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エピソード1後編 深淵

 燃えている――。

 主を失って久しい寄る辺なき建物たちの群れが、轟々と音を立てて燃えている。

 その光景はあたかも断末魔。これでようやっと長き生の責め苦から解放されるのかと、物言わぬ建築物らが業火に焼かれて狂ったように悦び悶えている。

「いいな、アッシュ! ドレイクたちと合流したらそのまま隊長の捜索にかかり、見つけ次第直ちに撤退だ!」

 建物から建物へ、延焼に次ぐ延焼で今や廃村は完全な火の海と化していた。熱風と火の粉が充満する目抜き通りを共に疾駆しながら、アッシュは傍らのアンジェリカを無言のままに一瞥する。

 ――ドレイクたちと、か。

 やはりアッシュだけでなくアンジェリカにもそう聞こえたらしい。さりとて中隊内でも相当な手練れとして名の通る猛者――ドレイク・リッケル伍長があんな、あんな悲鳴じみた叫び声を上げるなど、彼の腕っ節と豪胆さを他の誰よりよく知る戦友らからすれば到底信じられるわけもなかった。信じられないからこそ、たった今アンジェリカは自分が所属する第三小隊の仲間たちをドレイクを筆頭に置いて称したのであろう。

「そこをどけぇぇぇぇぇえええええええ!!」

 それでも、信じられなくとも、悪しき予感だけは拭えども拭えども沸き起こる。アンジェリカは苛立ちに任せてタルワールを薙ぎ振った。前方の燃え盛る家屋から躍り出た数名の帝国兵たちが瞬殺される。と――そこでアッシュが卒然と足を止めた。アンジェリカも急停止を余儀なくされる。

「どうかしたのか? 声がしたのはもうすぐそこなんだ、先を急ぐぞ!」

「待て、アン。こいつら何か妙だ」

 アッシュの視線はアンジェリカにより葬り去られた帝国兵たちへ、火が点き焼け焦げる幾つかの死骸へと向けられている。

「妙? こいつらの一体どこが妙なんだ。臆病風に吹かれて建物内に隠れていたのが、炎煙に煽られてやむなく出てきただけの単なる腰抜けどもだろう」

「見たのか」

「なんだと?」

「お前はこいつらが炎と煙に追い立てられて出てきたと断定した。だが俺にはそうは見えなかった」

「何が言いたい、アッシュ」

 パチッ、と二人の間に転がる木片の一つが爆ぜた。

「やむなく飛び出してきたんじゃない。こいつらは明確に俺たちを狙って襲ってきた。俺たちがここを通るのをその建物の中で待ち伏せてな」

 アッシュのこの(げん)をアンジェリカは一笑に付した。「馬鹿な」

「見てみろ、アッシュ。こいつらが潜んでいた――これは酒場か。そう、この酒場跡の有様をだ。燃え尽きる寸前ではないか。こんな中で私たちを待ち伏せなどできるものか。それこそ戦う前に焼け死んでしまうぞ」

「ああ、そうだ。俺にはそう見えた。こいつらは出てきた時点ですでに燃えていた。……焼死体だった」

「いい加減にしろよ、アッシュ・ザム。それとも何か、お前まで臆病風に吹かれて気でも違ったか? 焼死体が動いて襲ってきたなど――」

 アンジェリカの痛烈な皮肉はしかし、最後まで吐き出されることなく中断された。二人のすぐ間近でまた新たな絶叫が上がったのだ。

 聞き覚えのあるその声にアッシュとアンジェリカは同時に地を蹴り走り出した。今度は疑うべくもない。仲間の身に何らかの予期せぬ事態が起きている。或いは危機が迫っているのか。だとすれば急がねばなるまい。彼らは一気に加速した。そして――五秒とかからずその場所に至った。


「あああああああああ! ああああ、あああああああああ!」

 シドニーだ。


「くく、来るな! こっちに来るな!」

 シドニーが、赤黒い色を湛えた血溜りの中心にへたり込み、パイクを滅茶苦茶に振り回している。


「ドレイク、ねえドレイクってば! 早く起きてよ! 起きてボクと一緒に戦ってよ!」

 呼びかけに応じる者はいない。かつてドレイクだった物体は、かろうじて頭部の上半分を残すのみであとは五体をずたずたに引き裂かれ、ちぎられ、すり潰され、細切れにされ、見るも無残な肉片として地面にぶちまけられていた。


「ど、どれ、どれぇぇぇ、いくぅぅぅぅぅ……」

 錯乱の極致に達し、ついにシドニーは充血した両目を見開いたまま下半身をしとどに濡らした。


「あれを見ろ、アン!」

 直後にアッシュが、彼にしては珍しく声を張った。

「やはりそうだ! こいつらは全員――死体だ! 俺たちやドレイクが殺した奴らが死なずに動いている!」ともすればそんな支離滅裂で滑稽とさえとれる科白(せりふ)と共にフランベルジェを抜く。「うじゃうじゃいる! 襲ってくるぞ!」

 警告も空しく、アンジェリカは動けずにいた。その場にただ呆然と立ち尽くし、肉片と化したドレイクや忘我するシドニーや、夜闇の中から続々と姿を現す〝奇怪な集団〟をまばたきもせずに見つめていた。

「シドニー、しっかりしろ! ここは危険だ! 一旦後ろに退がれ!」

 そうこうしている間にもアッシュは一足飛びにシドニーの(もと)へと駆け寄り、彼を背後に背負う形で臨戦態勢をとる。

「ううっ、どれいくがっ、どれいくがめちゃめちゃにばらばらになっっ――うううううう」

「俺の声が聞こえているか、シドニー! シドニー・ワイズ一等兵!」

「しんじゃう、きっとしんじゃうんだ、ぼくも。どれいくみたいにばらばら、ばらばらばらばらばらにされて、いたいいたいってなきながらしんじゃうんだ。そうだそうにちがいない。そうだそうだそうだそうだそうだそうだ……」

「無駄か。だが時が時、事が事だ。許せとは言わない」

 口角から滂沱と涎を垂らし、焦点の定まらない目でうわ言を繰るシドニーにまともな説得など通じないと見て、

「ここで死ぬよりは――ましだっ!!」

 アッシュは強硬手段に打って出た。

 皮革製でありながら金属並みの強度を誇るアーミーブーツの踵で顎下をしたたかに蹴り上げられ、シドニーは顔面をのけ反らせて数メートル後方――佇立するアンジェリカの足元にまで勢いよく吹っ飛んだ。

 ひどい仕打ちではあるが、この強制退避兼気付けの効果は絶大だった。

「…………アンジェリカ」

「シドニー」

「ドレイクはさ、最後の最後までボクに『逃げろ』って言ってくれてたんだ」

「そうか」

「でも、そんなことできるわけないじゃないか。だってあいつら、斬っても斬っても、突いて突いても怯まず襲いかかってくるんだから。そんなヤツらを一人で相手させるなんて、そんなことできっこない」

「勇敢だな、お前は」

「そんなことないよ。ただ無我夢中だっただけで、結局ドレイクはヤツらに囲まれて……」

 シドニーはパイクを杖代わりに立ち上がる。アンジェリカが問う。

「こいつらは一体何なんだ? 弱点は? 本当に死なないのか? というか――人間なのか?」

「わからない。なんにもわからないよ。だけどとにかく死ななくて、力が異常に強くて、ドレイクはその……こいつらに囲まれて素手でバラバラに引き千切られた。生きたままね」

「くそっ」

 アンジェリカは悪態を吐き、そして二刀の得物を頭上に高く掲げて目の前に迫ってきた隻腕の帝国兵を切り刻んだ。シドニーも上半身だけで地面を這うもう一人をパイクの穂先で串刺しにした。

 二人はすでに囲まれていた。喉笛を掻っ切られている者、全身に無数の剣傷を負っている者、腕や足はまだ序の口で頭部さえ失っている者……。そうしたどう考えても絶命していて然るべき、躯であるべき帝国兵たちの群れに包囲されていた。

「くっ――お前はさっきの! これは一体どういうことだ! なぜお前たちは死なない!」

 アッシュもである。先刻自らが討ち果たしたブリガンダインの帝国兵、及びアンジェリカが仕留めた数名の軽装兵らを相手にたった独りで奮戦している。

「死に損ないどもめっ!」

 こうなればもはや敵の正体や特性を冷静に見定めていられる情況ではないと、アンジェリカはすぐ近くにいた腹から臓物をはみ出させた帝国兵にタルワールとマンゴーシュを叩き込む。しかし、一刀、二刀、三刀、四刀――実に七刀もの斬撃の集中砲火を一身に浴び、それでも僅かに剣圧に押された程度でまったく怯む様子を見せない相手に、彼女はぎりりと歯噛みする。

「おのれ――!!」

 だったらこれならどうだ。アンジェリカは大きく踏み込んでタルワールを真横に薙ぐ。相手の首が飛ぶ。が、

「嘘……だろ……」

 死なない。平然と手にした片手斧を振り降ろしてくる。咄嗟にアンジェリカは二本の得物で受け止めるも、あまりに重い、とても人間のものとは思えないような峻烈な一撃に思わず地に片膝をつく。

「まるで夢でも見ている気分だ……!」

 そう呟くのが精一杯だった。周囲を見渡せば至るところに奴らはいて、その誰もが皆、死んでいない。生きて動いている。どいつもこいつも、血も肉も骨も皮も、ことごとく剥げ落ち切り裂かれ焼け爛れているというのに。

 アンジェリカは不意に、視界が急速に狭まるような猛烈な不快感に見舞われた。

 ――まともじゃない。

 これまで数限りなく武器を手に取り、各々赴いた死地で切断された人間の手足や首が飛び交うのを当然のこととして微塵も意に介さず、『肉削ぎ』の異名を以て累々と横たわる屍の山を越えてきた生粋の兵士である彼女にとってさえ、今のこの光景は筆舌に尽くしがたい。完全に常軌を逸している。狂っている。

「ダメだ、アンジェリカ! こいつらやっぱり死なない! これじゃあジリ貧だよ!」

 シドニーの訴えに呼応するかのようにアッシュが叫んだ。

「撤退だ、アン! 崖上に戻るぞ! さっきから矢がまったく飛んで来ていない! 恐らくネリーとレインにも何かあったんだ!」

 もっともな意見だ。このままでは埒が明かない、否、いつかは押し切られて全滅は避けられない。加えてネリーたち後衛メンバーのことも気がかりとくれば、

「……承知した、二人とも」

 現時点で部隊の全指揮権を握るアンジェリカが採るべき選択肢はたった一つ。

「ならばここは私が囮となって敵を引きつける! その間にお前たちは撤退しろ!」

 はからずも我を失しかけていた彼女だったが、そこは流石のアンジェリカ・タロン軍曹、かつては女王の近衛兵にまで己が腕一本で昇りつめた歴戦の勇。瞬時に元の平常心と集中力を取り戻し、アッシュら部隊員に鋭い指示を飛ばす。

「い、いくらキミでも無茶だよ、アンジェリカ! この数を、しかもこんな連中を独りで敵に回してタダで済むと思ってるの!? 自殺行為だよ!」

「黙れシドニー! これが私の役目だと、先刻も野営地で言ったはずだ! つべこべ言わずにさっさと行け!」

「でも――」

「アァァァッシュ! この馬鹿を連れて離脱しろ! 私も必ず後から追いつく!」

 アンジェリカの激に振り向くや否や、アッシュは即行動に移った。地面すれすれの位置にまで低く沈めた体勢から、後方への連続的な跳躍で一気に仲間との距離を詰めたかと思うと、

「大人しくしていろよ。でないと突破は困難だ」

 シドニーの喉元を、有無を言わせず左腕で強引に絡め取り、自らの胸にしっかと抱く。

「ここで見たこと――報告を怠るんじゃないぞ、アッシュ」

「心得ている。ところで隊長の件は」

「敵前逃亡、そして消息不明。それでいい」

「そちらも心得た。じゃあな、アン」

「うむ。生きていればまた逢おう」

 ついぞ互いの顔も見ぬまま、手短に確認作業と別れの挨拶を済ませた二人は、揃って自身が向かうべき方向へと神経を研ぎ澄ませた。

「俺が声を掛けるまで、目を閉じ動くな。いいな、シドニー」

「――っ! ――っ!」

「良い返事だ。では――ゆくぞ」

 静かなる気勢。そして、アッシュはシドニーを抱えて敵陣の只中に突っ込んだ。

 群成す異形の帝国兵たちが一斉に襲い掛かる。刹那――アッシュの双眸がかっと見開かれ、フランベルジェの波打つ刀身が閃く。圧倒的なまでの剣速で繰り出された斬激が行く手を阻む金属とその内側の肉を真一文字に両断する。道が、文字通りに切り拓かれる。アッシュはその中心を駆け抜ける。

 駆け抜けた先、なおも大挙して押し寄せる帝国兵たちに、アッシュはフランベルジェの容赦ない洗礼を浴びせる。もちろん一人一人を丁寧に斬りつけたりはしない。同時に、諸共に刻む。刻んで散らす。そうして前へ前へと速度を緩めず突き進む。

「よし、ここまでだ」

 やがて目指す断層の麓にまで辿り着いたところで、アッシュは愛器を鞘に収め、何か意図があるのか解放したシドニーの手から彼のパイクを奪い取った。

「あ、アッシュ、あん、アンジェリカ、アンジェリカは――!」

「いいからお前は崖を登れ。俺はまだもう一仕事する」

「ひとしごと!?」

「そうだ」

 つい、とアッシュは追いすがってきていた残り僅かな帝国兵たちを顧みて、

「うわっ!!??」

 両手で構えたパイクを全力でなぎ払った。骨が砕ける派手な音と共に敵は一掃された。

「アンなら心配ない。あいつは俺たちが戻るまで必ず持ち堪える。それより、ネリーたちの許へ急ぐぞ」

「う、うん」

 二人はいそいそと断層を登った。



 華美な容姿と軽挙な言動ばかりが取り沙汰され、中隊内では『尻軽』だの『アバズレ』だの果ては『メス豚』だのと裏でこそこそ罵られ嘲られている彼女――レイン・ヒッチコック上等兵が、その実ずば抜けた視力のよさや集中力の高さの持ち主で、弩兵としては超がつくほどの一級品であることはあまり知られていない。

「う…………ウソウソウソ、ウソよ、あんなの。ウソに決まってるッ」

 皮肉にも、此度はそうした彼女の知られざる才覚が仇となった。

 開戦直後のことだ。断層を下ったアッシュら先発隊の許へと急行する帝国兵を一人、レインは試し撃ちと称して狙撃している。敢えて頭部を狙ったのは、より小さな的を射通せるか否かで本日の自分の調子を正確に掴むためだった。

 矢は、見事に命中した。

 けれど、たしかに射殺したはずのそいつは他の仲間たちが走り去ったあと、まるで何事もなかったかのようにむくりと起き上がった。

 そしてそのまま乱戦の輪に加わり、すぐさまドレイクのバスタードソードに胴体を両断された。

 一連の出来事を受け、当然のことながらレインはひどく当惑した。ふと隣を見ると、ネリーはいつものごとく苦りきった表情でちまちまと戦場に矢を送り出しており、眼下でアッシュたちも帝国兵らを片っ端から切り捨てている。

 ――あたしだけが?

 そう、死を忘れた奇怪な兵の存在に、一等最初に気がついたのは誰あろうレインだったのである。

 アッシュも野営地で論じたとおり、本来ならばここでただちに隊の面々へと異常事態の発生を伝令するのが彼女の役割なのだが、それは到底無理な話であろう。当然といえば当然だ。どこの世に〝死者が生き返って襲ってくる〟などという、そんな妄想じみた与太をまともに信用する者がいるのか。そうでなくとも人一倍プライドの高いレインのこと、下手な伝令を発して隊の連中に疎まれたり、蔑まれたり、何ならその旨を駐屯地に帰ってから触れ回られて中隊中の笑い物になるなんて、とてもではないが我慢ならない。赤っ恥はごめんだ。

 かくしてレインは見たはずの事実を事実として認定せず、きっぱりと口を噤んでただ淡々と敵を射ることだけに専念した。その結果、もはや否認したくともしきれない、逃れようのない惨たらしい現実を突きつけられることとなるのだが……。

「す、す、素手であんな、あんなドレイク、ドレイクを――ブフッッ!!」

 レインはその場に嘔吐した。

 さっきの光景がまだ目に焼きついている。仲間が――ドレイクが、生きたまま引き裂かれるあの光景が。飛び散る血しぶきが、肉片が、臓物が。何度も、何度も何度も何度も、視界のど真ん中で反芻される。

「に、逃げなきゃ。こんなとこにいたらあたしもヤバい。ドレイクみたいに……あんなふうにバラバラにされて殺される! そんなの絶対にイヤ!」

 四つん這いの姿勢であたふたと方向を返し、しかし背後に鬱蒼と広がるシャールの森を見るやレインは「ひィ」と上擦った悲鳴を上げ、腰を抜かした。

「ひひ、ひ、独りでなんてイヤ。絶対にもっとイヤ。イヤ、イヤイヤイヤ……」

 無理だ。すでにあの化物みたいな帝国兵たちが森の中に潜んでいないとも限らない。だったら誰か自分を守ってくれる者か、もしくは身代わりにできる者がいなければ、漆黒の闇に包まれた樹海へと単独で分け入る勇気はない。

「う、うううううっ……」

 かといって崖を下り、現実にヤツらがうようよしている中をアッシュやアンジェリカを探して彷徨う勇気とてあるはずもなく、

「だ……誰か、誰か来て……あたしを助けなさいよぉ……」

 ついにレインは、地面に突っ伏し、そこが自分の吐き散らした吐瀉物の上だと気づきもせずに嗚咽した。

 ――怖い。死にたくない。生きていたい。

 ――早く駐屯地に、ううん、家に帰りたい。

 切実にそう願った。

 王都で薬屋を営む貧乏商家でレイン・ヒッチコックは生まれ育った。酒乱の父親と、男漁りが趣味の母親と、それから七人もの弟と妹が狭い家にひしめき合っていた。来る日も来る日も、幼い弟妹たちの世話に追われていた。両親からは意味もなく殴られた。ひもじかった。つらかった。だから志願して兵隊になったのに、逃げ出してきたのに、

「こんな……はずじゃ……」

 自分の選択は誤りだったというのか。生きたままひき肉にされる恐怖と苦痛を思えば、掃き溜めのようなあの家で鬱屈した毎日を送っているほうがまだましだとでも?

「――――ハッ!!」

 にわかに自問自答へと入りかけたのも束の間、レインの思考は断絶し、背中を一筋の冷たい汗が伝った。

 ――なにか来る!

 音だ。廃村が燃え盛る轟音にかき消されそうなかすかなものではあるが、たしかに何者かが崖を登ってくる音がする。レインは弾かれたように傍らに放置していたクロスボウを手繰り寄せる。

「う、あ、うあうあ、あああ、うう」

 しかし、迎撃態勢を取ろうにも、恐怖に駆られて震える指先ではまったく上手くいかない。矢を本体につがえようと試みる度、ことごとく失敗して取り落とす。

 こんなものっ――と、やがてレインはクロスボウを地面にかなぐり捨て、すぐ間近にあった低木の茂みへと両腕を差し入れた。

 ――来るなら来い!

 死ぬなら死ぬで、せめて一矢報いてやりたかった。

 ――やられっぱなしで終わるもんか!

 帝国兵より化物より何より、自分のこのクソみたいな人生に。

「レイン!」

 その時だった。馴染みの声に名を呼ばれ、彼女は茂みをまさぐる腕を強張らせた。

「無事だったんだね。……ところでネリーは? ネリーはどこに行ったの!?」

 果たして崖を登りきってこちらへと駆け寄ってきたのは――シドニー。シドニー・ワイズ一等兵。第三小隊の仲間の一人。そして、彼の背後には、

「時間がない。手短にそちらの状況説明を頼む」

 アッシュ・ザム伍長の姿も。

 レインはシドニーを押し退け、アッシュの鼻先へと詰め寄った。

「説明ェ? それはこっちのセリフだっつーの! ありゃあ一体なんだってのよ!? 射っても射ってもぜんぜん死なないし、おまけに素手でドレイク、ドレイクを――うぷっ」

 二人の登場で緊張の糸が解け、それまで募らせていた様々な疑問や感情が一気に噴出したせいであろう。吐き気を催しつつもレインはさらに激しく噛み付く。

「隊長は見つかったの!? アンジェリカは!? これからどうすんのよ!? ていうかさっさとズラかろうよ!」

「いや」アッシュはこれに平然と応じる。「撤退はあとだ」

「な――ッ」

 信じられない、とばかりにレインは目を見開いた。

「なんでよ! なんで撤退しないのよ! まさかアンタ……あの化物どもと()るつもり!? 正気じゃないわ!」

 今にもアッシュの胸倉を掴まんばかりの勢いで食ってかかる。

「あんなヤツらに勝てっこないことくらい、アンタわかんないの!? そうよ、どうせみんな死んでるわよ! ルドラーも、アンジェリカも、ネリーも、ここにいない人間はみぃぃぃぃんなあいつらに殺された! そうに決まってる! だから――」

「ネリーはどうした」

「はぁ? 知るかよ、ンなこと! あたしが止めるのも聞かずに勝手に下りてって、今ごろドレイクみたいにバラバラなんじゃないの?」

 レインのこの言葉にアッシュは「くそっ」と小さく毒づいた。

「下りてったって――どういうことさ! ネリーはどうしてそんな危険なこと!」

 シドニーだ。今度は彼がすさまじい剣幕でレインに問い質す。

「知らないわよ! あのバカときたら、ガタガタ震えながら小声でなんかブツクサ言って、急に飛び出してったんだから!」

「それを指をくわえて見てたっていうのかよ、キミは!」

「だからッッ――あたしは止めたって言ってんだろうが、ボケ! どこ行くんだ危ないからここにいろって、あたしは言ったけど無視しやがったんだよ!」

 激しい怒声の応酬はそこでぴたりと止んだ。シドニーが突然、二人の許を離れて断層の方へと駆け出したのだ。

「待つんだ、シドニー!」

 アッシュの制止も空しく、一瞬にしてその姿は崖下に消えた。

「…………レイン」

「な、なによ? あたしのせいだって言いたいの? あたしはただ事実を教えてやっただけだし!」

 背後で声を荒げるレインを、アッシュはゆっくりと振り返った。

「出せ。お前がいつも戦場に隠して持ち込んでいるブツだ。これから必要になる」

「……なんのこと?」

「とぼけるな。お前がスプレッド・アローと爆薬を隠し持っているのは知っている。駐屯地の武器保管庫から無許可で持ち出したそれらを、いよいよ危なくなったときの奥の手として常に携行しているのはな」

 スプレッド・アローとは、矢じり部分に命中と同時に刃が展開する特殊なバネ仕掛けの機構を施した矢のことで、非常に高い殺傷力を有する。一方の爆薬はその名の通り細い筒状の木の鞘に火薬を詰めた道具で、主に殺傷用ではなく城砦などの攻略時に壁や門を吹き飛ばす工作用として使われる。スプレッド・アローは製作に少々手間がかかるため、爆薬は素材となる火薬が稀少であるため、共に軍内部において厳しい使用制限が設けられており、もし仮にアッシュの言が事実であるならばレインは懲罰を免れ得ない。それも、かなり重い懲罰をだ。軍規に背いたことによる罰則金を支払わされた上での、即時の強制除隊も充分に考えられる。

「飽くまでしらを切るというなら俺はそれでも構わない。この場で全員――当然お前も含めて奴らに皆殺しにされて終わるだけだ。だが、お前がそれらを出せば多少なりとも活路は見出せる。いずれにせよ、俺はこれから下に戻る。戻って生存者を探し、運よく発見できたら連れて一緒に逃げる。ここにこうして留まっていても、登ってきた奴らに()られるのは目に見えているしな」

「どうせ死ぬなら手を尽くしてから死にたいってわけ……?」

「その通りだ。それが兵士に課せられた義務でもあるしな」

「もしもアンタの話に乗って生き残れたとして、そのあとあたしはどうすればいいの……?」

「どうもしなくていい。俺も何もしない」

「上には報告しないのね……?」

「無論だ。そんなことをすれば知ってて今まで黙っていた俺も処分の対象になる。そんなのは御免だ」

「…………わかった」

 レインは首肯すると、さきほどの茂みから牛皮でこしらえた荷物袋を引っ張り出し、中身を地面にばら撒いた。

「言っとくけど、スプレッドは当てになんないからね。相手はドレイクのバスタードソードでブッた切られても死なないような化物どもなんだから」

「ああ。本命はこいつだ」

 アッシュは爆薬を一本、ひょいと拾い上げた。

「あとはお前が持っておけ。ただし、使い所を誤るなよ」

「アンタこそね」

 レインも残る二本を腰のベルトに差し込む。

「崖を下りたら、まずはアンと合流する。離れず着いてこい」

「りょーかいりょーかい、上官殿」

 ――もうこうなったらどうにでもなれ!

 半ば自棄の心境で、レインはアッシュの後を追った。



「ネリーがっ!? 馬鹿な、あいつは一体何を考えているんだ!」

「きっと心配だったんだ、キミやアッシュのことが! だからネリーは――うわぁ!」

「平気か、シドニー! あまり私から離れすぎるな! 囲まれたら一溜まりもないぞ!」

 ネリーの身を案じて単身廃村へと舞い戻ったシドニーだったが、待ち受けていたのは彼の想像を大きく上回る悪戦況であった。

「ごめん。足手まといだね、ボク」

「いいや、そうでもない。一人多いのとそうでないのとでは戦力的に雲泥の差だ。それよりネリーだ。これでは捜索どころじゃない。どうにか打開策を考えねば」

「うん。もう後も――ほとんどないに等しいしね」

 背後をちらりと顧みて、シドニーは力なく笑った。

 そう。アンジェリカを中心とした戦線はすでに断層の根元――最終防衛線がすぐ目と鼻の先に迫った地点にまで後退していたのだ。多勢に無勢、加えて死なない敵が相手と来れば、いかに手練れの彼女といえどこの結果は止むを得まい。廃村に降り立って間もないシドニーがネリーの捜索を断念して助太刀に入ったのも、そうした事情があったればこそだった。

「このままシドニー、お前をネリーの捜索に向かわせれば、ここは遠からず突破されてしまうだろう。しかし、お前をここに留めてしまえば……」

「ネリーは絶望的。参ったね、こりゃ」

「まったくだ。頭痛がしてくる」

 極めて芳しくない情況に、険しい表情で軽口を叩くアンジェリカとシドニー。二人の耳が揃って役立たずになるその直前、最後に聞いたのはアッシュと思しき人物の「伏せろ!」との声だった。

「この破壊力……。レイン、お前という奴は――火薬を増量したな」

「まあね。こちとらせっかく危ない橋渡ってちょろまかしてんだし、いざって時に役に立たなきゃ意味ないっしょ」

 周囲に充満する刺激臭。

 地面にぽっかりと穿たれた巨大な半円形の穴。

 あちらこちらに散らばるおびただしい数の肉片。

 いまだ事態が飲み込めずに立ち尽くすアンジェリカらの目の前で、闖入者であるアッシュとレインは早々に次の行動へと移ろうとしていた。

「この程度では焼け石に水だ。再度包囲される前に撤退しろ」

「言われなくてそうするわ。アンタはネリーとルドラーを探すんでしょ?」

「ああ。生存しているかどうかはわからないがな」

「死んでたら? 死体とか見つけたら」

「独りで逃げるしかない。当然だろう」

「待たないからね、あたしら」

「それでいい。俺には構わず、確実に逃げおおせることだけを考えろ」

 言い終わるや否や、アッシュはレインたちを置いて走り出した。先刻アンジェリカと共に行き来した目抜き通りを、再び廃村の奥へ。

「ネリーーーーーーー!! 隊長ーーーーーーー!!」

 火炎が、まるで巨大な蛇のようにとぐろを巻く建物と建物の間を疾走しつつ、声を張り上げる。視線も同時に方々へ飛ばし、それらしい姿がないか注意深く探す。さりとて呼びかけに応じる者はなく、目に付くのも明らかにそれと判る帝国兵の遺体ばかりだ。

 ――あそこまで肉体が損傷するとさすがに生き返ってはこないか。

 ふと、そんなことが頭をよぎる。

 ――いや待て。本当にそうか? そうだったか?

 奇妙な違和感を覚え……しかし今はネリーたちを捜索するのが急務だと、アッシュはすぐに雑念を振り払った。

 そして。

「あれは――っ!!」

 見つけた。

 特に目的も理由もなく曲がった路地の先、そこだけ火の手が及んでいない崩れかけた噴水の側に栗色の髪をした女――ネリーがしゃがみ込んでいる。これぞまさに僥倖(ぎょうこう)。アッシュは一気に加速し接近する。


「来ちゃダメぇぇぇぇええええーーーーーーー!!」


 悲鳴が耳朶(じだ)を打ち、それに停止という形で反応を示すよりも前に、アッシュの背中を焼きつくような鋭い痛みが襲った。

「な、に……?」

 がくん、と両の膝から力が失せて派手に転倒する。しかも失速はしない。慣性に従うままアッシュは地を転がり、ネリーの真横を通過し、やがて教会らしき建物の軒先に打ち捨てられた『創造主ミュクサーヌ』の石造にぶち当たったところでようやく止まった。

「しっかりして、アッシュ!」

 我が身に起きた事柄は今もって判然としない。だが少なくとも駆け寄ってきたネリーには大した怪我もなく無事のようだ。ならば、

「撤退するぞ……ネリー……」

 よたよたと覚束ない足取りで立ち上がる。

「でも、アッシュ!」

「今ならまだ間に合う……。アンやシドニーたちと合流して、揃って帰路に着ける……」

「アッシュ、ねえ、アッシュ!」

「さあ、行こ――っ!」

 瞬間、アッシュは絶句した。ネリーの肩越しに立つ〝その人物〟の姿に、彼が手にする抜き身の得物に、そこから滴る血に、そして――それらすべてが放つ異様な殺気に慄然として言葉を失した。

「遅かったじゃないか、ええ? ザム伍長」

「…………」

「だがまさか、彼奴らを相手に生き延びているとは、流石と言って褒めておくべきか」

「隊長……」

「まったくもって忌々しい男だ、貴様は」

 どけ、と言って自分をアッシュから退けようとするルドラー・オルフェン少尉に、ネリーは抵抗した。腕に絡みつき、涙ながらに訴える。

「アッシュは、アッシュだけは殺さないって、隊長そう言ったじゃないですか! これじゃあ話が違います!」

「予定が変わったのだ。やはりこいつは生かしておけん」

「そんな……! だったらわたしもこれ以上は協力しません! 帝国にだって行かない! アッシュと、ううん、みんなと一緒にクラスタに帰る!」

 ネリーの最後の発言にぴく、とルドラーは頬を引き攣らせたかと思うと、

「調子に乗るなよ、小娘がッッッ!!」

 彼女の腹に蹴りを食らわせた。その威力は尋常ではなく、くの字に折れたネリーの体はすさまじい速度で宙空をふっ飛び、噴水の縁に容赦なく叩きつけられた。

「ネリー! ――隊長、あんたっ!」

 ルドラーの暴挙に対し、それまで驚愕しながらもまだどうにか平静さを保っていたアッシュがついに爆ぜた。鞘からフランベルジェを抜き、斬りかかる――が。

「ぐほぉ――!」

 同じく腹に、胃臓が潰れんばかりの強拳をねじ込まれ、沈黙。

「正直に告白しよう、ザム伍長」

 無力化したアッシュを、さながらボロ雑巾でも扱うように地面へと放り、ルドラーが嗤う。「私は貴様が(うと)ましい」

「だいたいからして理解に苦しむのだよ、私は。一体なぜ、貴様のごときどこの馬とも知れん下夫が――ああ、済まない、少し待ってくれるか?」

 ルドラーは装備していた全身鎧を、脚部と臀部のみ残しすべて脱ぎ捨てた。

「そう、貴様のような下流の男がなぜ――」

 身軽になり、どこか心地よさそうな表情で続きに戻る。

「生まれも育ちも高貴な身であるこの私よりも多くを持つのか、そこが理解できん」

「なん……の、話だ……」

 問いかけには答えず、ルドラーはアッシュの髪を掴んでずるずると引きずり始めた。

「なぜだ、なぜ貴様なのだ。剣の技術も、戦闘における知識や勘も、皆からの人望も、総てを手にすべきなのは私ではないのか!」

 やがて辿り着いた先――血を吐き気絶するネリーの許で声高らかに告げる。

「いいか、ザム伍長、よぉぉぉく見ていろ! 私が欲しいものを手にするところを! 貴様から奪う瞬間を!」

 そして、その禍々しくおぞましい略奪は行われた。

 ルドラーが腰に提げた袋から取り出した小瓶には、ミミズに酷似した黒色の線虫が一匹。摘み出され、うねうねとのた打つそいつがネリーの鼻腔へと入っていき、

 ずぐん――。

 ネリーは跳ねる。

 ずぐん――。

 おかしなほどによく跳ねる。

 ずぐん――。

 白目を剥いて。

 ずぐん――。

 全身の穴という穴から、種々の体液を垂れ流して。

「ハ、ハハハハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 ルドラーは震え、狂笑する。

「これでこの女も私と同じになったアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ」

 歓喜する。


「…………もう充分だ」


 え、と振り返った時にはすでに遅し。アッシュの放った痛烈な蹴りがルドラーの顎を捉えた。

「立て。決着(けり)をつけてやる」

 もはや。

 もはやそこに立つアッシュ・ザムは最前までの彼とは違っていた。

 廃村にやって来てから今この瞬間までに見たこと、聞いたこと、考えたこと。

 完全に掴みきれたわけではない。だがその必要はない。

 ――任務を続行する。

 畢竟(ひっきょう)するにそれが可能なだけの情報が集れば、この男は無心で戦える。『戦人形』として徹底的に壊し殺すことができる。

「貴様ぁ、アッシュ・ザムぅ、貴様という男はこの私をどこまで愚弄すれば気が済むのだ!」

 怒りに燃えるルドラーが立ち上がる。戦慄(わなな)く右手には彼の愛器――刺突に特化した細剣、ストリッシャが握られており、アッシュはそれを見るや自身の腹部に開いた小さな穴を指先でちょいちょいと突いた。

「内臓を串刺しにされなかったのは幸運だったか。とはいえ、さっきの腹への打撃で出血量がずいぶん増したな。これはうかうかしていられない、時間との勝負だな」

 極めて冷静に分析する。これでまた一つ情報が出揃った。アッシュが任務を果たすための重要な情報が。

「時間との勝負だと……? なるほど、この私など眼中にないということかァァァアアアア!」

 絶叫と共に襲い掛かるルドラー。アッシュはその挙動を真正面に見据え、

 ――ここだ。

 相手が自分にとってもっとも有効な攻撃射程に入った刹那に剣を振う。ルドラーは咄嗟に反応してストリッシャで防ぐも、

「づあっ!」

 細い針のような形状の彼の得物はアッシュのフランベルジェには敵わない。あっさりと切断され、その身を刻まれる。

 さらに、負傷したことで思わず足を止めてしまったのが、アッシュの攻撃射程内に留まってしまったのが仇となった。たとえそれが一瞬でも、アッシュは決して見逃さない。

「あぐぅあ! ぐぅあぐぅあぐぅあぐぅあぐぅあぐぅあ!」

 降り注ぐ刃のシャワーの餌食になる。アッシュの剣速はアンジェリカのそれと比較すれば左程ではない。しかし、比べる対象はあくまであの『肉削ぎ』であって、一般兵の蚊の止まりそうな速度とはわけが違う。

「あ、あー、あー、アッシュ、ザムぅぅぅ」

 瞬時にしていわゆる〝なますに斬られる〟状態と化し、ズタボロのルドラーは全身から血を噴き倒れた。

「下手な芝居はよせ。お前らがその程度では死なないことは学習済みだ」

 得物についた血糊を払い、アッシュが言う。するとルドラーの体が、

「くっくっくっく、私を他の雑魚どもと一緒にするなよ、ザム伍長」

 何の前触れもなく唐突な変貌を遂げた。満身に刻まれた無数の剣傷から蜘蛛を彷彿とさせる巨大な脚が生えたのである。

「ほう……」

「どうかね、この姿は。見事だろう?」

「見事かどうかは別として――少なくとも馬力はありそうだ」

 アッシュはフランベルジェを正眼に構え直した。

 その眼に、顔つきに、動揺の色は一切見られない。たしかに予想だにしなかった展開ではあるが、

 ――任務続行に支障はない。

 そう判断した。

「ウシャァッ!」

 奇声を発し、ルドラーが脚の一本をけしかけてきた。己が頭を叩き潰さんと真上から肉迫してくるそれを、アッシュは素早く後方へと跳んで回避する。空を切った脚が地を叩き、石畳の路面が派手な音を立てて木っ端と化す。

 アッシュはこの一撃をもって再度断じた。楽ではないにせよ勝てない相手ではない――と。

 長さにしてアッシュの背丈の倍程度、太さは小振りな丸太といった具合の巨脚。主にルドラーの体前面についた剣傷から幾本も不規則に生え出るその様は異様の一言に尽きるものの、繰り出してくる攻撃の威力も速度もアッシュの想定を超えてはいない。対応は充分に可能だ。さらに、アッシュには好都合な点がある。

 ――足を使って懐に飛び込むか。

 彼らが今いるこの一画は、水が枯れ半壊した大きな噴水を中心に建物が円形を成して建ち並んでいる。在りし日は村民たちの憩いの場として機能していたであろうここは広い上に、死角らしい死角がほとんど見当たらない。さすれば小回りの利くアッシュの方に断然分がある。

「あとは――」

「そらそらそらぁ!」

「これだ」

 複数の巨脚を一斉に動員した同時攻撃。必ず来るとは思っていたが、これがアッシュにとってもっとも厄介である。それこそ相手の攻撃射程内に長く留まるのは絶対に避けるべきだ。

「フハハ! ちょこまかちょこまかと逃げ回りおって、まるで虫ケラだな、ザム伍長! 脆弱でちっぽけな貴様にはお似合いだ!」

 ルドラーは回避に専念するアッシュを悠然とした足取りで追う。

 しかし、余裕の笑みを浮かべる彼はまだ気づいていなかった。これこそがアッシュの狙いだということに。巨脚の攻撃射程外に身を置きつつ、ルドラーから僅かずつ僅かずつ距離を離して噴水の外周を回ることこそが、

「――なに!?」

 アッシュが仕掛けた罠。単調な円運動によってルドラーは相手との微妙な距離感を掴めないでいたが、実のところたった今、二人の間隔は噴水を挟んでほぼ対角線上の位置にまで開いたところだった。

 アッシュはその対角線を突っ切った――半壊して背の縮んだ噴水を踏み台にして跳躍し、ルドラーの頭上を取ったのだ。

「アッシュゥゥウウウウウーーーーー!!」

 されどルドラーも黙ってはいない。蝿を追い払うかのような巨脚の対空迎撃が迫る。アッシュはこれをフランベルジェを一閃して斬り飛ばす。どす黒い血液の飛沫が宙を舞う。

「――っ!!」

 その血液が、アッシュから勝機を視界ともども奪い去った。

 それでもなお得物は振り下ろしたが当たらず、アッシュは成す術なく地面に墜落した。

「ハ…………ハハハハ! 残念だったなァ、ザム伍長。ハズレだ」

 ルドラーに足蹴にされる。

「もっとも、私はあのまま頭部を裂かれようと心臓を刺されようと死にはしなかったがな」

 どうにか体勢を立て直して反撃しようと、目に入った血を拭ってとりあえず視界だけは確保できた。

「抜け目ないお前でもそこまでは考えていなかったか? ええ、どうなんだァ?」

 が――次なる巨脚の一撃で情況は一気に最悪というレベルにまで落ち込んだ。フランベルジェと共にアッシュ専用として設計・製作された円盾は比類なき防御力を誇り、胴体を潰さんと降ってきた打撃はかろうじて致命傷には至らなかった。しかし、今の衝撃で円盾を装着した左腕はおろか肋骨や肩甲骨にまでひびないし骨折の被害が出てしまった。これではまともに戦えない。

「……焼き払ってやる、つもりだった」

「ああ?」

「行動不能にした後……火にくべて灰にするのがもっとも戦術的に有効だ……」

 アッシュが見つめる先、とうとうこの区画にも火の手が及んで真っ赤に燃え盛る教会の様子が。

 ふん、とルドラーは鼻を鳴らした。

「貴様、私を道連れに死ぬつもりだったのか?」

「さあな……。押さえつけておく必要があればそうしたかもな……」

「つくづく気に入らん男だ、貴様は」

 不意に面から表情を消し、ルドラーが巨脚を振り上げた。その数、三本。さすがにあれらを一時に食らえばただでは済むまい。今度こそ防御は無意味だ。

 ――ネリー……。

 死の瞬間を間近に控えてアッシュは、彼女の姿を探した。

 否、特別な感情や感慨があったわけではない。そうではなく。

 ただ、

 ただ最後に、

 もう一度だけ――

「ネ……リー?」

 果たして彼女はそこにいた。噴水の向こう側に立っていた。雄雄しくも毒々しい、蛾のような紋様が浮かぶ二対の翼を背負って、天使などとは程遠い異形の姿で。

「……ネ……」

 アッシュはたしかにその眼で見た。


『ニ、ゲ、テ』


 一瞬こちらを振り向いたネリーは…………笑っていた。

 

「ネリーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 アッシュが叫んだときにはもう、彼女はルドラーに突貫し揃って教会を包む業火の中で焼かれていた。肉が焦げる強烈な臭い、そしてルドラーの悲鳴とも怒号ともとれるめちゃくちゃな咆哮。

「ネリー、ああ……承知した」

 やがてすべてが治まる頃。

「お前の援護に感謝する」

 アッシュは独り、帰還の途に着いた。



「左第七第八第九肋骨骨折、左肩甲骨および左腕橈骨にひび、そして腹部の動脈からの出血と右内側じん帯の損傷、その他打撲擦過傷多数……。ずいぶん手酷くやられたな」

 満身創痍の肉体を文字通り引きずって、アッシュは目抜き通りをひたすら元来た断層へと向かって進み続けていた。

 作戦前に頭に叩き込んでおいた地図によれば退路はあの一つきり。廃村はたしかに西を除く全方位を同じような断層に囲まれてはいるが、他はあまりに傾斜が急だったり崩落の危険性があったりと上り下りには適していない。つまり、近道は存在しないのである。

「出血は……このぶんなら駐屯地まで保ちそうか。それでも手持ちの止血剤を全部つぎ込んでぎりぎりといったところだろうが」

 おそらくは噴水を踏み切って跳躍した際に痛めたのであろうが、足を思うように動かせないため走るのにも難渋する。目的地である断層はまだもう少し先だというのに。

 今のところ目抜き通りに帝国兵の姿はないものの、襲われ囲まれでもしたらそれこそ逃走は不可。かといって撃退も困難。まさに万事休すである。

「このまま何事もなく森に入れれば、生存の確率は一気に増すんだがな」

 額から流れ落ちる汗を拭いながら呟く。しかし――

「なるほど、それはお前らにとっては痛手というわけか」

 無情にも敵は現れた。ざっと七名、どこをどう見ても躯にしか見えない異形の帝国兵たちが、アッシュの前にのっそりと立ち塞がる。

「くっ――!」

 激痛の走る左腕に鞭打ち、アッシュはフランベルジェを得意の正眼に構えて迎撃体勢をとる。

 ――まだだ、まだ任務は終わっていない。

 仲間の、ネリーの身を挺した援護で自分はこうして生きている。未だ兵士として戦地に立っている。感傷は僅かばかり。それ以上に兵士の血がアッシュに「戦え」――と命じている。アッシュはその声に従って剣の柄を強く握り締めた。

 ちょうどその時だった。けたたましい炸裂音と共に七人の帝国兵がすべて吹き飛んだ。爆風によってアッシュも転倒する。

 そして、もうもうと立ち昇る煙霧の中、彼らは雁首を揃えてそこにいた。

「迎えに来てやったぞ、アッシュ」

 アンジェリカ。

「うわー、こいつはヒドいやられようだね。珍しいこともあるもんだ」

 シドニー。

「どーでもいーから、さっさと逃げようって!」

 レイン。

 先んじて撤退したはずの三人がアッシュの許に駆け寄る。

「そら、肩を貸そう。立つんだ」

「……なぜだ」

「うん?」

「撤退しろと言ったはずだぞ」

 アッシュの問いかけに、彼を支えて歩き出そうとしていたアンジェリカが素っ気無く答える。

「お前と同じだ」

「同じ?」

「そうだ。撤退時に敵が攻めてくる可能性は充分にある。だったら戦力は多いに越したことはない。……だからさっき、お前は戻ってきたんだろう。ネリーの失踪を知る以前から、レインの隠し持っている爆薬を調達して私を救いに来る気だったんだ、お前は。違うか?」

「俺は、より生存率が高い戦術を選択したにすぎん」

「あの、ところで、アッシュ……」

 おずおずと、二人の会話にシドニーが割って入る。

「そ、その…………ネリー、は?」

 目を伏せ、ひどくぎこちなく尋ねるその様子からすると、彼はうすうす察しているらしかった。

 アッシュは、

「駄目だった。隊長も俺が見つけた時には、もう」

 そう告げた。

 シドニーは「そっか……」とだけ呟くと、一人とぼとぼと歩き始めた。残りの面子も後に続いた。

「ネリーから伝言だ、シドニー」

「え?」

「私のぶんまで生きてほしい――たしかに伝えたぞ」

「アッシュ……。じゃあ、じゃあネリーは……」

「急所を一突きにされていた。相手は化物になる前だったらしいな」

「…………うん……うんうん……。こんなこと言っちゃドレイクに悪いけど、でも、よかった……」

 まるで何かを確かめるように、何度も、何度も何度も頷き、そのたび大粒の涙を足元に落とすシドニーに対して、誰も何も言おうとはしなかった。ただ黙って前を向き、先へ先へとひたすら歩を進めていた。

 間を置かずして一行は断層の麓に辿り着いた。ここを登れば先には広大なシャールの森――とりあえずの安息の地が待つ。

「さすがにお前を担いでは無理だな。独りでも登れそうか、アッシュ」

「問題ない。ただ、俺は時間がかかりそうなんでな、後にする」

「よし、だったらシドニー、レイン、お前たちが先に登れ」

 アンジェリカの指示を受け、さも当然といった顔でレインがシドニーを押し退け先陣を切る。

「はー、もー、ほんッッとヒドい目にあったァ! こんな任務もう二度とゴメンだってぇの!」

 登り始めた途端に盛大に愚痴を吐く。

「つーか、あの化物どもって一体全体なんだったわけ? 帝国ってもしかしたらあんなのイッパイ作ってこっちに攻めて来――」

 そうして、何気なく崖下を振り返ってみて、

「アンジェリカっっっ後ろォォォ!!」

 レインはそこに信じがたいものを見た。


「――ぅぉああああああああぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!」


 ほとばしる絶叫の主は誰あろう、レインが今まさに呼びかけたアンジェリカ・タロン軍曹その人。アッシュの傍らに両膝を突き、苦痛に歪む顔で彼女が見つめる先には間欠泉のごとく血を噴き出す鋭利な切断面と、かつてその部分に継ぎ目の一つもなく接していたはずの自身の肉体の一部――左前腕がぽつねんと地面に転がっている。

「アン!!」

「アンジェリカ!!」

 アッシュとシドニー、両者が咄嗟に仲間を庇って立つ。

 彼らの目の前では、アンジェリカから左腕を奪い取った張本人が不気味に口角を吊り上げている。

「やぁやぁ、私のカワイイ部下たち。逢いたかったぞぉ、元気にしていたかぁ、んん?」

 ぐじゅぐじゅ。

 ぐじゅぐじゅぐじゅ、ぐじゅ。

 ぐじゅり。

 焼け爛れた皮膚を、あたかもそれ自体が別の生き物であるかのように怪しく蠢かせ、ルドラーはなおも嗤う。

「揃いも揃って間抜けで無能な貴様らに、私が最後の慈悲をくれやろう。そう、人間を遥かに超越したこの私になぶられ殺されるという、最後にして最高の慈悲をなァ」

 そうだその通りだ、とでも言いたげに巨脚たちも一斉に虚空を暴れ狂う。

 一方で、変わり果てた上官の姿にアンジェリカたちは凍りついていた。

 ――こいつは一体なんなんだ。

 ――自分たちを殺そうとしているらしい。

 ――こんな常軌を逸した存在に勝てるわけがない。

 茫漠とした疑問が、言い知れぬ恐怖が、そして圧倒的な絶望が場に満ち満ちて息をするのさえ苦しい。圧し潰されてしまいそうだ。

「……オマエかっ!」

 しかし彼は――シドニーだけは違った。

「ネリーを殺したのはオマエだな、化物め!」

 ぎらぎらと異様な光彩を放つ双眸をあらん限りに見開き、人外と化したルドラーの前に立ちはだかった。

「さっきアッシュはああ言ったけど……ボクはだまされないぞ! この野郎がネリーを、自分に少しもなびかない彼女を戦闘のどさくさにまぎれて殺したんだ!」

 兜を脱ぎ捨て、パイクの穂先を突きつける。

「許さない、絶対に許さないからな! いやがるネリーに毎日毎日あんなヒドいことして、挙句に手に入らないとわかったら殺すなんて――っっ、オマエは死刑だ地獄行きだ、ルドラー! ボクが殺してやる!」

 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺――

「よすんだシドニー! それ以上そっちに踏み込んだら戻って来れなくなるぞ!」

 いつ果てるともなく吐き散らされ続ける怨嗟の言が、アッシュを仲間の許へと駆り立てる。さりとてアンジェリカが彼の足首を掴んで引き留め、

「無駄だ……アッシュ……。あいつはもう駄目だ……」

 首を横に振った。

「しかし、アン――」

「諦めろ……。お前も兵士なら判るはずだ……。戦場で狂気に魅入られた人間はもう二度と戻っては来れないことくらい……」

「くそっ! ――おいレイン、爆薬だ! 爆薬をこっちに寄越せ!」

 アッシュの怒声に虚を突かれ、それまでずっと崖に張り付いたまま忘我していたレインはここでようやくまともな思考を取り戻したかと思うと、今度はひどく狼狽した様子で、

「それが――ないのよ! さっきまで腰のベルトにちゃんと挟まってのたに! いつの間にかなくなってる!」

 よもや、とアッシュはシドニーを顧みた。そして見つけた。彼のブーツの隙間に、彼と寄り添うようにしてぴったりと挟まった爆薬を。

 ――お前は兵士失格だ、シドニー。

 刹那、アッシュはアンジェリカの手を強引に振りほどいて駆け出した。全速力で向かった先にて腕を、切り飛ばされた彼女の左腕を回収してまた元の場所へと舞い戻る。

「忘れ物だ。自分で持っていろ」

「すまないな……」

 続いて相手に背を向け屈む。おぶされ、という意味らしい。

「離すなよ」

「心得ている……。お前のことも、自分の腕も決して離さん……。離してなるものか……」

 残された右腕でアンジェリカが首にしっかりと組み付いたのを確認すると、アッシュは崖に手をかけた。

「貴様、くっくっく、ワイズ一等兵よ、ついに狂ってしまったか。だがそうだろう、そうだろうとも。肉体面だけでなく精神面においても貴様は常に軟弱。従ってこの廃村で度重なった非日常に心がボキッ! ――と折れてしまっても、そう無理はないよなァ」

「黙れ、黙れ黙れ黙れ! オマエはこれからその軟弱なボクに殺される、殺されるって言ってんだよォォォォォオオオオオオーーーーー!!」

 気にしている余裕はない。そうでなくとも体はぼろぼろで、おまけに女性とはいえ人一人を背負ってこうして重力に逆らっているのだ。少しでも意識を他所(よそ)にやれば、全身を貫くような激痛に気を失うかはたまた岩壁の出っ張りを掴み損ねるか、いずれにせよ待っているのは落下という最悪のシナリオであり、ひとたびそうなったが最後、もはやこの崖に再度挑戦する体力など残されてはいないだろう。

「そらどうした、どうしたどうした! そんなノロい突きでは私はおろか、虫の一匹たりとて殺せんぞ! やはり貴様は無能なクズだな、ワイズ一等兵!」

「うああああああ! ああああ! あああああああああああああああ! 黙れっ、黙れっ、黙れ黙れ黙れ黙れっ、黙れよルドラァァァァァァ!」

 脂汗が吹き出る。指先が震える。視界がぼやける。あれほど全身を苛んでいた痛みもすっかり麻痺してしまっている。肉体の限界はとうに過ぎ、今やアッシュは気力だけで登り続けている。

「ほらアッシュ、チンタラしてないで早く! ルドラーが来ちゃうってば!」

 レインが上から差し伸べた手を、しかし彼女を巻き込んで三人諸共に墜落する危険性を考慮し敢えて取らず、そしてついにアッシュは――

「アンっ、着いたぞ。しっかりしろ、おい、アン!」

 辛くも登頂に成功した。とはいえ彼の背中でアンジェリカは微動だにしない。すかさずレインが尋ねてくる。

「ひょ、ひょっとしてアンジェリカ、死んじゃったの?」

「いや、血を流しすぎて気絶しているだけだ。命に別状はない。それよりレイン、お前は森の中に隠してあるルドラーの馬を連れて来い。そいつで逃げよう。俺はアンの止血をする。急げ」

「わかった!」

 レインが一目散に森へと駆けてゆくその傍ら、アッシュは自分が着用している全身衣の袖を破いて紐状に束ね、アンジェリカの腋下をきつく縛り上げた。これで出血は止まるはずだ。

「く――っ!」

 直後に崖下から轟音が響き渡った。シドニーが爆薬を使用したらしい。

 時を同じくして馬を伴ったレインが戻った。

「レイン、お前はたしか馬術が得意だったな。手綱を任せられるか」

「イヤよ――と言いたいトコだけど、アンタもアンジェリカもそのザマじゃ無理ね。いいわ、あたしが操馬する」

 手短に打ち合わせを済ませると、アッシュとレインは作業に取り掛かった。

 まずは鞍を外した馬の背に気絶しているアンジェリカを二人がかりで上げる。次いでレインが騎乗し背後から彼女を抱きかかえるようにして手綱を握る。アッシュはその間にアンジェリカの切断された左腕をレインが持参した道具袋に詰めると同時に、自身の腹部動脈からの出血を止めるべく止血成分を含有した飲み薬を大量に口に入れる。

「ヘンなトコ触んないでよね。ムネとか」

 最後にアッシュがレインの後ろに座り、かくして撤退の準備は整った。

「方角は俺が磁石を見て指示する。可能な限りとばしてくれ」

「わかってるって。じゃ、行くよ?」

「ああ」

 三人を乗せた白馬は大きくいなないたかと思うと、漆黒の闇に沈む森へとその身を躍らせた。



 大陸中央部に広がる広大な森林地帯――シャールの森。南北に険しい山脈を臨み、東西両国の関所からもやや距離があるこの森には古くから魔物が棲むという言い伝えがあり、そのせいもあってか本邦ミュクサガルドに暮らす人々は一部の例外を除いて、たとえ山賊などの無頼の輩であっても足を踏み入れる者は滅多にいない。

 例外とはもっぱら商人たちのことを指す。古臭い伝承よりも銭金を重んじる彼らの狙いは当地の豊富な天然資源。薬草、材木はもちろんのこと、森に生息する生物から採れる皮革や食用肉等、宝の山というわけだ。実際、日々の暮らしの中で使われる様々な物品から軍用品に至るまで、森の恩恵は人々の生活を支えている。

 エリスルム王国政府の発表によれば、年間を通して百名以上の商人や職人が森に入ったまま行方知れずになっているという。彼らは一体どこに行ってしまったのか。シャールの森には本当に魔物が棲んでいるのか。真実はようとして知れない。

 或いはすぐ横に白骨化した採取者の死体でも転がっていそうな、仄かな月明かりに照らし出された森の中をアッシュたちは行く。彼らを乗せてひた走る白馬はその名を『フリードリッヒ』といって、中隊内では健脚として名高い実に優秀な軍馬である。

「速い速い! しっかもあり得ないくらい扱いやすい! イイ馬だわー、コイツ! サイコーよ!」

 大人三人分の重量をものともせず、また夜闇を少しも恐れず、風のごとき速度で疾走するフリードリッヒをレインも褒めちぎる。この分ならクラスタへの帰還は想像以上に早まりそうだ。

「騒ぐのは結構だが、ちゃんと前を見て走ってくれよ。うっかり木に激突――なんてことになったらそれこそ最低だ」

「あたしはそんなヘマしません。つーか、アンタさっきからちょいちょい手がムネに当たってるんですけど。え、仏頂面してるくせに実はそうなの? ほんとはスケベ? 帰ったらみんなに言いふらそーっと」

 やれやれ、とアッシュは嘆息した。レイン・ヒッチコックという仲間はこれだから手に負えない。馬術にせよ弓術にせよ、実力はあるくせにすぐ調子に乗る。泣いていたかと思えば笑っていて、笑っていたかと思えば怒っている。要は現金な奴なのだが、アッシュからすればもっとも理解に苦しむ人種の一人に違いない。

 馬は休むことなく軽快に走り続けた。一方で彼にまたがる人間たちは、ここに来てやや疲れが出たのか揃って黙り込んだ。時間が止まったかのような森の静寂(しじま)に、蹄が土を蹴る規則的な音が緩く雑じる。

 やがてその静寂に馬の躍動音とは明らかに異なるもう一つの音響が重なり始める頃、アンジェリカが意識を取り戻した。ここはどこだと問う彼女にアッシュは答える。「もうすぐ国境だ」

 果たして彼の言う通り、森は唐突に開けてガイア渓谷が三人の前に姿を現した。

 先刻から聞こえてきていた音響の主――ガイア渓谷の底でどうどう、どうどうと唸りを上げる激流を見下ろしつつ、レインがアッシュに声をかける。

「ねえ、ちょっと休憩しようよ。ここまで来ればもう大丈夫だと思うし」

「いや、少なくとも吊り橋だけは渡っておこう。あちら側まで辿り着ければ、もう完全に逃げおおせたも同然だからな」

「落とす……のか……?」

 アンジェリカの言葉にレインはぎょっとした。

「マジなの、アッシュ。そんなこと勝手にしたらマズいんじゃ……」

「事態が事態だ、止むを得まい。王国上層部の連中もたかだか吊り橋一本で貴重な情報を持ち帰った俺たちを咎めたりはしないさ」

 さっさと馬から降りるアッシュにレインも慌てて倣う。最後に残ったアンジェリカはアッシュの手を借り下馬したが、

「まるでどこぞの国の姫にでもなった気分だな……。なぁ、騎士殿……」

 このまま横抱きで吊り橋を渡るという彼に思わず苦笑を洩らす。駐屯地に帰ってから皆に言い触らすネタが増えたとしたり顔のレイン。こちらはフリードリッヒの手綱を持って曳き役についた。

「すまないがアッシュ……。やはりこういうのはちとくすぐったい……。自分の足で歩くから離してくれないか……」

 そしていよいよこれから越境にかかろうかというところで――急にアンジェリカがそんなことを言い出した。アッシュは僅かに躊躇(ちゅうちょ)する素振りを見せたが、結局は従った。

「…………さて、アッシュ、レイン。残念ながらここでお別れだ」

 大地に降り立つが早いか、女剣士は奇妙なことを口走った。

「いいか、お前たち、あちら側に渡ったらすぐに橋を落とせ。そして振り返らずに走れ。これは頼みじゃない、命令だ。……判ったな?」

「はぁ? アンジェリカ、アンタさっきからなに言って――」

「奴らだ」

 隻腕にタルワールを携え、

「こそこそ隠れてないで出て来たらどうだ! いくらでも相手になってやるぞ!」

 彼女が凛とした美声で挑発すると、森の暗がりから異形たちはその姿を次々と月明かりの下に晒した。

「う、ウソ……でしょ……」

 レインが震え慄く。

「馬鹿なっ……!」

 アッシュは歯噛みする。

 それもそのはず。

 帰還が目前に迫ったこの期に及んで、彼らを追ってきていたのはもはや廃村で遭遇した単なる〝死なない兵隊たち〟ではなかったのだ。

 或いは切断された首から樹木様の触手を生やす者――。

 或いは体格が倍以上に膨れ上がって巨人化した者――。

 或いは肉体の形状が完全にカマキリに変容した者――。

「お、おお、おかしいわよ、こんなの……。ルドラーもアンタらも、なんだってそんっそんなおかしな格好に、に、なるのよ……。フツーじゃない絶対フツーじゃない……フツーじゃないってばミンナァァァアアアア!!」

 レインの悲鳴を嘲笑うかのように、異形たちが一斉に進軍を開始する。アンジェリカが吼える。

「さあ、今度こそ戻らずに行け! クラスタまで一気に駆け抜けろ!」

 するとアッシュは大きく息を吸い、

「任務了解だ、アン! あとのことは俺たちに任せろ!」

 隣で悄然と立ち尽くすレインと、異常事態にもまったく動じる気配のないフリードリッヒとを伴って吊り橋に突入した――が、

 橋が、落ちた。

 谷底への自由落下の最中、アッシュは何倍にも引き延ばされた感覚時間に酔いながらもしかと見た。

 ――そうか、ゲイル・フィチカ伍長、お前もすでに……。

 対岸、王国領側からこちらを見下ろす、その人物の下卑た笑みを。


 それから間もなく、すべては冷たく暗い水の中へと没し、もう二度と浮かび上がっては来なかった。



エピソード1 了



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