前篇
「ずるいよ。」
月と星を完全に無視したように地上を埋め尽くす輝きを一瞥して、綾はぽつりとつまらなそうに零した。クリスマスという祭典を前にしたトウキョウはいつになく浮かれたようにぎらぎらとした煌きに覆われ、とりあえずな悩みはすべて後回しにしているように見えた。少なくとも、僕にとっては。
「…何が?」
ちらりと横に並ぶ綾を盗み見てから、静かにガラスに映るぼんやりとした姿に視線をそらした。なんでもないようにつぶやいた彼女にならって、僕もなんでもないようにつぶやく。周りの音が聞こえなくなったかのように、BGMでざわついたフロアを気にもせず僕たちは小声で会話する。
「今が。」
「ずるいかな。」
「ずるい。」
淡白な会話に色はない。あえて言うなら、水分をたっぷりと含んだ曇り空のような重たい灰色をしていた。決して居心地が悪いわけではない。そうではないけれど、周りのカップルに比べてあまりに感情のない僕たちの声は、どこか他とは違うという特別感をはらんでいた。
僕がRG地区から戻ってきたとき、彼女はほんの少しだけ困ったように笑った。少しやつれたね、と言ってふわりと真新しいマフラーを首にかけ、おかえり、と微笑む。そんな綾を見て、ぼくはやっぱり困ったように笑ってただいま、と言った。
周りにも同じようなカップルがあふれていた。なんとなく騙されたように僕たちはいつもより軽い足取りできらきらと輝く街に繰り出した。彼女はそれでもいつもどおり、淑やかに艶めいていた。
「どこに行きたい?」
僕がそう聞くと、すっかり用意していたかのように彼女は展望塔、と言った。
トウキョウの真ん中に聳え立つ円錐形の展望塔は、トウキョウだけでなく別の地区も見渡せた。それこそが彼女の狙いだと気づくこともせず、僕は静かに展望塔行きの電車のチケットを買う。特に会話はなかった。僕が元気だった、と聞くと、綾はまあまあね、と小さく笑う。それ以外の会話はしてはならない気がした。今の僕に、ただ馬鹿みたいに陽気になる勇気はなかった。結局臆病だっただけだ。今の不安定な状況を壊すのが怖くて、昔は自然に触れられた綾のその真っ白で美しい指先に触れることもできなかった。ぎりぎりの綱渡りの会話をするぐらいなら、いっそ静かに時をともにすればいい。それが、きっと僕たちのやり方なのだろう。
「ねぇ、」
展望塔の最上階に着くと、綾は少しだけ悲しそうにガラス張りの世界の向こう側を見つめた。僕は、ガラスに薄く映る綾の立ち姿を見ていた。ガラスの表面で視線が合う。手すりにもたれるようにして僕たちはやっぱり悲しそうに笑った。
「やっぱり、矛盾してるのかしら。」
自嘲気味に笑った彼女を見て、僕はぎゅうっと胸が締め付けられるような気がした。どうしようもないのだと知っていた。けれど選択したのは僕だし、それを受け入れたのも彼女だ。これは二人で決めたこと。だからこそきっと、綾も後悔はしていないだろう。それでもこうして悲しそうに笑うのは、どうしようもない現実を直視したくないからなのだ。
僕も、同じだ。
「してないさ。」
綾はそっと、手すりに乗った僕の指先に触れた。二本しかない僕の指先は黒い手袋に覆われているけれど、そんなことは気にしないとでも言うかのように優しくなでる。
「やっぱり、ずるいよ。」
「そうだね。」
僕の記憶の底に、綾がいてくれればいいと思った。
こうしてガラス越しに視線を合わせて、遠くの輝きを恨めしく見つめながら、一時を共有できればそれでよかった。
そう思うことが、唯一僕たちを救う道だった。