最終章 18時の空 (6/6)
ポーン、ポーン――
申請理由:労働生産性向上および持続可能な業務体制構築。
難しいことを言っているが、
――要するに、帰る。
ポーン、ポーン――
電子音がフロアに柔らかく、少しだけ誇らしげに響いた。
天井のスピーカーから落ちてくるその音は、蛍光灯の白に溶けながら、残業前提で張り詰めていた空気の角をゆっくり丸くしていく。
最初は冗談みたいな提案だった。
(会社にもチャイムあればいいのに)
学校みたいに、
「今日はここまで」って世界の側から線を引いてくれる音。
俺の業務改革案のひとつ――
“18時退社チャイム”。
最初は反対もあった。
「子供っぽい」
「自主性がない」
もっともらしい言葉が並んだ。
でも社長は笑った。
「面白い。やってみろ」
半分遊びみたいな口調だったのに、決裁印だけはやけに速かったのを覚えている。
あの人、変なところで勘がいい。
そして今日。
ポーン、ポーン。
その音で、数人が自然に席を立つ。
「お先に失礼します」
「森さん、明日レビューお願いします」
「了、あした12時にステ確認で」
「残業前提で組むなよ」
「はい、お疲れさまでーす」
罪悪感のない声。
自然に。
申し訳なさを背負わない声で。
時計を見上げる癖も、もういらない。
(終電基準だった頃が嘘みたいだな)
俺はPCを閉じる。
静かにスリープへ落ちる画面に、自分の顔が一瞬だけ映る。
革靴の先はまだ擦れている。
でも、足取りは軽い。
床を蹴る力が、余っている。
「責任者」
美咲が隣に立つ。
視線は冷静なのに、どこか面白がっている温度が混じっている。
「鳴りましたね、夢のチャイム」
「夢ってほどじゃない」
「会議中にメモの端に“キーンコーン案”って書いてましたよね」
「見るなよ」
「見えたんです」
口元が少しだけ悪戯っぽい。
褒めているのかからかっているのか分からない、あの絶妙な表情だ。
でも今日は、どっちでもいい気がする。
エレベーターに乗る。
扉が閉まる直前、もう一度チャイムが遠くで鳴った。
ビル全体が「今日は終わり」と言っているみたいで、少し可笑しい。
沈黙。
でも前みたいな重さはない。
役割じゃなく、ただ並んでいるだけの時間。
下降ランプが一つずつ減っていく。
耳が軽く抜ける感覚。
身体が「外へ戻る」準備をしている。
ビルを出ると、夕焼けが広がっていた。
オレンジ色がガラスに滲んでいる。
「……まだ、慣れませんね」
美咲が空を見上げた。
「何が」
「18時の空」
少しだけ笑う。
「この時間に外にいるの、前はほとんどなかったので」
確かに。
少し前まで、この時間はまだ“会社の色”だった。
美咲は夕焼けを見上げたまま、言葉を探すみたいに一度だけ瞬きをする。
軽く息を吐く音が、耳に届いた。
「……終電のホームって」
歩調を合わせた俺の隣で、
美咲はふっと視線を落とし、目を少し細めた。
「光の色が、全部同じなんですよね」
あの見慣れた光だ。
白い蛍光灯。
色のない顔。
音だけがやけに響く構内。
「あの日も、ああいう光の中でした」
美咲がぽつりと言う。
「その前の週、倒れました」
足が止まる。
「え?」
「駅の階段で、立ちくらみ」
さらっと言うな。
「病院行ったら、軽い過労ですねって」
風が吹く。
「でも、誰にも言えなかった」
真面目だからだ。
結果を出す人ほど、弱音を吐けない。
「会議で」
彼女は続ける。
「“気合いが足りん”って聞いた瞬間、少し笑いそうになりました」
「なんで」
「もう限界なのに、まだ足りないって言うんだ、って」
眉を寄せて、無理やり笑うみたいな顔をする。
痛い笑いだ。
「あのとき」
少し間。
「佐伯さん、言ったんです」
彼女が俺を見る。
真っ直ぐ。
「“それ、今日やる必要あります?”って」
俺が、回ってるだけで前進って言い張る会議に溺れていた時だ。
「……あれで」
声が、ほんの少しだけ柔らぐ。
「一人じゃないって、思えました」
俺は前髪をかき上げる。
「……あのとき、俺も限界だった」
「知ってます」
即答。
「顔に書いてありました」
「どんなだよ」
「帰りたい、って」
ぐうの音も出ない。
夕焼けが、ゆっくり群青に変わっていく。
「だから声かけたんです」
「議事録いります?って?」
「はい」
うなずいた拍子に、ショートボブがふわりと揺れる。
風に乗って、やわらかい匂いがかすめた。仕事終わりの疲れた脳には刺激が強い。
「本当は、一緒に帰りませんかって言うつもりでした」
鼓動が跳ねる。
今さら律儀に反応するな、俺の心臓。
彼女は視線を逸らし、少し前を歩く。
「でも、それは……ちょっと勇気が足りなかったので」
――今なら、足りてるのか。
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
いやいや、あのときの俺に受け止められたかと言われると、正直怪しい。
余裕ゼロ。残業代より酸素が欲しかった頃だ。
誰かの気持ちを抱えるスペースなんて、ポケットにも入ってなかった。
けれど。
彼女が欲しかったのはたぶん、
気の利いた言葉でも何でもなくて。
——隣に誰かいるって感覚。
それだけだったんだと思う。
助ける、でもない。
守る、でもない。
なら。
「次は……」
ネクタイを緩める。時間稼ぎ。情けない大人の常套手段。
「一人で抱えないこと」
「何をですか」
試すみたいな目で見るな。こっちは今、言葉を慎重に選んでる。
「帰りたいって思ったら」
視線を逸らす。夜風が頬を撫でる。
くそ、妙に暑いぞ。
「一緒に……帰ればいい」
言った。
たぶん今、信号より俺の顔のほうが赤い。
交差点で美咲と並ぶ。
沈黙。
横断歩道の電子音が、元気に囀り始める。
ピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨ——
小鳥達。
(空気読め)
堪えきれず、俺につられて美咲も同時に吹き出す。
目が合う。
ああ、こういうのでいい。
肩の力が、すっと抜ける。
何も構えなくていい。
いつも通りでいい。
雑に髪をかき上げて、肩を落とす。
「俺も言うからさ……美咲」
彼女は、驚いたように俺を見つめる。
口が開いて、閉じる。
唇の端が、堪えきれないみたいに震えながら緩む。
瞳が笑った。
それから、ほんの少しだけ距離を詰めてきた。
肩が触れそうで触れない。
「じゃあ」
声が、少し弾む。
「今日も一緒に帰りますか、佐伯さん」
「帰ろうか」
頷くと、彼女は小さく笑った。
俺は擦れた革靴の先を軽く上げ、彼女と一緒に歩き始める。
18時の空が、ゆっくりと色を移ろわせていく。
――明日。
黒田部長が、とんでもない案件を持ってくることになる。
まあ。
それはまた、明日の俺に任せるとしよう。
……頑張れ、明日の俺達。
〜fin 〜
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
物事が変わるきっかけって、
大事件じゃなくて、小さなことだったりします。
何気なく書いた一文だったり、
ふと口にした一言だったり。
一人で思っているようで、
実はどこかで同じことを考えている人がいたりして。
そんな言葉が、時間や環境に重なったとき、
思いがけず大きく動き出すきっかけになったりします。
この物語も、そんな小さな始まりの話でした。




