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エピソード2前編 奈落にさざめく街

「おい、聞いたか? 例の話」

「おうよ。全滅だってな」

 禿頭の大男と髭面の小男は、揃って手にした麦酒を口に運んだ。

「でもよぉ、よりにもよってあの第三が――だぜ? ほれ、肉削ぎだって戦人形だっているじゃねえか、あそこには。ヤツらがそんな簡単にくたばるかねぇ」

「そうは言ってもお前、その肉削ぎの千切れた腕が見つかったってんだから、逆に間違いないってもんだろ」

「いや、まあ、そりゃそうなんだがよぉ……」

 悩ましげな表情で考え込む小男の前に、年若い女給仕が燻製肉を盛った木皿を置いて去っていった。大男は、スカートの上からでもはっきりそれと分かる妖艶な尻の曲線をしばし目で追った後、正面に向き直って肩をすくめた。

「調子に乗ってヘタぁこいたのさ」

 酒場の喧騒に乗っかるかのごとく、その口調はひどくおどけている。

「聞くところによると、ヤツら自分たちからシャールの森の哨戒任務を申し出たんだってな。はっ、どうせあの真面目くさったアンジェリカあたりが、近ごろの中隊は気抜けしている、とかなんとか言って上に進言したんだろうよ。まったく、誰もそんなこと頼んじゃいねえってのに、ご苦労なこったぜ。そりゃあよ、普段からあいつの堅物ぶりにはほとほと手を焼いてる中隊長もまともに相手すんのが面倒だってんで、どうぞどうぞご自由にとあっさり許可を出すわな」

 黒ずんだ獣肉を引っ掴み、乱暴に噛み千切る。

「そうやって意気揚々と出立した第三の連中はガイア渓谷付近で帝国兵どもの奇襲を受け、泡を食って逃げようとしたが橋を落とされ退路を絶たれて…………その後のことは知らん。まあ大方、男連中はその場で皆殺し、女どもはこれっぽちも可愛げのないアンジェリカ以外の――えー、ヒッチコックとギャロットだったか? あの二人はとっ捕まって、今頃あっちで脂ぎった男どもの慰み者ってとこさ」

 げらげらと愉快そうに笑って、大男は麦酒を飲み干した。

 それまで相手の話を黙って聞いていた小男が、ぽつりと何事かを呟いた。

「ええ? なんだって? よく聞こえねえよ」

 大男が身を乗り出すのと同期するように、酒場の扉が大きな音を立てて開け放たれた。

「てっ………………敵襲ーー! 敵襲だーーーー!!」

 戸口にて叫ぶ衛兵の声は、恐怖と動揺で震えていた。



 何ら予兆も予感もないまま唐突に掻き消えた意識は、こちらも一切の事前告知を伴わずにいきなり彼の中枢に顕在化した。

 光と、音と、匂いと、それから痛み。それらすべてに脳髄から全身の神経に至るまでをことごとく焼かれ、アッシュ・ザム伍長はからからに渇ききった喉の奥からたまらず呻きを漏らした。

「あ――やっと起きた。気分はどう?」

「最悪だ。とりあえず水をくれ。それと、現況の報告も頼む」

 アッシュに水の入ったコップを差し出しつつ、げんなり顔のレイン・ヒッチコック上等兵が言う。

「三日もぐーぐー寝てたと思ったら、起きて最初がそれって……アンタ一体どこまで戦争バカなの? 他に考えることとかないわけ?」

「なるほど、三日か……。ところで、ここはどこなんだ。隊の他の連中は」

 ベッドから上体を起こし、アッシュは周囲を見渡した。

 ひどく古びた、雑な作りの民家といった風情の室内だった。壁といわず床といわず、とにかくあちらこちら隙間だらけで、その組み方――そう、建てたというよりは組んだと形容するほうがしっくりくるような粗雑な工法がまず眼に着く。調度品も、自分が今寝ているベッドと、ちゃちな暖炉と、腐りかけたテーブルとイスを除けばほとんどないに等しく、部屋の規模自体も極めて小さい。さしずめここは、元は木こりか何かが宿泊するためのあばら家といったところか。

 そのことを口に出すと、レインは大きなため息を一つついてから、細い眉を不機嫌そうにひん曲げて話し始めた。

「ンなこと、あたしに聞かないでよ。あたしだって吊り橋から落っこちてからこっち、そのベッドでアンタと二人して寝てるとこまでの記憶がすっぽり抜け落ちてんだから。起きてぶったまげたわよ、マジで。寄りにも寄ってアンタみたいな朴念仁といたしちゃったのかって…………ちょっと、ヘンな想像しないでよね。そんなことあるわけないんだし。

 そうよ、どうも誰かがあたしらをここに運んでくれたみたい。あたしはアンタみたいに怪我とかしてないしさ、試しにちょっとこの辺を歩いてみたのよ。そしたら――ええ、やっぱりあったわ、近くに大きな河が。きっとガイア渓谷から続いてきてるやつ。つまり、そういうこと。その誰かってのは岸辺に流れ着いたあたしとアンタをここまで運んで、ついでにアンタの怪我を治療して、ご丁寧に当座の食料まで置いてさっさとどこかに行っちまったってわけ。だから、この場所のことも他の連中のことも、あたしはなんにも知らない。なーーにもね。ただ……」

 そこでレインは不意に腕を組み、口元に手を添え、わずかばかり鋭くした視線を床へと落とした。

「これもこの辺りを歩いてみてわかったことなんだけど……どうやらここ、帝国領っぽいのよね」

 レインの呟きを受け、アッシュも表情を険しくする。

「たしかなのか」

「断定はできないわよ。でも、北にある丘の上から見下ろしてみたら、西の方角にバカみたいにでっかい岩の塊が見えて、あれってたぶん……」

 レインはしばしの空白の後、ぼつりと言った。

「バドゥトゥなんじゃないかって」

 バドゥトゥ――通称『獄門街』。その名が示すとおり、そこはかつてブロドキン帝国が自国の罪人を幽閉しそして処刑するべく巨大な一枚岩を繰り抜いて築いた天然の監獄兼刑場であり、現在は国内外問わずありとあらゆる種の人間が吹き溜まる暗黒都市として本邦では有名だった。

「――〝欲望と悪徳の街〟。――〝この世の楽園〟。――〝ミュクサーヌのゴミ捨て場〟。色々な言われ方をしてはいるが、要するにロクな場所じゃないってことだな」

「でもアッシュ、その話ってどこまでほんとなの? あそこに行って帰ってきたヤツって、実際今まで一人もいないんでしょ? だったらただのデマかもしんないじゃんか。だいたいさぁ、金さえ出したら危ないクスリどころか人間も買えるとか、街中のその辺で普通に殺し合いしてるとか、そんなのあり得ないっしょ」

「誰一人として帰ってきた者がいないのが何よりの証明――ともとれるがな、俺にも真相は判らない。だが、賭けてみる価値はありそうだ」

「賭け?」

「そうだ。お前が見たのはおそらくバドゥトゥに間違いないだろう。そんな大きな岩の塊が大陸内に幾つもあるとは聞かないしな。だとすれば、その内部には必ず街が存在していて、多くの人間が暮らしているはずだ。そして、人間が暮らしていれば、そこには情報がある。馬も飼育している。そいつに賭けるんだ」

 レインは黙って首を横に傾げた。理解していないようだ。

「俺たちの任務は今も続いている。あの廃村で出くわした不死身の帝国兵たちの情報を、一秒でも早く王都に持ち帰るという任務がな」

「……アンタ、それ本気で言ってんの?」

「無論だ。それとも何か、お前はこのままここで一生暮らすつもりか。夫婦にでもなるつもりなのか、この俺と」

 真顔で問いかけてくるアッシュに、レインは即答した。

「それはイヤ。死んでもイヤ。アンタの子供なんか絶対産まないから、あたし」

「だったら決まりだ。任務を続行しよう」

 得たりとばかりにアッシュは断言した。

「いつ出発(たつ)の? ていうか、アンタ、怪我は平気なわけ?」

 アッシュの裸躯(らく)には包帯が巻かれた箇所が相当数あって、見るからに重傷者である。二人が今いるこの小屋からバドゥトゥまではそう遠くはないものの、なにぶん徒歩での移動となると、彼にはまだ少なくとも数日の療養期間が必要なように思われた。

「そのことなんだが、不可解なんだ。自己診断によると、俺の身体的負傷は最低でも全治に一月は要するはずだった。にもかかわらず、現状を見るとほぼそれに近いところまで治癒が進行しているんだ。負傷して、たった数日目にして――な」

「それ、マジなの……?」

 まるでおぞましい物でも見るかのように、レインは顔をしかめた。

「ああ。お前が昏睡していた日数が不明な点、そして今日の正確な日付が判らない点から、あるいはもっと日数が経過しているのかとも一瞬疑ったが、それはあり得ない。俺たちがあの廃村で敵と遭遇し、俺が重傷を負ったのは間違いなく四日前だ」

「どうして言いきれんのよ?」

「体毛だ。俺は自分の髭や頭髪の伸び具合で経過日数を把握できる」

「大した特技ね」

 言葉とは裏腹に、レインの頬は引き()っていた。

「俺とお前をここに運んだ奴は、尋常でないほど高度な医学や薬学の知識を持ち合わせていたのかもしれないな。そうでなければ、おとぎ話の中に登場する魔術でも使ったか」

「魔術ぅ? はん、ばっかみたい。――そんなことより、怪我が治ってんならそこ、どいてほしいんだけど」

 突然の要求、その意図するところが飲み込めず、アッシュは仏頂面で返した。「なぜだ」

 レインは瞳を左右非対称に見開いた。

「なぜだ、じゃないっつーの。アンタがそこで能天気にいびきかいてる間、あたしはずっと床で寝てたのよ。こんな、あたしみたいな、か弱い娘がさ。だから――」

「そろそろ交代してくれと、そういうことか」

「そうよ! とっとと退け、カス野郎!」

 彼女が怒り心頭に発した際特有の歪な表情ですごむと、すぐさまアッシュは「承知した」と言って応じた。ひょい、と古ぼけて黄ばんだシーツを無造作に取り去り、ベッドから降りた。

 およそこの世のものならざる悲鳴が、小屋全体を激しく揺さぶった。

「し、ししししし、信じらんないッ!」

「?」

「服着てよ、服ぅ! アンタ真っ裸なんだからさ!」

「ああ、そうだったな。すまない」

 アッシュは床の上にきちんと畳まれて置いてあった、エリスルム王国軍正規仕様の黒いぴったりとした全身衣を手に取り袖を通す。

「い、意外とおっき――いやいやいやいや、あり得ないあり得ないあり得ないから……」

 その横でレインはといえば、頭を抱えてしゃがみ込み、いつまでもいつまでも独り言を()り続けていた。



 翌早朝、アッシュとレインは連れ立って小屋を後にした。

「荷物が少ないのは楽っちゃ楽だけど、やっぱ不安よねぇ」

「街に辿り着いた後は、武器を含めた諸々の物資の調達が差し当たっての急務だな。しかし……」

「文無しだもんね、あたしら……」

 朝もやに煙る荒れた大地を行く二人の足取りは、心なしか重かった。

 レインの談によれば、アッシュの円盾を除くすべての主要装備がなくなっていたとのこと。フランベルジェもロングボウも、小屋の中はもちろん河のほとりも徹底的に捜索してみたが、見つからなかったというのだ。

 激流に飲まれて流されたか、はたまた彼らを助けた何者かが持ち去ったのか――様々な憶測が飛び交いはしたものの、いずれあきらめる他に詮がないと、二人は議論するのをすっぱりとやめた。

 無言でただ黙々と歩き続けた。道はお世辞にも良いとは言いかねる。固く乾燥した赤土と、砂岩と低木ばかりが果てしなく広がる荒涼とした風景。バドゥトゥは帝国の首都であるガンダルグより遥か南東方向に位置することを二人はかねてより知っていたが、なるほど、ここよりさらに南下した砂漠地帯ほどではないにせよ昼夜の寒暖差も激しそうで、牢獄を構えるにはもってこいの悪環境だ。

 バドゥトゥが帝国所有の収監施設として成立したのは、今を遡ることおよそ五十年前。当初は国内で捕らえれた主に重犯罪者を対象とした監獄兼刑場は、しかしたったの十年ほどでその性質をがらりと異とすることとなる。この当時から始まった帝国による自国の強化政策として、精神もしくは肉体に障害のある者、反帝国主義的な思想を持つ者、定められた年齢以上に達し高度高齢者の認定を得た者、同性愛者、男娼女娼、加えてそれらに該当すると疑われた国民を片っ端から投獄しては処刑する、強制収容所の機能をも兼ね備えるようになったのである。

 その後、バドゥトゥの残忍な虐殺の歴史は実に二十余年にも渡って続く。さる人物の登場により、それまで累々と積み上げられてきた慟哭が歓喜の声へと一変した、あの夜の出来事まで。

 デュラン・ダ・ディラン――。

 精神を病んだため処刑される予定だった女娼だとも、帝都で何十人もの婦女を強姦し殺害した罪で収監されていた元兵士だとも言われるその人物は、全身赤ずくめの衣装と仮面で素性を隠し、比類なき武芸の腕前でバドゥトゥを掌握する帝国幹部連をことごとく排除。さらには捕らえられている人々に蜂起を訴え、たった一夜にして街を解放したのだという。

 革命の夜以来、皆の前から忽然と姿を消した彼――あるいは彼女――の行方はようとして知れない。ただ、跡には異様なまでの人々の熱気と、混沌へとひた走る急激な変化の波だけが残された。

 そして現在、帝国本国からも事実上の独立自治を認められたバドゥトゥには、昼といわず夜といわず全世界から人と物とが流れ込み、ありとあらゆる快楽が、悪徳が、欲望が蔓延(はびこ)りひしめき合う当代きっての暗黒都市として広く認知されている。

「誰が呼んだか獄門街。デュランが拓いた狂天地。血肉骨金涙にクスリ、穴の底にはすべてがこごる。まんま食いたきゃ股開け。哀れみ乞いたきゃ尻突き出せ。ミュクサも見捨てたこの世の果て。塵と芥の獄門街」

 独特の節回しの歌を口ずさむと、レインはにわかに足を速めた。アッシュもそれに倣った。

 やがて太陽が地平より完全に顔を出し、視界を覆っていた朝もやがすっかり晴れ渡る頃、目的地である巨岩の裾へと辿り着いた二人は一斉に息を飲んだ。

「で、デカいわね……」

「これが一枚岩だというのだから、驚きだな」

 街一つをまるごと内に抱くとされるその岩は、もはや岩の範疇をとうに超え、山と呼ぶに相応しい圧巻のスケールで今や彼らの眼前に立ちはだかっていた。

 赤茶けた岩肌は、あたかも荒れ狂う無数の波頭のごとく不規則な隆起を繰り返しながら一心に天を目指し、地上から上空を望遠した際に生じる独特の幻惑感も相まって最果ての所在はおぼろでしかない。外周は一体どのくらいあるのか。視線を横へ横へと滑らせていって、それでも足りずに首を動かし、その首がほぼ真横――もうこれ以上は曲がらないという段に至ってようやく向こう側の景色にお目にかかれるのだから、およそ尋常な長さではあるまい。

 おそらく、この途方もなく巨大な一枚岩の全景をまっとうに把握し得るのは、大空を自在に飛びまわる鳥くらいのものだろう。

「待て、貴様ら。ここに何の用だ」

 しばらく我を忘れて岩の威容に圧倒されていた彼らに、斯様な荒野のど真ん中では場違いとも取れる人の声がかかった。見ると、一目でそれと判る安価な鎧と槍で武装した男が、怪訝な表情でこちらに歩み寄ってきていた。

「見ろ、レイン」

「あ――あれ、入り口?」

「そのようだ。ここは上手く切り抜けよう」

 二人がひそひそと耳打ちし合ったのは他でもない、男の背後の岩壁に自然の造形物とは明らかに異なる木製の大扉を認めたからだ。

 噂のバドゥトゥはやはりここに、との確信の(もと)、アッシュとレインは門番らしき男と相対した。

「俺たちは見ての通り兵士だ。エリスルム王国軍のな。実は理由あって――」

「あたしたちぃ、同じ部隊で一緒に兵隊やってる間にねんごろんなっちゃてぇ、もう戦争なんてつまんないことやめちゃってどっか楽しいとこで二人仲良く暮らそうってぇ、そう話し合ってこっそり軍を抜けてきたんですぅ。ね、アッシュ?」

「そう、その通りだ、レイン」

 いかにも堅物そうなしかめっ面の男に、ベタベタと無遠慮に絡みつく婀娜女(あだおんな)。どうにも不釣合いな恋人たちを門番はためつすがめつ眺めると、

「色に狂って脱走か」

 鼻先でせせら笑う。そして、

「入んな。ただし、ここが獄門街と知っていようがいまいが、あとのことはすべて貴様ら自身の責任の範疇だ、いいな?」

 じっとり湿った視線に見送られつつ、二人は重たい大扉を開け放ったその先、蝋燭の灯火で仄かに照らし出された細い通路へと足を踏み入れた。

「アッシュさぁ、アンタってやっぱバカでしょ」

 途端にレインが暴言を吐く。アッシュは無言で彼女を見る。

「え、なんのことぉ、みたいな顔してんじゃないっつーの。さっきのことよ、さっきの。外でのやりとり。アンタ、一体どんな筋書きを話すつもりだったわけ?」

「お前が話したのとまったく同じだ。戦場で苦楽をともにするうちに情を交わすようになり、それが原因で厭戦(えんせん)的な気分になって揃って軍を脱走した――と」

 にべもなく言い放つアッシュにレインはぴく、と一瞬目角めかどを立てかけたものの、彼に高度な演技力を期待した自分がむしろバカだったとすぐに思い直して、それはそれはもう盛大に嘆息した。「先が思いやられるわ……」

 通路はさほど長くはなかった。行く手に現れた角を一度だけ曲がると、そこからはもう一直線、目と鼻の先に長方形に切り取られた淡い光が差し込んでいる。同時に、通路全体が振動するような、うねるような、一種独特のくぐもった低音響も。それは即ち生活音――有象無象の集りがてんでんばらばらに奏でる混沌の音楽に他ならぬことを、二人は感覚的に悟った。するとこれまで意識に昇らなかった警戒心が、にわかに鎌首をもたげた。バドゥトゥを支配する力の一つは暴力だという。そして彼らとても兵士の肩書きを持つ、れっきとした暴力の徒なのだ。旅先で道に迷った商人が、そこいらの農村に一宿の慈悲を期待して踏み込むのとはわけが違う。

 かくて、戦地へと赴く際の緊張感をさりげなく胸中に忍ばせるアッシュとレインだったが、そんなものは通路の果てをくぐり抜けた瞬間すべて木っ端微塵に消し飛んだ。

 街は、たしかにそこに存在した。岩石を掘削して形作った大天井の下、椀状に深く広く掘り下げられた穴の底で、不可思議な蠕動(ぜんどう)を繰り返していた。

 目下その椀の外周部分に身を置くアッシュたちは、最前までの警戒心や緊張感をすっかり忘れ去り、ただひたすら驚愕の一心でこの極めて特異な空間を眺めている。

 頭上には、当然のことながら空などありはしない。眼下の街から放たれる強烈な光彩によってごつごつした岩肌と、岩肌が上方に向かって丸みを帯びつつ昇ってゆく様がかろうじて窺えるだけで、あとは真っ暗な闇が覆っている。従って、大天井が一体どの程度の高さにまで広がっているのか、また全体としていかなる形状をしているかは一切不明である。

 アッシュらが今いる外縁部についても、厳密な規模及び形状は判然としない。とりあえず目の届く範囲は円形を成そうとするように岩壁が緩慢なカーブを描いて左右に伸びてはいるが、いかんせんそのカーブというのがどこまでもどこまでも果てしなく延び続け、いつしか元のとおり弧を維持したまま延長しているのか否かの判別がしづらくなるからだ。こうした有様であるため、外縁部上に彼らが通ってきたような通路が他にも存在する可能性は大いにあっても、あまりの遠さに目視がまず不能。少なくとも二人の目の届く範囲内には見当たらない。これだけの規模ならば、出入口が一箇所だとは考えにくいのだが。

「なるほど、そういうことか……」

 と――ここでアッシュがひとりごちた。

「バドゥトゥについて唄った歌、あの中にある『穴の底』という一節はこのことを指してしているんだな」

「どゆこと?」

 尋ねるレインを一瞥し、アッシュは下方――大小様々な建物が超高密度で、文字通りみっしりとつめ込まれた街を俯瞰した。

「以前から違和感があったんだ。岩を削り、その内部空間に築いた街を表現するのに穴……はまあ良しとしても、底というのはな。単純に横穴を掘った先に街があるだけなら、こうはならないはずだ」

 ぽん、とレインが手を打った。

「ただ岩を横に掘っただけじゃなくて、下にもってわけね。人が増えたすぎたせいかしら」

「だろうな。たしかにこの中では、下に掘り進む以外に街を拡張する手立てがないからな」

 納得したところで、二人は斜面に沿って街へと続く九十九折りを下り始めた。おそらく人々の度重なる往来によって磨かれたのであろう岩の坂道は、傾斜が緩やかなのも手伝って非常に歩きやすく、自然と足取りが速くなる。それに伴い街はみるみる近づき、近づくに連れて外縁部からでは仔細に把握できなかった街の住人の姿が、声が、はっきりとした実像を結んでアッシュたちの認識下に次々と飛び込んでくる。

 ほどなくしてアッシュとレインの両名は、ミュクサガルド随一と謳われる混沌街へとついに降り立ち、そして本日三度目となる、けれど前二度のときとは少しばかり異なる驚嘆に声を失った。

 人。人人人。人。痩せた者、太った者、背が高い者低い者、少年青年、女子供老人、兵士、娼婦、商人、芸人、物乞い、そうした類型のいずれにも当てはまらない生業不詳者たち。(ある)いは微笑みを湛え、或いは不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、また或いは絶望のどん底だとでも言わんばかりにうな垂れて、狭い往来を行き交っている。

「安いよ安いよー! 今日の目玉は新鮮な豚肉だよー! さー買った買ったー!」

「そこの大将、どうぞ見てっておくれよ! どうだい、この切れ味鋭そうなクレイモア! エリスルム王国軍からの払い下げ品で、まだ一度も使ってない新品さ!」

「さぁさ皆様、ご注目! こちらに控える可憐な娘、実はあの現皇帝カペリ十三世の隠し子にして、遠い未来をズバリと言い当てる神秘の預言者ときた! 明日明後日そのまた先、どんなことでも訊いてちょうだい!」

 どうやらこの区画一帯はいわゆる市のようだ。路地の左右両脇に無数の露店が列を成してひしめいている。立派な屋台を構えている者、荷車を自店の代わりとする者、地べたに広げた風呂敷包みの上に商品を陳列している者――形態はそれぞれだが、みな自分の店にわずかでも金を落としていけと客引きに余念がない。

「ちょいとオネエちゃん、そうそう、そこのキレーなオネエちゃんだよ。いいブツがあるんだが、買ってかないかい?」

 その内の一人、薄汚れた掘っ立て屋台にて商い中の露天商の男が、初めて目の当たりにした獄門街の活気に唖然とするレインへと声をかけてきた。

「コレコレ、コレなんだけどさぁ、北にあるシャールの森にしか生えてない幻のキノコを乾燥させて、粉末状にした秘薬中の秘薬。コイツをそっちの、ほら、そのお兄さんと二人して飲みゃさぁ、今夜は朝まで疲れ知らずで……なんだってば。イヒヒヒ」

「要るか、ンなもん!」

 布包みが、意味深長な含み笑いとともに差し出されるも、レインは怒声一発つっぱねた。何気なく視線を店の売り物に向けてみると、そこには兎の耳やら熊の腕やら猫の尻尾やら、各種動物の体の部位が薬と称して整然と並んでいる。思わず、ぶふっ、と噴き出す。

「さ、さっさとどっかの酒場かなんかに入って休憩しよ、ねぇ、アッシュ――あれ? アッシュ?」

 慌てて隣を(かえり)みたレインは、連れ合いの姿がないことに気づいてさらに盛大に泡を食った。

「あ、ああ、アッシュ! アッシュってば! アンタどこにいんのよ! 置いてくなよバカぁ!」

 ほとんど涙目で周辺を探しまわり、

「顔色が優れないようだが、人の波にでも酔ったか」

「……ヘーキ。全然ヘーキだし」

 少し離れた場所で人だかりにまぎれる彼を発見。精一杯強がって見せたのは、レインのレインたる自尊心がゆえだった。

「ていうか、なに見てんの?」

「大道芸だ。なかなか巧いもんだと思ってな」

 アッシュが顎で示す先、人だかりの中心には一組の若い男女の姿があった。年の頃十代前半くらいか、双方まだまだ顔にあどけなさが残る少年と少女である。

「兄妹だそうだ。後ろで笛を吹いているのが兄、前でナイフを操っているのがその妹だ」

「妹…………けど、あの子、腕が」

「流行病にやられたらしい。ちなみに兄の方も、生まれつき眼が見えないとのことだ」

 盲目の兄が奏でる横笛の音に合わせ、隻腕の妹が残されたもう一本の腕と足を駆使して複数のナイフを自在に操る様を、集った人々は誰もが食い入るように見つめている。

「かつてバドゥトゥが帝国の強制収容所として機能していた時分、ああした肉体に障害を持つ人間も不適正国民として多数処刑されたと聞く。彼らは解放後、獄門街と呼ばれるこの街で稼ぐため、生き残っていくためにそのほとんどが芸の道か性を売る道を選んだそうだ。そうした流れ、伝統というやつは今もこうして脈々と受け継がれているんだな」

「誇りを持ってやってんでしょ? だったらいいじゃん。他人がとやかく言う筋合いはないって話よ」

「違いない。とかく俺たちが属する王国なんかとなると、やれ人としての尊厳だの、やれ差別感情の助長だのと目くじらを立てる風潮がここ十年来やたらと強まってきているしな」

「なんにも知らないくせして、ね」

 一通り演じ終え、兄妹が揃ってぺこりとお辞儀をすると、観衆は拍手や投げ銭で彼らの妙技を賞賛した。食べ物を置いていく者もいた。そんな中にあって無一文のアッシュは、

「売るといい。それなりの額にはなるはずだ」

 おもむろに左腕から円盾を取り外し、少女に手渡した。すると思わぬ反応が返ってきた。こんな高価なものは受け取れない、と言うのだ。妹の戸惑いの声を聞きつけて近寄ってきた兄も、指先で盾の形をなぞって確認するや、自分たちの芸には過ぎた代物ですと、返却を申し出る。

「だったら釣りをもらっていく。じゃあな」

 アッシュは足元に落ちていた銅貨を数枚拾い上げ、レインを促しさっさと歩き出した。遠ざかる背後からは兄妹の感謝の声が、アッシュたちが雑踏へと埋もれて喧騒に包まれるまで長らく聞こえ続けていた。

「へー、ふーん」

 アッシュの何食わぬ横顔を覗き込み、レインはにやにやと笑う。

「アンタもいいとこあるじゃんか」

「何の話だ」

「とぼけっちゃって。盾よ、盾」

「ああ、あれか。本音を言えば最終的な資金源として確保しておきたかったんだが、タダ見というわけにもいかなかったからな、あの二人の技術は」

「ほんとにぃ? ほんとにそれだけぇ?」

 やけにもったいぶったレインの問いかけに、アッシュは心底不思議そうな面持ちで答えた。「それだけだが」

 レインは無言で肩をすくめた。こちらはどこか興醒めしたといった感じの顔つきだった。

 間もなく二人は市の通りを抜け、飲食店が軒を連ねる界隈へとやって来た。

「どこか適当なところに入って食事にしよう」

「そうね。腹減って死にそうだし」

 そう言ってからレインは改めて周囲を見回した。

 ごくありふれた、一定規模以上の街でならどこでもお目にかかるような典型的な盛り場の風景だ。食堂や酒場といった看板が下がる店舗からは陽気な音楽と客のざわめきが漏れ聞こえ、すれ違う酔人(すいじん)らは滑稽なやりとりに華を咲かせ、道端にはぽつりぽつりと娼婦らしき着飾った女たちが立ちんぼしている。

 なんだ、とレインはいささか拍子抜けした気持ちになる。バドゥトゥにまつわる諸々の黒い噂話は、そのほとんどがでたらめ、話に尾鰭がついた単なる誇張だったのだと。現にさきほどの市場では怪しげな薬は販売していたものの人身売買は行われていなかったし、今もすぐそこの路上でいがみ合いの末に取っ組み合いの喧嘩を繰り広げている者がいるが、あの程度の光景ならクラスタの歓楽街でも日常茶飯事だった。それともまさか、バドゥトゥにおいて喧嘩は必ず殺人に発展するとでもいうのか。そんなことはあるまい。

「ここにするか」

 しかし、兵隊という職業柄や年相応の経験から決して初心(うぶ)とはいえない彼女でも、アッシュの後に続いて入った店の有様には閉口を余儀なくされた。

「いらっしゃ~い。あら、イイ男。ささ、こちらの奥の席へどーぞ」

 二人を出迎えた女給仕は、乳房と陰部を必要最低限の布きれで隠しただけの、裸同然の格好だった。いや、出迎えたこの女だけではない。ほとんど満席状態に近い店内を悠々と闊歩する給仕らはすべからく同様の出で立ちで、しかも客たちはそんなことをまったく気にする素振りもなく、酒に食い物に博打にと各人大いに盛り上がっている。

「ご注文は?」

「そうだな、とりあえずこの豚肉の――っ」

 通された席に腰を落ち着け、品書きを見るやアッシュは声をつまらせた。レインが正面から覗きこみ、同じく「ウソォ!」と仰天する。

「た、ただの豚肉の炒め物が、どうしてこんな高いわけ!? 明らかにぼったくりじゃん!」

 噛み付くレインに対し女給仕は平然と応えた。

「はぁ? おたくなに言っちゃってんの? ここじゃこれくらいが相場だし」

「どんなめちゃくちゃな相場よ! おかしいでしょ、パン一切れがこんな値段なんて!」

 レインは品書きの紙をテーブルにばん、と叩きつけて立ち上がった。

「出よ出よ、アッシュ。店なら他にもたくさんあるし、わざわざこんなクソぼったくりんとこで食べる必要ないしさ」

「…………クソはあんただよ、ババア」

 聞こえよがしな呟きに、レインの頬が引き攣る。

「ああん? おいこら、テメェ、今なんつった?」

「ババアっつったんだよ。歳くって耳も遠くなってんのかよ、ババア」

「さっきからババアババアって、見たとこテメェだってそんなに歳変わんねえだろうが!」

 そこでレインと女給仕は互いの年齢を述べ合った。レインの方が一つ年上だった。

「負けた……」

 がっくりとうな垂れるレインを見て、女給仕が愉悦に満ちた笑みを浮かべる。

「残念でした。だいたいさぁ、カレシと一緒にいるのにスッピンとか、そういうのも信じらんない。女として終わってんね、あんた」

「言わないで! 河ん中に落っこちて取れちゃって、それ以来ずっと恥ずかしくて恥ずかしくて!」

 そういえばしていないな、とアッシュが繊細さに欠ける発言をし、ついにレインは顔を覆って泣き崩れてしまった。「見ないでよ、思い出さないでよ」

「ところでだ、この店の値段が相場とへだたりがないのは了解するとして、もう少し負からないか」

 閑話休題。アッシュが値切り交渉を持ち掛けると、女給仕は彼を色目使いに眺め回し、

「だったらこういうのはどう? あたしがお兄さんになにかタダでおごってあげる」

「本当か」

「うん。だってお兄さん、すっごくカッコいいんだもん。あ、でも、あんまり高いのはカンベンね。それとぉ……」

 色目から一転、明らかに悪意のこもった眼差しをレインへと向け、

「判った。俺一人で食べる」

 その〝条件〟をアッシュは承諾した。

「心配するな。見つからないように分けてやる」

「あのクソアマ、マジでムカつく……」

 かくして、二人はアッシュが注文した豚肉と野菜の玉子とじを待つことと相成った。テーブルの上ではつきだしとして無料で供された濁った水と干からびたチーズが、食欲を減退させるような生臭い臭気を存分に放っている。

「ねえ、これからどうすんのよ? 飯を食うのにもこのザマなんだから、宿代なんてとうてい払えっこないわよ」

「そうだな。どうにかして稼ぐ方法を考えなければ、馬も手に入らないしな」

「馬、ねぇ。そういや、フリードリッヒってどうなったのかな。やっぱムリだったか、あの河は。いくら優秀な軍馬でも動物だもんねぇ」

 レインが何気なく口にしたその名が計らずも引き金となった。暗然たる空気が、それとよく似た、しかし決定的な部分においてまったく異質なものへとすげ変わり、二人の肩に重くのしかかる。

「一体なんだったんだろ、あの化物たち」

「判らん。ただ、奴らの由来がどうあれ、裏で糸を引いていたのは隊長だ。あの廃村への遠征自体、俺たちをおびき寄せるためにあの男が仕組んだ罠だった」

 脳裏をよぎる幾つもの情景。断片として散らばるそれらを繋ぎ合わせ、アッシュは一つの結論に達する。

「実験――と考えるのが妥当だな」

「実験?」

「帝国に寝返った隊長がその手土産として、俺たちを新兵器の実用試験に差し出したんだ」

「んのっ、ゲス野郎っ……!」

 憤怒の形相とともにレインは拳を握りしめた。

「どうせ出世だろ、地位だろ、名誉だろ! あいつの頭ン中はそればっか! 少佐か大佐か知りゃしないけど、そんなくだらねえもんになるためにあたしら敵に売りやがって! クソクソクソ、クソがぁ!」

 レインの怒りはもっともだ。出世欲に駆られた末の反逆など兵士としてもっとも忌むべき行為であるし、ルドラーがそうした下劣で浅ましい動機の下に自分たち部下の命をゴミくず同然に捨てたことには少なからずアッシュも憤りを覚える。

 ――だが果たして、真実それだけだったのか。

 やにわに湧き起こった不足感はみるみる膨張し、再度の回想をアッシュに強いる。

『私は貴様が(うと)ましい』

『なぜだ、なぜ貴様なのだ。剣の技術も、戦闘における知識や勘も、皆からの人望も、総てを手にすべきなのは私ではないのか!』

『いいか、ザム伍長、よぉぉぉく見ていろ! 私が欲しいものを手にするところを! 貴様から奪う瞬間を!』

『これでこの女も私と同じになったアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ』

 ルドラーが渇望したモノ。

 ルドラーが嫌悪したモノ。

 ルドラーを、そうさせてしまったモノ。

 いつしかアッシュの眼差しはガラスのコップに、その中でゆらゆらとたゆたう濁った水面にまるで縫い付けられでもしたかのごとく一心に注がれていた。

 だからこそ、注視の対象がいきなり視界から掻き消えたときはさすがの彼もひどく驚き、事態の把握にほんのわずかばかり時間を要した。

 少年である。先ほど市場で大道芸を披露していた兄妹ほどか、彼らより一つ二つ年上くらいの若い男が、突然アッシュらの席にすっ飛んできてテーブルから水から何もかもそっくりなぎ倒したのだ。

「ヒェーヒェヒェヒェ! 飛んだ飛んだぁ! こいつぁ新記録だな!」

 少年が飛ばされてきた方向、店の上手を見れば、ゴロツキらしき巨漢が醜悪な容貌をくちゃくちゃにして大笑している。揉め事か、とアッシュはここでようやく事の次第に理解が及ぶ。

「ちょっとアンタ、大丈夫? 手ェ貸そうか?」

 レインが差し出した手をはねつけ、少年は大破したテーブルの残骸の上から身を起こした。かと思うと、猛然と巨漢へと向かっていく。そして、今度はその場で取り押さえられ、腹にしたたか膝蹴りを食らってうずくまってしまった。

「よーよー、ライよー! もう終りかー!」

「だらしねえヤツだなぁ! そんなことじゃあいつまで経ってもねーちゃんを連れ戻せねえぞ!」

「剣拾え、剣を! お前みたいなガキが、素手でゴドウィンにかなうと思ってんのか!」

「やっちまえ、ゴドウィン! そのクソ生意気なガキを今日こそブッ殺せ!」

 はたと気づけば店内の客は総立ちになり、少年と巨漢とを囲んで馬鹿騒ぎに興じていた。中には両者の勝敗を巡って賭けを始める者までいて、狭い食堂内は今や即席の闘技場の様相を呈している。

「ライ――というのか、あの子どもは」

「え? あ、ああ、そうさ。ヤツの名前はライアス。だからライ――って、なんだよ、あんた知らないのか」

 不意にアッシュから問われ、彼の側にいた中年男性は少々面食らった様子だった。

「だったらあっちの、あのデカいのも知らないんだな。あいつはゴドウィンっていって、ケチな賞金首さ」

「賞金首……ということは、子供の方は賞金稼ぎなのか」

 いやいやいや、と男性は大仰に苦笑した。

「そんな大そうなもんじゃないさ、ライは。ヤツは二月前に娼館へ身売りに出た姉貴を買い戻そうってんで、ああしてそこいらのケチな賞金首どもを片っ端から相手にしてまわってんのよ。まあなぁ、たしかに手っ取り早く金を稼ぐにはもってこいの名案だが、ご覧の通り連戦連敗でさ。そりゃそうだわな、いくら雑魚でもライみたいなガキんちょじゃあ――」

「待て。この街には片っ端から相手にできるほど賞金首があふれているのか」

「もちろんさ。だってあんた、ここはバドゥトゥだぜ、獄門街だぜ。ゴドウィンみたいな小物から世界中に名の知れ渡った大物まで、それこそよりどりみどりってな」

 男の話はさもありなん。アッシュは今さらながら自分たちが、あの当代切っての暗黒都市――バドゥトゥにいることを再認識した。同時に、単なる揉め事や喧嘩にしては力の差が歴然とし過ぎている、その理由にも合点がいった。

「なあ、ライ。オレは前にも言ったはずだぜ。二度目はねえってな。ところがだ、テメェはこうしてまたのこのことやって来た。これが何を意味するか……おつむが空っぽのテメェにもわかるよなぁ?」

 少年の襟首を掴んで宙吊りにし、ゴドウィンと呼ばれた賞金首はドスを利かせた。これに対し少年、いや、ライは度重なる殴打のせいで腫れ上がった口元を歪めて半端な笑みを作ると、

「わかってるぜ、おつむ空っぽのオイラにだってさ……。てめーが大したヤツじゃねえってことくらい……。だから再戦しに来たんだ……。前回は負けたけど、今回はぜってー勝てるって、そう思ったからに決まってらぁ……」

 ほう、とせせら笑うのとは裏腹に、ゴドウィンの額には幾筋も血管がびくびくと浮かんでいて、挑発されたことに立腹しているのは明白だった。おまけにライの啖呵を好意的に受け取る者は客の中にも一人としておらず、殺せ殺せの大合唱が店内に巻き起こる。

 事ここに至って慌てたのはレインである。いくらなんでも誰か止めに入る人間――そう、例えば店の責任者あたりが直接介入しないまでも然るべき機関に通報するとか、何らかの手立てを講じるべきではないのか。このまま人死が出るのを黙って見過ごすつもりなのか。……たぶん、見過ごすのだろう。バドゥトゥとはそういう街なのだ。客に入り混じって歓声を上げている女給仕たちを見れば、おのずと理解できる。

「だ、だからってあたしが出てっても、丸腰のまんまじゃどうにもなんな――うへぇ!?」

 素っ頓狂な悲鳴は、何も彼女が懊悩(おうのう)の果てに発狂したわけではなく、

「ゴドウィンとかいったな。お前の相手は俺だ」

「んぁぁ? なんだ兄ちゃん、見かけねえ顔だが、旅のもんかぁ」

「お喋りをする気はない。まずはそいつを解放しろ」

 おそらくはライの所持品であろう、刃こぼれ著しいなまくらを手にアッシュが要求する。ゴドウィンはニタニタと笑ってライを床へと放り捨てた。

「正義の味方気取りかい、兄ちゃん。そういうのは感心しねえなぁ。この街じゃあよぉ、テメェみたいなのが一等いっちばんに消されるってぇぇ、知ってたかぁぁぁああああああああ!!」

 或いは奇襲を狙ったのかもしれない。下卑た笑みから卒然と狂犬じみた叫びに転じ、ゴドウィンはアッシュに挑みかかったが、

「急所は外したから口は利けるはずだ。さあ、お前をどこに引っ張って行けばいいのか、賞金はどうすれば手に入るのか、教えてくれ」

 作戦は失敗。まばたき一つするかしないかのうちに全身を切り刻まれ、あえなくライの隣に転がされることに。

「グフッ……。ひ、引っ張ってく必要なんて……ねぇさ……。この近所にあるお上の詰め所へ報告に行きゃあ……あっちから出張ってくる……。そ、そんなことより……」

「?」

「医者に連れていってください……。痛くて死にそうです……」

 数十分後。痛い痛いと泣きわめくゴドウィンは有志の客たちの手によって医院へと運ばれ、それと入れ替わる形でこれまた客の誰かが通報したのだろう、アッシュは駆けつけた街の治安管理官と名乗る男から賞金を頂戴したのだが、その額はといえば――

「とりあえず小腹はふくれたけど、また文無しとかあり得ない。アンタもつくづくショボい賞金首を仕留めたもんよねぇ」

「致し方ない。手配書を見ていない以上、相手の首に幾らの懸賞金がかかっているかまでは俺の知るところではないからな」

 数切れのパンと、野菜クズだけで作ったスープと、ちびた魚の焼き物と、あとはコップ一杯ずつのブドウ酒を頼むので精一杯だった。とはいえ、アッシュの端正な顔立ちだけでなく腕っ節の強さにも惚れ込んだ例の女給仕が、これもオゴりよ、とこっそり差し入れてくれた鶏肉の燻製は一つの成果といえば成果かもしれない。

「問題は宿だな。そこらで野宿するには、さすがにこの街は危険が多すぎる」

「そうよねぇ、アンタがあんなセコイ賞金稼ぐのに本気出しちゃったせいで、今ごろ街中あたしらの噂で持ちきりよ、きっと」

 特に血の気の多い連中の間でね、とのレインの皮肉めかした笑みもどこ吹く風でアッシュは、「本気を出した覚えはないんだがな」

「あーあ、こんなことならあげなきゃよかったんじゃね、盾」

「だが、今さら返してくれとも言えないだろう」

「任務続行に支障が出ても?」

「金を稼ぐ手立てなら他にもある」

「だったらぁ、今すぐ街の賞金首を全員、一人残らず血祭りにあげてきてよ!」

「却下だ。新参者の俺たちが派手に動き回れば目立つし、そうなれば自然と危険は増す。それこそ血の気の多い連中にのべつ命を狙われることになって、最悪、街にいられなくなる」

「じゃあどうすんのよ! 宿は! 任務は!」

「それを今、考えている」

 苛立ちを隠そうともせずに声を荒げるレインと、落ち着いた口調でどこまでも淡々と自論を展開するアッシュ。食堂前の大通りで、対照的な両者のやりとりは一向に着地点を見出せぬまま空回る。と――そこへ、

「どうしてくれんだよ、(あん)ちゃんたち」

 一人の少年が割って入った。赤い布地のバンダナですっぽりと頭を覆い、薄汚れたチュニックを纏う彼は、店内で繰り広げられた一連のごたごたの後始末に紛れ、いつの間にか姿の見えなくなっていたライことライアスだった。

 ライは憤懣(ふんまん)やるかたないといった様子でアッシュら二人をねめつけ、言った。

「あともうちょっとでゴドウィンの野郎を負かせられたのに、横からしゃしゃり出てきて人の獲物を横取りしやがって。この落とし前、きっちりつけてもらうかんな!」

 この難癖にいち早く反応を示したのはレインである。ずかずかと大股で相手に歩み寄り、その憮然とした童顔にあからさまな嘲笑を突きつける。

「はぁ? ガキが、アンタ一体なに言っちゃってるわけぇ? あんなケチな賞金首にいいようにボコられて、殺されかけてたくせに。あともうちょっとどころか、誰がどう見たって惨敗だっつーの」

「そんなことあるもんか! ボコられたのはオイラの作戦だい! わざとやられてるフリしてヤツの油断を誘うっていう、すっげー高等な戦術……そう、戦術さ! なのに邪魔したのはそっちの、その兄ちゃんだ!」

 いきなり水を向けられ、しかしアッシュは涼しげな表情を一部も乱すことなく応えた。「それはすまないことをしたな」

 で? とレインが強引に会話の対象を自分へと戻す。

「アンタの言う落とし前ってなによ? まさか、賞金寄越せとかじゃないでしょうね」

「べ、別にオイラはそんなつもりじゃあ……」

 なぜか急に視線を逸らし、しおらしくなるライにレインは再度問う。

「だったら落とし前って? とっとと言いなさいよ。どうせロクなことじゃないんだろうし、こっちも従う気なんてないけど」

「いや、だからさ、そのぅ……」

 されどライの態度は煮え切らず、早々にレインの我慢は臨界点に達した。

「あのねぇ、あたしらは忙しいの。アンタにかまってる時間はないの。そんなわけで、サヨナラ。二度と突っかかってくんじゃないわよ」

 連れ立ってその場を去ろうとするアッシュたちの背を、

「教えてほしいんだ!」

 ライが大声で呼び止めた。

「兄ちゃんのあのすっげー剣術、オイラに教えてくれよ! 礼はするからさ!」



 剣術を指南するその対価としてアッシュがまず真っ先に要求したのは、寝起きするのに最低限事欠かず、なおかつ安全な根城の確保。それから街の情報。ライの年端を(かんが)みればいささか無茶、ダメ元の感がありはしたが、意外にも彼はこれにすんなりと合意したのだった。

「ここがオイラの暮らす貧民街、イジェオ地区さ」

 ライの案内で二人は街を南へ、東西南北とおおまかに区分けされたバドゥトゥの中でもっぱら貧困層が大多数を占めるという当地区へと足を踏み入れていた。

「汚いとこねぇ」

「まあね。でも静かだし、慣れればわりと暮らしやすいんだぜ」

 迷路のように複雑に入り組んだ街路を、二人はライの後ろについて歩く。市場や飲食店で賑わっていた東地区とは違い人影はまばらで、おまけにレインが口にした通り、道の脇といわず真ん中といわず割れた食器や朽ちかけた材木片から果ては小動物の死骸に至るまで、散らかり放題に散らかっている。また、街路に沿って左右所狭しと建ち並んだ、多くは住宅であろう平屋の建築群もどれも老朽化が進んでおり、そのうらぶれた様がいっそう街の頽廃(たいはい)ぶりに拍車をかけていることは疑うべくもなかった。

「ここで暮らしてんのは、たいがいがオイラみたいな孤児(みなしご)さ。まあ中には親と一緒のもいっけど……そんなヤツらだって、結局イジェオにいるってこたぁ色々とめんどくせー事情持ちってこと。借金だの病気だの、お荷物になる親ならいっそいないほうがマシってね」

 言われてみると確かに子供が多い――というか、先刻から路上で散見される花売りも靴磨きもガラクタを漁っているのも、どれもすべて子供である。レインが当然のように疑問を口にする。「こんな状態でまともに街が成り立つわけ?」

「もっちろん。つーか、こんな状態だから、こんな状態でなきゃイジェオは成り立たないのさ。言ったろ? ここにいる大人はどいつもこいつもお荷物だって。借金取りに追われてるせいでロクに働きにも出れないヤツ、病気でベッドから起き上がれないヤツ、酒や薬にどっぷりでほとんど人間やめちまってるヤツ。そんな大人たちの代わりに、こうやってオイラたち子供が稼がないと街は回らないんだ」

 ふーん、と呟きながらレインは何気なく左前方の建物を見やった。仕立屋の看板が下がる質素な住宅の一室、開け放たれた窓の向こうで、少女が父親と思しき男性に顔面を殴りつけられていた。次いで、ごめんなさいごめんなさい、と泣く声。そして、けたたましい破壊音と罵声。

「……レイン」

「あ――ああ、うん、なんでもない」

 不意に立ち止まったレインを不審に思いアッシュが声をかけると、彼女はどこか決まりの悪そうな微笑を返し、小走りで後に続いた。

「おし、到着。ここがオイラの家さ」

 やがてライは長い坂道を下り、その先に建つ一軒のみすぼらしい棟割り長屋の前で足を止めた。

「ウチの屋根裏部屋が空いてっからさ、そこを使うといいよ」

「はぁ? 屋根裏ぁ? イヤよ、どうせ汚いし」

「ぜーたく言うなよな。剣術を教えてくれるアッシュ兄貴だけならともかく、関係ないレインまでこうして泊めてやるって言ってんだからさぁ」

「ちょい待て、クソガキ! どうしてアッシュは兄貴で、あたしだけ呼び捨てなのよ! ふざけんな!」

「えー、別にいいじゃんかー。細かいこと気にしすぎると、顔の小じわが増えるぜ、オ・バ・サ・ン」

 ブチン――という音が聞こえたかどうかは別として、怒髪天を衝いたレインは実力行使に出た。ライに飛びかかり、左右のこめかみをむんずと掴んで締め上げる。ライも負けじとやり返す。結果、

「き、今日のところはこれくらいでカンベンしてやんよ、ババア」

「そ、それはこっちのセリフよ、クソガキ」

 両者ともに痛みに耐えきれず、引き分けと相成った。

「ライが戻ってきてるって、本当か?」

「うん。しらないおとなのひとと、いっしょにいる」

「あー、ライ、いたー」

 不毛な争いが決着するのを見計らうように、何やら子供たちの一団が坂上から姿を現した。

 おそらくはライと同年齢くらいであろう丸眼鏡の少年を筆頭にして、彼よりずっと幼い童子ばかりがざっと見たところ十数名ほど、アッシュたちの目の前に立ちはだかる。

「ライ。お前、また性懲りもなく盛り場で賞金首にふっかけたらしいな」

「……おう」

「おう、じゃない。あれほど無茶はよせって、僕はお前に再三言ったはずだ」

「けどよ、グレン、オイラは――」

 食い下がろうとするライを、彼からグレンと称された少年はその怜悧な視線の矛先をアッシュらへと移すことで黙らせた。

「噂は聞いてます。ライを、僕らの仲間を救ってくださったようで、心から感謝します。ですが……」

 グレンはアッシュの風体をつま先から頭の天辺に至るまで、無遠慮にじっくり眺めまわすと、

「応じるつもりはありませんよ、悪質な〝たかり〟には」

 瞬間、沸点の低いレインは得意の罵詈雑言を浴びせようと口を開きかけるも、あえなく封殺されてしまった。

 童子たちの眼――。

 あまりに無垢な、無邪気な猜疑(さいぎ)と憎悪を真っ直ぐに突きつけられ、レインは思わず押し黙ったのだった。

「グレン――だったか、お前は誤解をしている。俺たちはライとの公平な契約に基づいてここにいるんだ」

 一方こちら、アッシュはまったく怯む気配を見せていない。子供たちからの剥き出しの敵意を満身に受けながらも、淡白極まりない口調で自分たちの正当性を説く。

「詳細はライから聞け。俺の口から聞いても信用できないだろうからな」

 グレンの視線がライへと戻り、ライは神妙な面持ちで言った。

「その兄ちゃんの言ったことはウソじゃない。この人たちに部屋を貸す代わりに、オイラ剣術を教えてもらうんだ。そんで、強くなって、たくさん賞金稼いで、姉ちゃんを連れ戻すんだ、アンバーへイヴンから」

「いい加減にしろ!!」

 怒声が響き、場の空気が張り詰め、その煽りに耐えかねた数名の童子たちが堰を切ったように泣き始めた。

「ライ、お前ってヤツは、まだそんな夢みたいなこと言ってるのか! メアリィさんはもう戻ってこれないって、僕らじゃどうにもできないって、どうしてお前にはそれが分からないんだよ!」

「わかってねえのはてめぇだ、グレン! 金さえありゃあ姉ちゃんは買い戻せる! あんな所で体なんか売らないで、また元通りみんなで楽しく暮らせる! そうだろ!」

 舌足らずで甲高い、幼児特有の声で子供たちは涙ながらに訴える。

 グレン、けんかはよして。

 ライ、なかよくして。

 メアリィおねえちゃん、こわいのやだよ。

 おとうさんおかあさん、どこにいるの。

「ああ、そうさ! お前の言うとおりさ! たしかに金があれば、金さえあればメアリィさんは買い戻せる! けどな、その値段についてお前は考えたことがあるのかよ、ライ! 僕たちじゃ一生かかったって稼げない額じゃないか!」

「だから! 剣の腕を磨いて強くなって、上等な賞金首を倒すんじゃねえか!」

 されどたった一人、歯を食いしばって泣かずにいる幼い女の子がいた。女の子は突然、足元に転がる石ころを一つ拾い上げると、それをアッシュ目掛けて投げつけた。

 石は、アッシュの右のまぶたに命中した。血が流れた。

 アッシュは身動ぎ一つしない。表情も変えない。ただ黙って、その場に佇んでいる。

 はっとしたのは、グレンだった。

「エル、なんてことするんだ! そういうことしちゃいけないって、いつも言ってるだろう!」

 (いさ)められ、しかし女の子は一歩も退こうとしない。

「でもこいつ、わるいやつなんでしょ? わるいやつはこらしめてもいいって、グレンいっつもいってる」

「そ、それは……」

 返す言葉に窮するグレンを置いて、女の子は胸に抱きかかえた薄汚れたウサギの人形に向かって「ね? ミュウちゃん」などと語りかけている。

「……なあ、グレン、オイラもう決めたんだ。強い賞金稼ぎになって、一日でも早く姉ちゃんを連れ戻すって。だから――」

「分かってくれなんて言うなよ。それは無理な頼みだ。無茶して命を落として、そうしたらこいつらはどうなる? 親もいない、小さすぎてまだろくすっぽ稼げもしない、そんなこいつらの面倒をもうあと少し、僕とお前とで見ていかないといけないんじゃないのか? たとえ、メアリィさんをあきらめたとしても」

 みんな行こう、と童子たちを促し、グレンは去っていった。遠ざかる仲間たちの背を見送るライは、幾人かがこちらを名残惜しげに振り返っているのを認め、そんな子らに対し笑顔で手を振っていた。

「アンタさぁ、さっきの石って……」

 レインはアッシュを顧みた。どうにも腑に落ちないことがあって、それについて尋ねてみようと思った。

「え――」

 直後に奇妙な現象が起きるまでは。

「ここ、岩山の下よね? あり得なくない?」

 驚くのも無理はない。後から後から、ボタボタと、頭上より無数に落下してくる水滴は他ならぬ、

「外でまとまった量の雨が降ると、岩の亀裂や小さな穴に染み込んで降り注ぐんだろう」

 アッシュの推測は正しかった。のちにライがそうだと肯定したのだ。獄門街にも雨が降ることを、レインは知った。



 陽の光の届かないバドゥトゥに暮らす人々にとって、役人がおよそ四時間ごとに打ち鳴らす鐘の音は規則的な生活を送る上で必要不可欠である。

 グレンたちが去り、アッシュとレインがこれから自分らの仮住まいとなるライ宅の屋根裏部屋の掃除を始めると同時に鳴ったのが、午後二時を告げる鐘。昼の盛りに取りかかったと考えれば、時間的な余裕は充分あったといえる。しかしながら、その次の午後6時の鐘が鳴る頃になっても、二人は依然として手を動かし続けていた。

 屋根裏部屋の状態は、掃除だけすれば住めるというほど良好ではなかった。まず、雨漏りが(はなは)だひどい。屋根はいちおう藁葺きでなく板葺きだったが、長年の使用であちこちガタが来ているらしく、漏れている箇所をいちいち特定するのが馬鹿らしいほどの盛大な(したた)りっぷり。加えて、こうした雨漏りの影響であろう床の傷みも相当なもので、一部は腐食の進行により耐久力を著しく欠いており、もしうっかりその上に誰かが立とうものなら大惨事はまぬがれない。

 そんなわけで、掃除よりも先に修繕が必要だと判断したアッシュがその旨を伝えると、台所と食堂を兼ねる一階の部屋で内職――ずた袋を裁断し縫い合わせて小さな巾着をこしらえる――に精を出していたライは苦笑して、

『直すってもなぁ、材料になる木材は値打ちもんだから、なかなか手に入んないんだよなぁ』

 やむを得ずアッシュは、屋根裏部屋にたった一つ置かれたベッド――干草を敷いた四角い木の箱を解体し、それだけでは不足とこちらも部屋に唯一の古ぼけた長持ちも壊して材料とすることで、どうにか修繕は完了した。

 残るは掃除だが、これは早々に済んだ。床に雑巾がけをして、蜘蛛の巣を払う程度でよしとしたためである。

「終わったかい?」

 午後十時を告げる鐘が鳴り響く少し前、梯子(はしご)を降りてきた二人にライが訊いた。

「ええ、でも……部屋の中が空っぽ、なーーーんにもない状態になったわ」

「そうでもない。干草がある」

「あ、そう」

 アッシュの朴念仁発言に取り合う気力も体力も、もはや今のレインには残されていなかった。

「気にしない気にしない。ご覧のとおりバドゥトゥでは雨だって降るんだし、野宿しないで済むだけまだましってもんさ」

 ライは暢気に笑っている。とはいえ、彼の真意は明白だった。要するにアッシュたちは即席の大工として体よく使われたのだ。

「腹減ったろ? 飯にしようぜ」

 ただ、こうして供するものをきっちり供すあたり、ライは心得ている。自分の利と相手の利を共に立たせ、もちつもたれつ上手く立ち回る術を。それはとりもなおさず獄門街で生きる人間のしたたかさなのだと、アッシュは得心した。

 テーブルにつき、ライが作った芋汁を食す。レインが何気なく食材の出所を尋ねると、長屋の裏に畑があってそこで栽培している芋とのこと。味は悪くない。薄味だが、何より腹に詰みそうだし、体も温まる。

「そのぅ……さっきのことだけどさ、あれでもうだいたいわかったろ? オイラが剣術を習いたい理由とか、あとついでに身の上とかも」

 しばし三人で黙って芋汁をすする時間を経て、ライが言った。

「姉は娼館か」

「うん」

 首肯するライの表情はひどく切なげだった。出会ってから数時間、威勢のよさばかりが目立つ彼がアッシュたちに見せた初めての顔である。

「姉ちゃんは、物心がつく前に親が死んじまったオイラを女手一つで育ててくれたんだ。畑で作った野菜を売ったり、内職したり、東のマール地区に行って店番したり、それこそ身を粉にするみたいにして働いてさ。そりゃ、もっと割りのいい仕事は色々とあったけど、姉ちゃんはそういうのには絶対に手を出さなかった。姉ちゃんはいつもオイラに言ってたよ。『体を売って作った金と、殺したの盗んだのって悪いことして稼いだ金と、その二つでだけはあんたを食わせたくない』って。それが誇りだって。だけど、それにもとうとう限界が来ちまって……」

 そこまで話して、ライは切なげな面持ちに明確な怒りの色を挿した。

「親が生きてるときにこさえてった借金さ。ああ、取立て屋が家にしょっちゅう顔出すんだからよ、オイラにだってわかってた。利息を払うので精一杯、いや、その利息だってちゃんと払えてなくて、どんどん膨れてってるこたぁ。あとはお決まりのやつさ。姉ちゃんは西のラギア地区にある、バドゥトゥで一番か二番目にデカいアンバーへイヴンって娼館に身売りした。あれだけオイラに、体は売らないって断言してた姉ちゃんがだぜ」

 最後に自嘲じみた笑みを浮かべ、

「おかげで借金取りは来なくなって、オイラは晴れて自由の身になったってわけさ」

 ライの自分語りは終わった。

 話に耳を傾ける間、アッシュもレインも終始無言でせっせと芋汁を口に運んでいた。レインは今もそうだ。アッシュだけが、スプーンを動かす手を止めた。

「グレンとは長いのか」

「長いもなにも、生まれたときからの腐れ縁さ」

「そうか」

 そしてまた、食事に戻る。すると今度はライが、

「そーいや聞いてなかったけど、兄貴たちは? あんたらはどうしてこの街に来たんだい?」

 アッシュは少し考えてから、答えた。

「俺たちは王国の兵士だ。さる任務の最中にある」

「深くは話せないってか」

「そうだな。誰にも知られるわけにはいかない機密任務だ」

「ふーん。ま、オイラに関係ないなら、それでいっけどさ」

「その点については保証する。お前は無関係だ」

 ライは質問を変え、本題へと移った。

「街の情報がほしいって言ってたけど、何が知りたいんだい?」

「お前の話ではないが、この街で効率的に金を稼げる方法や場所を教えてくれ」

「効率的に、つってもなぁ。目標にしてる金額とかないの?」

「ある程度の性能を有する武器、数日分の水と食料、最低限の医薬品、それから馬――以上を可能なかぎり迅速に調達したい」

 椅子にそっくり返り、ライはすげなく言い放った。

「ムリムリ、馬は売ってっけどすっげー高いから。それとも兄貴、あとレインも、あんたら二人してウチの姉ちゃんが買われてったラギア地区で立ちんぼでもしてみっかい? そしたら四五日くらいでどうにか半分くらいにはなるかもね」

「ふむ、男娼か……」

「マジに検討すんな! てか、あたしが娼婦なんてヤダってーの!」

 芋を喉につまらせそうになりながらも、レインは猛烈な勢いで抗議し提案を即座に却下した。

「というわけだ。他の手を頼む」

「うーーん、そうだなぁ……」

 思案に暮れるかと思われたライは、しかし存外すんなりと、「一つだけ、あるっちゃあるよ」

「イヤらしいのはゴメンだからね」

「わかってるって。そうじゃなくて、闘技会さ」

「詳しく話してくれ」

 アッシュに促され、ライは仔細を語り始めた。

「バドゥトゥが東西南北、大きく四つの地区に分かれててそれぞれが違った性質(たち)をしてるってのは、もう話したよな。兄貴たちが今いるここ――南のイジェオ地区はオイラみたいな貧乏人が寄せ集ってできた貧民の街。東のマール地区は商人が幅を利かすカネとモノの街。それから、同じカネでもヤバい品物を中心に日々とんでもない額でやりとりして、盗む殺すだますなんてのは当たり前って連中が裏で牛耳る西のラギア地区。帝国本国から飛ばされてきたクズ役人と、そいつらに大金つかませて美味い汁をすする一部の金持ちどもがのさばる北のダスーダ地区。闘技会ってのは、この四つの地区ん中の主に北と西の野郎らがお互いの利益のために共同で開く、早い話が殺しの見世物さ」

「殺しの見世物……ね。ま、だいたいの想像はつくけど、悪趣味よねー。これぞ獄門街、て感じだわ」

「北の役人たちは金づるである富裕層の人間に刺激を提供してご機嫌を伺い、西のならず者たちは自らの懐から血の気の多い連中を幾人か出場させて殺し合わせ、その代償として日常的な悪事のお目こぼしを求める。なるほど、皆が等しく暗い利益を享受できる、実に判り易い癒着の構図だな」

 口々に感想や分析を述べるレインとアッシュに頷きつつ、ライは先へと話を進める。

「で――年一で開催されるそいつが、ちょうど今日から三日後、ダスーダの大劇場であるってわけ。もちろん優勝すれば賞金はたんまり。馬なんかいくらだって買えるさ。ただし……」

「何だ?」

「さっきも言ったとおり、こいつはカンペキな殺し合いなんだってば。ルールは一切なし。どんな手を使ったって、とにかく相手をブッ殺したもんの勝ち。逆にいえば――」

「殺す以外に決着の方法はないということか。それなら問題はない」

 石のような乾いた表情でアッシュは言う。

「俺は兵士だ。兵士は任務において、その必要があればいついかなるとき、相手が誰であろうと殺す。だから、お前の『殺せるのか』という問いに俺は『殺せる』と答える」

 一方のライはひどく面食らった様子で、

「そ、それだけじゃないって、オイラが言いたいのは。殺さなきゃ勝てないってこたぁ、負けたら死ぬってことだぜ。アッシュ兄貴は怖くないの、死んじまうのが」

「死に対して恐怖を感じたことはない。死が恐ろしければ、任務などとっくの昔に放棄して、兵士もやめてしまっている。質問はそれだけか。だったらすぐに出場方法を教えてくれ。期限はまだなんだろう」

 戸惑いと驚愕が入り混じった瞳で、ライはレインを見やった。レインは大仰に肩をすくめ、(かぶり)を振るだけだった。

「わかった、わかったよ」これを受け、ついにライも観念したのか、「申請の期限は明日の昼までで、申請そのものも紙に名前と性別と職業だけ書いて役所の出張所に持ってくだけさ。受付けだって朝から晩までずっとやってるよ」

「そうか、ずっと――か。だったら」

 アッシュが椅子を引き、おもむろに立ち上がる。

「雨も止んだようだし、今から行ってくる。ライ、紙と書くものを貸してくれ。ついでに出張所の場所も頼む」

「……マジ?」

 このときライは、自身が数時間前に下した判断を少しだけ悔いたのだった。

 実はひどく割りに合わない契約をこの男とは結んでしまったのかもしれない――と。



 口で説明するより実際に案内したほうが早いという理由から、役所の出張所へはライも同行することになった。なお、アッシュの無茶に付き合う気などさらさらないレインは早々に屋根裏の寝床へ。かくて名うての賞金稼ぎを夢見る少年と、機械仕掛けの人形のような青年兵は誰の見送りもないまま長屋を後にした。

 時間が時間なだけに街はひっそりと寝静まり、おまけに家々の()が落ちているため道は非常に暗く、一応は公的機関が設置したオイルランプが街路のあちこちに灯ってはいるものの、アッシュのあまりに手早い行動に慌てたライが松明(たいまつ)を持参し忘れたのは大きな失敗といえた。危険な街として名高い獄門街に暮らす人々でさえ滅多なことでは足を踏み入れない西のラギア地区を除けば、当地イジェオ地区こそもっとも物騒な地域である。従ってライは、なんなら今すぐそこの路地の暗がりから得物を手に手に強盗でも飛び出してきやしないかと、道中気が気でなかった。よしんばそうした出来事が現実になろうと、アッシュにかかれば追いはぎもヤク中のゴロツキも物の数ではないのだが。

 我知らず早足になるライの案内の許、イジェオ地区内に唯一の出張所は出発から十分と経たずに二人の前に現れた。レンガ造りの四角いそれは、板張りの質素な家屋がほとんどの街並みの中にあって、平屋で小さいながらもしかつめらしい姿で街のメインストリートに沿って建っていた。

 出張所の表では、槍を持った軽装備の衛兵が夜番をしていた。アッシュが必要事項を記載した紙切れを手渡すと、当初はあくびを噛み殺しつつ実に億劫そうに中身を(あらた)めていた衛兵が一瞬目を剥き、次いでやけににやついた表情でアッシュを眺め回し「貴様が例の……」と含みのある呟きを漏らした。昼間のグレンもそれらしいことを口走ってはいたが、どうやらアッシュの噂は相当な広範囲に渡って瞬く間に広まったようだ。

 結局、申請はあっさりと受理され、闘技会のおおまかな説明もその場で衛兵の口から成された。以下がその内容である。


 一つ。試合は単対単の勝ち残り方式で、予選から決勝まで全四回戦が実施される。

 一つ。ルールなし、装備品の指定なども一切なし。

 一つ。対戦者いずれかの死をもってのみ決着とする。

 一つ。本来なら観戦には代金を要するが、出場者の関係人は特別にこれを免除される。


 四番目の項目については補足があった。希望する者は三人を限度とし、当日出場者に同伴する形で来場せよとのことだった。

 すべてを了解し、他に尋ねたり確認したりする事項もなかったため、アッシュとライは元来た道を取って返した。

 不完全な闇と深い静寂に没するイジェオの街頭に、未舗装の路面を踏み締める二つの足音が重なる。

 沈黙を保ってもくもくと歩を進める二人。そもそも無口なアッシュは元より、ライもまったく言葉を発しようとしない。その双眸(そうぼう)は行く手に点在する薄ぼんやりとしたオイルランプの光をただじっと捉え、どこか物憂そうに細められていた。

 遠くから犬の遠吠えが聞こえた。

 それが合図であるかのようにライが沈黙を破った。

「なあ、兄貴」

「どうした」

「やっぱさ、兄貴くらいの気合や覚悟がないとできないのかな、戦いって」

 アッシュは何も言わず、聞くに任せた。

「ほら、オイラ、姉ちゃんを助けるって言ったろ? そのために強くなって、上等な賞金首をたくさん倒すってさ。けど、正直なとこ考えたことなかったな……殺すとか、殺されるとか……」

 ゴメン、と言ってライは小さく苦笑した。

「オイラ今、ウソついた。考えたことは、ある。たくさんあるのに、ビビッてそれっきりにしちまってた。だいたいさ、闘技会に出んのはオイラのほうなんだ。ちまちま賞金首を倒すより、そっちのがずっと手っ取り早いし。なのにオイラ、オイラはその……殺すのも殺されるのも、どっちもすっげー怖くって……。だから、姉ちゃんを救いたいってこの気持ちもどこまで本気なのか、時々わからなくなっちまう」

「恥じているのか、死を恐れる自分を」

 アッシュのストレートな問いかけにライは、

「兄貴は……いつから兵隊やってんだい?」

 と問い返した。アッシュは淀みなく答えた。

「今のお前と同じくらいの年頃だ、王国の少年兵として志願したのは」

「じゃあ、人を初めて殺したのも――」

「いいや」

「え?」

「入隊して一月後の初陣で何人か殺しはしたが、それが最初じゃない」

 ライの肩がわずかに強張った。そして、恐る恐る、

「聞いて、いいの? その話」

「別に構わない。誰にも語ったことはないがな」

 アッシュの口調は変わらず、淡々としていた。しかしライは、

「やっぱ、いいや。今はまだ、まださ……」

 そうこうしているうちに二人は長屋に帰り着いた。

 ライはアッシュを振り返り、元の彼らしい快活な笑顔と共に言った。

「明日からよろしく頼むぜ、剣の修行。早く一人前の賞金稼ぎになれるようにさ」

「ああ。俺たちがこの街を去る前に、教えられることは一通りすべて教えておくつもりだ」

「あ、そっか。兄貴たち、早けりゃ三日後には行っちまうんだな。こりゃがんばらないとだぜ」

 でもあんまりキビシイのはカンベンな、などと笑って長屋に入っていくライの後に続いて、アッシュも仮住まいの戸をくぐった。



 翌朝、アッシュは朝日ならぬ午前六時を告げる鐘の音で起床した。

 条件反射的に開け放たれたよろい戸の外を見る。時刻は朝だというのに景色が暗いままとは、さすがに少し違和感がある。しかし寝覚めは悪くない。昨夜は壁に背をもたせて眠った――レインが藁を総取りした上に狭小(きょうしょう)な屋根裏部屋のど真ん中で大の字になって爆睡していたため――が、基本的にどのような場所でも姿勢でも睡眠が可能なアッシュにとっては、これも何ら悪影響はなかった。

 ほどよく疲労の抜けた体で立ち上がり、梯子を下って一階に降りるとライが朝食の支度をしていた。

「おはよう、兄貴。ゆうべはよく眠れたかい?」

「おかげさまでな」

 テーブルについたアッシュの前に、一口大ほどの小振りなパンと昨夜の芋汁の残りが供された。

「レインは?」

「まだ眠っている。そのうち起きてくるだろうが――何か用事でもあるのか」

「うん、ちょっとね」

 ライも食卓につき、パンを芋汁の中に投入してスプーンでほぐす。アッシュのもそうだが、パンは見るからに質が悪く、そのままでは固くてまともに食せないためこうするのだ。

「イタタタ、全身バッキバキだわー」

 と、ここでレインが屋根裏から降りてきた。噂をすれば――というやつである。

 レインは(かめ)に張られた水で口をゆすぎ、アッシュの隣の席にどっかと腰を下ろした。

「メシ~、あたしのぶんも~」

「はいよ」

「…………おいコラ」

「なにさ」

「なにさ、じゃないだろボケ! どうしてあたしのだけこんななのよ!」

 レインに提供されたのは、パンくずの詰まった小袋と木でこしらえた水筒だった。

 ライは事も無げに言った。

「レインには今からそれ持って仕事に行ってもらうから、よろしくな」

「仕事ぉ!?」

「そ、働きもしないヤツに食わせられるほどオイラんちは裕福じゃないの。というわけで」

 やおら席を立ったライは隣室に行き、手に大きなずた袋を持って戻ってきた。

「こん中にはオイラがゆうべ作った道具入れが入ってる。こいつをマール地区のブトッカって小物屋に納めてきてくれよ」

 ライの内職の成果――無数の巾着を確認してから顔を上げたレインは、なぜか涙ぐんでいた。

「お、お風呂、せめてお風呂に……」

「入りたいのかい?」

「うん、うんうん」

「だったら、小物屋で受け取った代金で浴場に行くことを許す」

 許可を得るやいなや、レインは品物と弁当を引っ掴んで長屋を駆け足で出ていった。自分の立場の弱さを知った以上、素直に従ったほうが吉と踏んだらしい。

 かくして朝食の時間は慌しく過ぎ去り、いよいよライが待ち望んだ剣術修行の時間がやって来た。とはいえ、長屋が密集するこの界隈では体を動かすにはいささか手狭ということで、場所を移すことに。アッシュとライは連れ立って歩き始めた。

 ライの話によれば、彼が暮らすここ一帯はイジェオ地区内においてもっとも環境的に劣悪な土地なのだという。

 バドゥトゥの南方に拓かれたイジェオ地区、その中でも背後に岩山の絶壁を臨む街の最南端に位置し、坂の下の低地に袋小路状に造成された当地には、他地区から排出された廃棄物や汚物が止め処なく流入し、そして淀む。バドゥトゥ全体の構造がそうなるように計算されているのだと、ライは語る。一見すると平坦に見える地面は実は南へ向かって下降する傾斜を描いていて、街中の〝悪いもの〟が次から次へと転がり込んでくるのだと。種々の事情によりまっとうな暮らしが送れなくなった者たちの嘆き、彼らに対する富裕層の侮蔑や嘲笑、そうした人間の負の感情も含めてすべてがここに溜まるのだ――と。

「極め付きはこいつ、この川さ。ここ十年以上そういうことはないけど、もし外で大雨でも降ろうもんならあっちゅう間に洪水さ」

 ライは足を止めた先、そそり立つ岩壁の真下にある河川敷にて準備運動を開始する。

「イジェオの中のどっかそのへんから湧き出してくる地下水で、あんまり量が多いってんでこんなデカい川になったんだと」

 ライの言う通り、滔々(とうとう)と流れる川の幅はゆうに十メートル近くはあるだろうか、たしかにかなり広い。加えて河岸にオイルランプがそれなりの数を揃えて立ち並び、誤って転落したりしないよう最低限度の安全策は講じられているものの、護岸工事などの氾濫対策はまったく施されていない。明らかに官の怠慢である。

「この川は外にまで続いているのか」

「らしいよ。オイラは外なんていっぺんも行ったことないし、確認したわけじゃないから知んないけどさ」

「待て、ライ。お前今、何と言った」

「へ? いっぺんも外に行ったことがないって――」

「それだ。しかし、冗談だろう。生まれてから一度も日光を浴びたことがないなんて、肉体がまともに生育しないはずだ」

「ん、んなこと言われてもなぁ……」

 珍しく語気を強めるアッシュに、ライはたじたじとなる。

「あ、でも、一度だけグレンから聞いたことあるな、デュランの話」

「デュラン? 街を解放したとされる英雄、デュラン・ダ・ディランか」

「うん。なんでもデュランは街を去るときにこんなことを言い残してったらしいんだ。――『汝らはこの地で幾年、幾世にも渡って末永く暮らすがいい。そのために成すべきことは我が万事において成したゆえ』」

「つまり、デュランが何らかの方法で太陽なしに暮らせるよう計らった――と」

「デュランは魔術が使えたとか、実はミュクサーヌの化身した姿だったとか色々と言われてっけど、一体なにをデュランがこの街にしてったのかまでは誰にもわかんねえんだってよ」

 そりゃそうと、と言ってライは自身の頭を、そこをすっぽりと覆う赤い布を指差した。

「オイラもそうだけど、この街で腕っ節を頼りに生きてる男は、大人も子どももみんなデュランに憧れてんだぜ。そういうヤツはだいたいこうやって赤、デュランの色を身につけるのさ」

験担(げんかつ)ぎ、まじないのようなものか。戦場でもしばしば見かけるな、そういった手法で戦意を鼓舞する者は」

 うんうん、とライは頷き、

「ほいじゃ、オイラがデュランみたいな強い戦士になれるように、いっぱつ頼むぜ兄貴!」

「承知した。では早速だが、今すぐ昨日の出張所まで全力で走り、そしてまた全力でここに戻って来い」

「わかったぜ、兄貴! ちょっくら行って――て、おおおおーーーーーーーい!!」

 ライは走りかけて、しかしすぐに立ち止まり、憤然として声を上げた。

「走るってなんだよ! それに一体どんな意味があんのさ! オイラは剣術を教えてほしいんだってばよ!」

 見当外れの指示に猛然と抗議するライとは対照的に、アッシュは極めて冷静だった。

「説明が必要か。ならばするとしよう。ライ、まずお前には絶対的に不足しているものがある。まともに剣を(ふる)うための基礎体力と筋力だ。その二つを備えない限り、剣術は身につかない――いや、よしんば身につきはしても、その剣術は実戦では何の役にも立たない」

 アッシュはおもむろに地面に放置してあった長剣――ライが自宅から持参した、いつかのゴドウィンを瞬殺した際のなまくらを手に取ると、正眼に構えた。

「いいか、よく見ていろ」

 そして、素早い踏み込みと同時に上段から下段へ一閃、手首を返して逆に上段へともう一閃、虚空を切りつけた。剣圧によって生じた大気のうねりが風となり、傍らに立つライの頬をかすめ、すぐに霧散していった。

「今の一連の動作で俺が使った筋肉がどれか判るか。おおむね全身、ほぼ全部だ。もちろん戦い方によっても違ってくるが、俺に習うとなれば必然的にこうした肉体の駆動方法を会得していくことになる」

「…………」

「全身の筋肉を一瞬にして極限にまで緊張させ、なおかつある程度のしなやかさを残しつつ、狙った相手の急所へと相手を無力化するに足るだけの必要最低限の手数を放り込む――言葉にするとこんな所だ」

「…………」

「余談だが、俺と同じ部隊に所属するとある剣士は、これとはまた違った剣の扱い方をする。そいつは二本の得物を使って、とにかく手数で相手を圧倒するんだ。急所を外した擬似的な剣線を敢えて無数に織り交ぜて相手をかく乱し、それによって精神的な圧迫感をも与えながら巧みに本命である急所を切り刻む。この際に必要とされるのは筋肉の緊張ではなく、むしろ弛緩だ。強さよりもしなやかさだ。斬撃の反動も大いに利用する。こういった戦い方は俺には真似できなくてな、何しろそいつときたら、例えば八手の斬撃を繰り出すのに八手とも得物の入射角を微妙にずらすなんて離れ業を涼しい顔でやってのける。曲芸の域だな、俺からすれば」

「…………」

「ライ」

「…………」

「聞いているのか」

 アッシュが(いずか)るのも無理はない。というのもライは、さっきから地面に腰を抜かしたままあんぐりと口を開き、微動だにしないのだ。

「……すげぇ……」

「?」

「やっぱすっげぇよ、兄貴は!」

 かと思うと急に身を起こし、アッシュの手を握り締めてぶんぶんと上下に振る。

「全っっっっ然見えなかった、今のあの剣の動き! いや、速すぎてさ! オイラ感動しちまったよ!」

「そう、なのか」

 心なしか潤んだライの瞳を見て、アッシュはわずかにたじろいだ。明らかに返答に窮している様子だ。

「わかったぞ、オイラもう全部ちゃんとわかった! 要するにこういうことだろ? 今のオイラの弱っちい筋肉じゃ、ああいう剣の使い方はできないって」

「その通りだ。というかこれは、剣術だけに留まらず槍術にも弓術にもあまねくすべての武術にあてはまることだが、基礎的な肉体の鍛錬は必須だ。どの得物をどのように扱おうと、結局のところ使い手そのものが貧弱では満足な結果は得られない、相対する敵を倒すことはできないということだ」

 アッシュの教えにライは大きく頷いた。

「よし、じゃあひとっ走り行ってくるよ。帰ってきたら次はなにをやるか、考えといてくれよな」

 くるりと踵を返し、ライは土手を駆け上って河川敷より姿を消した。

 あたかもその機を狙ったかのようだった。アッシュは振り返り様、片手持ちにした長剣で背後の空間を斬りつけた。乾いた単発音――そして間を置かずかすかな着水音。どうもアッシュは何がしかの硬質な物体を剣で弾き飛ばし、川へと沈めたらしかった。

「流石ですね。噂どおり……いや、噂以上のすごい腕前だ、アッシュ・ザムさん」

「そうでもない。俺は石を切断するつもりだったんだからな」

 反応が送れて剣速が乗らなかった、と失敗の原因を語るアッシュの視線の先、オイルランプの鉄柱にもたれるグレン少年は手にした石くれを足元に放り捨てた。

「気づいてましたね、僕がここに隠れていること」

「気配がしていたからな、一応は」

「へぇ、気配――ですか」

 グレンは頬を吊らせてかすかに笑った。丸眼鏡がランプの灯りを反射して双眸が窺えないだけに、さながら彼が歳不相応な老獪漢(ろうかいかん)であるかのような印象を与える、酷薄な笑みだった。

「……さて、遊びはここまでにして、単刀直入に言います。ライに関わらないでください」

「理由は」

「あいつに剣術を教えてもらったりしちゃ、こっちが迷惑だからです」

 はっきりと明言して、グレンは前へと進み出た。

「アッシュさん、あなたはライから聞いてますか、この一帯に暮らす住人たちの現状を」

 アッシュは否定も肯定もしない。苦い顔つきで、グレンは切り出した。

「あなたは察しのいい人みたいだから、すでにお気づきだと思います。ええ、イジェオ地区、中でもライや僕が暮らすこの一帯には、もうあまり人は残っていません。長屋だってほとんどが空き家です」

 その必要がないため口にこそ出さなかったが、実際グレンの見立てに相違なくアッシュは街の実情を少なからず察知していた。あからさまに均衡が崩れているのだ、この界隈は。建ち並んだ住居建築物の数と、感じ取れる人の息遣いの数が。だから当然、ライが暮らす長屋が全部で五世帯まで入居できる造りになっていても、住んでいるのはライ一人だということも知っている。

「そして、これは誇張でも何でもなく、今や坂の下に住んでいるのは全員が子どもです。大人は、大人と呼べる人間は、二ヶ月ほど前にライと五つ違いのお姉さん――メアリィさんが身売りに出た時点で、誰もいなくなりました。他はもうずいぶんと前に、僕ら子どもを置いて出ていくか死んでしまうかして、一人も残ってやしなかったんですから」

 でもね、と言ってグレンはかすかに表情を緩めた。

「メアリィさんのような人は別として、大人の数が減ること、それ自体は僕ら子どもにとってはありがたいことなんですよ。なぜって、ここに住むような大人はたいていがろくでなしで、子どもを従わせるだけ従わせ、自由を奪い、搾取し、自分の都合のいいようにもてあそぶしか能がない連中ばかり。だからいないほうが好都合なんです、僕らには」

 たしかライもそんなことを言っていたな、とアッシュは昨日の出来事に思いを巡らせた。

「大人の減少の波は今、この一帯だけでなくイジェオ地区全体に及びつつあります。あとから流入してくる人もいるにはいますが、それだってここ数年どんどん減ってきている。とても良い傾向だと、正直思います。だけどそうした感情や理屈は、僕やライみたいなある程度物事の分別がつく年代だけのものです。どうしたって僕らより年下の子どもたち……はい、そうです、昨日の。あの子たちにはたとえろくでなしでも、親は親なんです。いないと寂しいし、なにより誰かが親の代わりになって助けてやらないと食事さえままならない。じゃあ誰がその親代わりになるのかといえば、それは決まっています。そういうすさんだ大人の背中を見て育った彼らの次の世代――僕やライです」

 やや興奮気味に早口で()くし立てるグレンだったが、不意に目線を足元へと落とすと、

「だからこそ、ライには賞金稼ぎなんてやくざな商売に足を突っこんでもらいたくないんです。ましてやそんな職を目指して死んでなんか……。たった一人のお姉さんを連れ戻したいっていうその気持ちは、もちろん分からないでもないんですが……」

 弱々しく消え去る語尾。アッシュは一度深くまぶたを閉ざし、そしてまた開いてきっぱりと言った。

「理解しているのなら行かせてやれ」

 グレンはその一言に虚を突かれるように顔を上げた。喜怒哀楽をことごとく欠いた無味乾燥な容貌で、自称兵士の男がこちらを見つめている。

「無謀だ無茶だと決めてかかり、よしておけと言うのはお前の勝手だ。たが少なくともライは諦めていない。あいつはあいつなりに考え、悩み、死という事柄に正面から対峙し苦しみながらも、姉を最速かつ最善と判断した方法で望まぬ情況から救い出そうとしている。その決断には他者が――お前や、お前が助けてやりたいと願う幼児たちや、ましてやこの俺が口を差し挟む余地はない」

「血を血で洗うような世界へ友達が入っていこうとするのを黙って見過ごせというんですか、あなたは」

「すでに言葉はさんざん尽くしたはずだ。それでもあいつが入っていくというのなら、あとは黙って見送るしか術はないんじゃないのか」

詭弁(きべん)です、そんなのは。ただ言葉尻をとらえただけの、単なる詭弁だ!」

「詭弁を並べているのは俺じゃない、お前だ。さっきからずっとな」

 まだ重ねて何事かを言い募ろうと身を乗り出したグレンだったが、しかしぐっと押し黙った。

 荒ぶる感情の宿る眼差しを真っ向から受けつつ、アッシュは彼に問うた。

「お前は親しかったのか、ライの姉とは」

「――なん、ですって?」

「ライとお前は生まれた頃からの馴染みだと、昨夜聞いた。だったらあいつの姉とも親交があったんじゃないかと思ってな」

「だとしたら、どうだっていうんです」

「どう――と言われてもな。ふと疑問に感じたので、尋ねているだけだからな」

 他意はない、とアッシュが口にしたその時、

「おーーーーい、兄貴ーーーー!」

 土手の上からライの声が。グレンははっとして、アッシュとの間に距離を取る。

「説得に応じてくれなくて残念です、アッシュさん。でも僕はかまいませんよ。放っておいてもあなたは、すぐライに剣術なんか満足に教えられない体になるんだから」

「何だと」

「闘技会ですよ。そしてあなたは、この獄門街の本当の恐ろしさを知ることになる。せいぜい油断しないことです」

 不穏な言葉と笑みを残して、グレンは闇へと消えた。

 それから間もなくアッシュの許へと帰還を果たしたライは、ひぃひぃと息を切らせながら地面に大の字に倒れ込んだ。

「ど、どうだい兄貴、意外と早くてびっくりしたろ?」

「そうだな。この分ならこれから先の指南も思いのほか(はかど)りそうだ」

 へへへ、とライは得意げに破顔した。

「さぁて、次はどんな修行だい? オイラ、張り切ってやっちゃうぜ」

「その前にライ、レインが使いに出たマール地区の小物屋へ案内してくれ」

「んあ? なんでだい?」

「説明は後だ。急ぐぞ」

 有無を言わせぬ早業でアッシュはライを肩に担ぎ上げると、次の瞬間にはもう地を蹴り走り出していた。



 ライより仰せつかった小物屋での用事をさっさと済ませ、意気揚々と最寄の浴場へと向かう最中、レインは見るからにガラの悪い男連中に取り囲まれ、現在はここ――ラギア地区とマール地区の境にひっそりと佇む倉庫内にて捕らわれの身となっていた。

「兄貴、ここだ! ここが地図に書いてある場所に間違いない!」

 カビとホコリの臭いが充満する真っ暗な室内で、両手足を縛られた上に猿ぐつわまで噛まされた憐れな格好の彼女は、しかし自身がこうなった経緯については何ら知らされていないし、事態の把握は当然まったくもってできていない。

「レイン、そこにいるのか」

 ただ一点、助けに来てくれた仲間が、今まさに窮地に陥らんとしていることを除いて。

「んんー! んー! んー!」

「待て、今解いてやる」

「んっんーんー! んんんー! んーーーーーー!」

「暴れるんじゃない。手元が――」

 上手く定まらない、と続けるつもりだったセリフを突如中断してアッシュは動いた。レインの前に肩膝を突いてかがんだ状態から、後方へと跳躍しながらの後ろ回し蹴り。まるで足腰すべてがバネで出来ているかのような、およそ並みの人間のものとは思えないこの超絶挙動に一瞬――彼の背後から迫っていた襲撃者らは目を剥く。そして無残にも、闇を舐めるようにして弧を描いたブーツの(かかと)の餌食となり盛大に吹っ飛ぶ。

 襲撃者たちの幾人かは勢い余って倉庫の古い木壁を突き破り、屋外退去と相成った。おかげでを室内にわずかだが光が差し込む。アッシュは壷だの瓶だの木箱だのが雑然と並べられた内部にざっと目を走らせ、他の襲撃者の影がないことを確認すると再度レインの解放に取りかかり、迅速な手際でこれを終わらせた。

「無事か」

「ま、まあなんとかね。そんなことより、早く外に出よ。話はその後」

 アッシュは首肯し、戸口を振り返った。そこに立っているはずのライに呼びかけるつもりで。しかし、

「あ、兄貴――こいつ、うわぁぁぁああああ!」

 アッシュは咄嗟にレインを伴って外へと躍り出た。

 周囲には人が常時出入りするような店舗などない、盛り場からは少し外れた場所にぽつねんと佇む倉庫の前、異様な風体の人物が彼らの眼界に飛び込んできた。

 アッシュを軽く二まわり以上も上回ろうかという、規格外の巨体を誇る戦士だ。しかもその出で立ちときたら、頭からつま先まで全身をくまなく覆うフルプレートにはおびただしい数の刃が備え付けられ、右手には切れ味鋭そうな大鎌(サイズ)、左手には寸を詰めた出縁形の戦槌(メイス)と、見る者を威圧する禍々しいまでの重武装である。

「兄貴、こいつはヤバい、マジにヤバいって!」

 泡を食って駆け寄ってきたライがアッシュの後ろに着く。

「でもなんで、どうしてこいつがここにいるってんだ」

「アンタ、このデカブツのこと知ってんの!?」

 同じくアッシュの背後に控えるレインが問う。ライは青ざめた表情で、

「ゾンダスだよ! 現役の帝国軍少尉で、北のダスーダ地区にある役所本部に詰めてるこいつのことを知らない人間なんて、この獄門街には一人だっていやしねえよ」

 オーガ……、と呟いてライは生唾を飲み込んだ。

「おとぎ話に出てくる怪物から取って、こいつはそう呼ばれてる。ひっ捕らえた犯罪者や賞金首なんかを容赦なくひき肉みたいにしてブッ殺すだけじゃねえ、とばっちりに巻き込まれた無関係な人間も大勢、それこそ山のようにいて、なのに役人の権限を使って罪になるのを免れてるってぇとんでもない悪党さ。それにこいつは……」

「な、なによ」

「こいつは毎年の闘技会にも必ず参加してて、前回、前々回と優勝をかっさらったモノホンの実力者なんだよ! もちのろん、今年も優勝候補の一人としてすでに名前が挙がってやがる!」

 震えおののくライが指差す先――オーガこと巨漢の重装兵、ゾンダス少尉が面頬(めんぽお)の下からくぐもった笑声を漏らす。

「よぉく知ってるじゃあねぇか、ガキ。いかにもこのオレが、絶対無敵のゾンダス様よ」

「け、けどよ、なんだってテメェがここにいる! オイラたちに一体なんの用があるってんだ!」

「何の用――だとぉ?」ゾンダスは巨躯を揺すってたいそう可笑しげに、「仕事さ、仕事ぉ!」

 この言葉にライの顔色がさらに悪化する。

「し、仕事って、まさか――」

「昨日! 街にやって来たよそ者がマール地区にて大きな騒ぎを起こしたとの通報があり、こうしてそのよそ者、及び協力者の一味を治安維持のため逮捕しに参った次第! しかぁし、こちらの説得もむなしく一味が激しく反抗したため逮捕は断念、即時の処罰に切り替えたことを報告す! 以上ぉぉ!!」

「ちょ――ちょい待てゴラァ!」

 ひどくうさんくさい、芝居がかった口上に噛み付いたのはレインだった。

「そんなの事実無根よ、冤罪よ! だいたいね、あたしのこと拉致って、助けにきたアッシュに手下をけしかけて、これがまともな役人のすることか!」

 ざけんじゃねーわよ、と啖呵を切るレインにゾンダスは言った。

「女、貴様だけは特別に見逃してやらんでもない」

「……は?」

「口は悪いが、貴様のような気の強い女はそう嫌いじゃないんだ、オレ様は」

「…………」

「器量のほうもなかなかだしな。どうだ、オレ様の女になる気はないか、ううん?」

「気色悪っ! んーなの絶っっっっ対お断りだってぇぇの!」

 ぺっ、ぺっ、とレインは相手に唾棄(だき)する仕草をし、アッシュの背中を押した。

「やっちまってよ、アッシュ! オーガかバーカか知んないけど、こんなクサレ野郎なんか目じゃないでしょ!」

 するとアッシュは小さな嘆息めいた吐息と共に、例のなまくらを鞘から抜いた。

「ゾンダスとやら、これはあくまで俺の個人的推測にすぎないが――役人の特権を利用し闘技会の組み合わせを事前に入手したお前は、自分と初戦で当たる俺を治安維持の名目で先んじて潰す計画を立てた。息のかかった街のチンピラどもに俺たちのことを調べさせ、目撃情報などからたまたま一人で街に出ていたレインを発見して拉致、監禁し、のちほど小物屋の主人にレインの使いと偽った者から俺たちが探しに来たら渡すようにと、この場所を記した地図を託す」

「あ――だからアンタたち、ここにすんなりと来れたってわけね」

 レインの合いの手を黙過してアッシュは結論を告げる。

「あとは闇に乗じた手下たちが俺を始末すればいい。それが失敗したなら本人が直接――といったところかな」

 告発を受け、ゾンダスは大笑した。

「よっく解ってんじゃねえか、名探偵。そうさ、今年の闘技会の予選第一回戦はオレ様とお前さんよ。だがもちろん、絶対無敵のこのオレ様には万に一つも負けはない! こいつぁ単なる余興さ、余興」

 突きつけられた大鎌の冷ややかな穂先を一瞥すると、アッシュもなまくらを得意の正眼に構えた。

「……獄門街の本当の恐ろしさ、か」

 そして、本来ならば数日後に然るべき場所で激突するはずだった両対戦者の場外戦が、その幕を上げた。

 まず先に仕掛けたのはゾンダス。大股一歩の踏み込みから、右手に携えた大鎌をアッシュの胴を輪切りに両断せんと水平に振りかざす。対するアッシュはこの一撃を後方へと跳び退(すさ)って難なく回避する。さりとて相手は初手が不発に終わるやすかさず態勢を立て直し――大鎌のスウィングに急停止をかけて今度は刃を上方へと振り上げると、垂直に打ち降ろす二撃目を繰り出す。アッシュはこれも同様の手法でかわす。ひとたび体を捉えたが最後、肉はおろか内部の骨までもあっさりと刈り取ってしまうこと請け合いの、ぎらぎらと研ぎ澄まされた凶刃がすぐ目と鼻の先をかすめ通っていく。

 ――口先だけではないということか。

 とりわけ実戦において、槍などと比較すると格段に有効打を叩き込むのが難しいため敬遠されがちなポールウェポン、大鎌。この難物を、しかも片手で易々と携えて斯様(かよう)な連撃を放つには、相当な錬度を要する。案の定ゾンダスは攻勢を緩めず、一閃二閃三閃と次々に身の毛もよだつような斬撃を雨あられと降らす。アッシュはそのすべてを紙一重の間合いで回避しつつも、自分が目下いかな強敵と相対しているかを彼特有の『審強眼』とでもいうべき優れた識別感覚でもって正しく理解していた。

 たとえ空振りしようとも決して振り抜きはせず、急停止からすぐさま次の攻撃動作へと移る操鎌術(そうれんじゅつ)の巧みさもさることながら、これはポールウェポン最大の持ち味でもある、単純にこちらが得物とする剣などの武器の有効攻撃射程外から一方的に攻撃される脅威。つまり、反撃に転じようとも転じられないのだ。

 ――いや、よしんば射程内に潜り込めたとしても、あれではどちらにせよお手上げだ。

 そう、攻守が反転しないのは目に見えている。それがあの左手の戦槌とエッジアーマーだ。下手に接近戦に持ち込もうものなら、たちどころにあれらの餌食となって死は免れない。実によく計算された武装である。

「っ―――!」

 さらにここでアッシュを襲った予期せぬ事態が、彼の劣勢をもはや完璧なものとして決定づけた。

 右のまぶたからの突然の出血により、視界の半分がまるまる塞がってしまったのだ。

 肉薄する凶刃を、それでもアッシュは瞬時の機転から得物で弾き返してやり過ごしたものの、その代償としてなまくらは根元からぽっきりと折れてしまった。攻防に巻き込まれまいとアッシュらから距離を置いていたライの「あー、オイラの剣がぁ!」との悲嘆の声が彼方から聞こえた。

「……昨日子どもから受けた石つぶてか。やれやれ、今さら傷が開くとはな」

 後方に大きく跳躍して大鎌の射程から逃れ、アッシュは右目に入った血を拭い落とした。

「おやおや、一体どうしたね、エリスルム王国軍伍長アッシュ・ザム殿。ゴドウィンとかいう雑魚を一瞬にして蹴散らしたという貴公の実力、ただ逃げ回るばかりでなく我輩にも見せてほしいのだがなぁ」

 一方のゾンダスは己が勝利を早々と確信し、「やはり無理かね、丸腰じゃあなぁぁぁ!」

「血液に視界を奪われ窮地に立たされるという展開は、そういえば少し前にもあったな。だが――」

 役に立たなくなった得物を捨て、アッシュは再度しっかりとまぶたから伝う血の滴りを拭い去り、

「あの時ほど絶望的な情況ではないか」

 不意に――前進を開始した。やけに悠長な足取りで、狙ってくれと言わんばかりに。

「諦めが早くて助かるぞ!」

 果たしてゾンダスはそれに応えて大鎌をけしかけてきた。斬首を目的とした横薙ぎの一閃。アッシュがごくわずかなバックステップで避ける。

「死ねよ、王国の雑兵(ぞうひょう)めが!」

 そうするとまた、標的を仕留め損ねた刃に急制動がかかって、

 ――今だな。

 このときすでに、アッシュ・ザムという抜け目ない兵士の策は完了していた。

 この時点でもう、彼が発揮し得る全集中力は彼の両眼および両腕へと総動員されていたのだから。

「うぅ」

 ゾンダスが(うめ)く。それもそのはず、これまで同様続けざまに次なる攻撃動作へ移ろうと動かしかけた大鎌は今やアッシュの手によってがっちりと掌握済みであり、いくら柄を押そうが引こうがびくともしない。

 或いは巨漢ゾンダスが、少し冷静になって満身の力を込めれば得物は自由を取り戻せたかもしれない。

 だが。

 そんなことを許す気は、アッシュには毛頭ない。大鎌を掴んだまま前へ。此度は素早く、目にも止まらぬ神速にて、地の表層を滑るようにして。

「あひゃ――っ!」

 そして勝敗はあっけなく決した。奇声を上げるゾンダス。いかに強固に全身を守るフルプレート式といえど、迂闊に近寄る者を自動で殺傷するエッジアーマーといえど、股下からの攻撃など想定しているはずもなく、布の下着を履いただけの無防備な臀部に自らの得物である大鎌の刃を根元まで押し込まれ、びくびくと痙攣を繰り返す。

「丸腰だろうと関係ない。生きている限り、手足が動く限りあらゆる戦術を駆使して目標を殲滅する――それが兵士に課された使命だ」

 アッシュの説く兵士論が最後まで聞こえたかどうか、ゾンダスは白目を剥いて絶命した。

 戦闘が無事終結したのを見届け、レインとライがアッシュに駆け寄る。

「し、信じられねえ、あのゾンダスをこんなあっさりと、しかも武器もなんもなしで!」

「あったり前でしょ。王国軍特務防衛中隊の『戦人形』といやぁ、帝国兵の十人や二十人くらい素手でも簡単にブッ殺せる凶戦士として、そりゃもうムチャクチャ有名なんだからね」

 仲間の評判をまるで我がことのように自慢するレインに、当の本人から「いや、それは少々誇張が過ぎる」との冷静な指摘が入る。ところでこちら、始めこそおっかなびっくりといった様子でゾンダスの躯を覗き込んでいたライが、そのうちに忘れかけていた〝あのこと〟を思い出し、アッシュへとジト目を注いだ。

「オイラの剣、優勝賞金が入ったら弁償してくれよな、兄貴……」



 ゾンダスのような輩がまたいつ襲ってくるとも限らないため、それからの数日間は厳戒態勢が敷かれた。

 しかしながら、単独行動は原則として禁止、就寝の折も誰か一人必ず見張りにつくという念の入れようにレインは不満たらたら。昨晩に至っては、マール地区の男女混浴浴場で両脇をアッシュとライにぴったりと固められ、周囲からの好奇の視線に耐え切れずついに号泣してしまう始末。

 そんなこんなで、猫の子一匹たりとてこちらに襲い掛かってくる気配のない平穏な日々の中、彼女の溜まりに溜まったストレスの捌け口になったのは――

「腰入れろボケ! 腰だよ腰ぃ!」

「さんびゃくじゅういち……さんびゃくじゅうに……さんびゃくじゅうさん……」

「んなこっちゃいつまで経ってもアッシュにゃ追いつけねえぞ、カスが!」

「も……もうオイラ限界……」

 素振りに使用していた木刀――アッシュが廃材を利用して作ったもの――を取り落とし、ライは地面に倒れ伏した。目が(うつ)ろである。

「寝るなー! 誰が寝ていいって言ったー!」

 すかさずレインの激が飛ぶ。アッシュはといえば、二人と少し離れた場所で倒立腕立てに集中し、自身の筋力鍛錬に余念がない。

 昨日今日と、ライの監督はもっぱらレインの役目だった。といって、アッシュが責任を放棄したわけでは決してない。元よりライにはこうして自主鍛錬を言い渡していたのだ。

 指南できる日数に制限がある以上、自分無き後は必然的にライ一人で鍛錬を重ねることになるわけで、なればこそ基礎から応用までを一通り先に教え、あとはとにかく実践あるのみ――これがアッシュが当初から予定していた指導方針。襲撃事件などがあって、レインと行動を四六時中ともにすることになろうとは、流石の彼にも想定外ではあったが。

「な、なあ、もうそろそろ闘技会に行く時間だしさ、今日はこんくらいにしない?」

「……チッ! 命拾いしたな、スカタンめ」

 しかして本日、この瞬間――午前十時を告げる鐘の音をもって、いよいよ闘技会本番まで残り一時間余となったのだった。



 帝国政府所有の庁舎や富裕層向けの豪邸が建ち並ぶ北のダスーダ地区は、バドゥトゥきっての瀟洒(しょうしゃ)な街である。

 レンガが丁寧に敷き詰められ、多くの人や馬車が行き交う幅広の街路。他地区とは明らかに性能も数量も異なる道沿いのオイルランプ。軒を連ねる商店には宝飾品や一流素材で仕立てた衣服などが贅沢に取り揃えられ、庶民にはおよそ縁遠い高級な雰囲気をさながら障壁のように漂わせている。

「ねぇぇん、アッシュぅ、アッシュってばぁ」

「ああ」

「あれ、あの綺麗なドレス、それとあのおっきな宝石が入った指輪、優勝したら買ってよぉ」

「断る」

「けっ、この甲斐性なし」

「オイラは高級な店でたらふく飯が食いたいってばよ、兄貴」

「芋汁で我慢しておけ」

「……あい」

 街の中央通りを、その先に見える巨大な白亜の円形劇場へと向かうアッシュたち一行。兵士専用の黒色の全身衣と薄汚れたチュニックで、彼らはいかにもこうした華やかさの中では浮いた存在――かと思いきや、実はこれがそうでもない。おそらく闘技会が催される今日限定ではあろうが、広い街路にはマール地区で見かけたような露店が多数出店し、大道芸がそこここで披露され、娼婦も商人も旅人も、大人も子供も、ありとあらゆる職業と年代の人々が思い思いにそうした活気に心躍らせ、むしろそんな彼らをさも迷惑げに横目で睨みつけて道の端をそそくさと行き過ぎるのが、普段この往来を優雅に闊歩しているであろう身なりのいい紳士淑女たちの方であったりする。

「一年に一度のお祭りの日だからね、闘技会は。みんな楽しみにしてんのさ」

 ライの解説を受けながら、アッシュらは人でごった返す通りを抜けて劇場に到着した。

「はぁー、でっかくて豪華ねー。これなら王国(うち)の大劇場にも負けてないわ。てか、これ建てんのに一体いくらかかったんだか」

 そばに立つと威圧感すら覚える壮大さもさることながら、石造りの外壁一面にびっしりと彫り込まれた花や獣や勇壮な騎士などのレリーフも実に細密で、レインは思わずため息を漏らす。

「オイラも外からしか見たことないけど、中はどうなってんのかなー?」

 等間隔で並ぶ野太い石柱の向こう、緋色の絨毯が敷かれた広大なロビーの様子をライが除き込むと、

「ちょいとそこのボウヤ、はしゃぐのは結構だけど、もう少しばかり周りには気を配ってもらいたいもんだねぇ」

 女が一人、背後から声をかけてきた。ライは自分が往来の妨げになっていることを知り、慌てて脇に飛び退く。

「耳まで赤くなって、可愛いったら。それじゃ、失礼するよ」

 首から胸元までを大胆に露出したドレスで艶やかに微笑む妖婦(ようふ)が、琥珀色の腰布と豊かな亜麻色の束ね髪を優美に(ひるがえ)し、用心棒らしき屈強な男どもを従えライの横を通り抜けようとする。不意にアッシュが、彼女を呼び止める。

「あんた、俺と以前どこかで会ったことがないか」

「いただけないねぇ、色男さんさぁ」妖婦はくつくつと笑って、「女をそういう手管(てくだ)で落とそうってのは。魂胆が見え見えってもんさね」

 ロビーへと消える華奢な後ろ姿を見送りながらも、まだなおアッシュは女の素性が気にかかるらしく、今度は(かたわ)らのレインへと同様の質問を投げかける。

「お前はどうだ。どこかであの女のことを――」

「うん、ある」

 アッシュの言葉を先取りして見せたレインもまた、女が消えたロビーの彼方をどこか難しい顔つきで見つめていた。

「でも、あたしもどこで見たのか思い出せない。結構な有名人だと思うんだけど……」

 しばし二人して考えたが結論は出ず、そうこうしている間に係の役人がアッシュを控え室にと呼び立てにやって来た。

「んじゃあ、あたしらは客席から見てるから、せいぜい頑張ってよね」

「兄貴のすっごい戦いぶり、この目でしかと見届けるぜ」

 レインとライ、それぞれの激励に頷き返し、役人のあとに付いて劇場奥へと赴くアッシュ。その手には、何らや布に包まれた棒状の物体が握られていた。



 控え室に入った後もしばらくは待機の時間が続いた。ゾンダスの死亡棄権により予選は不戦勝で通過することが事前に決まっていたため、アッシュの出番はまだかなり先――準々決勝からとなる。

『ゾンダスを倒したからって気を抜いてちゃあダメだぜ、兄貴。優勝候補に名前が挙がってるヤバいヤツは、他にもまだ何人かいやがるかんな。たとえば――』

 昨夜、試合の組み合わせ発表をイジェオ地区の出張所で見てきたライの(げん)である。そこからもたらされた幾人かの敵の情報を胸底で反芻しつつ、アッシュは準備運動などをして過ごす。主に出場者同士の揉め事を回避する目的だと思われるが、一人に一部屋ずつあてがわれた楽屋兼控え室は時の流れが止まったかのようにしんと静まり、時折観衆のものらしき歓声や廊下を通り過ぎる出場者の足音が聞こえてきたとて、壁を何枚か隔てたすぐ間近で殺し合いが行われているという事実はどこか泡沫(うたかた)の夢じみた、実感としてはひどく曖昧なものとしてアッシュの意識下を素通りしていき――

「それでは皆様、これより準々決勝第一回戦を開始いたします!」

 ようよう時は満ちた。司会進行役の口上が高らかに響き、入場口の鉄扉が重々しい音を立てて開く。

「エリスルム王国軍が生んだ稀代の殺戮兵士、その名はアッシュ・ザム――出ませい!」

 いつの間にそんな禍々しい肩書きがついたのだか、アッシュは少したりとも意に介すことなく戦いの舞台へと歩み出た。

 ――ふむ、やはり予想した通りの様相だな。

 劇場は、天井にぶら下がるとてつもなく巨大なシャンデリアによってまばゆいまでの光彩に包まれ、すり鉢状に遥か上方まで建造された観客席からは千や二千ではきかないくらいの視線、視線、視線、また視線。血に飢えた獣もかくやというような異常な興奮を隠しもしないそれらの主は、小綺麗な召し物に身を包んだ街の上流階級の人々が七割、見たままそのままの強面(こわもて)連中が二割、それ以外が一割といったところか。いずれにせよ、ここはアッシュが普段戦い慣れた戦場とはまるで違う。狂気が充満しているという点では同じだが、その狂気の質感が――肌触りがまったくと言っていいほど異なる。あちらが硬質で冷淡なびりびりとした痛みを伴う感触であるとするならば、こちらは軟質かつ生暖かなねばねばとした不快感を伴う感触。ここでは闘争も生も死も、すべてが娯楽という前提の下で鈍く緩く温く醸成された単なる嗜好品と化す。

 しかし、だからといってアッシュには憤りも、無論気負いもあるはずがない。あるのはわずかな尻の心地悪さと、いくら任務といえど斯様な場で見世物の戦いに身を投じる自分をアンジェリカあたりが見たらひどく嘆くだろうな――という自嘲めいた空想、あとは。

「ラギア地区にて最強と謳われる剣の勇、その名はジェイスン・マイアス――出ませい!」

 本闘技会のために砂を敷いて丹念に整地された試合空間へと、己が初戦の相手として姿を現したこのチェインメイルとブロードソードで武装した眼光鋭い剣士をいかに効率よく殲滅し、同時にもう一つの重要な目的を果たすか。アッシュの思考が急激な速度で巡り始める。

「両者とも、準備はよろしいか!? では――初めっ!!」

 わっと場内が沸いたと思いきや、アッシュはいきなり手にしていた棒状の物体を対戦相手に向けて投擲(とうてき)した。思わぬ先制攻撃に剣士は一瞬面食らうも、身を屈めてやり過ごす。

「っ!」

 影が、剣士を覆った。投擲と共に疾駆し、跳躍したアッシュが頭上に浮かんでいたのだ。直後、首にするりと絡みつく両脚の感触を最後に、剣士は頚椎をへし折られて恒久の闇へと没した。

「おい、そこのあんた」

「――え、は、はい!」

「司会者か審判か知らんが、この後の段取りはどうなってる。死亡確認はいいのか。俺の勝利を宣言したりは。それと、こいつの武器や防具は貰っても構わないな。そうしてはいけないという規則はないわけだしな」

 あまりの出来事に観衆らはおろか司会進行役までもが呆然と黙り込む中、アッシュは躯と化した剣士の手からブロードソードを抜き取ると、刃の具合や柄の握り心地など一通りざっと確認する。

「業物には程遠いが、それなりには使えそうか。あっちの方は――もう必要ないな」

 アッシュの一瞥した先には彼が先ほど投擲した物体――ゾンダスから失敬した戦槌が、砂地に所在なげに転がっている。

「しょ、勝者……勝者はアッシュ・ザム!」

 やがて明言された勝負の行方に、たちまち会場全体が息を吹き返したかのごとく熱狂した。色めく観客たち。彼らは口々に囁き、或いは叫ぶ。突如として獄門街に現れた謎多き猛者(もさ)の名を、アッシュアッシュと。

 かくて無事に初戦を切り抜け、計らずもバドゥトゥの人々からの熱視線を一身に浴びることとなったアッシュだったが、その頭抜けた戦闘能力は続く準決勝でも如何なく発揮される。

 対戦相手となったのはまたしてもラギア地区出身の、今度はボウガンを操る盗賊風の男。常に一定の距離を置いて矢を放つ戦法で相手を圧倒しようという男の目論みは、彼が後退する速度を遥かに上回るアッシュの俊足の前にあえなく破綻し、結局試合開始からものの一分足らずで全身を切り刻まれて死亡するという悲惨な末路を辿ったのだった。

「レインへの土産ができたな」

 男から奪取したボウガンを背中に結わえ付け、アッシュはどこか満足げである。なお、たった今勝敗が決したこの試合が準決勝の二回戦目であり、次の決勝戦は引き続き実施されるとのこと。こうなるとアッシュは必然的に連戦を強いられるわけだが、

「楽勝でしょ、あの戦闘バカのことだから」

「やっぱ兄貴はすげー! マジにすげー!」

 観客席で見守るレインとライはもはや彼の優勝を信じて疑わなかった。ライによれば決勝の相手はゾンダスと双璧を成すと恐れられる現役の帝国兵士で、こちらも優勝候補の一角と目される相当な豪の者らしい。しかし、これだけ圧倒的な戦闘能力の高さを見せ付けられれば、相手が優勝候補だろうと軍隊の一個小隊だろうとアッシュに負けはあり得ないと確信してしまうのも無理はない。

「なによ、どうしたのよ。決勝戦、まだ始まんないわけ?」

「さあ、裏でなんか揉めてるんじゃないのか」

 確信した、はずだったのだが……。



 初めは小さな異変だった。

 待てど暮らせど一向に決勝戦の相手が出てこないことに、観客がざわつき始めた。

 やがて痺れを切らした司会進行役が入場口へと駆け込んでいき、こちらもまったく戻ってくる気配がないせいで次第に客席からは口汚い野次が飛ぶようになった。

 あれよあれよと膨れ上がる騒乱。その息の根を絶ち、同時に会場全体をひどく名状し難い奇怪な雰囲気のどん底に叩き落す存在が、数分前に司会者が消えた入場口から、そこにぽっかりと口を開けた闇の奥底から姿を現した。

 ずんずん、ずんずんと、黒いブーツで砂地を蹴立てて足早にアッシュの前まで進んできた痩身の人物が、血だるまになった騎士風の男を投げて寄越した。おそらくはそいつ――否、それがアッシュと決勝戦を戦う予定だった帝国兵であろう。死んでいるのは明白だ。

「誰だ、あんたは。この男を殺したのはあんたなのか」

 アッシュがブロードソードを構える。

「普通じゃないな。その格好もだが、何より殺気が」

 眼前に佇む闖入者の風采(ふうさい)は面妖なことこの上ない。といっても、シャツやズボンや靴といった装身具は、もっぱら貴族の家柄の男子が好んで着用する一般的な白シャツ、黒ズボン、膝上丈のロングブーツとどうということはないのだが、その上に羽織った首から足元までをすっぽりと覆うマントは目が醒めるほどにけばけばしい赤――真紅に染め上げられ、頭に被った鍔広(つばひろ)のハットもこれと同色の真紅と、とにかく全体の印象が鮮烈にして奇抜。加えてこの人物の面妖さをもっとも際立たせているのが、顔だ。

 黒い帯革(たいかく)がぐるぐると巻きつき、風貌がようとして知れないのだ。

 かろうじて左の眼球だけ、そこだけ帯革が避けて通って視界は確保できているのだろうが、それがかえってこの者の奇怪さに拍車をかけている。

 男か女か、若者なのかはたまた年寄りなのか、それら一切が謎に包まれた怪人物――。けれどその正体を知る手がかりは、意外な場所からもたらされた。観衆のどよめきだ。

「デュラン……あのデュランか。数十年前、バドゥトゥを解放した革命の闘士デュラン・ダ・ディラン。まさか、そんな馬鹿げた話があるはずはないだろう」

 そう、今もアッシュの耳朶(じだ)を打つのは、観客席から無数に漏れ聞こえてくる伝説的怪傑の称呼(しょうこ)。されど(いにしえ)より語り継がれるデュランの見た目とは、異なる点もあるようだ。本家本元は白い仮面を被っていたというのである。だったら、それはつまり、

「模倣か。一体誰か知らんが、あんたの茶番はいささか度が過ぎているんじゃないのか。この情況になっても役人がただの一人も止めに参じないということは――」

 全員あんたが殺したんだろう、とアッシュが(ただ)した――その時だった。デュランを装う怪人物のマントがゆらめき、中から鈍い輝きを放つ一本の曲刀が襲い掛かった。頬にかすかな痛みを感じながらも、アッシュは寸でのところでかわして後方に退避する。

 ――今の剣速は!

 ほとんど見えなかった。不意打ちで、しかもあの速度の攻撃を回避できたのは奇跡に近いが、

「なっ――」

 安堵するのはまだ早い。なぜならすでに怪人物はアッシュの鼻先にまで肉薄し、袈裟懸けに次なる一撃を放ち終えていたのだ。

「くっ!」

「……」

「これは、この剣は――お前は一体!」

「……」

 避けることもかなわず、どうにかブロードソードで防いだのも束の間、相手と鍔迫り合いを演じるこの情況に至ってアッシュはさらなる驚愕に彼らしくもない荒々しい声を上げる。

 火だ。敵の得物は刀身から真っ赤な炎を絶えず吐き出している。もちろん原因も仕掛けも何もかもが不明。それこそおとぎ話に登場する魔術としか思えない。

 我が目を疑う光景は他にもある。怪人物の手元、剣の柄を見るとナイフほどの小さな刃が幾本も突き出していて、得物を握り締める怪人物の掌をグローブごとことごとく貫通しているではないか。

 ――痛みを、感じていないとでもいうのか!

 こんな狂った武器がこの世に存在するとは、本来ならばまともに持つことすら不可能なこれを敢えて使用する人間がいるとは、想像もしていなかったし実際目の当たりにしても現実として受け入れることは到底できない。アッシュは激しく当惑した。そしてやにわにあることに気がつき慄然とした。

 ――力負けしている!

 敵の得物と切り結んだブロードソードがじわりじわりと、わずかずつではあるものの確実に後退を強いられている。相手の腕は枯れ枝と見紛うほどにか細いというのに、こちらを格段に上回るすさまじいまでの膂力(りりょく)だ。このままではいずれ押し切られる。

 アッシュはたまらず怪人物の腹を蹴り飛ばして力比べから脱し、間髪入れずに攻勢へと転じるべくブロードソードを振った。

「うおおおおっ!」

 雄叫びと共に一閃、二閃、三閃。咄嗟の判断による攻撃ではあったが間合い取りは絶妙。決まった。この距離でアッシュに捕捉されたが最後、たちどころに相手の五体はずたずたに――

「……」

 なりはしなかった。怪人物は空中にて身を翻しきりもみ状態で一刀目を、そこからさらに地面に両手をついてバク転で二刀目を各々かわすという離れ業をやってのけたのである。恐るべき反射速度と肉体の柔軟性。加えて、唯一バク転中の脚をかろうじて捉えることに成功した三刀目も、

 ――手応えがない、だと。

 そういえば、とアッシュは思い至る。そういえば数日前、ルドラーの謀略によって招かれた惨劇の夜、あの死なない帝国兵どもを斬ったときもたしかこんな感触ではなかったか。まるでまな板の上の家畜の肉を包丁で切るような――死肉に刃を差し入れたとき特有の極端に低抵抗で低反動な……。

「もし仮にそうだとして――だ」

 得物を再び正眼に、アッシュは構え直した。

「お前には訊きたいことが山ほどある。悪いが動けなくなるまで体をバラバラに分解させてもらうぞ」

 そしてその冷ややかな瞳の奥に炎を宿す。

 ここまでは敵の化物じみた奇体さに驚愕しどおしだったアッシュ。だが、相手が真実化物であるというならそれはそれで良し。なまじ人間として対処するからこそ意表をつかれるのであって、かつてのルドラーのときと同じく最初(はな)から敵対者を埒外なのだと認識していれば、少なくとも無用な混乱や狼狽はいくらかは除去できる。即ち心構え、覚悟。冷静さを生み、冷静さを勝機へと繋げるための正しき気持ちの有様(ありよう)

「どうした、仕掛けてこないのか。ならばこちらから――」

 三連撃を受けてのち、何をするでもなく突っ立ている相手に対してアッシュが先手を打とうした刹那――異変が生じた。

「が、がががががががが、づづづづづづづづづああああああああ、ろろろろろろろ」

 それはあまりにも不気味な、不気味に過ぎる光景だった。

 グキリ、ベキリ、バキンと耳障りな音を立てて怪人物の全身が激しくのたうつ。関節という関節があらぬ方向に折れ曲がる。発せられる声にもならぬ声は、声帯が擦り合わさって漏れ出すただの無意味な音であろうか。

「り――りりりりりららららららら、れれれれれれるるるるるるるるるるるるぅ」

「!」

「っどどどどど、どぅり、どぅりぃぃぃぃいいいいいい、ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぅぅぅ」

「何だと、お前、今たしかにリラレルと言ったな。その後は……ドゥリーブ? 誰だ、そいつは。お前をここに寄越した者の名か」

 質問への答えはなかった。不可解な異常をきたした肉体は卒然と元に戻り、怪人物はぱっと真紅のマントをおどらせて方向転換するや駆け出し、あろうことか入場口でなく観客席へ乱入すると、そこに居並ぶ数々の政府関係者やら上流層の紳士淑女やらの頭を踏みつけ飛び越しつつ、あっという間に場外へと姿を消した。

「リラレル――帝国の現皇后が裏で操っているのか。あいつも、廃村で出くわした死なない兵隊たちも、そしてルドラーも」

 たった独り残されたアッシュは、まだ見ぬその女のドス黒い影を夢想し、ひとりごちるのだった。



 最後の最後に大混乱を呈した闘技会は結局、本年度は優勝者なしという形であっけなく幕を下ろした。

 こうした主催者側の意向にひどくお冠だったのはレインである。何故アッシュが優勝とならないのかと、会場からの帰りしなに役人の一人を捕まえて大いに抗議した。さりとてこちらも大そう弱りきった様子で説明する役人に(いわ)く、会場に詰めていた闘技会の胴元たちは一人残らずあのデュランを偽装した人物と思われる者の手によって惨殺されており、彼らの中にはバドゥトゥを実質的に――仮初めにというのが真実だが役人はそうは言わなかった――管理する帝国の高官も多数含まれていたため、明日予定されていた会議などの(まつりごと)一切を誰がどのように代行するかで政府上層部は大揉め。つまり、民衆のくだらないお遊びの後始末どころではなく、さらには会場に不在で難を逃れた街の大物連中が斯様な混乱に乗じてこぞって金を出し渋った末の、苦肉の策だというのだ。

「まったく、これじゃあ戦い損じゃないのよ」

「いやいや、戦ったのはアッシュ兄貴だってばよ」

 明くる日、三人で朝食を囲む段になってもまだ腹の虫が治まらないらしく、レインはぶつくさと不満を口にする。

「俺とレインの武器はタダで手に入ったものの、結局それだけだったな」

「そうよそうよ! ほんとにもう、あの赤マントのヤツ、全部あいつのせいよ!」

 干し肉をさも憎らしげに噛み千切るレインとは打って変わって、ライはどこか楽しそうに、

「しっかしあれにはたまげたなぁ。だってよ、顔以外は完っ璧にデュランだったんだもんなぁ」

「そのことだが」

 アッシュがスープを飲む手を止めた。

「昨日会場を出る際に小耳に挟んだところによると、デュラン・ダ・ディランの衣装はごく普通に街で売られていて、誰でも簡単に調達できるそうだな」

「そうさ。なんたって街の英雄だかんな、土産物としてそこいらの露店で模造品がわんさと出回ってらぁ。けど、実際に戦った兄貴の話では、やっこさんデュランダルを持ってたんだろ? そこが不思議なんだよなー」

「あの妙な剣か。刀身から火を吹き、持ち手が刃に覆われたあれもデュラン特有の所持品なのか」

 おうよ、とライは快活に答えて言った。

「魔剣デュランダルは、デュランの名前をそっくりそのままいただいた伝説の剣! なんでも中に魔術が封じ込められてて、兄貴が見たみたいに火を吹き出すって有名さ!」

「あのねぇ、魔術ってあんた――」

 バカじゃないの、とレインがライの得意げな態度に水を差そうとしたちょうどそのとき、長屋の扉がノックもなしに突然開け放たれた。

「ようやく見つけたよ、おにいさん」

 アッシュら三人の視線を一身に受け、

「昨日の闘技会で見て以来、あたいはあんたにゾッコンでねぇ。どうだい、もしおにいさんさえ承知してくれるのなら、あたいのイイ(ひと)として囲ってあげたいンだけど……」

 忘れもしない、つい先ごろ劇場の玄関口で出くわした妖婦は、しっとりと濃艶な笑みを浮かべた。



中編に続く



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