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第1章 知らない街の昼

地方に来てから、昼の長さが少し変わった気がしていた。


正確には、長くなったわけではないのだろう。ただ、誰とも話さない時間が増えると、時計の針の進み方まで静かになる。篠宮澪は、昼過ぎの台所で湯を沸かしながら、まだ新しいままの流し台をぼんやり見つめていた。傷のないシンク、整いすぎた食器棚、生活の音がまだ染みついていない部屋。きれいなのに、どこか落ち着かない。ここが自分の家だと頭ではわかっているのに、ときどき、借り物の部屋にひとりで置かれているような気持ちになる。


直人は今日も遅いはずだった。転勤してきてからずっとそうだ。新しい部署、新しい取引先、新しい数字。ここで結果を出せば本部に戻れるかもしれないと、彼は自分に言い聞かせるみたいに働いていた。責める気持ちはなかった。むしろ、責めてはいけないと思っていた。頑張っている人に向かって寂しいなんて言うのは、支えてもらっている側のわがままだと思ってしまう。


スマホを開くと、昼前に届いた直人からの短い連絡が表示された。


『今日も遅くなりそう。先に食べてて』


それだけの文面に、責めるところなんて何もない。澪は『わかった。無理しないでね』と返して、少し考えたあと、やっぱり消してから送り直した。『わかった』だけの短い返事に変えたのは、余計な気遣いまで重く見えたら嫌だったからだ。


結婚して仕事を辞めたとき、澪は少しだけ安心していた。人と関わることが苦手で、前の職場でもうまく笑えない自分を持て余していたからだ。直人と暮らし始めて、ちゃんと家を回して、穏やかな毎日を作れたらそれでいいと思っていた。


でも、転勤でその前提が崩れた。知らない土地で、昼間はひとり。近所の店にもまだ慣れず、誰かと雑談をする理由もない。直人の帰りが遅い日は、朝から夕方までひと言も声を出さないこともあった。そんな日の夜に「おかえり」と言うと、自分の声が少しだけぎこちなく聞こえる。


このままではよくないのだと思う。直人の足を引っ張りたくない。支えられてばかりの妻ではいたくない。そう思えば思うほど、何もできていない自分が情けなくなった。


食卓の隅に置いていた折り込みチラシを手に取る。特売の案内に混じって、求人欄が小さく載っていた。レジ、品出し、清掃補助、惣菜。見慣れない店名ばかりの中で、地域密着型のスーパーの募集が目に留まる。未経験可。短時間可。裏方作業中心。


接客が得意ではない自分でも、できるかもしれない。そう思った瞬間、同じくらい強い不安も湧いた。うまくできなかったらどうしよう。迷惑をかけたらどうしよう。でも、その不安よりも、「何もしていない」ことの方が今は苦しかった。


澪はチラシをたたみ直して、もう一度だけ求人欄を見た。


少しでもいい。ちゃんとしていたい。


そう思えたことだけを、今日は自分の中の小さな前進にしておきたかった。

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