中篇
「柏原 愁。」
静かに読み上げられた僕の名前は、まるで機械のように無機質な顔の男によって現実味を帯びた。
「以上、RG地区遠征部隊。総勢20名。」
敬礼した僕は、奇妙なまでに歪んだ顔をしていたことだろう。
20XX年秋。
他地区から完全に孤立した中央地区、別名トウキョウは、いまや有象無象によってごった煮された別世界と化していた。犯罪で染め上げられたLM地区よりはましだが、それでも均衡が保たれているとは言えない。年々悪化する経済状況に、増えていく難民。トウキョウの地区長は、そんな世界を憎んだ。増えすぎた人口を均一化するためにはじまったこと。それが、他地区の侵略だった。
なんとも幼稚な作戦だと僕はモニターに映るニュースをみて複雑な気分になった。彼らはあろうことか、弱小地区に戦争をしかけ、トウキョウを広げる作戦を立てたのだ。トウキョウ上層部は世襲制によって染め上げられたものばかりで、自分たちの行動が正しいと信じていた。民主化された世界には考えられないことだが、トウキョウでの生活は近辺の地区よりは幾分かましだったせいで、地区民は黙って従うことしか知らなかった。地区外追放ほど怖いものはなかった。どっぷりと安寧につかりこんだ僕たちにとって、この世界は丁度良い箱庭だったのだ。
そして、他地区殲滅作戦は厳かに進められた。有名大学から知力・体力・精神力ともに有能な人材が集められ、訓練が開始される。誰もが疑問を感じていた。けれど、家族の安全と莫大な報酬を前に、優秀な男たちは拒否することができなかった。就職難、貧困。そんな彼らを救うために優秀な人材が削られることに、きっと誰もが異を唱えたかったことだろう。それが人間というもの。本心ではそう思っても、命の重さに優劣など存在しない。潜在意識で、すでに彼らはあきらめていた。
そして、僕。
どういうわけかトウキョウでもトップの大学でよい成績を収めてしまった僕が、もっとも危険なRG地区に配属されないわけがなかった。覚悟していた。けれど、心のどこかで、いつも引っかかっていた。
如月 綾。
半年前から付き合っている、僕がはじめて恋した女性。
彼女は強い女だと思う。いつでも弱い所を隠すように、ただ僕を支えてくれた。深い優しさで満ちた彼女は、どうしようもなく大切な人へと変わっていた。
「…覚悟は、してたのよ。」
RG地区に配属されたと告げると、彼女は寂しそうに笑った。
「おかしな話よね、戦争だなんてお金がかかることして、ますますここが悪化するだけなのに。」
彼女は悲しそうにそうつぶやくと、そっと僕の頬に触れる。冷え性の彼女は、秋の終わりにはすでに指先を冷やしていた。じわりとひろがる冷たさに、たまらず僕はその手を握る。
「必ず、戻ってきて。」
強い意志を孕んだ瞳は、どこまでも澄んでいてまっすぐだった。僕は静かにうなずくと、優しく綾の頭を抱く。柔らかな栗色の髪が流れて、ふわりとシャンプーの香りがした。
「一日だけ、休みがあるんだ。」
それは、どこまでも奇妙な制度。
兵隊の士気が下がらぬよう、政府が手配した休日制度だった。戦争中、たった一日だけ、好きな日に休みを入れることができる。その日を目標に頑張るため、生き残るため。その貴重な一日のために、僕たちは命を削るのだ。
「いつにしたら、いいと思う?」
そっと囁くと、彼女はほう、と息を吐いて冬の初め、クリスマス前がいい。と言った。
「どうして前なんだ?」
怪訝そうな僕に向かって、彼女は。
「当日は、奇跡が起きる日だから。その日までに、私はすべてが終わることを祈ってる。」
僕の前で、はじめて涙を流した。
戦争中、銃撃を受けて、僕は指をなくした。
仲間が死ぬことはあまりなかった。つまり、戦況は恐ろしいほどに良かったのだ。
素直に喜ぶべきことではないかもしれない。けれど、弱小地区はあまりに無防備だった。
小さな子供や若い女性の多い地区。老人ばかりの地区。
トウキョウは、それでも彼らから様々なものを奪うのだろうか。
僕たちが配属されたRG地区は、他の地区と違って科学者の多い地区だった。研究所が立ち並ぶ大通りを、僕たちはライフルを抱えて走った。彼らはやはり無防備で、隙だらけだった。次々と侵略が進む中で、僕は。
数日後に迫る綾との逢瀬に、思いを馳せていた。
「っ…やめてくださいっ…!」
悲痛な女性の声を無視し、僕は綾のことだけを考える。
「ここには、大切な研究結果が…!!!!!」
すべてを破壊しながら、ただ無常に足を進める。
恐怖など感じない。脳が麻痺したかのように、驚くほど冷静な僕がいた。
大きな音がして、そちらに視線を投げると。
がたがたと震えながら拳銃を握り締める、少女の姿。
「……悪魔っ…!!!」
悲痛な声に、共に行動していた仲間がライフルに指をかけた。
あっさりと倒れた少女から視線をそらして、ようやく気づく。
僕の指は、なくなっていた。
どくどくと流れ出る真っ赤な血液に、体が熱くなっていく。
そして漸く、僕は痛みを感じたのだった。