か言いたげに口元を吊り上げるレインではあったが、ひとまず泣きじゃくるエルを抱えて大股で一歩、後ずさった。
「で――ここからどうするつもりなんだ。まさか、折るとか言わないよな」
腕を逆さに捻り上げられ、グレンが薄く笑う。一方のライも負けじと笑い返す。
「さあな。おめぇの返事によっちゃ、それもあるかもな」
「怖いな。やっぱりお前は変わったよ、ライ。だってその顔、すっかりあっちの世界の人間じゃないか」
「うるせえ。そんなことより、今日はもう帰れ。エルはオイラとレインが、後でちゃんと家まで送ってくからよ」
「断る」
「おい、グレン。オイラは本気だぞ。本気でこの腕、もらっちまうからな」
「無理だね」
突然、ライの視界が、世界がぐらりと動揺したかと思うと、強い衝撃と痛みが彼を襲った。
転倒した。不意に足元から地面が失せ、体が横倒しになった。その理由を考える間もなく、
「悪いな。いくら訓練したところで、お前じゃ僕にはかなわない」
頭上からグレンの声が。ライははっとして跳ね起きる。
「テメェ、グレン、今のは一体――いつの間にこんな!」
「答える義務はないよ」
当惑し憤るライをよそにグレンは涼しい顔で踵を返し、悠然とした足取りでレインの許へと歩み寄る。エルを取り返すつもりらしい。
ライは咄嗟に投げ捨ててあった木剣を拾った。
――グレン、こいつほんとに、あのグレンなのか!?
慣れ親しんだはずの友の背から漂う一種異様な雰囲気は、たとえライが駆け出しの三流剣士であっても容易に感じ取ることができた。けれど、最前の身のこなしといい、つい先日まで自分と同じどこにでもいる貧民のガキだったグレンが、斯様な熟練戦士顔負けの闘気だの殺気だのを纏うに至った経緯も、動機も、一切検討がつかない。
「止まれ、グレン!」
これがあの自他ともに認める平和主義者、武力などとはもっとも縁遠い男の背中だというのか。或いはそうした自分の主義を貫くため、護身用の武術でも密かに学んでいたか。
「止まれってのが聞こえねえのか!」
いずれにせよ、このまま行かせるわけにはいかない。幸い得物は殺傷力がほとんどないに等しい木剣であり、ならば――とライはアッシュから教わった正眼に構えを取り、意を決して遠ざかろうとする影に向け勢いよく切り込んだ。が、しかし、
「なっちゃいないな、ライ」
グレンが軽やかに半身を翻すと、
「というかこの型はお前には合っていない」
得物の切っ先は虚しく宙に溝を掘り、
「アッシュさんに聞いてみるんだな、その辺りのことは」
反動を利用した鮮やかなナイフの一閃がライの首元をかすめ通った。
頚動脈の切断を寸でのところで免れた恐怖と、そして何より、その慈悲深い旧友の挙動を少したりとて目で追えなかった失意は、駆け出し剣士から戦意を一瞬にして根こそぎ奪い取るのに充分だった。その場でがっくり膝を突き、ライは悄然とうな垂れたまま動かなくなった。
「レインさん……でしたか。エルのわがままに付き合っていただいたことには感謝します。ですが、もう結構です」
そんな彼の頭上へと、グレンはためらうことなくナイフを突きつける。レインはあからさまな脅迫にぐっと喉を詰まらせる。
グレンはあっさり勝利を収めたかに見えたが、しょせん相手は駆け出し、見習いの戦士を負かしたにすぎず、実際のところ近接戦の錬度としてはこちらと五分が精々といったところだろう。武装もナイフ一本のようであるし、やり合っても決して負ける気はしない。ただ、人質がいてはどうしようもなく……
「ほら、行きなよ」
抱いていたエルを、レインは地に下ろして解放した。
剣呑な空気に飲まれたからか、童女が泣きもぐずりもせずに呆然と立ち尽くしていると、グレンがやって来て抱え上げた。
「ライ」
去り際、友人とすれ違い様に足を止め、少年は言った。
「もうすぐだ。もうすぐみんな――僕もお前も、子供たちも、そしてメアリィさんも、この掃き溜めみたいな場所から自由になれる。だからそれまで、大人しくしてるんだ」
ライは、謎めいた言葉の真意を問いただすこともできず、ただただ首から流れ出る血潮の不快な熱さだけを感じながら、我が身の無力を痛感するのだった。
ワトソン家訪問と同日の深夜。
とある事件の発生によって、アンバーヘイヴンは蜂の巣をつついたかのごとき騒然とした空気に包まれていた。
「ったく、外野がうるさくってかなやしないよ。それもこれもコニーとマヘリアの大馬鹿がヘタこいたせいだね。――おい、ゴンズ、ちょいと行って黙らして来な!」
苛立ちを露にするベアトリーチェの荒々しい口調は、見るからに厳しい筋骨隆々の大男でさえ恐怖させるらしく、
「なにをぼさっとしてんだい! なんならあんたもこいつら諸共ブチ殺したっていいんだよ!」
文字通りその足を脱兎のごとく戸口へと向かわせる。
ここは娼館内、母屋を意味するシーに設けられた娼婦たち専用の大食堂で、アッシュを従えたベアトリーチェの他には店の経営陣が数名――どれも相応に年齢を経た中年女たちだ――と、あとは用心棒を仰せつかる強面がこちらも数名、そして、彼らに取り囲まれる形で童顔娼婦のチェルシー及び彼女の〝元〟上客ジョージ・ワトソン青年が、揃って椅子に縄で縛り付けられ、皆からの冷然とした視線の的になっている。
事が起こったのは夕刻だった。チェルシーの姿が店内のどこにも見当たらないことに、娼婦仲間のマヘリア嬢とコニー嬢が気づいた。
或いはこの時点で二人が店の幹部連へと迅速に、内密にこの話をしていれば、ベアトリーチェの言に相違なく不要な騒乱は避けられただろう。事態は闇から闇へと内々に葬り去られていたであろう。しかし、彼女たちは迂闊にもそれをしなかった。きっとどこかで油を売っているに決まっていると、ごくごく軽い気持ちで多くの娼婦たちに触れ回った。結果、チェルシー不在は噂好きの娘たちの間で深く静かに拡散・拡大し、やがて夜が深まるに連れ一つの憶測が飛び交うようになった。
脱走――。
娼館という場においてもっとも忌むべき禁とされ、犯せば指や目玉の剥奪だけでは済まされず、見せしめとして処刑されるのがもっぱらの大罪である。
折りしも本日はワトソン家以外にも訪問先が多数あり、チェルシーを娼館の玄関口まで送って別れた後も、終日アッシュを伴い街中を東奔西走していたベアトリーチェ。くたくたになってようやく帰り着くと、そこはすでに異様とも取れる好奇の坩堝と化しており、店の娼婦たちのみならず来店した客ですら色事そっちのけで何やらかまびすしいやりとりに興じているではないか。聞けば、他ならぬ昼先まで自分たちと行動を共にしていたチェルシーが脱走し、目下店の強面たちにより捜索中とのこと。
それから間もなくチェルシーとジョージ青年がここに引っ立てられ、尋問の時間と相成ったのだった。
「マールの通い口から揃って外に逃げようとしてるとこをブチョが捕まえたって話だけど……なるほどねぇ、昼間のは全部あたいらを出し抜くための茶番だったって、そういうわけかい」
ベアトリーチェの皮肉めいた冷笑に、しかしチェルシーは苦々しい顔つきで固く唇を引き結んだまま、まったく応えようとしない。ジョージ青年もまた、彼の情婦と同じく、苦しみを必死に耐え忍ぶような悲壮な目つきで床のただ一点をじっと凝視している。
紫煙をため息混じりに吐き出し、ベアトリーチェが二人を睥睨する。
「というか、今日あたいらがワトソンとこにツケの取立てに行くこと自体、あんたたちが事前に書いた筋書き通りだったんだろ。……ところであんさんよ、聞けばあんた働いてたらしいじゃないか、どこぞの土木現場で」
チェルシーの暴行による鼻の包帯も痛々しいジョージ青年の顔が、瞬時に青ざめるのを誰もが見て取った。
「相愛になったチェルシーを身請けしようってんで、金持ちのお坊ちゃんだてらにしたこともない仕事に必死に精出してたってのは認めてやるよ。あぁ、見上げた根性さね。けど、クソ安い給金じゃ目当ての金額には程遠いばかりじゃなく、通えば通うほど跳ね上がってく逢引の代金でさえしまいにゃ支払えなくなって、かといって定期的な逢引を断っちまえば店からの上客としてのお墨が付かず、どう足掻いたって身請けは無理。そうさ、進退窮まっちまったのさ、あんたは」
勘違いしてんじゃないよ、とベアトリーチェは冷たく言い捨てる。
「それでも決して親の金には手を出さない、自分独りきりの力でチェルシーを身請けして幸せにしようなんて思い上がってたんだろうが、はっ、ちゃんちゃらおかしくって笑っちまわぁ。結局のとこあんたがここに通うのに利用してたツケってのは、あんたの親の賜物に他ならないじゃないか。えぇ、どうなんだい、何とか言ってみな!」
平手がジョージ青年の頬をしたたか張った。ここまで沈黙を貫いてきたチェルシーが堪らず叫んだ。「やめて、姐さん!」
「違うの……。今日のことはなにもかも、すべてあたしが仕組んだことだから……」
「だから? こいつは悪くないって、チェルシー、あんたはそう言うのかい」
「そうよ! ジョージにツケがあるのを逆手にとって、きっと近いうちに姐さんが取り立てに行くことも、そこでわざと邪険に扱って逃げ出す時間と場所を示し合わせるのも、全部全部あたしが考えたこと! だから彼は悪くない! だから――仕置きするならあたし一人にして!」
ほとんど悲鳴に近いような訴え。
ベアトリーチェは無言でチェルシーを射殺さんばかりにねめつける。
一方のチェルシーもベアトリーチェを毅然とした眼差しで見つめ返す。
ぴんと張り詰めた静寂が大食堂の隅々にまで行き渡った。見えざる力でもって、場を支配した。
「……おふくろさん方」
やがてその支配から率先して脱したのは、ベアトリーチェだった。自身の背後で事の成り行きを見守る店の経営陣の前にひざまずき、頭を垂れ、静かに言った。
「今回のチェルシーの不始末は、この子を今日まで甘やかしてきたあたしの不始末でもあります。ですんで――」
そこで、妖婦は顔を上げ、
「あたしも責任を取ります。この、あたしのこの眼で」
これに対し、事実上アンバーヘイヴンの最高経営権を握ると目される女たちはしばし互いに瞳を見交わし、「いいでしょう」
承認が下りるやベアトリーチェは、その細く白い指先を、丁寧に磨き整えられた爪の先端を、淡い茶色の光彩瑞々しい左眼へとそっと近づけた。
「待って! 姐さん、ダメ!」
チェルシーが制止するも、
「つべこべお言いでないよ。今も言ったろ、あんたを可愛がりすぎて抜かったのは、他でもないあたいの落ち度さ。この店じゃ――いいや、この街じゃそういう間抜けは、それこそ自分が負っちまったツケってもんをきっちり払わないといけないのが流儀だろ」
「で、でもっ、姐さんのキレイな眼が、顔が傷つくなんて、そんなこと!」
「なぁに、あたいはもう客も取らないことだし、こいつはちょうどいい具合の引退の儀式さね」
狼狽するチェルシーとは裏腹に、ベアトリーチェはうっすらと笑みさえ浮かべ、その儚げな笑みがいっそう彼女の断固とした決意を物語っているようだった。穏やかな凄みが、女の全身からは漂っていた。
するとそこへ、意外な人物がにわかに一石を投じた。
アッシュだった。
アッシュはベアトリーチェの肩を掴んで、いつもの仏頂面と淡白極まりない口調にて、
「交渉の成立のために先んじて手を打つつもりだろうが、そうはいかない」
不可解なことを言う。ベアトリーチェが不愉快をあからさまに顔に出す。
「交渉? 一体なんのことやら知りゃしないけど、あんたは部外者なんだ、すっこんでな」
「拒否する。護衛対象の身体能力が著しく低下し、任務達成の障害になるような行為を黙って見過ごすつもりはない」
ぎしり、と音がしそうなほどベアトリーチェの柳眉が怒りのために吊り上がる。
「あたいがどんな状態だろうと守り通すのがあんたの役目だろうが! とぼけたこと抜かしてっと、八つに裂いて野良犬のエサにしちまうよ!」
「その通りだ。しかし、危機的状況と、そこから導かれる最悪の結末を避けるのもまた俺の任務の一環だ。チェルシーの胎内にいる赤ん坊を助けたいというお前の気持ちは買うが、そのことと俺は無関係だからな」
淡々と自説を説くアッシュだったが、それは即この場に居合わせる人物たちの何人かを驚愕させ、また何人かを激しく動揺させるだけのすさまじい破壊力を有していた。
「チェルシーの腹ン中に――赤ん坊だってぇ? そいつをあたいが助けたがってるって、あんた気でも違ったかい」
「空惚けるのはよせ。お前はもうかなり前からチェルシーの妊娠に勘付いていたんだろう。だからこそ、まず先んじて自らの眼球を潰しておいて、後から交換条件としてチェルシーの子供と、なんならワトソンの身の安全も保証させようと目論んでいるんだ」
「はっ、寝言は寝てから言いな」
「もっとも、俺がその企みを暴露してしまった今、情勢は大きく変わってしまったがな」
「黙ってろって言ってんだよっ!!」
怒号一声、ベアトリーチェの拳がアッシュの顔面を捉えた。口から血が飛び、鍛え抜かれたはずの兵士の体がわずかにぐらつく。思いもよらぬ一撃に不意をつかれたのか、それでもアッシュはすぐに体勢を立て直すと、
「ならば問おう。店の経営陣に、お前とチェルシーと、チェルシーの子とその父親の処遇について」
俺はそれに従う、と無感情な視線が年経た女たちの一団へと向けられた。
そうして、しばしに渡る協議の末、裁定は下された。ベアトリーチェの訴えをほぼ全面的に受け入れること、つまり、彼女の片目と引き換えという形でチェルシーは出産後――妊娠の疑惑はごく簡単な検査により事実と認定された――ただちに処刑、生まれてきた子供とジョージ青年は街から追放という裁定が。ただし、これには一つだけ条件が付加された。ベアトリーチェの瞳を潰すのは、アッシュの役目だというのだ。無論アッシュは理由を質したが満足のいく回答は得られず、どうやら彼女たちが今のこの情況を楽しみ、単なる余興として命じたものと判ぜられた。この辺りがやはり当地バドゥトゥが暗黒街と呼ばれる所以なのだと、アッシュははからずも実感するのであった。
「いいだろう。ならばベアトリーチェ、もうあと三歩ほど後ろに下がって立て。それと、おい、そこのあんた」
用心棒の一人を指名し、アッシュは言った。
「ダガーを一振り用意して、その先端を火で焼け」
「へぇ、なるほど。あんたらしいっちゃらしいけど、その腰に提げた得物じゃダメなのかい?」
これから片目を失うというのに、当のベアトリーチェが少しも動じる気配を見せずに訊く。
「可能だが、より確実な物を使いたい。このブロードソードでは切っ先が大きすぎて、眼球のみを狙って切り裂くにはいささか得手が悪いからな」
「余計なとこを傷つけないようにってその気遣い、痛み入るよ。それともアッシュ、あんたまさかあたいの顔が気に入ってんのかい? まったく、これだからイヤだよ、男は。外面ばっかりでさぁ」
いや、或いはこうして軽口を叩くあたり、真実恐怖しているのかもしれない。真相を唯一知る本人が腰布に差した短剣を抜き、マッチを擦って先端を加熱消毒し、投げ渡してくる様を見ながらアッシュはそう思わないでもなかった。
「アッシュ……その、あたし……」
さて、いよいよその時へと向けて場の緊張が高まる中、本件の発端となった愛くるしい娼婦がおずおずと口を開く。
「不要だ」
「え……?」
「俺は、お前の言葉を何ら必要としない。それよりも、ベアトリーチェと話すことがあるんじゃないのか」
一つ小さく頷いて、チェルシーは満々と涙を湛えたつぶらな眼で、大姐を見つめた。
「こりゃまたひどい顔だねぇ、チェルシーさ」
「うん、でも……泣いちゃいないでしょ? だって、お店に新人として初めて入ったとき、姐さんに教えられたもの。女はそう簡単に泣くもんじゃないよって」
「さぁ、そんな大昔のこと、とっくに忘れっちまったよ」
はにかむベアトリーチェにアッシュが声をかける。「目蓋を切り落とされないよう、しっかりと見開いていろ」
「あんた、元気な子を産むんだよ」
「わかってる」
「じゃあね、チェルシー」
「ありとう、姐さん」
「……いいさ」
次の瞬間、集中力を極限にまで高めたアッシュが力強い一歩と共にダガーを薙いだ。
標的となった、一縷の美しい宝石を思わせる球体が音もなく裂け、破壊された。
「消毒薬と止血剤を持って来い。痛み止めもだ。急げっ」
床に片膝をついて全身を細かに震わすベアトリーチェへと、アッシュは駆け寄り、さらに用心棒たちに鋭く指示を飛ばす。
「痛むか」
「どうってこたぁないよ。ンなことより、チェルシーとワトソンは」
「拘束を解かれ、連れていかれた」
「そうかい。手荒に扱われてなきゃいいけど」
手で押さえた顔面の左半分を鮮血で真っ赤に染めながらも、妖婦は気丈に笑って見せる。
「ちきしょう、アッシュ。あんた、犬っころに吼えられただけでもベソかいちまうようなか弱いご婦人相手にこんなひどいことしやぁがって、これじゃあほんとに嫁にでも娶ってもらわないと……わりに……合わないって……もん……さ……」
が、そこまでだった。くつくつと口元を妖艶な型に曲げていたベアトリーチェは、けれど緩やかに混濁していく意識に抗えず、アッシュの腕に取りすがるようにして漆黒の闇の淵へと落ちていった。
ベアトリーチェが意識を失っていたのは正味二時間にも満たず、これは取りも直さずアッシュによる負傷直後の適切な処置が奏功したものか、はたまた彼女生来の肉体の頑健さが発揮されたものか、どちらにせよ自室のベッドで目覚めた妖娼婦は元の闊達さでもって、己が専属用心棒へとまず真っ先に大量の酒を所望したのであった。
「本当に飲むのか。あれだけ大量の薬品類を投与した体に対し、酒精は毒だぞ」
「お硬いことは言いっこなしさ。だいたい、薬なんてとっくに抜けちまって、さっきから傷が疼いて仕様がないんだよ」
ほらほらあんたも付き合うんだよ、とベアトリーチェはベッドの縁に並んで腰掛けたアッシュにも葡萄酒を勧める。少しばかり逡巡した後、アッシュはこれに応じた。
「……そうだった。失念しないよう今のうちに渡しておく」
そこでふと、アッシュが腰の道具入れから取り出した紐状の物体を受け取って、ベアトリーチェは隻眼を丸くした。
一風変わった意匠だが、眼帯である。紅色の花一華と、その可憐な花びらの上で翅を休める蝶を厚手の布地と刺繍糸を使って再現した、非常に凝った作りの。
「これ、あんたが?」
「そうだ。お前の眼の処置に必要な薬品が不足していて、しかもそれがいささか特殊な代物だったため、業者を店まで寄越させた。その際ついでに小間物屋も呼んで購入したんだ。いずれ所望すると踏んだんでな」
さも何でもないことのように説明し、アッシュはグラスの葡萄酒を喉に流し込んだ。「代金は給料から天引いておいてくれ」
「あんたが、これを、あたいに、ねぇ……」
予期せぬ相手からの、これまたまったく予想だにしなかった贈り物。ベアトリーチェはそれをしげしげと眺めていたかと思うと、やおら眼前のテーブルから葡萄酒の瓶を手に取り中身をぐびぐびとラッパ飲みし、部屋中どころか部屋の外まで響き渡ろうかという大笑声を腹の底よりぶちまけた。
「そうかいそうかい、こいつぁいいや! 赤い花一華――ねぇ! 色事にはとんと疎い朴念仁だとばっかり思ってたけど、なかなかどうしてあんたも気障ったらしいことするじゃあないのさ、見直したよ!」
「ふむ、やはりお前はそうした意匠が好みなのか。気に入ったのなら、それに越したことはないな」
かすかながら相好を崩して見せるアッシュに、ベアトリーチェは一瞬間きょとんとし、そして今度は妙に色めいた声と表情で、
「ンまあ、あたいだって女の端くれさね。テメェの大事なお目々ぇ分捕ってった男ってだけで胸ン中がモヤモヤしちまうってのに、付きっ切りで介抱されて、おまけにこんな熱烈な愛の告白をされたとあっちゃ、そりゃあコロッとイカレっちまうのも道理ってもんさ。よござんす、あぁ、よござんすよ。あんたがそうまであたいを好いて欲しがってくれるのなら、この操、立ててもよごさんす。こんな商売上がりの、しかも不自由な身の上の女でもよければ、一生お側に置いて可愛がっておくんなね」
ひどく芝居がかった口上を受け、アッシュは訝しげに言った。
「愛の告白などした覚えはないが」
「アッシュ、あんたってお人はどこまでも野暮だねぇ。あたいみたく純情を絵に描いたような娘御に赤い花一華ってのは、その花の意味を考えりゃ、これは相当に罪深いなことなンだよ」
「意味……。花に意味なんてものが存在するのか。なるほど、覚えておこう」
しかつめらしく納得する相手の横顔に苦笑を漏らしつつ、ベアトリーチェは眼帯を装着した。元が非常に華やかでくっきりとした目鼻立ちの彼女だけに、単なる医療用具というよりはむしろ装身具としての色合いが強いこの奇抜な眼帯とても、実によく映える。これを制作したどこの誰とも知らぬ職人も、斯様な美女の顔を飾れるのであれば本望、技巧を凝らした甲斐があるというものだろう。
それからしばらくの間、二人は杯を酌み交わした。ベアトリーチェは元より、アッシュも酒はかなりいける口らしく、テーブルの上には空になった葡萄酒の瓶が次から次へと幾本も並んだ。しかしながら、両人の酔い加減にはずいぶんと差があって、どれだけ飲もうと顔色一つ変えずケロリとしているアッシュとは対照的に、ベアトリーチェはたいそう愉快げだった。愉快げに、もっぱら世間一般における男女間の恋愛の機微云々に語気をたくましくした。ただ、そうした話題が時折、とある特定の人物たちと事柄へ流れそうになるのを懸命に避けよう避けようとする彼女はどこかいじましく、それでもやはり、酔いが回れば回るほどに堪えきれない感情は次第に膨れ上がり、ついにはその艶っぽい唇を震わして、こぼれ落としてしまうのだった。
「アッシュさぁ、あんた、いつから気がついてたんだい」
「急にどうした。眠いのか」
アッシュの肩にしな垂れかかったベアトリーチェは、全身の皮膚をほんのり桜色に染め、わずかに汗ばんで、殊のほか艶かしい。囁くような声もまた実に蟲惑的である。
「意地悪はしっこなしだよ。……チェルシーの、あの子の妊娠のことさ」
「そのことか。俺が気づいたのはまさに今日――いや、厳密にはもう昨日か、あいつがこの部屋で化粧道具を取り出し運ぼうとしていた折だ。無意識のうちに下腹部の辺りを庇っていたせいか、重量のある荷物にふらついていた。それ以降も、あいつの端々が少しずつだが確実に不自然な挙動はやけに俺の目を引いた。おそらく妊娠の初期で、過剰に気にかけていたんだろう。そして、最終的に疑惑が確信へと変わったのは、ワトソン邸でだ。あいつが飛びついてきた際、あいつの腹に触れて判った。まだほとんど膨らんではいなかったものの、かすかにそこだけ体温が高かった」
「その辺りは、さすが兵隊といったところかい。普通のもんにゃあわからない、人間の体のごく些細な違和感も見過ごさないってわけだね」
「妊婦に接触した経験はないが、あんな独特のぬくもりは他ではあり得ないからな。ところで、こちらからも一つ、質問しても構わないか」
「どうぞ、なんなりと」
気だるそうに応えて、妖婦は喫煙を始めた。
「単刀直入に言おう。ベアトリーチェ、お前は妊娠のこと以外もすべて、最初から知っていたんじゃないのか」
「すべてって?」
「言葉どおりだ。チェルシーとジョージがかねてより好き合っていたことも、二人が昨日揃って街を出奔しようと画策していたことも、それら全部をだ。知った上で、チェルシーの計画に敢えて乗り、あいつをワトソン邸への取立てに同行させたんだろう」
返答はなく、口からはその代わりとばかりに紫煙が吹き出された。
「チェルシーと出会うまでは家の財力に頼り、放蕩三昧だったジョージが奮起して勤めに出ていたこともそうだ。お前はその事実をつい最近知ったかのように語っていたが、それとて手下を使ってかなり前に調査済みだったな」
アッシュの語調は穏やかでなく、けれど決して詰問するふうでもなく、ただひらすらに淡々としていた。それがやけに心地よく、好もしく感ぜられたベアトリーチェは、あたかも恋人に焦がれる娘がそうするがごとく、煙管を灰吹きに立てかけ手放して、相手の腕をそっと胸中に抱き寄せた。
「あたいがこの店で客を取るようになった、ちょうどその頃さ、当時まだガキだったあの子が転がり込んできて、小間使いとして働き始めたのは。両親を戦争で亡くした、いわゆる戦災孤児ってやつでねぇ、こっちから話しかけても愛想の一つもなけりゃ可愛げもない、そりゃもうこまっしゃくれたガキんちょだったよ」
当時を懐かしんでいるのだろう、ベアトリーチェの隻眼は愛おしげに細めれている。
「実のところあたいも戦災孤児でさ、そのせいか不思議とウマが合ったんだ。まぁ、ケンカもしょっちゅうしたけど、それでもあの子は成長するに連れてあたいを実の姉貴みたいに慕ってくれるようになったし、あたいもあたいであの子を自分の妹だと思って目をかけて、世話を焼いてきた。その結果がご覧のザマさ。ったく、滑稽すぎて笑っちまうよ」
「そういえば、昨日の外回りの最中のお前はどこか妙だったな。不必要なまでに気ぜわしかった。今にして思えば、チェルシーたちの出奔が上手くいっているか否かが、ずっと心の隅に引っ掛かっていたということか」
「そうさ。あいつらの計画に勘付いたあたいが、どれだけ自分からその手助けをしてやろうと思ったことか。けど、そんなことできるわけがない。故あって行き場のないあたいを拾ってくれたお店に、その恩を仇で返すようなこと、どうあったってできるわけがないじゃあないのさっ」
直後のベアトリーチェの行動は、まことに大胆でありながらも、しかし淫らさなどとは程遠いある種の悲壮感に満ち溢れていた。多分に酒の勢いもあるのだろうが、いきなりアッシュの唇に自身の唇を重ね、むちゃくちゃに舌と舌を絡ませ、唾液を吸い立てると、引き締まった肉体諸共ベッドにくずおれたのだ。
「抱いてくれなんて、そんな与太を言うつもりはないからさ、ねぇ、アッシュ」
涙も、情欲も、そして打ちひしがれた心の内さえも押し殺して、女は切望するのだった。
「今夜はあたいと一緒に眠って、どこにも行かないで」
アッシュは眉一つ動かさず、答えた。
「無論だ。片目を失って自衛能力が著しく低下した今のお前をより確実に護衛するには、その方が都合がいい。なんならこれからは入浴と用便にも付き添うが、そちらは追々考えておいてくれ」
「もう……あんたってヤツぁ、ほんとに野暮な男だね……」
弱々しく微笑むなり、ベアトリーチェは糸が切れるように眠りについた。
一体どのくらいそうしていたかは、定かではない。おそらく四、五十分程度であろうが、アッシュの手を取りすやすやと安らかな寝息を立てていたベアトリーチェに異変の兆候が生じた。みるみるうちに青ざめていく顔、大量の発汗、苦しげな喘ぎ――負傷による発熱が再現したのだ。
果たしてこの事態を予見していたアッシュが、こちらは今日一日の疲れをものともせずに覚醒していたため、すぐさま対処に当たる。まずは部屋の隅の金属管に向かって呼びかけ、事務所に詰めている娼婦に薬の追加を指示。次いで、ベアトリーチェの全身を苛む高熱を少しでも和らげんと、冷水に浸した布巾を絞り、顔から首、首からさらにその下へと丁寧にあてがっていく。
「すまんが、少しだけ開けさせてもらうぞ」
そうした一連の動作の過程で、アッシュは止むを得ずドレープドレスの胸元を緩める必要に駆られた。しかし、当然のことながら、たとい相手が昏睡状態にあろうと無遠慮に中身を検め、また拭き回そうなどとは思っていない。そもそも彼は出歯亀なぞする性質ではないし、病状を鑑みてもさすがにそこまでの処置は不用だ。ほんの少しだけ布巾を差込み、肉が厚く密集している両乳房の谷間を拭ってやる程度でいい。
「これは……火傷か」
と――それはまさにその場所にあった。むっちりとした豊かな二つの肉塊の狭間、小さな汗の玉が無数に浮かぶ滑らかな肌の表面、痛々しく波打つ紅色の襞が。
「いや、だがこの傷跡は……」
かすかな違和感を覚え、アッシュは布巾を引っ込めた。
糜爛した皮膚は、明らかに何物かの手によって意図的に焼き焦がした形跡が見て取れた。胸の谷間の、しかもごく一部分だけに限定的に見られる患部。たとえば火事に巻き込まれるなどして負った傷であれば、こうはなるまい。もっと広範囲に渡って、無秩序に焼け爛れるはずだ。
すると拷問――この店で言うところの落とし前の結果かと、アッシュは真っ先に思った。さもありなん。今でこそ店の重鎮として娼婦らの頂点に君臨するベアトリーチェにも、かつては駆け出しの時分があったであろう。その頃に何かしら下手をして、上役からつけられた傷かもしれない。もしそうでないとすれば、他に考えられる可能性としては被虐淫蕩の趣味か。つまり、彼女には他人から精神的・肉体的に虐げられることによって性の快感を得るという、あのおぞましい性癖が備わっているのだ。となると、或いは同じ動機で自分自身で焼いたとも……。
――馬鹿馬鹿しい。
脳裏を飛び交う様々な推測を、けれどアッシュは振り払った。
だからどうしたというのだ。たしかに、被虐淫蕩が高じすぎてうっかり死なれてはたまらないが、よもやそんなお粗末な死に方をするほど彼女が愚かな女でないことは、今日までの数日その言動を、その一挙手一投足を誰よりも間近で余さず見てきた自分が一番よく知っている。そんな可能性は万に一つもないと、断言できる。
なればと、気を取り直して処置に戻ろうとした彼の双眼が、傷口の端に奇妙なものを捉えた。
シミ一つとてないと思われた妖婦の白い肌に、ごくごくわずか、針の先ほどの大きさではあるがくっきりと黒い紋様が浮き上がって、否、文字通り染み付いている。それが他ならぬ刺青の断片であると悟った刹那、
「お待たせしました、お薬をお持ちしました」
背後のノックと声にアッシュははっとして、咄嗟にベアトリーチェから離れた。
「あ――ああ、すまない、入ってくれ」
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、これまで娼館内で見た記憶のない新顔の娘だった。にもかかわらず不思議な既視感が、既視感を端緒にした強い確信が、ベアトリーチェに関してにわかに躍動しかかったアッシュの思考をたちまち沈静化せしめた。
小作りなあどけない顔出ちと、どこかおぼこ然とした野暮ったさと、妙に肩肘を張ったぎこちない態度が印象的な娘に向け、アッシュは薬を受け取りながら、新人か――と問いかけた。
「あ、はい。まだこちらにお世話になって、二ヶ月くらいです」
「なるほどな、どうりで見かけない顔だ。普段は主に下働きか」
「ええ、まあ……。まだまだご贔屓にしてくださるお客様も少なくって」
照れくさそうにはにかむ目元などは、貧民街に暮らす彼女の弟と瓜二つである。
「そうか。だが、達者なようでなによりだ。おそらくお前の家族も、そのことをもっとも気にかけているはずだ」
「え、あのぅ――家族って」
「いや、気にしないでくれ、こっちの話だ」
口の端を曲げ、アッシュは軽く微笑んで見せた。
娘はしばし不思議そうに小首を傾げていたが、やがて何事かを思い出した様子でたいそう慌てて、
「あたし、ジューン姐さんに頬紅買ってくるように言いつかってたんだった! それでは、これで!」
「ご苦労だった」
娘が去り、部屋はしんと静まった。
アッシュは手早くベアトリーチェに薬を飲ませると、その隣にごろんと仰向けになった。
「うぅ……おやっさん……」
「ベアトリーチェ、お前は」
「あたし……あたしは……どうすれば……」
「やれやれ、だな」
熱に浮かされ、うわ言を漏らすベアトリーチェが伸べた手をアッシュはそっと握り、静かに瞑目した。
刺青の痕跡を思い起こす。今の今まで忘れ果てていた疑念が再燃し、同時に明瞭な輪郭へと急速に収束しつつある。
今日までのこと。
明日からのこと。
考えはあと少しのところでまとまらぬまま、いつしか夜は更け、青年兵士は久方ぶりの深い眠りにその身を委ねた。
ところ変わって貧民街。時刻は翌日の昼過ぎ。
「あふぅ、食った食った。こんなに腹いっぱいになったのっていつぶりかな、とにかく満足したわぁ」
つい今しがた昼食を終えたレインは、自身考案の新商法によって稼いだ金を元手に今宵はたらふく飲み食いし、ご満悦の様子である。
「そりゃよかったな」
その一方でこちら、ライは首に巻きつけた包帯も痛々しく、さっきから陰気な顔つきでひたすら一枚の干し肉をくちゃくちゃとやっている。
昨日のグレンとの一戦からこっち、斯様にライの自失ぶりは甚だしいものであった。
同じ貧民街で生まれ育ち、唯一無二の親友としてこれからも苦楽を共にするはずだったグレン少年とは、定めしライにとって互いに切磋琢磨する好敵手でもあったのだろう。それは、年頃の娘が抱く懐春の情と同じく、少年であれば誰もが持ち得る友への邪気なき敵対心に相違ない。そのままであれば、また場所が場所ならば、彼が健全で精強な大人の男へと成長するための最良の肥したり得たのである。
しかしながら、ライの姉メアリィに端を発する一連の意見の食い違いが二人の関係を異なるものへと、しかも当地が暗黒街であるゆえの宿命であろうが、かすかに血の匂いが漂う殺伐としたものに変えてしまった。そして、無邪気な敵対心もまた灰色に尖ったわだかまりに変貌しつつあった。昨日の出来事は、即ちその幕上けだったのだ。
いつかこの想いが明確な憎しみとなるのではないかと、ライは絶望的な気持ちでいっぱいだった。グレンにあれだけの大敗を喫したことは、たしかに悔しい、悔しくて悔しくてしょうがない。もはや戦いが避けたくとも避けられぬというのなら、次に合間見えた折は必ずや負かしてやりたい。けれど、果たしてこの熱い心情が以前と同性質のものであるか、そこが疑わしく、恐ろしい。いや、そもそも、自分は勝利を熱望しているが、一体勝利とは何をもって勝利なのだろう。昨日のグレンのように圧倒的な力量差を見せつけて相手の戦意を刈り取ることか、四肢のいずれかを切り落とすことか、全身を滅多斬りにすることか、それとも――相手の息の根を断ってしまうこと、なのであろうか。
いずれ煩悶は尽きなかった。勝利だの敗北だの死だのと考える前に、まず戦わなくていい方法も懸命に模索した。なぜ自分たちがこんなふうになってしまったのかと、その原因を深く掘り下げてもみた。されど悲しいかな、答えはいまだどれ一つとして、出ないのであった。
「じゃ、あたし昼寝するから、後片付けよろしくねー」
満腹になったレインが梯子を上り、寝床へと消えていった。あちら様は実に暢気なものである。
それからたっぷり数十分の時間をかけて、ライは一枚の干し肉と一切れの堅パンだけを腹におさめ、食事を終えた。その後は再び物思いに耽った。時間だけがだらだらと過ぎていった。
不意に、食卓に立てかけてあるいつもの練習用木剣が目についた。手に取って、力を込めて振ってみる。風を切り裂く音が、どことなく心地よかった。
ライは、瓶に張った水でじゃぶじゃぶと顔を洗って濡れた顔をチュニックの袖で拭い、木剣を腰に差すと、長屋を出た。
そして、これは偶然の産物であったか、長屋からイジェオ地区の中心地へと続く上り坂へとライが至ったとき、見慣れた二人の姿が眼界に飛び込んできて、はたと足を止めた。
坂の入り口付近に自然発生的に出来上がった、いわゆるゴミ捨て場だ。広い空き地の中央にガラクタが山と積まれている。童女と少年は、その山の麓で押し問答を繰り広げていた。
「やだやだ、おねちゃんとこいく! おねちゃんに、おにんぎょうあげる!」
「ダメだ、エル! 僕と一緒にみんなのところへ帰るんだ!」
「いやっ! エル、おねえちゃんにおにんぎょうあげて、うれしいってゆってもらうの!」
「捨てるんだ! こんなゴミ捨て場で拾った汚らしい人形、誰がもらって喜ぶもんか!」
黒く煤けたつぶらな瞳の少女人形を、グレンがエルの手から叩き落とした。一瞬びくりと竦みあがったかと思うと、エルは頭上を仰ぎ、堰を切ってわーわーと泣きわめいた。
「よぅ、今日はまたずいぶんとご機嫌斜めじゃねえか、グレン」
「ライ……お前、こんなとこで何してる」
テメェにゃ関係ねえよ、とライは友人の問いかけを黙殺し、足元に転がる人形を拾い上げた。
「ほらよ、エル。お姉ちゃんならウチの屋根裏でぐぅぐぅイビキかいてっから、下からおっっっきな声で呼んで、びっくりさせてやれ」
ライから人形を受け取るや、エルは泣き止み、飛び上がらんばかりに喜んで一散に長屋のほうへと駆けていった。
グレンが、丸眼鏡の奥の双眸を異様にぎらつかせて言った。
「質問に答えろ、ライ。お前、そんなもの持って、一体どこに行くつもりだ」
「決まってらぁ、姉ちゃんのところにさ」
「メアリィさんのところ? お前、まさか――アンバーヘイヴンに行くつもりか!? 気でも違ったのか!」
「気なんか違っちゃいねえ!」
ライは腰に差した木剣の柄を握り締めた。
「今のオイラならやれる! 裏口かなんかからこっそり忍び込んで、姉ちゃんを探し出して、店から連れ出せる! 見つかったって平気さ、だって今あの店にはアッシュ兄貴がいるんだしよ!」
「ど、どうかしてる……」
泣き笑いのような奇妙に歪んだ表情で、グレンは友を指差すと、
「どうかしてるぞ、お前。そんな無茶苦茶なことをして、下手をすればメアリィさんはもちろん、アッシュさんにまでどんな危害が及ぶか。そんな簡単なことも解らないなんて、お前は一体どこまで馬鹿なんだよ、ライ」
嘲りとも説教ともつかぬ言葉の羅列が、いやに押し殺した声で続けられる。
「アッシュさんは、きっと助けてくれやしない。あの人はお前のような馬鹿じゃない。ただ迷惑がられて、見放されて、それでおしまいだ。メアリィさんだってそうさ。絶対に喜んだりしない、むしろ悲しむだけだ。いいか、ライ。お前が今しようとしていることは、みんなを不幸にするんだ。だからよせ、な?」
最後は優しく呼びかけられるも、ライは、「うるせえぇぇ!」
「もうごちゃごちゃごちゃごちゃ考えてんのはイヤなんだよ、オイラは! ああでもないこうでもない、姉ちゃんのこと親のこと子供らのことアッシュ兄貴のこと、それからグレン、テメェのこと! そうさ、オイラはテメェと違ってバカなんだよ! 色んなこと、どんだけ頭ン中で考えてみたってちっともわからねえし、何一つ答えなんて出ねえ! けどよ、バカはバカなりに、だったら頭じゃなくって体でどうにかしようって、そう思って何が悪いってんだ!」
ライの偽らざる率直な想いが伝わったのか、グレン少年はしばし黙り、俯き、けれど決してそうではないことを間もなく証明した。
「そうか、だったら仕方ない。あともうちょっとだったのに、残念だ」
いつかアッシュに河川敷で見せたあの酷薄な笑み――否、あれよりもさらに冷たい、ともすれば残虐さすら感じさせる薄ら笑いを浮かべ、
「多少痛いかもしれないけど、我慢してくれよ」
両の手に白銀に輝くナイフを一本ずつ、袖口の中から飛び出させ、携えた。
「そう来なくっちゃな、グレン!」
すかさずライも木剣を抜く。
ちょうどその時だった。いずこからかけたたましい地響きと轟音が、睨み合う両者の意識をにわかに己が許へと引きつけた。何がしかの天変地異かと緊張するライとは裏腹に、グレンは実に落ち着き払った態度で、
「よかった、間に合った」
「……? グレン、オメェ、なに言って――」
当惑する友へと向け、彼は手を差し伸べた。
「さあ、ライ。子どもたちを連れて、メアリィさんを迎えに行くぞ」
ほんの少し時間は遡って、ところはラギア地区。片側の眼球を失うという重傷を負った翌日にもかかわらず、この日もベアトリーチェはアッシュを従えて外回りに勤しんでいた。
「ったくもう、どこもここも景気が悪くって、頭が痛いよ」
多角経営を展開する大娼館アンバーヘイヴンは、同じラギア地区の中に直営の飲食店や賭場をいくつも抱えており、そのうちの一つ、五番街の酒場の集金と査察を終えるなり、妖娼婦は紫煙を吐きつつ悩ましげに嘆息するのだった。
本来であれば少なくとも数日は絶対安静が必要な大怪我を負ったはずが、あたかもそんな事実は初めからなかったとでも言わんばかりに、かくも精力的に仕事をこなす彼女。一部の隙もなく見事にきめた化粧も、優雅に着こなしたドレスとジレも、そしてもちろん艶っぽい蟲惑的な雰囲気も、何もかも昨日のままそのままのベアトリーチェであり、たまに行き合う顔馴染みに眼帯のことを指摘された際も、「あたいのイイ男に操を立てた、その証さ」とうそぶいて隣のアッシュを流し見、相手をひどく当惑させたりと余裕たっぷりである。ただ……
「ねぇ、アッシュ、ちょいと、ねぇってば」
「ああ」
「少しくらいはノってくれたっていいじゃないのさぁ、あたいの悪戯。それとも何かい、あたいと噂になるのがそんなにもイヤだってのかい、あんたは」
「いや、別にそういうわけではないが」
こうした彼女の人並み外れた体力が、胆力が、アッシュの胸中に渦巻く疑念をもはや疑いようのない確信へと推し進める。同時に、決断せよ、と迫る。
「ベアトリーチェ」
「はいよ」
「俺は――」
――俺には任務を遂行する義務がある。
成すべきことは、解っている。
――躊躇うことなど、ないはずだ。
にもかかわらず、踏み出せないのは一体なぜか。
――ベアトリーチェ、俺はお前を。
情なんてものは、兵士とは無縁の代物のはず……そうだろう?
「殺りなよ」
ベアトリーチェの素っ気無い一言が、惑うアッシュを撃ち抜いた。
ぴたりと、両者の足はその場で止まった。
「ちまちま護衛なんてやってるより、そっちのがずっと手っ取り早いしさ。アァ、でも、抵抗はさしてもらうよ。あたいはそんなに安い女じゃあないンでね」
「承知している」
そう言ってアッシュは、ブロードソードの柄に手をかけた。
「でも、よく勘付いたねぇ。今の今まで誰にだって見抜けやしなかったのに」
「それはそいつらの目が節穴だったからだ。……かく言う俺も、お前の顔に見覚えがありながら、昨夜たまたま胸の火傷――いや、刺青の跡を見て、ようやく思い出したんだがな」
「イヤだよ、アッシュ。あんた、気を失ってるあたいに出歯亀を働いたンだね。お堅そうなツラして、とんだ助平野郎だ」
悪戯っぽく笑うベアトリーチェに、アッシュが質す。「自分で焼いたんだな」
「そうさ。もう必要のないもんだったから、消しちまった」
人影まばらなラギア五番街通りの暗く湿った虚空に、紫煙がたゆたう。アッシュは柄を握ったまま、まだ剣を抜かない。
「あたいはてっきり、あんたはもうずっと前から悟ってるもんだと思ってたよ。だからコンナモノ――寄越してきたんじゃないかってさ。けど、そうじゃなかったんだね」
「ああ、完全な偶然の一致だ」
揃って前を向いていた二人が、ここで初めて互いに顔を付き合わせた。
「花一華……か。そういえば、戦場ではそんな名で通っていたな、お前は」
「こんな醜女にゃあもったいない仇名さね」
自嘲めかして破顔したかと思うと、直後にベアトリーチェの隻眼がす、と細められ、
「あたいがあんたに、あたいの首にかかってる賞金の倍出すって言ったら、どうする?」
「それは――考えるまでもない」
すると、アッシュがようようブロードソードを鞘から抜き放った。昼日中の往来の通りでの抜刀に、しかし周囲を行き交う人々は少したりとて動揺の気配を見せない。ここはラギア、ミュクサガルド随一と称される暗黒街においてもっとも血なまぐさい地区だ。誰も彼も、よもやその白刃の標的が自分ではあるまいなと、獰猛な野犬よろしく瞳を血走らせて警戒こそすれ、恐れを成すものなど一人としていない。
「だったら交渉成立だ。あんたが腰にぶら提げてるその回収金、そいつを全部くれてやる」
「いいのか。これでは倍どころではないぞ」
「持ってきな。あんたみたいなとびきりの男と添い寝して、おまけに接吻までさしてもらったんだ、妥当な額さね」
「買いかぶりすぎだ」
「そうでもないよ、あたいはあんたとならほんとに連れ合ってもいいと思うくらいさ」
ニヤリ、と笑ったベアトリーチェが視線で指し示す方向へと、アッシュは瞬時に跳んだ。左方約三メートル、そこには黒い外套に身を包んだ見知らぬ男がつっ立っている。
――やはりこいつか。
アッシュは一瞬にして相手との距離を詰める。アタリだ。酒場の一軒前に訪問した賭場のあたりから、この男がずっと自分たちを尾行ていたのには彼も勘付いていた。この男が、ベアトリーチェに差し向ける、剥き出しの殺意にも。
「ひぃ――っ」
それが、大娼館の美しき顔役娼婦をつけ狙っていた件の帝国軍人の、人生最後のセリフであった。決定的かつ瞬間的な死を敵対者に与え、護衛対象の絶対安全を確保せんとアッシュが放った袈裟懸けの一閃に頭部を丸々輪切りにされ、内容物をでろり、とはみ出させてたちまち絶命。血と脳漿がこびりついた得物を払い清め、静かに鞘へと戻し、これにてアッシュの任務は完了した。
「お見事。さすが、あたいが見込んだ男だね」
拍手と共に近づいてくるベアトリーチェを、アッシュが振り返ろうとしたとき――まるで申し合わせたように異変が巻き起こった。
地面が、空気が、ぶるぶると激しく鳴動し、そのことに人々が一驚を喫したのも束の間、
「――! アッシュ、こいつぁ火薬の臭いだ!」
「それだけじゃない。馬のいななきと、これは――鎧の擦れる音だ。相当な数、しかも統率がとれているぞ」
二人がいち早く察知できたのは、彼らには街のゴロツキらと違って数多の戦場をくぐり抜けてきた〝本物の修羅〟としての鋭敏な感覚が備わっていたこと、そしてこれは後から判明した事実であるが、襲撃者たちの街への侵入経路の一つがここから目と鼻の先だったことに起因する。
「相手は一体どこのどいつらだい!」
「判らん。しかし、これは」
侵攻。
掃討。
殲滅。
咄嗟に脳裏を駆け上った不穏当な文言の数々に、アッシュとベアトリーチェは揃って頭上を振り仰いだ。
果たして予感は的中した。空のない真っ暗な天空を裂いて、鈍く光る鋭利な物体がばらばらと、雨あられと降ってくる。それが矢であると周囲に警告を発するには、いささかアッシュらの反応は遅すぎた、否、襲撃者たちの初動があまりに鮮やかすぎた。
凄絶な着地音が、狂ったように通りを席巻した。手近な建物の陰に避難したアッシュとベアトリーチェを除き、通りに出ていたほぼ全員が降り注ぐ凶針の餌食となり、無残な躯と化した。
「ちきしょう、無茶ぁしやがって。けど、奴さん方、かなりの手練れだね」
「そのようだ。おそらく外部から岩盤が脆弱な部分を狙って爆薬で発破し、そこから侵入したのだろうが、発破から侵入、侵入から初手の矢弾まで、まったく淀みがなかった。それに」
「歩兵と騎兵が、もうすぐそこまで攻め入ってきてるね。しかもこいつら、手当たり次第にブチ殺してらぁ」
街の人たちと思しき悲鳴や怒号が、すでに二人の耳朶を打ちつつ間近にまで迫っていた。
ぎりりと歯噛みをして、ベアトリーチェが立ち上がった。
「あたいはもう行くよ。ちょいと仕事ができたからね」
「右に同じだ」
アッシュも彼女に倣う。
「じゃあね、アッシュ。もう会うこともないだろうけど、達者でね」
「そちらもな」
言い置いて、踵を返そうとしたアッシュの手を取り、ベアトリーチェが引き戻した。そして、その体を強く抱き寄せ、優しく頬にくちづけて、
「ありがとよ、王国の狂戦士」
「こちらこそ礼を言う、怒涛の花一華」
かくして、欲望と悪徳が支配する暗黒街にて不可思議な邂逅を果たした一組の男女は、各々別の方角へと向かって散っていったのだった。
後編に続く