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プロローグ

 男はずっと、ずっとずっと、自分は何物をも持たぬ者なのだと、そう思って生きてきた。


「アラ、アラアラアラ? キミ、どっかで見たことある顔だねェ。でもさァ、人間ってみィィんな同じような顔してるからさァ、(わらわ)ったら区別ついてないんだよねェ、実際。ネェ、キミ、誰?」


「……黙れ」


 今、この瞬間までは。


「俺は誰でもない。ただ……」


 だけど、もう、解った。


「タダ?」


 自分は持たぬ者ではない。むしろ、それどころか、


「神の名を騙るケダモノ、お前はこの手で殺す」


 何一つとして、失えてなどいないのだ――と。




※※※




 四聖歴(しせいれき)二五二二年。東のエリスルム王国と西のブロドキン帝国の十年にも渡る長き戦乱は、互いの国力の疲弊という形で完全な膠着状態に陥っていた。

「よう、アッシュ。相変わらずシケたツラしてんなぁ。たまには一杯どうだ?」

 その波はここ、両国の国境にほど近いクラスタの街にも例外なく及び、当地を自国の最前線基地として駐留する『エリスルム王国軍中央師団特務防衛中隊』の面々も、日々をただ待機解除の命令を待つだけの身として安寧かつ怠惰に過ごしていた。

「遠慮しとく。今日はこれから訓練なんでな」

 アッシュ、と呼ばれた青年兵は声をかけてきた相手を見ぬまま素っ気無く言った。そのどこか野生の狼を思わせる鋭い眼光の先には彼の同胞、彼と同じ中隊に所属する兵士たちの姿が映し出されている。彼らは皆それぞれに酒や食い物や異性と戯れ、笑い、怒り、泣き、疑うべくもなくそこで己が生を存分に謳歌していた。

 アッシュに袖にされた男もまたそうした者の一人だった。酒精によって赤らめた頬を緩め、「そうかそうか」とたいそう愉快げに大笑したかと思うと、またすぐに目の前の娼婦らしき若い女に向き直った。

 アッシュは身動ぎ一つせず酒場のデッキに佇立し、この店を待ち合わせ場所に指定してきた人物について何とはなしに思いを馳せる。待ち人の名はアンジェリカ・タロン。アッシュが所属する第三小隊――通称ルドラー分隊において軍曹の階級を与えられ、彼とはつい一月ほど前まで互いに背を預け帝国兵と刃を交えていた旧知の仲間である。

「百聞は一見にしかず、ということか……」

 アッシュは頭上を振り仰いだ。街のメインストリートに沿って無数に建ち並ぶ酒場や連れ込み宿のすすけた屋根が切り取るそれはどこまでも青く澄んでいて、現在の時刻がまだ昼の盛りであることを示している。

 アンジェリカには二つの通り名がある。一つは『肉削ぎアンジー』。そしてもう一つは『鉄処女アンジー』。前者が戦場における彼女のすさまじいまでの戦いぶりに対する畏敬と賛辞の念による勇名であるならば、後者はあまりに堅物すぎるその性格をして男衆が「アイツの下の穴には鉄のフタがついてるに違いねえ」と揶揄した結果の醜名だ。

 つまり、此度のこの待ち合わせは鉄処女と一部から渾名され嘲笑される生真面目な女兵士からの無言のメッセージであり、これからここで何時間待とうと決して待ち人である彼女本人は現れないであろうことをアッシュは悟った。とはいえそれほど悪い気はしなかった。アンジェリカのこういうやり口は今に始まったことではないし、アッシュとしてもまどろっこしいのは好きではない。それぞれ抱く感情に差異はあれど、中隊の現状という点ではまさにこの光景こそが嘘偽りない真実なのである。

「あ、いたいた。おーい、アッシュ」

 視線を元の位置に戻すと、路地の奥から見知った人物が二人、連れ立ってこちらに駆けてくるのが見えた。

「探したよー。まさかアッシュがこんなとこにいるなんてさー、予想外もいいとこだよ」

 やってきた二人の内、小柄で童顔の男――ルドラー分隊所属の一等兵、シドニー・ワイズが真っ先にぶうたれた。そして、

「お、お昼、一緒に、た、食べようと、思って」

 同じくルドラー分隊の二等兵、ネリー・ギャロットは栗色の長髪を揺らしつつ、乱れた呼吸を整えるのに悪戦苦闘している。

「飯? いや、要らん。これからアンジェリカと訓練なんでな。血が胃に集るのは避けたい」

 鈍るからな、と言い残してアッシュはデッキを離れようとする。その腕をシドニーが掴み、引き留めた。

「そんなこと言わないでさ、食べようよ。ほら、ネリー」

 促され、ネリーは胸に抱えていた小振りのバスケットをおずおずと差し出す。

「し、食堂のスミスおばさんにね、無理言って分けてもらったんだ。パンと、ハムと、チーズと、それから、えっと、それから――」

「サンドイッチだよ、アッシュ。ネリーが作ったんだ」

 シドニーのこの言葉に、それまで感情らしい感情を一切のぞかせなかったアッシュがにわかに反応を示した。

「ネリーが? いや、それにしても、あのスミスばあさんがよく許してくれたものだな。食材を勝手に兵士に渡すなんて、完全な軍規違反だぞ」

「か――勝手にじゃないよ、もちろん許可を取ってくれたんだよ、中隊長にさ」

「通ったのか」

「うん!」

「そうか……」

 腑に落ちないらしい。アッシュは腕組みをして、ううむ、と考え込んでいる。

 そんなアッシュの前でネリーは泣きそうな顔をして俯いている。

 さらにそんなネリーを見てシドニーはというと、

「……サンドイッチならすぐに消化できるから訓練にも差し支えないよ……」

 アッシュに聞こえないよう彼女にそっと耳打ちする。するとネリーは、

「さ、さ、サンドイッチならすぐお腹空くから、ちょっと休憩すれば訓練できる……よ、アッシュ……」

 ぼそぼそと蚊の鳴くような声で言った。

 アッシュは考えるのを止め、ネリーを見た。

「そうだな」そして、「折角だからご馳走になろう」

 ネリーはハッとして、アッシュの目を見返す。

「ほ、ほんとに? ほんとにわたしが作ったサンドイッチ、食べてくれるの?」

「ああ、本当だ」

 よかった、と呟いてはにかむネリーの傍ら、シドニーは唇を噛んだ。

 アッシュの浮かべるかすかな微笑は、あまりに不恰好すぎて見るに堪えなかった。



 三人は歓楽街を後にし、街の西端に位置する軍の駐屯地区へと向かった。

 大陸の北方、中央、南方のそれぞれに配された三つの師団のうち、もっとも大規模かつ高戦力の中央師団が当地クラスタに陣を築いたのが今からおよそ九年前。当時まだ十歳にも満たないエリスルム王国の女王、シャルロッテ=ルイン=ドランゼハイムが圧政を敷くブロドキン帝国の民を救わんと宣戦布告し、それまで実に数百年という単位で睨み合いを続けてきた東西両国間の均衡が崩れて間もなくのことだった。

 戦乱の幕を切って落とした側――東のエリスルム王国の動きは非常に大胆かつ迅速だった。幼いシャルロッテ女王自らが率いる精鋭部隊『碧狼(へきろう)騎士団』を旗隊とした王国軍中央師団は、数千メートル級の山々が連なる北方と広大な乾燥地帯が広がる南方とに挟まれた大陸中央部へと一気に攻め上がると、当時西のブロドキン帝国の領地だったクラスタ、及びクラスタから程近い丘の上に築かれた要塞ゼロンを急襲し、双方を難なく奪取することに成功する。宣戦布告からこの間たったの二日。まさしく電光石火である。もちろん、帝国側も黙っていたわけではない。年間を通して穏やかな気候風土に恵まれた平野が土地の大半を占める大陸中央部は要地中の要地であり、すぐさま時の皇帝カペリ十二世の命で帝都から大規模な部隊が派遣された。しかし、圧倒的なカリスマを誇るシャルロッテ女王の唱える断固とした博愛主義によって結束した王国軍はこれをものともせず、以後も幾度なく繰り返された奪還作戦はすべて失敗に終わることとなる。

 こうした大陸中央部での覇権争いと並行して、北方や南方といった厳しい自然環境の地でも散発的な戦闘は数限りなく勃発した。中央は守りに徹し、北と南から挟撃する形での侵攻を目する王国軍と、それを迎え撃つ帝国軍の攻防だ。とはいえ、ここでの帝国軍の奮戦ぶりはすさまじく、中央部での連戦連敗とは打って変わって王国軍の進撃をまったくと言っていいほど許さなかった。

 そうこうしているうちに、開戦から早くも二年足らずで戦況は停滞の様相を呈し始める。当初は高い志でまとまっていた王国の兵士たちは、遅々として進まない〝博愛に基づく侵略〟に歯痒さを募らせると同時に国内で急速に高まる女王に対する批判も相まって徐々に戦意を低落させ、一方の帝国兵たちに至っては、そもそもからして帝都の暴政の影響による軍縮でろくな装備もないままとりあえず売られた喧嘩を買っていただけにすぎず、主として古参兵に代表される一部の気骨ある者を除いてすべからく士気など最初から低かったわけで、こうなってくると両軍間に相次ぐ戦闘にもどこか惰性の色が濃くなった。とはいえ、惰性といえども戦いは戦い、殺し合いは殺し合い。物資は減り、戦死者は後を絶たず、兵士も彼らに戦争を強いる国家も次第に傷つき疲弊していった。そうした大義なき争いが幾年も続き、現在に至る。

 帝国からクラスタの街を死守する目的で作られたエリスルム軍の駐屯地区は、今日も今日とて平穏である。当地が足掛け十年間に渡る長き戦乱の、その最初の流血の地となったことなどすでに忘れてしまったかのように、さきほどからアッシュたちとすれ違う彼らの戦友たちは誰も皆ひどくのらくらとした、まるで雲でも踏み締めるみたいな気の抜けた足取りで敷地内を闊歩している。

「丸一月だもんね、だいたいこんなもんだよ」

 シドニーはあっけらかんと言い放ち、テントの下に木製のテーブルと椅子を置いただけの簡素な休憩所に腰を下ろした。

「このままずっと待機していたいけど、やっぱり無理なのかな?」

 彼の正面に席を取ったネリーが浮かない顔で問う。

「どうだろうねー」

 シドニーはこれまたのん気に応えてネリーの隣、仏頂面で押し黙るアッシュに視線を向けた。「アッシュの意見は?」

「意見――と言われてもな。ただ、備えはしておくべきだろう。死にたくないならな」

 だってさ、と言ってネリーに笑いかけ、シドニーは頭の後ろで両手を組んだ。ネリーは一言、だよね、と呟いてさらに表情を曇らせる。昼下がりの休憩所に人影はまばら。途端に三人の間に沈黙が降りる。

「平気だよ、ネリー。いざ出撃になってもアッシュが守ってくれるからさ。ね、アッシュ」

「ああ。後方支援、中でも弩兵(どへい)と衛生兵を兼任するネリーは部隊の戦術的な要だからな。戦況にもよるだろうが、最優先で守る必要はある」

 アッシュの言葉にネリーは微笑んで見せた。

「あ、ありがとう。戦うのは苦手だけど、わたし、がんばるから」

 明らかな苦笑ではあったが。

「さ、食べようよ。腹が減っては――だしさ」

 どことなく漂う気まずい空気を嫌ってか、シドニーが場を取り成すように言った。

「あ、うん、そうだね。ちょっと待ってね」

 ネリーもそれに倣い、机上にバスケットを置いて蓋を開ける。色とりどりのサンドイッチが、綺麗に並んで収められたその姿を晒す。

「美味そうだな」

 アッシュは率直な感想と共に一つを手に取り、口に運んだ。

「見かけ倒しだったらごめんね」

「いいや、見かけ通り美味い。お前の料理の腕はなかなかのものだな、ネリー」

「そ、そうかな。でも、うん、そう言ってもらえると嬉しい」

「いやー、お二人さん、こうして見てると何だか夫婦みたいだねー」

 シドニーが冷やかすと、ネリーは顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 アッシュはそんなことはまったく意に介さず、黙々と食事を続けている。

「でもさ」

 シドニーもサンドイッチを摘み始める。

「ここ半年くらいの出撃頻度って、明らかに低くなってるよね。間隔が一週間、二週間ってどんどん長くなってる。これはひょっとするとひょっとするかも」

「このまま停戦、ということか」

「うん。聞くところによると王都での女王陛下への批判はどんどん高まってるって話だし――ん、ネリー、どうもありがとう。そうした民意に押された議会のじい様たちが動くのも時間の問題だと思うね、ボクは」

 赤面から一転、自説に熱心に聞き入るネリーの手から水の入ったコップを受け取りつつ、シドニーはさらに語り口を軽妙にする。

「ウチはあっちと違って独裁国家じゃない。いくら女王が高貴で気高い絶世の麗人だからってその発言力は絶対じゃない。議会の決定には逆らえない。そして、あっちはあっちでもはやウチとやり合う国力なんてとうの昔に使い果たしてるのは明らかなんだし、なんだかんだ偉そうなことを言ってはみても停戦は大歓迎だろうから必ず乗ってくる。そうすれば――」

「戦争、終わるね!」

「ネリー、その通りだよ! どうかな、アッシュ。何か異論はあるかい?」

 得意げなシドニー。アッシュは腕を組んで黙考する。

 一理、いや、一理どころか二理も三理もある気がする。それほどまでにシドニーの分析は至極まっとうで論理的だ。しかし、

「そうだな……」

 果たしてそんなに簡単に事が運ぶだろうか。直感というか予感というか、いずれにせよかすかな座り心地の悪さのようなものをアッシュは拭えないでいた。その時だった。

「ずいぶんとおめでたい話をしているな、貴様ら」

 アッシュたち三人の前に一人の男が立った。

「そうやって我々が腑抜けたところを彼奴(きゃつ)ら帝国兵は狙ってくるつもりなのだよ。まったく、そんな単純なこともわからんとは、これだから下流出身は」

 背中の中ほどまで伸びた金色の長髪と、いかにも神経質そうな細い双眸が印象的な男は、さも可笑しげにふんと鼻を鳴らした。

「隊長……」

 シドニーが露骨に眉をしかめる。

 隊長――。そう、この男こそ、アッシュたちが所属するエリスルム王国軍中央師団特務防衛中隊第三小隊を束ねるリーダー、ルドラー・オルフェン少尉その人だ。

 ルドラーはやたらと大仰な手振りで金色の後ろ髪を撫ですかすと、顔に貼り付けた冷笑の色をより濃くした。

「停戦だと? ワイズ一等兵、そんなことが起こり得ると、貴様は本気で思っているのか? 帝国は鬼畜の国だ。皇帝は元より、民も兵も、みなそこらの動物と相変わらぬ愚劣で下品な欲望のみを糧として生きる野蛮な生き物の群れよ。そんな輩どもを前に、戦わずして、仲良く停戦しましょうね――だと? お人好しにもほどがあるぞ」

「お言葉ですが隊長、だったらボクらはどうするべきだと仰るのですか?」

 嫌悪感を隠そうともせず、シドニーが噛み付く。ネリーが小さく彼の名を呼んで諌めようとするも、まったく聞く耳を持たない。「彼らに対して、どんな道を選べと?」

「おいおい、ワイズ一等兵、貴様は馬鹿なのか? ケダモノ相手に我ら誇りと尊厳ある人間がすることは一つ。躾と支配だ。言葉で言っても理解など出来ぬのだから、腕力で教え込むしかあるまい」

 一つと言っておきながら二つあるじゃないか、とシドニーは相手の揚げ足を取って皮肉ろうとしたが、それはやめにしておいた。代わりに努めて冷静に反論した。

「帝国の人々が鬼畜――ボクら人間とは異なる卑しい存在だということに根拠はあるんですか? 少なくともボクには、戦場で合間見えた彼らが自分たちと同じれっきとした人間に見えましたが」

「だから貴様は馬鹿だと言っているのだ、ワイズ一等兵。何も私は帝国人が本当に人でないと言っているわけではない。ああ、そうとも、彼奴らとて人間だ。しかし、その思想や価値観は我々よりも卑小で、劣等なのだ。だからこそ――」

「殺すんですか?」

「粛清と言いたまえ。より高い次元の人間世界の構築には必要な犠牲だ」

 ルドラーは薄く嗤うと、不意にアッシュへと水を向けた。「ザム伍長、君はどう思うね?」

 アッシュは言った。

「どうもこうもない。俺はよほど戦術的に誤ったものでない限り命令には従うし、相手が誰であろうと()る。自分を含めた部隊の人間の生存を脅かす者も殺る。それと、作戦の遂行の妨げになる者もだ」

 その淀みない受け答えにシドニーが、

「アッシュ、あんたって人はっ」

 にわかに椅子から腰を浮かせかけた――そこへ、

「ルドラー様ぁ、ここにいらしたんですかぁ」

 今この場に張り詰める剣呑な空気にはひどく不釣り合いな、甘ったるい声が割り込んできた。

 豊かな赤毛を左側頭部で(まと)めたあだっぽい女――ルドラー分隊所属の弩兵、レイン・ヒッチコックは、お目当ての人物を探し当ててご満悦の様子。彼の腕にしがみ付き、これ以上ないほどの満面の笑みで語り掛ける。

「あたしぃ、今日の午後はルドラー様に兵器学を教えてほしくってぇ、ずっと探してたんですよぉ」

 ルドラーは眉間に皺を寄せ、心底煩わしげに語勢を荒げる。

「ええい、離せ、くっつくな、ヒッチコック上等兵。皆が見ているではないか」

「ええー、別にいいじゃないですかぁ、そんなのぉ。あたしは気にしませんよぉ」

「貴様が気にせずとも、私は気にするのだ。ただでさえこのところ中隊内でも我々の関係をそういう――つまり、そういうものなのだと口さがなく噂する連中が増えているというのに。もっと謹みたまえ」

 レインは口を尖らせた。

「あたしと噂になるの、そんなにご不満なんですかぁ? ヒドーイ」

「酷くなどない! もしこのまま噂が広まり、師団長殿の耳にでも入れば大変だ! 中隊の風紀を乱すとして、北方や南方に飛ばされるなど御免こうむる! もちろん降格もだ! 私はな、貴様やこいつらと違って将来を嘱望されている身だということを憶えておけ!」

 レインにしがみ付かれていた腕を強引に振りほどき、最後に一言「尻の軽いメス豚め」と小声で吐き捨てると、ルドラーは肩を怒らせて休憩所から出ていった。

 一人その場に取り残されたレインはというと、こちらも小さく「豚はオメェのことだろクソが」と去っていくルドラーの背に向けて悪態をつく。

 そんな二人の様子を黙って見守っていたネリーがおずおずと口を開いた。

「あ、あの、レイン、あんまり気にしないで。隊長だって本気で言ったわけじゃ――」

「ああん? っせぇんだよ、ドブネズミ」

 レインは振り返り、ネリーを()めつけた。

「テメェに心配されるおぼえなんてないっつーんだよ、このあたしには。てか、そんなこと言ってほんとは腹の底であたしのこと笑ってるくせによぉ。イイ子ぶってんじゃねえぞ、ボケが」

 さきほどまでルドラーに見せていた笑顔から一転、右目を大きく左目を細く非対称に見開き、額に血管を浮き立たせたすさまじい形相で泡を飛ばすレイン。彼女の口撃は続く。

「頭ん中にお花咲かせたケツの青いお嬢ちゃんにはわかんねぇだろうなぁ。あたしがあんなクソ男に色目使う理由なんてさぁ。ま、実際、わかってほしくなんてないけど。あたし、あんたのこと大ッ嫌いだし」

 ネリーは何も言えず立ち尽くす。その体は震えている。瞳には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだ。

「どーでもいいけどさぁ、戦場であたしらの足引っ張るのだけはカンベンね。くたばるならあんた一人にしてよ」

 休憩所中に響き渡る大声で嗤ったかと思うと、レインは今度は妙に艶かしい挙動で、す、とシドニーの隣に寄り添った。

「あらあら、シドニーちゃんったら具合でも悪いのぉ? 仲良しこよしのネリーちゃんがイジメられてるってのに、さっきからなぁぁんにも言わずに怖い顔して黙りこくっちゃって。それともアレかなぁ? あたしに噛み付けないような、何かマズイ事情でもあるのかなぁ? そう、たとえば、あたしに弱みでも握られて、それをネタに脅されてるとか……」

 レインのこの言葉に、シドニーの双肩が明らかにそれと分かるくらい大きく跳ね縮まる。それだけではない。彼の全身はネリーなど比較にならぬほど激しく、小刻みに振動している。額にも無数に汗の粒が浮いており、誰がどう見ても尋常な様子ではない。

「いい加減にするんだな、お前たち」

 アッシュだった。卒然と立ち上がり、先刻からどこか異様な雰囲気を漂わす場を、シドニーら三人を鋭い目つきで見回す。

「それぞれ個人的に思うことや、他人に対する好き嫌いもあるのは解る。しかし、そうしたことが行き過ぎ、禍根を戦場にまで持ち込む事態に陥るのは絶対に避けるべきだ。目の前の敵に集中できないばかりか、最悪仲間まで疑うことになるぞ」

「そうそう、見方に後ろから斬られるなんて――考えたくないしねぇ」

 茶化すレインを無視し、アッシュは踵を返す。

「生き残ることだけを考えろ。でないと後悔すらできないぞ」

 そして、最後にそれだけ言い置くと、振り返ることなく休憩所を後にした。



 レンガ造りのだだっ広い修練場に、木と木がぶつかるけたたましい音が響き渡る。

「そこまでだ、アン。今の一撃を含めて相手はもう八度死んでる。次の標的に移るべきだ」

 背後からの声を受け、アンジェリカ・タロン軍曹は帝国兵を模した戦闘訓練用の木偶(でく)を打ち据える手を止めた。

「遅かったじゃないか、アッシュ。待ちくたびれたぞ」

 顎の先から滴り落ちる汗も拭わず、振り返って彫り深い顔立ちに笑みを刻む。

「それで――感想は?」

 問われたアッシュはにべもなく、「特にない」

 この回答にアンジェリカは苦笑し、右手に携えていた長剣型(ソードタイプ)の木剣、及び左手のこちらは短剣型(ダガータイプ)の木剣とを無造作に地面へ放り捨てた。

「お前ならそう言うと思ったよ。しかしな、アッシュ、私は許せないんだよ。あいつらのあの、腑抜け切った面が」

 アッシュは応えなかった。アンジェリカは続ける。

「出撃しようがしまいが、今の私たちが戦争状態であることに変わりはない。それがどうだ? どいつもこいつもまるで平時のように浮かれ、騒ぎ、飲み、食い、抱き、あまつさえ義務として課せられているはずの定時訓練にさえ参加しない有様。まったく、誇り高き女王陛下の兵士が聞いて呆れる。これなら王都でパンを焼く者や宿を営む者――一般市民のほうがまだ日々に緊張感を持ち、勤勉に過ごしていることだろう」

 情けない、と呟くアンジェリカの顔にはもはや笑みはない。憎憎しげで、それでいてどこか切なげな面持ちである。

「感想は特にない――が」

 ここでアッシュが口を開く。

「お前の意見は至極まともだ。少しも間違っちゃいない。ああ、中隊の連中のほとんどは腑抜けている。腑抜けているから戦場では真っ先に死ぬ。そうなれば腑抜けていない者の負担が増す。本来ならば一人斬ればいいところを、二人斬らなくてはならなくなる。即ち戦略的、戦術的な不利を背負うことになる。しかし、だからといってこの流れを変えるのは事実上不可能だ。ならば俺は、二人の敵兵を斬るために腕を磨く」

 以上だ、と言ってアッシュは腕を組んで瞑目した。ただでさえ無感情な風貌に拍車がかかる。その姿を見てアンジェリカは呵呵(かか)と大笑する。

「いいぞ、アッシュ・ザム。私はお前のそういうところがたまらなく好きだ。いや、私も一部の男どもから〝鉄処女〟などと渾名されてはいるがな、お前とて相当のものだぞ」

 アンジェリカの笑声が修練場に木霊する。

 彼女の性質からいって、このようなことは稀である。普段はアッシュよろしく無表情か、そうでなければ皮肉めいた冷笑を浮かべているか、そのいずれかなのだ。これは取りも直さず今この修練場には彼女と、彼女をして『たまらなく好き』なアッシュのみで他の者の姿が一切ないせいである。アンジェリカ・タロンとはそういう兵士であり、女であり、人間だった。

「ところでアッシュ、知っているか? お前が中隊内で何と呼ばれているか」

 アッシュは閉じていた瞼を開いた。そして、側にある金属製の武器立てから、アンジェリカが使っていたのと同じ長剣型の木剣を一本、引き抜いた。

「知らないようだな。ならば教えてやろう。……『戦人形(いくさにんぎょう)』だ。逆らわず、躊躇わず、ひたすら殺しまくり、破壊しまくるお前は戦争をするために作られた人形とのことだ、アッシュ」

 アンジェリカもまた、捨てたばかりの二本の木剣を拾い上げ、うっすらと口角を吊り上げる。「心外か?」

「いいや、光栄だな。命令に従い殺し、壊すのが兵士の仕事だ。そして俺は兵士だ。これ以上ない褒め言葉だと受け取る」

 アッシュは木剣の柄を両手で握り、左脚を軽く前に出して重心を低く取る。その眼には彼が人前では滅多に表に出さない感情という名の揺らぎ――強い闘志が漲っていた。

「またか、アッシュ。何度も言うようだが、これは訓練だ。何も本気で殺し合うわけじゃない。だからそんな(いかめ)しい目つきで睨んでくれるな」

 或いは殺意が。

「アン、俺はお前のように笑いながら剣を振うことはできない。それがたとえこんな――ちゃちな模造品でもだ。相手がお前となるとなおさらな」

 軽口を叩くアンジェリカに、アッシュは木剣の切っ先を上下に揺り動かしつつ言う。

 それを聞いているのかいないのか、アンジェリカは修練場の砂地の上で踵を揃えてぽんぽんと垂直に飛び跳ねてみたり、はたまた首を左右に傾げて関節を鳴らしてみたりと、準備運動に余念がない。

「その話も何度も聞いたさ。しかしな、私とてお前のようには剣を振えない。それは訓練においても、実戦においてもだ」

「……? どういう意味だ」

「意味だと? 言葉どおりさ。お前と私では剣を振うこと、相手を傷つけることに対する心構えが違うというのだ。お前の太刀筋は冷たい。私のは(ぬる)い」

「解らんな。お前が一体何を言っているのか」

「だろうな」

 そこで不意に、問答はこれまで、と言わんばかりにアンジェリカの挙動が静まった。     

 アッシュもまた、木剣を握る手に力を込め、同意とする。

「私を殺してみろ――アッシュ!」

 しかし、二人の間に訪れた沈黙の(いとま)はほんの刹那でしかなった。雄叫び一声、地面を蹴ったアンジェリカが文字通りアッシュとの間隔を瞬殺し、彼と息が触れ合うほどの間近にまで一気に肉薄したのだ。

 予備動作も、剣術の基本中の基本である構えすらもまったくないまま実に四メートルもの距離を瞬時に渡るという、この抜群の瞬発力こそが肉削ぎアンジーことアンジェリカ・タロン軍曹の最大の持ち味。そして、その持ち味は移動だけではもちろんなく、攻撃にもいかんなく発揮される。

「くっ――!」

 アッシュは堪らず奥歯を噛み締める。すさまじい速度で繰り出される連撃は、しかも縦横無尽に、前後左右ありとあらゆる角度から襲いかかり、それら無数かつ変則的な剣線を受け止めるのに必死で攻撃など及びもつかない。

 並みの男性なら見上げなくてはならないような長身――。

 しなやかさのみに特化するよう徹底して鍛え上げられた筋肉――。

 長と短、それぞれ役割が似て非なる二本の得物――。

 一刀一刀は決して重くはない。軽く返せる。それでもこの独特の剣術は非常に厄介だ。兎にも角にも手数が圧倒的で、少しでも気を抜こうものならあっという間に頭部を、腕を、胴体を完膚なきまでに打ちのめされてしまう。

「冴えないな、アッシュ。このままでは防戦一方でまず勝ち目はないぞ。それとも何か、ここへ来る前に体が鈍るようなことでもしてきたか?」

 私も舐められたものだな、と言ってアンジェリカは長剣を袈裟掛けに振り下ろす。アッシュはその一撃を自身の長剣と衝突させて防御すると、

「喋るな」

 そのまま相手の懐深くへと潜り込み、

「舌を噛むぞ」

 胸部を肩で勢い任せに突く。肺腑に予期せぬ衝撃を加えられたアンジェリカは息をつまらせながらも、もう一本左手に携えた短剣型の木剣をアッシュの脇腹に突き立てようと腕を振る。けれど不発。標的であるアッシュはすでに次の動作へと移っている。ぶつかり合った長剣同士の、その接点を軸にアンジェリカの右腕を素早く下方に捻り落とし、同時に最小限の足運びで(たい)の位置替えを完了。防御を終えた長剣も然りで、背中という人体にとって最大の死角へ間髪入れずに攻め入る。

「甘い!」

 アンジェリカはこれを咄嗟に攻防を転換した短剣で制した。

 こうした半ば曲芸じみた操剣術も彼女の頭抜けた瞬発力と反応速度が可能にする妙技――まさに変幻自在の絶刀と言える。とはいえ、さしもの自在剣の達人といえど限界は訪れる。長剣は未だ下方、短剣は防御と左右共に得物が無力となれば、一旦後ろに退いて相手との距離を取り直さざるを得ず、果たしてそれこそがアッシュの狙いでもあったのだ。

 再び彼らの間に広がった空間を、今度はアッシュが侵略する。歩数にして一歩。鋭く大胆な踏み込みから長剣を薙ぎ下ろす。アンジェリカは頭上で受けるも、あまりに重いその剣圧に総動員した二本の得物ごと後方に弾き出される。

 アッシュは追う。先刻とは逆の足を使って大股で踏み込みつつ下から上へ、薙ぎ下ろしたばかりの長剣を振り上げる。大気を震わすかの如き峻烈なこの一撃もアンジェリカは二刀を盾に凌ぎきる――が、しかし、またしても剣圧に押され後退を強いられる。(しこう)して二人の間隔は保たれ、アッシュがまた――。

 腕力、素早さと並んで戦闘における三大要素の一つとして重要視されるのが、空間支配力である。

 空間支配力とはつまり、相手の攻撃が最も効力を発揮しない場所で守り、己の攻撃が最も効力を発揮する場所から攻めること、そのような絶妙な間合いを瞬時に見定め確実かつ適切な位置取りを行う能力を指す。

 結論から述べると、アンジェリカはこの能力がやや低く、アッシュは極めて高い。故に、

「やるっっ――じゃないかっっっ――アッシュ・ザムっっっっ!!」

 圧倒的な手数を併せた速攻戦法を最大の得手とする、いわゆる先手必勝型のアンジェリカにとって、アッシュのような優れた空間支配力、さらには天性の〝武器の当て勘〟をも有する相手に主導権を握られてしまうのは甚だ厄介なことであり、可能な限り早々に、でき得ることなら最初の一刀ニ刀で息の根を止めて幕引き――というのが理想なのだ。そうでなければ、斯様な防御一辺倒の展開ののち、

「終りだ、アン」

 無様な負けを喫することとなる。

 アッシュが放った横一閃の中段斬りが、アンジェリカの手から得物を二本とも払い飛ばす。勝負あり、かと思われた次の瞬間、

「まだだ!」

 丸腰のアンジェリカがアッシュに突貫した。腰に組み付き、全体重を預けて押し倒す。

「――っ」

 転倒しようとも長剣は離さずにいたアッシュだったが、右腕は騎乗位置を確保したアンジェリカの左手によってがっちりと地面に固定されている。これでは斬れない。ならば、と握り締めた左拳とて同じこと。突きを繰り出す前に右手で押さえつけられてしまった。

「さあ、ここからどうする?」

 アンジェリカが不敵に笑む。対するアッシュはこの期に及んでもまだ無表情。「どうしたものかな」

「両脚を腹にからめて引き剥がすか、背中を蹴飛ばすか、その程度しか思いつかん」

「それは名案だな。しかし、そうなる前に私がお前を殺る」

「顔面への頭突き――か。なるほど、勢いをつけて叩き込めば簡単に鼻骨や歯がへし折れ、意識を失う。そして、口と鼻からの大量出血で気道が塞がり、間もなく窒息死。たしかに効果的な戦術だ」


 ふ、とアッシュの表情が弛緩した。

 逆にアンジェリカの顔からは色が失せた。

 二人は黙す。時間だけが過ぎる。


「大変だよ、二人とも!」

 いや、或いはやがて修練場を訪れたシドニーの、そのどこか緊迫した声が止まった時計の針を動かすまで、時は氷結していたのかもしれない。

「出撃命令が出たんだ、ボクら第三小隊に……」

 かくして運命は(まわ)り始める。総ての人々の悦びと、哀しみと、愛と、憎悪と、虚構と、絶望とを呑み込んで。



プロローグ  了


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