エピソード1前編 絶望と破滅への出立
クラスタの街、及び街の西端に位置するエリスルム王国軍中央師団特務防衛中隊の駐屯地区に、夕闇がひたひたと忍び寄る。
「――以上が作戦の概要だ。何か質問のある者は?」
駐屯地区の中央に建てられた軍司令部、その庁舎の三階、作戦会議室に召集された中隊付き第三小隊――通称ルドラー分隊の面々を見渡し、指揮官であるルドラー・オルフェン少尉が静かに問うた。
「結局のとこ、オレたちの任務は偵察ってことでいいのかい?」
ルドラーに、リッケル伍長、と名指しされたいかにも屈強そうな偉丈夫が訊く。
彼の名はドレイク・リッケル。分隊メンバーの中ではかなりの発言力があり、また戦闘においても見た目に違わぬ腕っ節の強さで、仲間からの人望は厚い。
「その点については未定だ。敵の戦力をより詳細に把握する必要があると現場で判断した場合、攻撃を仕掛ける可能性もある」
ルドラーの回答を受け、アンジェリカ・タロン軍曹が発言する。
「威力偵察か。ならば武装は第一種だな。おい、そっちの――フィチカ伍長だったか。帝国兵が部隊を展開しているという廃村までの距離は、ここからどのくらいだと?」
アンジェリカから水を向けられたのは、ルドラーと揃って議場上手に立つ小男で、名をゲイル・フィチカといった。彼が所属する部隊は中隊付き第一小隊。全部で十隊存在する小隊の中で、主に大陸中央部の各所を巡って情報収集や諜報を主任務とする特殊な部隊だ。
薄汚れた皮革の外套を羽織ったゲイルは、やけに粘着質な、聞き取りづらいのかそうでないのかよくわからない口調で答えた。
「ワイら探り屋の達者な脚なら二時間、あんたらの亀みたいな脚なら倍の四時間ってとこさぁ」
ヒヒヒ、と笑うゲイル。なお、『探り屋』というのは、もっぱら諜報活動にのみ従事し実際の戦闘にはまったく参加することのない第一小隊の隊員を指して、他小隊の隊員たちが口にする蔑称である。
「なるほど、わりと近場だね。だったらさっさと準備して発とうよ。夜が明けると面倒だしさ」
次に発言したのはシドニー・ワイズ一等兵だった。両手を頭の後ろで組み、椅子に踏ん反り返ってあっけらかんと言うその様はいかにも彼らしい。とはいえ、そんなシドニーを小声で諌める者がいた。隣に座るネリー・ギャロット二等兵だ。ネリーはおずおずと挙手し、ルドラーに指名されるとか細い声で話し始める。
「あ、あの、廃村周辺の地形をもう一度おさらいしませんか? せ、戦闘に――」
「聞こえなーい」
不意の横槍にネリーは硬直した。横槍の主は彼女のすぐ後方、会議開始時から今この瞬間までずっと爪の手入れに没頭していたレイン・ヒッチコック上等兵。爪研ぎ用の細長い鑢を指先で玩びながら、澄ました様子で言う。
「何を喋ってんだかわかんないギャロット二等兵に代わって、あたしが発言しますねぇ。隊長は戦闘になるかもしれないと仰られましたけどぉ、それなら廃村周辺の地形を再確認して現場での布陣なんかを決めておくべきだと思いまぁす」
それっきり、レインはまた爪の手入れに戻り沈黙した。その隣でドレイクがため息を吐いた。さらにその隣ではアンジェリカが、仏頂面で己のひっつめ髪を後ろに撫でつけた。
「その意見には俺も賛成だ」
そしてここで、それまでレインと同じく会議開始から一度も言葉を発していなかったアッシュ・ザム伍長が口を開く。
「とりあえず、現時点で分かっていることを整理してみよう。まずは旅程だ。クラスタから平野を西へと進み、その先のシャールの森へと入ったらしばらくしてガイア渓谷に突き当たり、橋を渡って国境を越えた後もまだかなりの距離は森。それを抜けたところが目的地だったな、隊長」
「そうだ」
「そして、馬は使えない。数日前から流行し出した家畜病でどれもやられている。それを踏まえた上での徒歩での所要時間が片道およそ四時間。攻撃の有無に係わらず、偵察なら現地での滞在時間は約一時間。そこからクラスタ帰還までの全任務工程を夜明け前を目処に終わらせるとすれば、食料なんかの物資は必要最低限でいい。最初から積み込む荷馬車も使えないしな」
「えー、四時間も歩くの、あたしヤダー」
不満を漏らすレインを黙過してアッシュは続ける。
「装備はアンが言ったように第一種、完全武装で決まりだ。未知の戦力との戦闘が想定される以上、致し方ない」
アッシュはドレイクを顧みる。ドレイクは片手を挙げて応じる。気にするな、ということらしいが、アッシュとしては部隊内でも群を抜いて重装備の彼が徒歩で長距離を行軍することに、いささか憂慮の念を禁じ得なかったのだ。
「ガイア渓谷を渡るとき、ドレイクのおっさんが重みで橋を踏み抜いて川に落っこちないかが心配だね、ボクは」
シドニーが軽口を叩くも、これにも取り合わずアッシュは結論に至る。
「あとは偵察が威力偵察に変更された際の段取りだ。隊長、頼む」
部下に続きを託され、ルドラーはやや不機嫌そうに咳払いを一つして説明に入る。
「さきほども、この私がっ、皆に話したように、目的地となる廃村は国境をまたいで広がる広大なシャールの森の帝国領側、その麓に存在する。そう、廃村は周囲を切り立った断層に囲まれたすり鉢状の地形の底に築かれているのだ。これは我々にとって大きな優位点だ。クラスタを出た後はひたすら西へ西へと行軍し、シャールの森を抜けた先が即ち目的地――すぐ真下に偵察対象を捉えることができるのだからな。加えて、断層とはいえそれほど高さや傾斜があるわけではなく、人の足でも容易に昇降が可能だ。そこで――」
「ならば布陣も何もないな。戦闘となれば私、アッシュ、ドレイクの三人で断層を下って一気に切り込み、帝国兵を牽制しつつ建物などに火を放ってネリーたち弩兵の〝眼〟を確保。頃合を見計らってシドニーと隊長も合流し、適当に敵戦力の観察及び収集を終えたのち迅速に撤退――こんなところか?」
「う、うむ、タロン軍曹、私も今そう提言しようと思っていたのだよ。代弁、ご苦労だったな」
またも部下にお株を奪われ、ひどくばつの悪そうなルドラーを見てシドニーがくす、と鼻を鳴らした。レインもレインで、皆に気づかれないようなごく小さな声で「バーカ」と彼を罵った。
「では、これより各自、作戦準備にかかれ。集合時刻は今より約三時間後、フタヒトマルマルとし、場所は西門前だ。遅れるなよ。以上」
会議の終了を告げる号令と同時に、分隊メンバーたちはがたがたと椅子を鳴らして立ち上がり、各々議場から捌けていく。窓の外はすでに宵闇に包まれている。天井から吊るされたランプの灯りが彼らの影を黒く切り取り、不安定な人型を床や壁に映しつけていた。
「隊長、少しいいか」
そんな中、たった一つの影だけが皆が向かうのとは逆方向へ、議場上手へと移動する。
「何だ、ザム伍長」
アッシュだった。彼はルドラーとその傍らのゲイルを交互に見た。
「偵察対象になる廃村の規模だが、不明だと言ったな」
「ああ。放棄されて久しい廃墟同然の村だからな、荒廃が進んでいて正確な規模までは掴めん。だが、そう広くはないし、建物はそのほとんどが半壊か全壊しているおかげで遮蔽物などは少ない」
「つまり、たとえ戦闘になったとしても攻略は用意だ――と」
「その通りだ。なあ、フィチカ伍長?」
ゲイルは頷く。
「あぁ、もちろんさぁ。特にあんたら第三小隊は精鋭揃いだからなぁ。元女王陛下お付の近衛兵『肉削ぎ』や、壊す殺すが専門の『戦人形』にとっちゃ、物足りないくらいの楽な任務だろうよぉ」
ゲイルの粘った笑声に被せてアッシュは尋ねる。
「フィチカ伍長、あんたが廃村とそこに集る帝国兵たちを見つけたのはいつだ」
「たしか……今日の昼過ぎだったかいなぁ。ワイはそれを見て、これは彼奴ら兵と武器を揃えてここを基地にするんかい、いやいや森を抜けてクラスタに攻め込んでくるんかい――と、大慌てでこうして報告に参った次第でさぁ」
「師団長には」
「それは私からだ」
唐突にルドラーが割って入った。
「まあ、何だ、こんなことを言っては失礼だが、こう見えてフィチカ伍長は、その、少々口下手でな。おまけに極度のあがり性でもある。そんな彼が師団長殿のような立場の方の前に立てば、せっかく持ち帰ってくれた情報も正確に伝わらない恐れがあると判断したのだ」
そうだな? とルドラーに同意を求められたゲイルは、再度頷いて見せた。
「まだ何かあるかね、ザム伍長。私はこれから出撃準備、そしてフィチカ伍長はまた通常の諜報任務に戻らねばならず、多忙なのだがな」
「……ああ、時間を取らせて悪かった。ではまた、西門前で」
半ば強制的な質疑の打ち切りに、しかしアッシュは素直に応じて二人に背を向けた。
違和感があった。今回の作戦に関して。けれどそれは実に茫漠とした、どうにも説明しがたい不定形の違和感でもあった。なればこそ、これ以上の問答は時間の無駄とアッシュは判断した。とにかく今は、来るべき小遠征に備えて軽く食事をし、仮眠をとり、その後は戦支度をして集合場所に参じる――これが優先事項だ。
「あ――アッシュ」
階段を降り、庁舎の正面玄関から外へと出たところで何者かに呼び止められた。声のした方向に視線をやると、庁舎と通りを挟んで真向かいに建つ書簡集配所の脇に一人ぽつねんと佇むネリーの姿が見て取れた。どうしてあんな暗がりに、と疑問に思わないでもなかったが、とりあえず相手の許へとアッシュは歩み寄った。
「どうしたんだ、ネリー。さっさと準備にかからないと、集合まであまり時間がないぞ」
「う、うん、そうだね。ところでアッシュ、アッシュは今からどうするの?」
「俺か? 俺はこれから食事だ。その後は仮眠をとる」
「そうなんだ……。だ、だったらさ、わたしも、その、そういう予定だったから……」
「?」
「ご飯、一緒に食べない? アッシュの部屋で」
これぞまさしく、意を決して、という感じだった。その証拠にネリーの顔は耳たぶまで真っ赤に染まり、肩はかすかに震え、見開いた双眸には透明な液体が溢れんばかりに満ち満ちている。明らかに断られることを恐れ、そして覚悟している。
「一緒に飯を食うのはかまわんが、俺の部屋でというのは――」
「知ってる。女性隊員が男性隊員の宿舎に入るのも、その逆も軍規違反だって。見つかったら懲罰房に送られちゃう。わたしたち、これから大事な作戦を控えてるのに」
「だったら――」
「いや!」
極めて明快な意思表示。しかも拒絶の。あまりに突然、かつ意外なネリーの反応にアッシュは虚を突かれ、二の句を失する。
「いやなの。わたしは今すぐ、アッシュの部屋で二人でご飯が食べたいの。だから……」女は男を、揺るぎない瞳で見つめた。「いや」
「……ネリー、お前は一つだけ勘違いをしている」
それを受け、アッシュは深く嘆息した。
「男性隊員が女性隊員の宿舎に入ろうと、女性隊員が男性隊員の宿舎に入ろうと、どっちにしても懲罰を食らうのは男性隊員の方だ。つまり、見つかれば俺だけが処分されることになる」
「え? そ、そうなの?」
「そうだ。軍規上では処分されるのは侵入した側ということになっているが、実際はそうじゃない。理由は俺も知らん。ただ、過去のどの例を見ても懲罰房に叩き込まれたのは常に男性のみだ。たとえ侵入したのが女性の側であってもな」
そこまで一気に語ったかと思うと、アッシュは一呼吸置き、
「俺がそっちに行く」
拍子抜けするくらいすんなりと言った。
瞬間、ネリーはきょとん、とした。
「どちらがどちらの部屋へ入ろうと、処分されるのはこの俺だ。それなら見つかる可能性が少しでも低い方に賭けたい。ネリー、お前は壁をよじ登るのが得意だったか」
「………………っ! と、得意じゃない。苦手。すごく苦手」
「だろうな。訓練の様子を見ていれば分かる。じゃあお前は、宿舎の三階にある俺の部屋までどうやって来るつもりだったんだ。まさか、玄関から正々堂々正面突破するつもりだったのか」
ふるふると頭を振るネリーを見て、アッシュはほんのわずかに相好を崩した。
「無計画だったんだろう、お前のことだから。万が一見つかっても処分されるのは自分だからと俺に気を遣ってくれるのは有り難いが、そんな危なっかしい奴に自分の処遇は任せておけないな」
そして、三十分後。
「邪魔するぞ」
アッシュは本当にネリーの部屋にやって来た。それも扉ではなく、
「き、気をつけてね、アッシュ」
窓から。
別れ際にネリーは女性隊員宿舎の二階にある自分の部屋の位置を伝えた。するとアッシュは事も無げに『承知した。窓から入るから開けておいてくれ。食料は俺が調達してくる』とだけ言い残し、いずこかへと走り去っていった。
「いらっしゃい。汚いところだけど、どうぞくつろいでね」
遠ざかる背中を、まさか、と思いながら見送ったが、そのまさかだった。でも、一体どうやって。無事に潜入を果たしたアッシュにネリーは尋ねた。
「簡単だ。まず、下の階の窓枠の上に、住人がこっちを見ていない隙を狙って手早くよじ登る。そうすればもう、軽く背伸びをした程度でお前の部屋の窓に手を掛けられる。あとは懸垂の要領だ」
「やっぱりすごいね、アッシュは。わたしには真似できないな」
思わず苦笑してしまう。それもこれも日頃の鍛錬の賜物か。
「それはそうと、すまん。調達してくるとは言ったが、結局こんな物しか持ってこれなかった」
アッシュは背中に括りつけていた包みを解き、床の上に広げた。
「急いでいたのと、あとは運搬に適さないスープ類なんかを避けた結果だ。今夜はこれで我慢してくれ」
パン、固形のバター、ゆで卵、潰した芋を丸めて揚げた団子。数量はきっちり二人分ある。
「ううん、わたしはこれで充分。普段からそんなに食べないし」
ネリーは微笑んで、アッシュに座るよう促した。
「こっちこそごめんね、床に直接座らせちゃって。椅子とか机とかあったらよかったんだけど、あいにく……」
その言葉どおり、ネリーの部屋にはベッドや書き物机や整理だんすといったごく簡易な調度品が見受けられる程度で、広さに反してどこかがらんとした印象を漂わせている。ただ、アッシュらから見て右の壁際、そこに配されたベッドの上にはネリーの手製と思われる小動物を模した布人形が何体か鎮座しており、その一角だけやけに華やいで見えた。
「ああ、あれ? うん、そうだよ、わたしが作ったの。材料は、配給されてくる衣類を分解して出る布と糸、それから街の農家さんからもらってきたおがくず。こう見えてもお裁縫はけっこう得意なんだ、わたし」
「ほう」
「お料理が好きなのはアッシュも知ってるよね? ほら、何度か作戦で遠い場所に行って野営したとき、アッシュとアンジェリカが材料を調達してきて、わたしが調理したことがあったでしょ。みんなおいしいおいしいって言って食べてくれて、すごく嬉しかったなぁ」
「ときにネリー」
「シドニーやレインはなぁんにもしないでただ食べてるだけだったけどね。んもう、ちょっとは手伝ってくれてもいいのに、ねえ? ドレイクは火を起こしてくれたから――」
「いい加減座ったらどうだ」
促され、ここでネリーの饒舌はようやく鳴りを潜めた。「えへへ、忘れてた」
「それとだな、喋るのは一向に構わんがもう少し声を落としてくれ。隣に丸聞こえで通報――なんて事態になったらそれこそ目も当てられん」
仏頂面でぼやくアッシュ。一方で先刻からどこか〝らしくない〟言動が目立つネリーは、さらに内気で引っ込み思案な彼女らしからぬ大胆な行動に打って出た。
「あ、そっか。そんなことになったら大変」
軽やかな足取りでアッシュの隣に移動し、
「ね――これなら小さな声でもお喋りできるよ、アッシュ」
彼の肩先にぴったりと寄り添ったのだ。
さしものアッシュもこれには少々驚いた。相手は自分と対座して食事するものだとばかり思っていたせいで、完全に不意を突かれる格好になってしまい鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。それを見たネリーがくすりと笑う。
「アッシュったら変な顔。さ、食べよう?」
「あ、ああ」
二人はそれぞれパンを手に取り、口に運んだ。
「でもよかった、アッシュがわたしのお願い聞いてくれて。絶対断られるって思ってたから、部屋に来てくれるって言ってくれたときは安心して泣いちゃうかと思った」
「俺がどう説得しても聞き入れる雰囲気じゃなかったしな、さっきのお前は」
「わがまま言ってごめんなさい」
「気にするな。たまにはこういうのも悪くない。それに、女性隊員宿舎への潜入はそれなりに緊張感があって、俺としてはいい訓練にもなったしな」
アッシュは食べかけの自分のパンに固形バターを塗りつけた。ネリーにも勧めるが、彼女は首を横に振った。
「そう考えると、この部屋に移れてよかったのかも。相部屋だったらこうはいかないもんね。最初は――というか今も、話し合い手がいなくて淋しいしレインや他の上官の人たちから生意気だって言われて辛いしで、色々と思うことはあるけど」ネリーは弱々しげに笑って、「ルドラー隊長に感謝しとこうかな、いちおう」
優に百人を超す兵士たちが起居する当駐屯地区において、独り部屋は伍長以上それ未満の階級の者はすべて三~四人の相部屋と、男女問わず宿舎の部屋割りには各々の階級に応じた厳正な取り決めが存在する。半月ほど前、そうした規定がとある軍曹の階級を持つ兵士の傷病除隊によって揺らいだ。他に伍長以上で独り部屋の空きを待つ者など存在せず、それなら遊ばせておくのも勿体無いし――という単純な理由から、特例として上等兵を一名、独り部屋へと移すことになったのである。しかし、
「わたしは上等どころか一等でもないし、最後の最後まで断り続けたんだけど、隊長が強引に推薦しちゃって……」
手中の半分ほどまで食べ進んだパンを見ながら、ネリーはその顔から笑みを一切消した。
「それで……仕方なく引っ越したのはいいんだけど、とにかく色んな人から色んなこと言われて……」
「お前は特にシドニーと一緒にいることが多いからな。そのやっかみもあるんだろう」
アッシュが腰にぶら提げていた水筒を外して差し出す。ネリーはそれを受け取り、小さく首肯してから喉を潤した。
「うん。女の子たちから人気あるもんね、シドニー」
「童顔というのか、あいつのあの顔立ちは。そこが人気の秘訣らしいな。俺には理解できんが、アンがいつかそんなことを言っていた」
「そういえば、アッシュってアンジェリカと仲いいよね」
ありがとう、の一言と共にネリーは水筒を元の持ち主の手に返した。語気にやや活力が戻っている。表情も、憂いが薄らいで今度はどこか悪戯っぽい雰囲気が漂う。
「い――いや、俺としてはそういう、つまり男女として仲良くしているつもりはないんだがな」
そんなまたしても〝らしくない〟彼女を前にアッシュもまた、
「たとえそう見えたとしても誤解だっ」
到底彼らしくもない動転ぶりを誤魔化すかのように、水筒に口を付けて中身を一気に煽った。
「あ……」
「うん? どうした」
「な、何でもない、何でもないよ!」
言葉とは裏腹にネリーは狼狽している。頬を紅潮させ、若干ではあるが額に汗さえ浮かべているのだから明らかだ。さりとてアッシュに解るのは所詮その程度であって、悲しいかな自分の何気ない行為がネリーの繊細かつ微妙な乙女心を刺激したことなど知る由もない。
「俺のことは置いておくとして、お前はどうなんだ」
「え、わたし?」
「ああ。やはりお前も御多分にもれず、シドニーのような幼い顔立ちをした男に惹かれるのか」
この問いかけにネリーは即答した。
「ううん、ちっとも」そして、「わたしはもっと男らしい人が好き。そう、たとえば――」
傍らに寄り添うアッシュを流し目に見る。
「たとえばア――」
「ドレイクか」
ア、の口のままネリーは固まった。
「たしかにあいつは男らしいな。それは俺も認める。だったらネリー、第六小隊のガッドはどうだ? 奴もドレイクに負けず劣らずの男ぶりだぞ」
「…………」
「いや、待て――第五小隊のライリーもなかなかだ。第九小隊のエレドアも悪くない」
「…………」
いつしかネリーは閉口していた。ドレイクも、ガッドも、ライリーも、エレドアも、男らしいというよりは厳しい、筋骨たくましき巌のような偉丈夫であり、いずれも彼女の好みにはあてはまらない。完璧な誤解。にもかかわらずアッシュは、
「そうかそうか、ネリーはああいった男が好みか、うんうん」
納得している。しきりに何度も頷き、揚げた芋を次から次へと摘んでは頬張る。
「なるほどな、なるほどなるほど」
ひどく真面目くさった顔で。
「…………もう、アッシュったら、わたしの分も残しておいてね」
その横でネリーは微笑んだ。
なぜだろう、今の彼を見ていると不思議と胸のもやもやはなかった。いつものように悲しい気持ちも湧き起こらない。これも一重にこの先で自分たちを待つ新たな展開、大いなる存在に約束された幸福な未来がもうすぐ手の届くところまでやって来ているせいだろうか。それとも……
「ねえ、アッシュ」
或いは……
「これからもよろしくね」
そこでネリーは考えるのをやめた。結論などもはや不要だったから、やめてしまった。
それからしばしの間、二人は食事をとりながら他愛のない会話に花を咲かせた。といっても花を咲かせていたのはもっぱらネリーの側で、過去にシドニーがしでかした愉快な失敗談やアッシュと初めて出会った際の昔語りなど、ひたすら喋りどおしだった。一方のアッシュはそれらに対して適度に相槌を打ったり質問を入れたりする程度ではあったが、彼がこの場を決して退屈と感じていないのは時折挟まれる微笑を見れば明白だった。
二人がこうして親しく会話を交わすまでに流れた歳月――実に一年。そう、出会いから今日この日まで、アッシュとネリーの間にはついぞ血の通ったまっとうな意思疎通などあった例がない。もちろん、二言三言のやりとりは日常的に存在する。シドニーを交えればもっと長く話しもする。けれど、そうした交流はすべからく互いの心の上辺をなぞるだけ、文字通りの上滑りの交流に相違なかった。
「どうした、もう食べないのか」
会話の途中、不意にネリーの反応が鈍くなり、アッシュは傍らを顧みた。
彼女は眠っていた。兵士とはとても思えない痩せっぽちの体をアッシュの腕に預け、すうすうと静かな寝息を立てていた。
「す……き……」
その唇が、動く。
「好き……わたし……アッシュが……好き……なの」
夜はまだ浅い。なのに静寂は耳に痛いほど深い。アッシュは一人呟く。
「戦人形――か」
ネリーの痩躯を抱きかかえ、ベッドへと横たえながら彼は思った。
――これからか。
――これっきりか。
一体何が彼女を、そして自分をそうさせたのかは、とうとう最後までわからなかった。
「ううーん、こいつは情緒的だねー」
鬱蒼と生い茂る木々の枝葉のその向こう、仲秋の夜空に瞬く数多の星たちを見上げ、シドニーが感嘆の声を上げる。
ルドラー、アンジェリカ、ドレイク、レイン、シドニー、ネリー、そしてアッシュと、定刻である二十一時に一人の遅刻者もなく街の西門前に集結したルドラー分隊の面々は、その後およそ五分ほどで手早く装備の最終確認などを済ませると、一路目的地の廃村へと向けて行軍を開始した。
此度の遠征はルドラーを除く全員が徒歩という、非常に稀なケース。本来ならばこうはならないが、折悪しく家畜病が流行しているせいで隊長のルドラーにしか騎乗が許可されなかったのだ。とはいえ、そこは斯様な異例の遠征にも対応できるよう日々足腰の鍛錬をかかさない兵たち。ルドラーを中央に前方をアッシュとアンジェリカが、左右それぞれをレインとネリーが、殿をドレイクとシドニーが固める陣形を一部も乱すことなく黙々と歩き続け、結果として予定していた道程の三分の二を踏破した時点で実に半刻以上もの時間的余裕を稼ぎ出すに至る。そうして東西両国間の事実上の国境となる深谷――ガイア渓谷を目前に臨む本地点で一行は足を止め、少し長めの休憩をとることと相成った。
「ほらほら、見てごらんよ、ネリー。あれが大蛇座でもっとも明るい星、リラレルだよ」
「あの赤く光ってる星?」
「そうさ。ちなみにブロドキン帝国で皇帝と一緒になって悪さしてる現皇后も、あの赤い星と同じリラレルっていう名前らしい」
「へー、知らなかった」
「まあね、皇后の姿を直接見た人間なんてほとんどいないから、名前だって単なる噂だけどさ。でも、その噂によれば国民に圧政を強いているのは皇帝よりももっぱらそっち、ウチの女王様も裸足で逃げ出すくらいの絶世の美女とされる皇后リラレルが、夫をたぶらかして意のままに操ってるって――」
「おい、ワイズ一等兵。無駄口を叩いている暇があったらザム伍長とタロン軍曹の手伝いでもしてきたらどうだ?」
シドニーとネリーの会話を遮ったのはルドラー。せせら笑うようにして、さらに言う。
「貴様とギャロット二等兵の体力の無さはここにいる誰もが知るところだが、だからと言って座ったまま無駄話に興じていいとは誰も思っていない。口を動かす元気があるのなら手足も動かせるはずだろう――と思ってはいてもな」
ふん、と鼻を鳴らしてルドラーは手元の地図に目を落とした。嫌味を言っておきながら彼も座っている。しかも、自分一人ここまで馬に乗って来たというのに。
シドニーはルドラーを侮蔑の眼差しで一瞥した後、星を指すのに使用していた愛器のパイクを地面に置いて立ち上がった。ネリーも倣った。
「手伝えってさ」
アッシュとアンジェリカは部隊の面々から少し離れた場所で二人して森の木に暗幕を吊るしていた。暗幕は光を透過しない獣のなめし革で作られており、隊が囲む焚き火を覆い隠して敵から見つかりにくくするためだ。この付近に帝国兵がいる可能性は極めて低いものの、念を入れるに越したことはない。
「いや、その必要はない。もうほとんど終わったしな」
アッシュは仏頂面で手にした縄をきつく引き絞った。垂れ下がっていた暗幕がぴんと張り詰める。
「お前は休んでいろ。ただでさえ俺やアンと違って重装なんだからな」シドニーの方を見ずに、「疲弊しているはずだ」
傍らのアンジェリカも首肯し同意する。
「ネリーもな。お前は私やアッシュと同じく軽装備だが、ここまでの行軍中に側面の索敵でかなり神経をすり減らしたはずだ。レインあたりは王国領で敵兵に出会うはずはないと高をくくっていたようだから、そうでもないだろうが」
二人の言にネリーとシドニーは顔を見合わせ、そして苦笑した。
「見ろ、ドレイクなぞさっきから干し肉を食うのに躍起だ。やつは自分の役割を心得ている。失った体力を取り戻し、いざ戦闘になったら一人でも多くの敵を屠るという自分の役割をな」
アンジェリカが顎をしゃくった先、たしかにドレイクは地面にどっかと胡坐をかいて非常食の干し肉を貪っている。その隣ではレインが、こちらは櫛で髪をすいて手入れに余念がない。同じように休息を取っているかに見える二人は、しかしアンジェリカによれば本質的な部分においてまったくの別物らしい。
「いいか――シドニー、ネリー。俺たち第三小隊の基本戦術とそれぞれの役割をもう一度おさらいしておくぞ。まず、防御よりも身軽さに重点を置いたライトプロテクターで武装した俺とアンは、戦時は前衛で牽制も掃討も工作もすべてこなし、必要なら中衛や後衛に参じて防御戦も展開する。行軍においては頭をとって隊の歩調を作り、野営の際は諸々の準備と見張りを引き受ける。これらが俺たちの仕事だ。次にドレイクだが、奴は至極単純だ。最前線、もしくは殿における壁、それのみだ。重いがずば抜けた防御力を誇るプレートアーマーと、一振りで多数の敵を同時に討てるバスタードソードで攻と防を一度に担う奴は戦時においてその力を充分に発揮すれば、行軍中は特に何もする必要はない。むしろ戦時に力を発揮するため、他の場面では温存が望ましい。その次がシドニー、お前だ」
お鉢が回ってきて、シドニーはぴくりと肩を震わせた。
「お前の立ち位置は特に戦時においては重要だ。槍という長物を扱い、防具も俺やアンよりは重く動きづらい、だがドレイクよりは軽くて動き易いブリガンダインを身に着け、中衛を担当するお前は前衛と後衛――つまり俺たちとネリーやレインの間を死守する第二の壁だ。俺たち前衛が取りこぼした敵は許より、側面から奇襲を仕掛けてくる敵なども含めて安全かつ確実に始末し、同時に前後衛同士の情報伝達も請け負う。そういう意味では中衛やや深めに身を置く隊長も同じだ。あの男は絶対死なないことが至上任務だからな」
「部隊を指揮しているから……だよね?」
ネリーが問う。アッシュは頷く。
「そうだ。指揮系統が死んだ時点で部隊も死ぬ。だからこそのあの武装、極めて稀少なベイドナ鉱を材料に作られた、軽さと硬さを両立したフリューテッドアーマーだ。あれを着ていれば多少のことでは死なず、最後の最後まで部隊を統率できる」
だからといって宝石まであしらう必要はないがな、と皮肉たっぷりの合いの手をアンジェリカが入れた。
「そうやって戦時に第二の壁として臨機応変な対応を求められるシドニー、お前もやはりドレイクと同じく温存の対象だ。平時に無駄な体力を使ったがために戦時に下手を打つ――そう、たとえば敵の進攻を許すようなことになればお前の後ろにはもう誰もいない、即ちネリーたちは裸も同然なんだからな」
アッシュの言葉を聞いてネリーの顔がボッと赤くなった。裸、というフレーズにあらぬ想像を膨らませたせいだ。
「最後にネリー、お前とレインも結論から言えば温存対象だ」
「う、うん」
「お前たちの主任務は後衛から長距離射程のクロスボウを用いて前中衛を援護することだ。これは一見すると楽な任務に見えるが実はそうじゃない。剣と違って数に限りがある矢を、まかり間違って味方の戦力を削がないよう誤射には最大限の注意を払って適所に適量だけ送り込むのだからな、当然と言えば当然だ」
「攻城戦に代表されるような、数百人単位が入り乱れる大規模な戦場においては誤射による味方の負傷もある程度は想定しているが、私たちはそうではないからな」
アンジェリカから補足を受けつつアッシュは先を続ける。
「弩兵や弓兵の援護任務はこうした直接的な攻撃だけに止まらない。戦場を一歩引いた位置から俯瞰し、敵全体の動向をいち早く察知して各員へと伝令するのもその一つだ。撤退や、伏兵の登場を知らせるという具合にな。これだけ説明すればもう解るだろう。ネリーやレインもその力を最大限に発揮するべきは平時じゃない。戦時だ。だから休んでおくんだ」
以上でアッシュの第三小隊における戦術講座は終了――かと思いきや、ネリーがおずおずと切り出した。
「で、でも、今の話を聞いてるとアッシュとアンジェリカの負担が大きすぎる気がするんだけど……。平時も戦時もずっと動きっぱなしで、これじゃあ――」
「今更だな、ネリー」
アンジェリカの冷笑がそれを押し止める。
「この隊内における私とアッシュの役割は畢竟死ぬことだ。動いて動いて、動きまわって、殺して壊して、最後の最後に他の者たちが死なないよう自分たちだけが死ぬ。生き残ることができれば御の字、それこそ儲けものというわけさ」
「そ、そんなのって――っ! 二人はそれでいいの?」
声を荒げかけるネリーに、アンジェリカはにべもなく言ってのける。
「良いも悪いもない。私たちはただそういう現実の中で生きているだけだ」
ネリーはアッシュを見た。アッシュはアンジェリカが展開する論を否定も肯定もせず黙している。黙して、仮面のような表情のない顔でじっとこちらを見つめている。
「――ま、どっちでもいいけどさ」
不意にシドニーが口を開いた。三人の視線が一斉に彼へと集る。
「要するにアッシュもアンジェリカもボクらを心配しているわけじゃなく、ただ単に戦術的な見地から休息をとれと――そう言っているわけだね」
ひどく飄々とした、実にシドニーらしい物言い。けれど、
「流石だね、二人とも。それでこそ中隊の中でも勇名を轟かせる〝肉削ぎ〟と〝戦人形〟だ。まったく、血も涙もなくって恐れ入るよ」
明らかに険のある目つき、声色、雰囲気は徐々にその度合いを増していき、
「ていうかさ、二人は何だってそうまで通じ合えるの? まさかとは思うけど、ひょっとしてキミらってデキてんの? それはちょっとどうかと思うな、ボクは」
ついにはそんなことまで言い始める。
アンジェリカの頬が、ぴくり、と引き攣った。
「すまない、シドニー。私の聞き違いかもしれないからもう一度言ってみてくれ。私とアッシュが、一体どういう関係だって?」
「男と女なのかって、ボクはそう訊いてる。どうなの?」
「……………………怒るぞ」
「どうぞご自由に。だけど、怒るってことは図星なんだね。それともあれかな、アンジェリカ、キミの一方的な片思いなのかな?」
「黙れ」
「あれあれ、こっちが正解だったみたいだね」
「黙れと言っているだろう!」
激昂したアンジェリカはシドニーの顔面を力任せに殴りつけた。男にしてはいささか華奢な首が真横に捻れ、口からは鮮血が飛び散る。しかしシドニーは怯まなかった。すぐにまたアンジェリカへと向き直り、へらへらと軽薄な笑みを浮かべる。
「ひどいな、アンジェリカ。これから大事な作戦だってのに、怪我でもしたらどうしてくれるのさ。ボクは部隊の中でも特に重要な立ち位置だって、さっきアッシュがそう言ってたの聞いてたろ? そうさ、ボクが君に殴られたせいで戦闘中に全力を発揮できなかったら…………みんな死んじゃうかもねぇ」
呪詛の言葉と共に、口角から流れる血を手の甲で拭うシドニー。彼の横でネリーは戦慄する。信じられない。これがあの、いつも飄々としていて、でもすごく優しくて、事あるごとに自分を慰め励ましてくれていたシドニー・ワイズだというのか。まるで人が違ったみたいじゃないか。
「……ぃ……ゃ……」
呟いてネリーは後ずさった。
人が――違う。
いつかの夜と同じ。
らんらんと輝く瞳。荒い息遣い。
秘められた感情の熱いほとばしり。
〝あの人〟が来る。わたしを壊しに今夜もやって来る。
「おい、貴様ら、さっきから何を騒いでいるんだ」
騒ぎを聞きつけたルドラーが四人の許に参じた。そこでネリーはハッと我に返ると同時に、さらにもう一歩、無意識のうちに後ずさった。
「別に、何でもありませんよ隊長。ね、アンジェリカ?」
「その通りだ。肉弾戦の手ほどきをしていて、ほんのちょっぴり力が入りすぎただけでな」
一方でシドニーとアンジェリカの睨み合いは依然として続いていた。小言の多いルドラーの手前、咄嗟の口裏合わせで場を取り繕いつつも水面下では敵意と不信感を激しく交錯させ、ネリーのごく些細な異変になどまったく気づく様子もない。
「ふん、馬鹿共が、少しは時と場所を考えたらどうだ。作戦前で気持ちが高揚しているのか知らんが、そんなことは駐屯地に帰ってからするんだな」
そしてこちらは部下の出任せをまるっきり信じたようだ。嘲りに満ちた双眸で一同を見回すと、さっさと焚き火の方へと戻っていく。
「出発は半刻後だ。それまで誰でもいい、暗幕の向こうで見張りを頼むぞ」
そんな科白を残して。
誰でもいい、とはまた部隊を預かる長としていかにもいい加減、あまりに無策に過ぎる命令ではあったが、それに率先して従う人物がいた。
「待て。見張りは私かアッシュの役目だと、お前こそさっきの話を聞いていなかったのか」
幽鬼を思わせる静々とした動作で暗幕をくぐろうとする彼を、アンジェリカが止めにかかる。しかしながら、その肩を掴んで振り向かせ、無言で首を横に振ったのは誰あろう、
「どういうつもりだ、アッシュ」
彼に休むべきだと説いた張本人だった。
アンジェリカはしばし相手を見返すと、軽く嘆息してルドラーよろしく焚き火の方へと歩いていった。
最後にこの場に残ったもう一人、ネリーを顧みてアッシュは言った。
「気にするな。たまたま虫の居所が悪かっただけだろう」
「うん、でも……」
ネリーはシドニーが消えた暗幕を不安げな面持ちで見やった。
それからきっちり半刻後、ネリーの憂慮とは裏腹にシドニーはまたいつもの快活で飄々としたシドニーに戻っていた。
行軍が再開されてからすぐに行き着いたガイア渓谷では、ネリーが恐怖心から目も眩むような高さに掛かる吊り橋を渡るのに難渋するのを手を取って先導したり、ドレイクの重みで橋が落ちたら大変だから皆が渡りきった後に一人で渡ってほしかった――などと冗談を飛ばして隊員らの笑いを誘ったりと、すこぶる上機嫌だった。
彼のこうした豹変ぶりを見て、ネリーは安堵よりもさらなる戦慄を覚えその身を硬くした。
心に住み着く怪物――。
果たしてそれが自分のと比べてどれほど醜いのか、はたまた〝あの人〟のと比べてどれほど恐ろしいのか、ネリーに知る術はなかった。
「なるほど、フィチカ伍長の報告にあった通りだ。帝国の野蛮動物どもが十――いや、十五人はいるか、我々がここでこうしているとも知らずに瓦礫の山でのさばっているじゃないか」
地面に腹ばいになり、眼下でかがり火の灯りに煌々と照り映える廃村を臨みながら、ルドラー・オルフェン少尉が嘲笑った。
第三小隊の面々が目的地であるここ――シャールの森を抜けてすぐの切り立った断層の直上に到着したのは、今よりかれこれ数分前。彼らは真下の朽ちかけた廃村に展開する帝国兵たちに気取られぬよう、闇夜に紛れてその規模や動向を窺っていた。
「思ったよりも近いな。これなら仕掛けるのは容易だが、用心を怠れば即座に発見されて戦闘は避けられそうにないな」
同じく腹ばいのアッシュがルドラーの隣で言った。さらにその横でアンジェリカが、こちらも地面に身を伏せた状態で呟く。
「装備はどれもこれも一般的、その他も特に目立った点はなし……か。だとすれば奴らはここで一体何をしているんだ。意図がまったく掴めん」
「新たな拠点作り、というのが妥当なところだろう。それ以外でこんな辺鄙な場所に部隊を展開する理由は考えられないが……」
語尾を濁すアッシュにアンジェリカが訊く。「何か引っ掛かることでも?」
「いや、見たところ兵站らしき人員がまったく存在しないと思ってな。誰も彼も完全な前線要員だ」
「言われてみると確かにそうだな。しかしアッシュ、兵站要員は幾つか村に点在する屋根付きの建物――たぶんあれらが宿舎なのだろうが、あの中で休んでいる可能性もあるぞ」
「かもしれない。そう考えると敵の数もぐっと増える。建物の数と規模から察するに四倍はないとしても、三倍は堅い」
「ざっと三十から四十といったところか。楽ではないにせよ、それでも充分に対応できる数だ」
第三小隊はかつて六十人前後の規模の敵部隊を単隊で全滅させた経験がある。アンジェリカの目算はそこから来ているらしい。
「まあ、それこそ戦闘になれば、の話だがな」
アンジェリカはそう言って隣のアッシュを挟んだその向こう、ルドラーを一瞥した。
「結論を急ぐな、タロン軍曹。ちょうど今その辺を見極めている最中だろう」
斯様な隊長の言葉を受け、アッシュは彼ら三人の背後に控える他の面子を振り返って合図を出した。〝待て〟の合図だ。
これに応じたのはドレイクだった。彼はアッシュへと〝了解〟の合図を返した後、シドニーやネリーやレインといった後方待機のメンバーらにアッシュからの通達をそのまま伝える。すると今度は地面にしゃがんで体勢を低く取った三者から〝了解〟の返事が各々返ってくる。こうして前線の指示は末端にまで及び、部隊の意思は統一された。
「特に我々の目を引くような異質な兵器や物資の類いは確認できず、人数もせいぜい四十人が限度で隊の規模もほどほど……。これならすぐさま我が軍の脅威になることもないか……」
間もなくルドラーが独りごちた。
「念のため攻撃を仕掛けてより詳細に調査すべきか……。いや、しかし、流石に四十人となるとこちらの危険もそれなりに覚悟せねばならん……」
よし、とルドラーは傍らのアッシュとアンジェリカに視線を移す。
「偵察はここまでだ。駐屯地に帰還するぞ」
導き出された結論にアッシュはたった一言「了解」とだけ応え、アンジェリカもまた、
「微妙な判断ではあるが、懸命な判断とも言えるな。後のことは私たちの報告を聞いた中隊の幹部連中が決めるだろう」
異論はないようだ。
「そうと決まればとっとと退こう。私は後方の連中に知らせてくる」
アンジェリカは素早く身を起こすと、小走りでドレイクらの方へと向かっていった。
「ザム伍長、悪いが少しこの場を任せられるか?」
二人きりになるとすぐ、ルドラーが訊いてきた。
「どうかしたのか」
問い返すアッシュに、彼は自分たちが陣取る地点から断層の縁に沿ってちょうど二時の方角にある小さな茂みを指し示した。
「たった今、あそこで何か光った。恐らく大したことではないだろうが、念には念を入れて確認してくる」
「光? 俺には見えなかったが」
「いや、確かに光った。間違いない」
ルドラーは頑として譲らない。それなら、とアッシュが提案する。
「俺が見てこよう。あの位置までその装備で移動するのは骨だろう」
問題の茂みまでは少々距離がある。故にアッシュからすればそうするのが妥当だと判断したのだ。しかし、ルドラーはこれも却下。首を縦ではなく横に振って、腹ばいのままいそいそと方向転換する。
「私と、私が纏う鎧を舐めるなよ、ザム伍長。いかに全身を覆うフルプレート式とはいえ、ベイドナ鉱を素材とした軽さが売りのこの鎧を着て、私は荒地を走ることも水中を泳ぐことさえも可能なのだ」
そして最後に、
「いいから貴様は黙って見張っていろ」
そう言い残して匍匐前進を開始した。なるほど、確かにその移動速度はなかなかのもので、アッシュが見送るルドラーの姿は見る見るうちに小さくなっていった。
アッシュは指示通り再び監視任務に着いた。ルドラーが目撃したという光の件も気になるが、彼自身も漏らしていたようにさほど大事ではないと思われ、ならば最低限の心構えはしつつもあちらはあちらで任せておいて構わないだろう。それよりも今は、廃村の敵の動向に注意を払っておくべきだ。
「うん? 隊長はどうした?」
ややあって、後方へ伝令に出ていたアンジェリカが戻ってきた。ルドラーの姿が見えないことに疑問を呈する彼女に、アッシュは手短に事の次第を説明した。
「そうか。瓶の欠片か何かだといいのだがな」
「後ろの連中は何と言っていた」
「ネリー、シドニー、レインは大喜びさ。ドレイクもほっとしていたようだしな」
「…………あいつらは……戦争には向かない連中だ」
「言うな、アッシュ。奴らは奴らでそれぞれに戦争を生業とする事情がある――あるはずだが、そこの部分に踏み込む必然性はお互いにない」
廃村を注視しながらの、二人の会話は続く。
「らしくないな、アッシュ」
「ああ、否定しない。俺らしくないんだ、ここのところ、色々とな」
「時にアッシュ、お前はどこまで承知している? この私のこと」
「唐突だな」
「らしくないのさ、私も」
「元女王陛下お付の近衛兵にして当時の階級は中佐。王宮で開催される御前試合で何度も優勝経験のある相当な腕利き。のちに不祥事を起こして降格のうえ左遷。現在に至る。こんなところだ」
「それなら誰もが知るところさ。そうじゃない。私が尋ねているのは不祥事のこと、その内幕だ」
「遠まわしだな、アン。…………これは飽くまでごく一部の幹部連中の間で広まっている噂だが、アンジェリカ・タロン中佐は事もあろうにシャルロッテ女王陛下に対し猥褻な情を催し、その高貴な御身を穢そうと陛下の私室に忍び込んだところを逮捕。陛下はこの暴挙に温情を示されたものの、結局処分は免れなかった」
「おいおい、アッシュ。一部の幹部連中の間と言いつつ、どうしてお前がそれを知っている。矛盾しているではないか」
「さあな。どこからか漏れたんだろう、きっと」
アッシュとアンジェリカは、そこで互いに少しだけ笑った。
「猥褻な情――か。まあ、物好きが化身したような軍幹部、特に男連中からすればそんなところだろう。しかし、私はそうした衝動の前提になった己の感情を一度たりとて恥じたことはいない。あの夜、陛下も言ってくださった。愛することは罪ではない、とな。だから私は戦争をする。陛下と、陛下の理想のために」
「なるほど、だったらシドニーは殴られ損ということになるな。お前の愛情は今でも女王陛下に、他の誰でもない只一人にしか向けられていないんだからな」
「根拠のない妄言を吐き散らすからだ。まったく、あいつもどうかしているぞ。私とアッシュが男女の仲などと――」
「待てッ」
不意にアッシュが、その物静かな容貌に緊張を走らせた。
「どうした、敵に動きがあったのか?」
「十時の方向、数名が寄り集まってこっちを指差している」
教えられた方へとやった目を、アンジェリカも大きく見開いた。
「不味いぞアッシュ、奴ら完全に気づいている。しかしなぜだ、なぜ見つかった」
「分からん。そんなことより隊長だ。判断が要るというのに、まったく戻ってくる気配がない」
そうこうしている間にも廃村の帝国兵たちの動向は、明らかにそれと分かる勢いでどんどん慌しくなる。ある者は武器を取り、またある者は宿舎で眠る仲間たちを起こして回り、今にもアッシュたちが潜む断層の真下へと詰め掛けて来そうだ。
「……やるぞ」
事ここに至っては決断を下さざるを得ないと、アンジェリカがアッシュに告げた。
「了解した。隊長が不在の今、部隊の指揮権はアン、最上階級のお前にある。俺たちはお前に従う」
アッシュは振り返り、隊のメンバーを一人残らず自分たちの許に呼び寄せた。
「やれやれ、休んでおいて正解だったな」――ドレイク。
「ま、さっさと片付けてお開きにしちゃえばいいっしょ」――レイン。
「隊長はどこをほっつき歩いてんだか」――シドニー。
「み、みんな、頑張ろうねっ」――ネリー。
かくして一名を除いた全員が集結した第三小隊。彼らに向かって現時点で一切の指揮権を握る仮の隊長、アンジェリカ・タロン軍曹が作戦内容を伝える。
「基本はいつも通りだ。私、アッシュ、ドレイクの三人が先陣を切って突っ込み、そこから少し間隔を開けてシドニーが続く。レインとネリーはここに残って援護だ。この程度の距離なら降りずとも狙えるな、二人とも」
問いかけに対して弩兵たちは揃って首肯した。
「そしてここからが最も重要だ。深い追いはするな。この任務が威力偵察であることを各員肝に銘じろ」
「ある程度の敵を倒したら即退却、だね。隊長はどうするの?」
「それは後だ。敵を黙らせてから探すなり何なりすればいい」
「りょーかい」
シドニーが軽く手を振って応じると、
「よし、では行くぞ。アッシュ、ドレイク、準備はいいな」
「ああ」
「おう」
「作戦――開始っっ!!」
戦いの火蓋は落とされた。
アッシュ、アンジェリカ、ドレイクの先発三名が鞘からそれぞれ得物を抜き放ち、一時に断層の斜面を滑り降りていく。そして降り立った先、廃村の最奥部にて待ち受けるのは、
「貴様らか、さっきからこそこそと我々の動向を探っていたのは!」
「女王の犬どもめ、皆殺しにしてくれるわ!」
「一人たりとも生きて返すな!」
群れなす帝国兵たち。その数ざっと十五。
「出迎えご苦労。だが残念だったな、お前たちへの手土産は――これだ!」
王国、帝国、相対する両軍の兵たちの中、いの一番に仕掛けたのはアンジェリカだった。得意の予備動作を排した神速の突撃で帝国兵らの前に躍り出ると、右手に携えた曲刀――タルワールと左手に握った短剣――マンゴーシュを閃かせ、いずれも軽装備の者を中心に剥き出しの肉を切り刻んだ。声を出す暇さえ与えられず、二名が地に伏した。
「――――貴っ様ぁぁぁぁああああああ!!」
瞬間、何が起きたのか理解に及んでいなかった帝国兵たちだったが、仲間の返り血を全身に浴びた幾人かが半ば反射的にアンジェリカへと挑みかかった。
アンジェリカはふ、と一笑し、舞った。くるくると、さほど速くもなく、両の腕を広げて旋回した。するとどうだろう、彼女に迫った敵兵たちが皆、血の花を散らせながらばたばたと倒れた。彼らはすべからく急所を深々と断ち切られており、誰がどう見ても絶命しているのは明らかだ。
「やはり〝こいつら〟はいい。訓練用の玩具とは大違いだ」
敵との遭遇からここまで、ほんの数分足らずで屍の山を築いたアンジェリカ。彼女は自身の両手にまるで吸い付くようにして収まった二振りの得物を愛で、吐息を漏らした。
アンジェリカの言う〝こいつら〟とはもちろんタルワールとマンゴーシュのこと。これらはアンジェリカの注文の許、アンジェリカのためだけに制作された特注品。エリスルム王国軍には、伍長以上の階級を有しかつ特定の考査を通過した者のみが所持を許されるこうした専用の武具が存在し、中でも彼女が設計から試作、実用試験までを王国の腕利き職人と共に手掛けたタルワールとマンゴーシュはその比類なき軽さによって無数の剣線を自在に描くことが可能な、まさにアンジェリカが得手とする変則剣術にぴたりと嵌る愛器に相違なかった。
「不甲斐ないな、帝国の兵どもよ。これなら私一人で事足りる」
凛とした声を響かせた直後、アンジェリカは冷笑する。
「矜持を見せろよ、お前たち。さもなくば女に討たれたという汚名をあの世まで引き摺っていくことになるぞ」
挑発は、果たして帝国の並み居る猛者どもを怒らせ、同時に戦士の戦士たる平静さを取り戻させるのに充分だった。無言で前へと進み出る四人の帝国兵たち。三人は厳つい戦斧とフルプレートアーマーで武装し、一人はブリガンダインと比較的軽装ながらも瞳に宿す殺気はそれ相応のものを感じさせる。いずれ劣らぬ手練であることは明白だ。
「ようやくその気になったか。ならばアッシュ、ドレイク、お前らも挨拶をしてやれ」
アンジェリカに促され、両人は敵と向かい合った。
「アン、お前は相変わらず戦闘中によく喋るな」
「まったくだ」
皮肉を吐きつつ構える。アッシュは剣先を前に出した正眼、ドレイクは後ろに下げた脇構え。そして――
「ハアッ!」
気合一声、ブリガンダインの帝国兵が口火を切る。彼の狙いはアッシュ。兜を被っていないその脳天目掛けて長剣を斬り下ろす。対するアッシュはこれを難なく左腕に装着した円盾で弾き返すと、瞬時に後方へと退いて相手と僅かに距離を取る。――この時点ですでに勝敗は決した。そう、今この間合いは〝アッシュの間合い〟。アッシュがもっとも速く、かつ鋭く剣を振える彼の独擅場。
「が――――っ?」
加えて彼が携える愛器、燃えたぎる炎を彷彿とさせる波刃の長剣――フランベルジェが誇るすさまじいまでの切れ味の前ではブリガンダインなど紙切れに等しく、哀れ、肩口から胸先まで防具ごと胴体を両断された帝国兵は大量の血しぶきと共に沈んだ。
残る三人の兵は、しかし仲間の無残な死に少しも怯む様子を見せなかった。屠った相手の体からアッシュが得物を引き抜く、その僅かな間隙を縫って一斉に戦斧を振り上げる。
「ぬぅおりゃああああああああああああ!!」
そこに割り込んだのは咆哮、そして文字通りの巨大な鉄塊――ドレイクの専用装備であるバスタードソードの強烈な一太刀。真横からまともに食らった三人はもちろん只では済まない。揃って戦斧を振りかぶった体勢のまま上半身だけで宙を舞い、地面に叩きつけられ間もなく事切れた。
「「「…………」」」
沈黙が、帝国兵たちの間に降りた。先刻までの気勢が嘘のように、誰も彼も皆一様に押し黙って仲間の躯をぼんやりと見つめている。茫然自失。それほどまでにアッシュら第三小隊先発組の戦闘力は彼らの想像を遥かに絶していた。
「うわ、こりゃヒドい。ねえ――アッシュ、アンジェリカ、ドレイク、もうそろそろ頃合なんじゃないの? ちゃっちゃと片付けて先へ進もうよ」
遅れて断層を下ってきたシドニーだ。或いは彼の登場が引き金になったのか、立ち尽くす帝国兵たちの中から怒声が上がった。「な――何をしている、かかれっ、かかれーーーーーーーーー!!」
一見破れかぶれとも取れるこの指示の効果は絶大だった。裏に込められた、数の力で圧倒せよ、との意思に呼応した兵士たちが怒涛の進撃を開始したのである。
増員も続々と現れ、戦場は一気に乱戦の様相を呈する。シドニーの参加で四名となった第三小隊の面々も奮戦する。洗練された身のこなし、卓越した武具の扱い、さらにはレインとネリーによるボウガンの援護射撃も受けて敵を一人また一人と着実に仕留めていく。
「よし、ここまでだ! この場の守りはドレイクたちに任せ、アッシュは私について来い! さらに深く潜る!」
アンジェリカの指揮にアッシュは即応する。目の前の軽装兵二人の手首をフランベルジェで切断し無力化すると、彼らの悲痛な叫びを尻目に乱戦の輪をかいくぐる。
「蹴散らすぞ、アッシュ!」
「無論だ」
合流して廃村の目抜き通りを奥へ奥へと駆け入る二人の行く手に帝国兵たちが立ち塞がる。けれど仕掛けるや否や返り討ちに合う。タルワールとマンゴーシュ、フランベルジェが唸りを上げて邪魔者をことごとく駆逐する。
「愉快だな、実に愉快な白刃と血煙の行進だ」
かがり火が焚かれた灯火具をすれ違い様にいくつも蹴倒すアンジェリカの顔は、愉悦に満ち溢れている。
「私はいい気分だよ、アッシュ。久方ぶりに陛下の理想を妨げる者どもを――」
「右だ、アン」
アッシュの指摘に応じてアンジェリカは得物を振う。朽ちて外壁のみとなった家屋跡から飛び出してきた帝国兵の喉笛が真一文字に裂ける。
「陛下の理想を妨げる者どもを切り伏せることができるのは、この上なく快感だ」
やがて二人は廃村の中央部付近に至り、そこではたと足を止めた。敵の姿が見当たらない。どうやら粗方倒したか、あぶり出すかしたらしい。
「うわあああああああああああ!!」
いや、まだ隠れている者がいた。若い女兵士だ。全裸姿で宿屋の看板が下がる平屋の建物から唐突に現れ、手にした長剣をアッシュ目掛けて闇雲に振り回す。
「新兵か」
アッシュは直感的に悟る。教則本の内容をそっくりそのままなぞるような素人同然の太刀筋もさることながら、何よりそいつからは純粋に相手を殺めようという気概や気迫がまったく感じられない。むしろ自分が殺されないことのみに執着し必死になるその姿は、兵士というよりは生存本能に従い牙を剥く単なる獣、動物の類いに近かった。
が――たとえ新兵であろうと動物であろうと相対するは己が敵。アッシュに躊躇はいささかもなく、一糸纏わぬ白い素肌をフランベルジェでなぎ払った。
「ううっ……痛いよ……死にたくないよ……怖い……誰か……」
最期の刻、女兵士は泣いていた。
「お母さん……フリッツ……どこ……どこにいるの……」
いかにも田舎くさい、野暮ったい、そばかすだらけの顔を歪めて。
「そば…………に…………来」
そうして、虚空へと差し出された掌は何物をも掴むことなく、崩れ落ちた。
「アン、こっちは片付いたぞ。そっちはどうだ」
得物に付着した血液を払いながらアッシュは問うた。彼の視線の先ではアンジェリカが、先刻から丹念に建物の内部や瓦礫の山の陰を検分して回っている。
「こちらは異常なし。猫の子一匹いやしない」
「了解だ。こっちも少し探ってみる」
相手にそう返し、まずは女兵士が潜んでいた宿屋跡から、とアッシュの足がそちらへと向きかけた――次の瞬間。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ…………」
静寂に没した廃墟の群に彼方から悲鳴が響いた。
「おいアッシュ、今のは何だ!」
血相を変えたアンジェリカが駆け寄って来る。
「後方からだな。だがまさか――」
「待て。その先は直接行って確かめればいいことだ。おそらく聞き違いだろうが、何か胸騒ぎがする」
二人は頷き合い、元来た道を全速力で引き返す。
……そこにて自分たちを待つ、阿鼻叫喚の地獄へと向けてひた走る。
後編に続く