後篇
「綾、」
たった数日前のことなのに、僕にはもう色褪せた記憶でしかなかった。眼下に広がるぎらぎらとした現実味のない輝きは、戦争中だというのに気味が悪いほどにぎわっている街を照らすアクセントになっている。トウキョウに休戦に来た兵士が、少しでも穏やかになるように────そんなむちゃくちゃな理由で浮かれたこの世界は、数日間の夢らしい。数日をすぎれば元通りになるというのだから、この時期に休日願いを出した兵士が多いことも頷ける。
白い頬を高潮させ、綾は静かに笑った。
「愁、わたし、今は考えるのをやめようって思ったの。
ガラス越しでなく、直接僕を見上げる綾は、可憐で儚い。
「さっき、駅で貴方の顔を見たとき。ああ、もう全部どうでもいいやって。ただ貴方がここにいることだけで十分。そう思えた。」
僕は、そっと綾の髪を梳く。柔らかな髪は、さらりと指先を抜けていく。
「だから、ね。」
視線がぶつかる。綾は、恥ずかしそうに笑った。
「貴方がちゃんともどってきて、全部元通りになったら、そのときに考える。それまでは、」
綾の声が脳に直接響く。耳元で言葉を紡ぐ彼女が、どうしようもなくいとおしい。
「貴方のことだけ、考えてるから。」
彼女の甘い声が、吐息が。
僕を、夢の世界へと導いていった。
「え…?」
如月 綾は、目の前の軍服の男にすべての思考が中断されるのを感じた。喉がからからに渇いて、瞼は閉じることなく見開かれる。声にならない声が唇から勝手に漏れ出し、気づけば頬に冷たい涙が流れていた。
「うそ、だって、」
────柏原 愁さんが、RG地区第三研究所内で、戦死しました。
「だって、愁は…!!!!」
────連絡が遅くなりましたが、亡くなられたのは一週間前。
「…そんな、」
昨夜、確かに自分の前で微笑んでいた彼。
優しく髪を梳いて、困ったように微笑んで。
彼は必ず戻ると、そう信じていた。
────最期に、綾さんの名前をつぶやいていたそうです。
深く礼をした軍服の男は機械的にそこまでいうと、静かに去っていった。
降りつづける雨に、昨夜と変わらぬぎらぎらとした煌きが滲む。
膝をついて音もなく涙を流す彼女の冷え切った指先に、黒手袋の皮の感触を、確かに感じた。
翌日。
侵略の中止と戦争の終結を告げるニュースが、トウキョウを賑わせた。
彼女の祈り通り、クリスマスを前に、すべてが終わったのだった。
たった一人、冷え切った室内で。
綾は涙に濡れた瞳のまま、静かにレクイエムを奏でる。
真っ白な指先が鍵盤を叩き、彼女は歌う。
記憶の中で、この日だけは一生忘れぬようにと。
深い悲しみの中で、そうして彼の記憶を反芻した。
了
了