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6.


「あー、もう鬱陶しいなぁ」

 炎の中でアンリはそんな間の抜けたことをしかめっ面でぼやいていた。燃え滾るような熱を身体に感じてはいるものの、元々死神であると同時に火を司る神でもあるアンリには、現世の炎などたいした脅威でもなかった。自身の身体に結界を張り、死神のローブをたゆたわせ大きな鎌を手にしたアンリはふわふわと火事の真っ只中に身を置いている。

 勢いあまって降りてきたは良いがアディーがどこで何をしているのかも、正直分からないままだ。

 炎の中で、アンリが生きている者の気配を感じ取ろうと懸命に意識を凝らして探る。

「アディー……、大丈夫かなぁ?」

 心配そうな声音で何度か同じことを言いながら、あの愛らしい女の子の気配がないことを祈りながら、すっかり焼け落ちそうになっている建物の中を歩き回った。

 火が上り始めてどれくらいの時間がたったのだろうか。既にアディーが火事に飲み込まれた可能性がないこともなく、アンリの顔に次第に焦りが見え始めた。

 こんなことならしっかりとアディーのことを調べておけばよかったと、死神が幾度も後悔しては、その整った眉間に忌々しげに皺を刻む。

 劇場から出た炎は風に乗り、近隣の施設や安いアパートを含む広い範囲で犠牲者を出しているようだ。安い古びたアパートには、この街に夢を持ってやってきた若い役者たちが大勢暮らしている。壁がひび割れて雨漏りさえしてしまうようなそこに住みながら、将来は喝采を浴びて大きな舞台で夢をかなえることを何よりも生きる励みとしている人間たちの希望を詰め込んだ、アンリにはまぶしさすら感じてしまうアパート。いくつものそれをアンリは火を避けながら歩き回った。

「っていうか、らち明かない」

 闇雲に歩きまわって、少々アンリも疲れを感じてしまったのか大きなため息を一つ零して立ち止まった。煙などもアンリの身体に何か影響を与えることはないのだが、それでも本来は下界の穢れなどを得意としない身体は、時間とともに疲労し始める。

 ふるふるっと頭を軽く横に振ると、黒に近い青の髪もフードの下でふわりと揺れた。頭がボーっとした感じを受けているがそれでもアディーの気配を感じようと、神経を注いだ。じっと一つの建物のエントランスで佇み、長い睫毛を伏せてアンリがあたりを伺うように集中する。

「…………あ」

 不意にアンリの瞳が開き、そしてそのままその建物の上を見るように持ち上がる。 

 そこに、確かに。

「いる」

 呟いたと同時にアンリの足が勝手に動き出して、そのままふわりと浮き上がった。大きな死神の鎌を手にして黒衣を翻して、アンリは崩れ落ちそうな階段を抜けて目指す階に上がって行った。

 アディーの気配がわずかに感じられるのだが、それはとても弱く、アンリの心の中に急速に闇が蔓延ってくる。

「これはまずいってば」

 無意識なほどに弱弱しい声が自分の鼓膜を打ち、そしてそれが自分の声であると理解して、死神の宝石のような瞳が揺らいだ。

 今まさに消えそうなその命の煌きを、アンリはただ目指した。何でこんなことになったのかと、誰にともない悪態をつきながら、普段穏やかでのほほんとしているアンリの表情も強張ってしまうのを止められない。

「アディー? いるの?」

 できるだけいつもと同じように言葉をかけて、アンリは一つのドアを開けた。猛然とした炎はない変わりに、何も見えないほどに煙が満ちている小さな部屋の中に、アディーがいる。ふわふわとした黒衣のすそを靡かせて、アンリは床に倒れているアディーを見つけてすぐ横にしゃがみこんだ。

 長く美しい金色の髪を散らすようにして倒れているアディーの瞼は閉じられていて、ピクリとも動かない。それにアンリの眉間に皺が一層深くなる。白い手で額に触れてみるが、やはり何の反応もない。

 しかしアンリの顔には少しだけ、ほんの少しだけあどけない笑顔が浮かんだ。

「よかった、助かるね」

 何も反応のないアディーの顔を見ながら、アンリがそんなことを言った。

 アンリには、人の死期を感じることができる力がある。今こうやってアディーは命の危険に晒されているが、ここで死を迎えることにはなっていないようだと、心の底から死神は安心したように顔をほころばせた。

「どうにかしてでも、助かるんだね。よかったねぇ」

 炎の中でアンリのいつものやわらかい口調が、小さくだが零れた。しかしのんびりもしていられないなと、アンリが周りを何気なく見渡す。外がどうなっているのかは分からないが、消火活動がなんとか進んでいるようだと、さっき見てきた光景を思い出して察することができた。

「でも、できるだけ早く助けてあげたいなぁ……」

 死神の鎌を抱きしめるようにして、アンリがアディーを見下ろして呟いた。死なないのなら、僕が助けてあげても良いんじゃない? などと自由気ままな死神がふと思いつき、そして誰もいないのは分かっているが、なんとなく落ち着かなくなってしまって、きょろきょろとあたりをもう一度見渡した。

 そして少しだけ考えた後、アンリは倒れているアディーを抱き起こす。華奢なほどに細いアンリの身体つきからは想像もできないくらいにあっさりと、小柄なアディーを抱き上げて、器用に鎌もちゃんと持っている。

「とりあえず、下までは連れて行ってあげるね」

 あどけない微笑を浮かべて、アンリはゆっくりと歩き出した。

 階段しかないこのアパートなのに、アンリが部屋から出てくると、その階段が数階下のところで焼け落ちてしまっていた、しかしアンリにはそんなこと勿論関係ないので、ふむ、と一瞬考えた後、結界に包まれた身体で近くの窓へいき、そのひび割れた硝子を、小さく言葉を紡いで吹き飛ばした。そしてその窓からアンリが当たり前のようにふわりと外へ身を投げ出した。

 消防車が何とか入り込める箇所にあったアディーのアパートの周りには消化しようと懸命な人間たちがいた。それを横目に、姿を消しているアンリはニコニコと笑いながらアディーを抱えて少し離れた場所まで連れて行き、そしてそのまま誰に知られることもなく、アディーが誰かの目に付くところに置いて、その場を離れた。

 別れ際、アンリはもう一度安心したかのように微笑み、アディーのつややかな金色の髪を撫でて別れた。

「またね」

 



 半年ほど後に、アンリは再びアディーと出会った街を訪れていた。

 初めて来たときには夏の風が吹いていたのに、今は冷たい風が踊る風景を、天の神々が嫉妬するほどに美しい瞳が空から見下ろしていた。

 ふわり、とアンリが一つの劇場の屋根に身を下ろした。そこはアディーのいた劇場だった。金色の髪と愛らしい印象の強い人間の女の子のことを思い出して、端整な顔の死神にあどけない笑みがこぼれる。

「お久しぶりですね」

 ふと後ろから抑揚のない声がかかり、アンリはいつかのときのように振り返らないままのんきな声音で返事をした。

「ほんと、久しぶりだねぇ。ユリ元気だった?」

 普段天界にいても特に用事がなければ顔を合わせることのない二人は、あの日以来久しぶりの対面になる。藍色の深い色をした神経質そうな瞳を持つ、白いローブを着た死神が音もなくアンリの横に並んで、同じように町並みを見つめた。

 火事で焼けてしまった場所にはところどころ新しい建物が建ち始めている。いままで古びた建物でひしめき合っていたそこには、今度は近代的な建物が建つらしいと、ユリが教えてくれた。

 数多くの犠牲者の出た火事を教訓に防災意識も高まったことや、しばらくの間音楽がこの街から遠ざかっていたことなど、アンリの知らない様子をユリは話して聞かせた。しばらくそうやって何でもないことを話していたユリであるが、やがて長い睫毛を少しだけ伏せて静かに息を吐き出した。

「どうしたの?」

 そんなユリに、アンリはきょとんとした様子で見つめ返した。何かあったのかなと思っている黒衣の死神に、白い死神は視線を持ち上げて見て返した。

「あの人間ですが……」

「あの人間?」

「アディーです」

 その名前にアンリがふわりと微笑んだ。愛らしい眼差しと容貌が穏やかに思い出されて。

「うん。アディーがどうしたの?」

 深緑の薔薇の蔦の絡みつく死神の鎌を抱きしめるようにしていたアンリが可愛く小首を傾げた。しかしユリにしては珍しく、言いにくそうに言葉を捜している。

「……ユリ?」

「あなたがせっかくほめていらしたあの子の歌声は、もう二度と聴けなくなりました」

「どういう、意味?」

 アンリの顔に真剣みが浮かび、煌く瞳が眇められた。

「私どもにはたいしたことのない下界の炎と煙ですが、やはり生身の人間には脅威なのです。一酸化炭素中毒というもので、後遺症が出てしまったようです」

 アンリがなぜそこまで気になっていたのか分からなかったが、そこまで気にしていた人間に対する興味がなかったわけでもないユリが、少しだけアディーの様子を調べてくれていたようだ。

 そこで、アディーの身体に起きた変調を知り、今初めてアンリに話をした。と言うところらしい。

 人間の病気や障害のことは詳しくないアンリとユリであるが、調べて理解した結果、アディーが火事のときに吸い込んだ一酸化炭素という物質のせいで、高次脳機能障害、と言うものが現れたと、知ることができた。

 症状はさまざまで、しかもそこまでいたることはそれほどないようだとも知った。しかしアディーはそれで心まで蝕まれてしまった。

「先月のことだと聞いています。アディーが命を自ら絶ったと」

「…………え?」

 あまりにも淡々と言ったユリに、一瞬アンリが何を言われたか分からなかったほど、その言葉は簡単に夏の夜空に放たれた。

「いのち……自分から……いのち……?」

 アンリの唇が勝手に、何度も同じ言葉を繰り返していた。


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