もちつもたれつ
迂闊だった。
刺すような太陽の陽射しに焼かれながら、彼女は深く深く海より深く反省する。
最初にその人間の匂いに気がついた時、彼女は僅かな違和感に首を傾げた。
ここまで記憶していた匂いと、どこか違っている。
今までにやってきた人間は、多かれ少なかれ違いはあれど、必ず血の嫌な匂いを纏わり付かせたヤツらだった。
彼女の仲間や家族を奪っていった、それが人間の匂いだった。
しかし、この匂いからはそういった要素が一切感じられない。
どこか甘ったるく、空気中から伝わってくるのは、たくさんの戸惑いと混乱が少々。
あとはただ、恐れのような感情が、匂いの殆どを占めていた。
匂いを追って見つけたのは、人間の子供だった。
未成熟の体が極端に細く、肌はやたらと白い。
大抵ここにやって来る人間は、密林に紛れるような擬態をしているか、でなければ、全身武装して隙のないものが多い。
肌も陽に焼け、集団で狩りをするため、一人で行動することなど無かった。
そもそも、子供というのが在り得ない。
身を守るための武器を持っているような様子もないし、ただ同じ所に留まって、無防備な姿を晒している。
何か事情があってここにいるのだろうが、おおよそ見当もつかず、またそこまで考えてやる義理もない。
恐らく迷子のようなものだろうと結論づけ、彼女は彼を追い払うことに決めた。
本当なら放っておけばいいのだが、近くに彼女の子供たちが居たためそういうわけにもいかない。
万が一ということを考えれば、早々にご退場願うのが最良の選択だろう。
獲物にしようとは思わなかった。
人間は不味いから嫌いなのだ。
よほど飢えている時は贅沢も言っていられないが、生憎、そこまで狩りの腕には困っていない。
繁みから顔を出し、まず相手に自分の存在を気づかせた。
一瞬硬直したように体をすくませた人間の子供は、何かぶつぶつと口を動かしながらゆっくりと回れ右する。
ジャングルをナメているかのようなその動きに、段々イライラしてきた彼女は、大声で吠えて彼を一喝した。
人間の子供はその声に飛び上がってみせ、ようやく命の大切さに気がついたような敬虔さで足を動かし始めた。
やれやれと首を振りそれを追いかける。
地続きではないが、近くには人間の暮らす島がある。
ここへは船で来ただろうから、とりあえず、砂浜まで誘導することにした。
彼女は雷虎と呼ばれる魔獣だ。
帯電体である透明な髭で雷を操るためそう呼ばれていると思われているが、元々は、狩りをする姿からその名が付いた。
見た目はほとんど通常の虎と変化なく、ネコ科独特の靭やかさを備えた体は、成獣になると体長を軽く五メートルはこえる。
その巨体に似合わぬ素早い動きは、全身の柔らかな筋肉のなせる技だ。
体の大きさに比例して凶悪さを倍加させた爪で樹の幹や枝をしっかり掴み、複雑な地形の密林を三次元に疾走する。
空気を斬り裂き、残像すら置き去りにするその姿こそが、雷虎と呼ばれる所以だった。
そんな彼女からすれば、目の前の人間のなんと鈍足なこと。
鋭い爪で尻をつついてやるか、でなければいっそ背中に乗せて走ってやろうかとも思ったが、極端に体が弱い人間に死なれるのは困る。
ストレスを感じる走りを、相手が子供であるという一点のみで我慢していると、目の前に迫ってくるものがあった。
あ~、鞄だなあ、となんとなくぼんやりそう思った。
反応が遅れて、まともに正面から鼻っ面にヒットする。
しかも角。
想像の斜め上を行く、痛みと切なさだった。
外の世界と隔絶して暮らしていた人間の村が、単なる風邪で壊滅状態まで追い込まれた、なんて話もある。
要は免疫の問題で、人間なら生まれてから一度くらいタンスの角に小指をぶつけたなんて経験もあるだろうが、雷虎である彼女には勿論そんな経験はなかった。
初めて味わう恥辱と遣る瀬無さを伴う痛みに、彼女は激しく混乱し激怒した。
黄色かった瞳が、紅く濁った色に変色していく。
雷虎が本気で怒った時にだけ見られる現象で、その瞳は【雷獣の紅玉】と呼ばれる。
生きたまま刳り貫くと、強い魔力を宿すため、武器や防具の素材としても需要が高い。
彼女の変化に人間の子供は顔色を青くし、結構本気の追いかけっこが始まった。
この時、彼女はほとんど理性を失いかけていたが、それでも頭の片隅ではこの人間を殺す事のデメリットは分かっていた。
密林にきたという事は、帰る場所があるという事だ。
帰る場所があるという事は、待っている人間が居るかもしれないということを意味し、この人間が帰ってこなければ、誰かが探しに来るかもしれないことを意味した。
その結果、この人間が死んでいるのが見つかれば、恐らく人間達は復讐に走るだろう。
真っ先に槍玉に挙げられるのは彼女のような肉食の魔獣だ。
これが、自分だけのことならいい。
しかし、もし子供たちに何かあったら、と思うと、こんな痛みで我を失っている場合ではなかった。
幸い、走っている内に、痛みとともに徐々に怒りは収まっていった。
中々消えない遣る瀬無さだけを持て余しながら走っていると、やがて、目的地である海辺に辿り着いた。
砂浜に入った途端、人間の子供は足を取られて体ごと転がり始めた。
ドン臭いやつだと思いながら、辺りを見回し、敵が居ないことを確認する。
見る限り、砂浜には誰の姿もなかった。
それどころか、沖にあるだろうと想像していた船すら存在していない。
連れに置いていかれたのだろうかと考え、なんて哀れな奴なんだとおもいっきり同情する。
彼女は波打ち際にいる哀れな子供に近づいた。
彼は振り返るとどこか諦めたような様子で動かなくなり、覚悟を決めたのか目を瞑った。
ネズミですら追い詰められれば猫を噛むというが、人と雷虎に置き換えてそれは起こらなかったらしい。
どうやら害意は微塵も存在しないらしいと分かっても、海に行けばこの問題は解決すると思っていた彼女は途方に暮れた。
別にこの人間を食べたくもないし――このまま放っておけばいいのだろうが――鞄の恨みが残っているだけにただ引き返すのは癪に障る。
ちょっと虐めてそれを意趣返しに引き返そうと近づいた時、右の後ろ足を鋭い衝撃が襲った。
何かに噛み付かれたような痛みが走り、驚いて振り返ると、地中から飛び出した鋼の歯が、右足に食らいついていた。
見覚えがあったため、すぐに人間の仕掛けた罠だとしれた。
ずいぶん古いもので、恐らく、以前仕掛けられて回収されなかったものだろう。
この人間の子供の仕業でないのは、彼の驚きぶりを見れば分かった。
わざわざ回りこんでまでして、物珍しげに右足の様子を見つめている。
彼女は抜けだそうと必死で藻掻いてみたが、藻掻けば藻掻くほど鋼の歯は肉に食い込んだ。
力づくだけで抜け出すのは無理だと判断して、彼女はしばらく大人しくしていることに決めた。
ここで暴れた所で、無駄に体力を失うだけで、何も得られるものはない。
抜け出す方法がないわけではなかったし、それにはここに人間が居られては不都合だ。
子供とはいえ、それを見られるわけにはいかない。
暫らく待っていれば、どこかへ行ってしまうだろう。
前足を組んでそこに顎を乗せ、目を瞑ってその時を待つ。
果たして予想は当たり、人間の子供は海岸沿いに歩き始めた。
チラリと片目を開けてそれを確認し、完全に姿が見えなくなるまで待とうともう一度目を瞑る。
それにしても、彼女は子供たちが心配だった。
すぐに戻ってくるつもりでその場を離れ、殆ど成り行きからこんな事になってしまっている。
そろそろ、お昼ごはんの時間だった。
「あ、あのさ」
目を瞑ったまましばらく後悔に苛まれていると、声が聞こえた。
驚いて上体を起こすと、そこには先程の人間の子供が立っていた。
なんで戻ってきた? と思っていると、彼は流木を手にしていた。
とても武器として役目に耐えられそうにないシロモノだったが、それでも、その突端はこちらに向けられている。
彼女は怒りに唸り声を上げた。
変色した瞳が、見る見る紅味を深めていく。
やはり、どれだけ害が無いように見えても人間は人間だ。
あの時殺しておくべきだったと悔いても遅いが、彼女もむざむざ殺される気はなかった。
パリっと乾いた音がして、触腕のような帯電髭から紫電が小さく走る。
「いや、違くて!」
人間の子供は、手にしていた流木を彼女の目の前に放り投げた。
流木は砂浜に軟着陸を果たし、軽く砂埃を上げる。
突然武器を放棄した事に驚いて、目を丸くして見返すと、彼は攻撃の意志がないことを現すように、両手をあげた。
「だ、だから、お前をどうこうしようってつもりはさらさら無くてさ、ですね。ちょっと落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
そう言って、こちらの反応を待つように口を閉じる。
わざとかな? と思うくらい膝が震えていて、彼女はバカバカしくなってため息を付いた。
人間の子供の方もなんとなく意志が通じたのを察して、ほっと息を吐いた。
「よ、良かった、目の色が元に戻った。いや、てかスゲーな異世界の虎。言葉通じんだ」
感心したような様子に、馬鹿にするなと、鼻息で砂を飛ばしてやる。
「目がっ、目がああああ!」
目の前で転げまわる姿を見て、彼女はなんとなく鞄の件の溜飲が下がる思いがする。
彼はしばらく転げまわっていたが、はよ話せと前足でどつくと大人しく立ち上がった。
「う、ツッコミがキツい……そ、それで、一個提案なんだけど」
まだ痛いのだろう、目をしばしばさせながら、彼は彼女の後ろ足を指さした。
「それ、そのトラバサミ、俺が外してやるからさ、俺のこと食べるの諦めて帰ってくれない?」
彼女は驚くと同時に、呆れ返った。
この人間は自分のことを助けようとしてくれているらしい。
しかも、どうやら彼女が彼のことを食べようとしていると思われていたらしく、なにもしないで帰れと言うのが交換条件だった。
先述した通り、人間は不味い。
これでもグルメを自認している彼女からすれば失礼な申し出だった。
話の内容自体はともかく、見損なわれた制裁はくわえねばなるまい。
「……い、いや、あの、すみません、砂で目を狙うの止めて下さい……あの」
鼻息でふんふん砂を飛ばすと、律儀に手で目をかばいながらも、人間の子供はその場から動こうとしなかった。
馬鹿正直か、単なる馬鹿か、多分後者だが、嘘もないように思えた。
ようやく少し気が済んで、もうほとんど砂の塊になってしまっている彼に、ふっと息を吹きかける。
砂を払われて人間に戻れた彼は、ありがとうございますと馬鹿正直に頭を下げた。
読んで頂いてありがとうございました。