簪(かんざし)
「悠久ののち、刹那。いつか、また」
と言われて目が覚めた。どうやら寝ていたらしい。外ではぴぃぴぃと鳥が鳴いている。もうすぐ桜が咲く。
夢を見ていた。肌の色、雪のように白く、簪つけたる高島田の美人。絵のような美しき人。いつの時代の人だろう。江戸か明治か大正か、昭和にもああいう人はいたのだろうか。彼女の言葉、悠久、刹那とは。分からない。どちらにせよ、あんな美人は知り合いにいないのだから、誰かの夢が私のところへ紛れ込んだに違いない。
よいしょという掛け声とともに立ち上がり、立て付けの悪い窓を力を込めて開ける。ギギギ、ぱしゃん。その音に驚いたのか、どこかで羽を休めていた蝶々が青く艶やかなる鱗粉をキラキラと漂わせながらひらりひらりと飛んで行った。あの蝶々の見ていた夢が私のまぶたにうつされたのだなと、そう思った。
蝶々のいた景色の先に小さな公園があって、そこの桜がとても綺麗に咲く──というのは2年前までの話で、老木になったからという理由で呆気なく切り倒されて今はその切り株だけが残されている。切り株はひび割れて樹皮は乾いた灰色をしている。
その桜はかつてこのボロ窓を名画の額縁にした。それくらい、壮大で繊細な桜だった。それが今では。いや、もう良い、どうせもうすぐ引っ越すのだ。ボロ窓も切り株も、いずれ私とは関係のないものになり、そして、いずれ忘れる。
少し遅めの昼食をとるために窓から離れて家の中に視線を向ける。いらないものを捨てて少し広くなった部屋は物寂しく、暗かった。
あの後、夢の中で女性を見ることはなかった。あの人に逢えないまま、引越しの当日を迎えた。
その日はあちらこちらで桜が綺麗に咲いていた。私はふらりと近所を歩いた。この街は嫌いだった。
帰りがけに公園に寄ろうと思った。切り株に腰かけて、さっき自販機で買ったコーヒーを飲んで……それが私の、この街で最後の休息になる。この街で、あの桜だけは好きだった。
公園の入口で立ち止まる。誰もおらずひっそりとしており、鳥の鳴き声もせず寂しい。私は天壌無窮の一地点に立ち往生している。懐かしい孤独であった。孤独なら、孤独のままで、こっそりとあの切り株に近づこう。忍び足でそろりと歩く。切り株の上には小枝が落ちていた。それを取り除けようとしたとき、どこからかあの蝶々がひらひらと舞い、その小枝の先にちょんと止まった。あぁそうだった、あの人は瑠璃色の蝶簪をつけていた。




