六章 愛と優しさが真実のものなら、奇跡も起きるでしょう。
エリサが魔女として火炙りにされるという話は、すぐに兄弟たちの耳に入った。
「エリサを助けなきゃ」
フェランがおろおろと言う。
アルディンとサラフィンも怒り狂っていた。
「エリサが魔女なんて、ひどい言いがかりだ」
「国王は、なにをやってるんだよ! やっぱり、さっさとエリサを取り返してればよかったんだ!」
「……陰謀っぽいな」
バートラディがつぶやく。
「そうだね」
と、エニセイもうなずく。
「噂では、大僧正はエリサが王妃になったことを不満に思っていたらしいよ。彼がエリサを追い落とすために企んだのか、それとも……」
兄弟たちはエニセイに注目したまま、沈黙した。
みんなの気持ちを代弁してラスターが言った。
「ジークが姿をくらましたことと関係あると思うか?」
「うん、多分ね……」
もう三日も、長兄のジークハルトの行方は不明だった。
いつもはこんな人騒がせはラスターの専売特許で、またいなくなったのが気ままなバートラディか孤独癖のあるヘルマンだったら、兄弟たちも心配しなかっただろう。
けれど長兄のジークハルトは兄弟のまとめ役である立場をよく心得ており、昔から責任感の強い真面目な性格だった。
そのジークハルトがなんの連絡もなしに三日も行方不明なのは、あきらかに異常である。
不安がっていたところに、今度はエリサが火炙りになると聞いて、みんなこの二つの出来事を結びつけて考えずにいられなかった。
特にバートラディとユリウスは、そこに一人の女の影を感じていた。
つまりアガーテの姿を──。
二人は視線を交わしあったが、どちらも黙っていた。
ジークハルトが義母のアガーテに恋心を持っているなど、なるべくなら口にすべきではない。
兄弟たちのリーダーであるジークハルトの立場を思いやったのだ。
一方、ラスターは二人の沈黙のやりとりを見てとり、あとでバートラディに問い詰めようと決めた。
エニセイが難しい顔で推測してみせる。
「ジークは多分、エリサに会いに行ったのだと思う。そこでなにかがあった。そしてそのことが、エリサが魔女に仕立て上げられたこととも関わりがあるような気がするよ」
バートラディと同腹の彼は、兄弟たちの中で一番学識が高く、参謀の筆頭だったが、学者らしく色恋の機微には疎いところがあったので、ジークハルトとアガーテの関係にまでは思いが及ばず、またラスターのようにバートラディとユリウスの微妙なやりとりにも気づかなかった。
「なにがあったかなんて、もうどうでもいいよ。エリサを助けなきゃ! 一週間後には町の広場で火炙りにされるんだよ!」
フェランは必死だ。
他の者たちも同じ気持ちだったが、意見を言い合うばかりで、具体的にどうすればいいか、なかなか決まらない。
バートラディは苦い気持ちで、胸の中でつぶやいた。
(やはりジークがいないと……)
特別才気のある発言をするわけではない。たいていは弟たちの話を軽くうなずきながら聞いているだけだが、ここぞというところで断を下したり、方向を示したりするのは、長男の彼だった。
このままでは動きのとりようがない。
「ジークを見つけるのが先決だ。エリサの刑は一週間後だから、そのあいだ身は安全だし、どこにいるかもわかっているから、いつでも助けにいける。今はジークのほうが気がかりだ。エリサの処刑の日まで、なんとかジークを見つけよう」
バートラディの言葉に、みんな一応納得した。
◇◇◇
その日から手分けしてジークハルトを探しはじめた。
バートラディはラスターに、ユリウスへ向けた視線の意味を訊かれた。
バートラディはとぼけていたが、ラスターのほうで気づいたようで、すぐにハッとした表情になった。
「ジークが、アガーテに惚れてるってことか? まさか──」
まさかと言いつつ、思い当たる節があるのだろう。女性に人気の、愛嬌のある顔をしかめて唸る。
バートラディも、もう否定しなかった。
バートラディにとってジークハルトは親友だが、ラスターは別の意味で気の合う遊び仲間だった。
ラスターが騒動を起こすときは、たいていバートラディも一枚噛んでいた。
身分を気にせず自由でおおらかで、誰とでも友人になってしまうラスターなら、兄の苦しい恋を知っても非難したり裏切られたとショックを受けたりしないだろうと、バートラディは判断したのだった。
「うぅぅ、ジーク兄貴は真面目だからな……」
兄の心を思いやって、ラスターはため息をついた。
「おれは、好きなら好きでかまわないと思うけど、まぁ相手があの女ってのは、やっぱり問題か。それにしても、惚れちまったんなら仕方ないよなぁ、うん」
「おまえほど能天気なら、ジークも一人で思い悩まずにすんだのだろうがな」
バートラディはひっそりと笑った。
「あいつは自分一人で、なんでも抱え込んでしまうから。長男だから弟たちの悩みを聞いてやっても、自分は弱音を吐いてはいかんと無意識のうちに思っとるんだろう。ヘルマンも感情を出さんが、あれは鉄の男だ。精神が強く安定している。無理に耐えているわけではなく、あれで自然体だから、安心して見ていることができるが、ジークのほうは……一度爆発させてしまえばいいんだがな……」
「おい」
ラスターは唾を飲み込み、冷や汗をかいた。
「怖いことを言うなよ〜。それがどういう意味かわかってるのか? おれたちは火の粉が降りかかろうが爆風に飛ばされようが、どうでもいいさ。でも、エリサの命がかかってるとなれば話は別だ。なにがあってもエリサは守る。これは、おれたちの共通の使命みたいなもんだろう?」
「ああ、わかってるとも。あの子はおれたちの中で、たった一人の女の子だからな。誰にとっても大切な宝物だ」
その宝を救うためにも、ジークハルトを探さなければならなかった。
それに多分、エリサならジークハルトの心を安らげることもできるだろう。
◇◇◇
フェランはエリサの身が気がかりでならなかった。
一週間後に火炙りの刑にすると宣告されたということは、その日まで命の安全を保障されるのと同じだと、バートラディは言った。
けれど暗い牢獄でエリサがたった一人、どんな思いで処刑の日を待っているのだろうと考えると、フェランは苦しくて苦しくて、とてもエリサを放っておけなかった。
きっと心細くて、泣いているに違いない。
(火炙りになる前に必ず助けるから、心配しないでって教えてあげよう)
白鳥の姿で城の上をすみずみまで飛び回り、高い塔に幽閉されているエリサを見つけた。
窓はうんと小さいものが、たったひとつついているだけで、部屋の中は薄暗かった。
そこよりずっと下の床で、エリサはうつむいたまま手を動かしている。
(あっ)
とフェランは息をのんだ。
それほどやつれて変わり果てた姿のエリサが、そこにいた。
いつも身綺麗にしていた子が、髪を振り乱し頬はこけ、目を血走らせて、ひたすら編む手を動かしている様子は、凄絶としか言いようがない。
指先はひび割れ、血が滲んでいる。
布団どころか藁すらもない部屋の中には緑の肌着と、籠に入った刺草だけが置いてあった。
今のエリサを見たら、誰でも魔女だと思うだろう。
(一体、なにがあったんだ)
エリサは下を向いたまま、刺草の肌着以外はどんなものも見えず、なんの音も聞こえない様子だ。
フェランがくちばしで窓を叩く動作を繰り返しても、顔を上げようとしない。
それでも辛抱強く叩き続けていると、ようやく気がついて、天井の窓を見上げ、まぶしそうに目を細めて。
ゆっくりと唇をほころばせ、
清々しく笑った。
エリサの笑顔の理由が、フェランにはまったくわからなかった。
数日後に処刑されるというのに、エリサの表情にも態度にも恐れはかけらもなく、すでになにもかも受け入れて、刺草の肌着を編むことに残る力のすべてを捧げているようだった。
(逃げよう、エリサ)
フェランは窓を叩き、羽をばたばたさせて訴えた。
(こんなところにいちゃダメだ。逃げよう)
しかしエリサは(帰ってちょうだい)というように首を横に振り、また編み物を続けた。
フェランは愕然とするしかなかった。
エリサを見ているうちに、深い哀しみが込み上げてきた。
エリサは幸せな女の子だった。
誰からも愛されていて、光やそよ風の似合う少女だった。
なのに、そのエリサが魔女の汚名をきせられ、冷たい牢獄の中で狂女のように刺草の肌着を編んでいる。
(なにがあったの? エリサ?)
(ぼくじゃ、きみを助けることはできないの?)
鳥の姿を、こんなにもどかしく思ったことはなかった。
訴えたくても声が出ないのだから。
塔の窓から離れ、フェランは夜まで城の中に隠れていようと決意した。
そして国王に会うのだ。
エリサが魔女ではないことを、ハドリーク王にわかってもらおう。
今のフェランには、エリサを助ける方法はそれくらいしか思いつかなかった。
◇◇◇
連日過剰な政務をこなし、疲れはてて自分の部屋に戻ろうとしたハドリークは、誰かに呼び止められて振り向いた。
廊下の曲がり角から、女みたいな顔をした青年が、おずおずとハドリークを見ている。
綺麗で上品な様子をしていたが、着ているものは質素で、よく衛兵に見咎められずに宮廷の内部まで入り込めたものだと驚いた。
「エリサのことで、お話があるんです!」
青年は緊張しているのか、周囲をはばからぬ高い声を上げた。
「エリサとは誰だ?」
ハドリークは顔をしかめた。
青年は「あっ」という顔で、
「お、王妃さまです、ハドリーク王」
「王妃だって!」
「はい、エ──王妃さまは、魔女なんかじゃありません」
「おい、おまえは王妃の──」
なんだ? と問いかけようとしたとき、声を聞きつけた家来たちがやってきた。
ハドリークは青年を近くの部屋に押し込み、待っているようにささやいた。
「国王さま、今こちらで奇怪な声がしましたが」
「そうか? おれは聞こえんかったぞ」
「しかし確かに……」
「もういい、早く持ち場へ戻れ」
部屋の中の存在が気になってたまらないハドリークは、イライラと家来たちを追い払った。
足音が消えるなり、ドアを開ける。
しかし青年の姿は、どこにも見当たらなかった。
「出てこい、話を聞くぞ」
隠れているのかと思い呼んでみたが、やはり返事はない。
これほどはっきりした夢などあるはずがないのに、いったい彼はどこへ消えてしまったのか?
(金の百合の知り合いらしかったが、おれになにを告げにきたのだろう?)
青年がまだ近くにいるような気がして、ハドリークはしばらく部屋の中で待っていたが、ついに青年は姿を見せず、ハドリークはすっきりしないまま自分の部屋に戻った。
◇◇◇
ジークハルトに続いて、フェランまで行方不明になってしまった。
これは、ますますただごとではない。
ユリウスが気がかりそうに言う。
「フェランはきっとエリサに会いに行ったのだろう。国王の家来につかまって、城の牢屋に閉じ込められているのかもしれない」
「いや、それなら騒ぎになってもおかしくないはずだ。そんな様子はなかったぞ」
なにかもっと邪悪な意志が動いている。
おそらくそれは──。
声に出さず、全員が感じていた。
領主を操り国を乗っ取り、兄弟たちにおぞましい呪いをかけたあの魔女が、近くにいる。
新たな悪事をなすべく、暗闇に身を潜め、じっと機会をうかがっている。
少しでも弱みを見せれば、嬉々として襲いかかってくるだろう。
「とにかく急いでジークとフェランを探せ。もう刑の日まで三日しかないぞ。それからなるべく一人で行動するな。ヘルマンはミルトとリーヴと一緒にいろ。アディとサティはラスターとだ。ユーリとエニセイは、おれと来い」
双子はヘルマンと組まされたのがミルトなのが不満そうだったが、場合が場合なのでおとなしく従った。
三組に分かれた兄弟たちは、消えた二人の行方を必死で追った。
しかし手がかりがつかめないまま、一日が過ぎようとしていた。
◇◇◇
城の様子をうかがっていたバートラディ、ユリウス、エニセイは、屋根の上に立つ女を見つけた。
黒い髪を風にふくらませ嫣然と微笑む女は、間違いなくアガーテだった。
むきだしの肩に、一羽の白鳥が従順な様子でとまっている。
(まさか!)
バートラディもユリウスもエニセイも、目を疑った。
アガーテの肩に彼女のしもべのようにとまっているのは、長兄のジークハルトだ!
驚きのあまりなにも考えられずにいる兄弟たちのほうへ、アガーテが手にしていた壺を向けた。
それから口の中で、なにやら呪文を唱える。
──まずい、逃げろ!
バートラディが気づいたときは遅かった。
壺から流れ出る黒い気が彼らをとらえ、壺の中へ引き摺り込んだ。
街を飛んでいたラスターと双子たち、
森を探索していたヘルマン、ミルト、リーヴェランセ、
みな、壺に飲み込まれた。
ヘルマンはアガーテのほうへくちばしを突き立てて向かっていったが、ジークハルトにはばまれ、壺の中に消えた。
「すぐに殺しはしないわ」
アガーテがジークハルトの頭を、くすぐるように撫でながら言った。
「あさっては、可愛いエリサちゃんが火炙りになる日ですもの。あなたたちも見たいでしょう? いいわよ、見せてあげる」
世界を赤く染め夕陽が落ちる。
白鳥から人間の青年に戻ったジークハルトを、アガーテは好まし気に見つめ、しっとりとした赤い唇を、彼の首筋にこすりつけた。
「いい子ね、ジーク。あなたは助けてあげるわ。エリサが死ぬのを見届けたら故郷へ帰って、あの老いぼれを始末してしまいましょう。あなたを新しい領主にしてあげる」
ジークハルトはアガーテを抱き返した。
その顔には死者のように、なんの感情もない。
夜が過ぎ、朝が来て、また陽が沈んだ。
刑の日は明日に迫っていた。
◇◇◇
最後の十二枚目の肌着を、エリサは黙々と編んでいる。
兄たちになにが起きているのか知る由もない。
ただ黙々と、傷だらけの指を動かしている。
「……王妃さま」
ドアにつけられた小窓が開いて、一人の老人が顔をのぞかせた。
大臣だった。
目をうるませ、彼は言った。
「今までこのような場所に閉じ込めて辛い思いをさせてしまったことを、どうぞお許しください。国王さまがやっと王妃さまとお会いになって話すと言ってくださいました。お二人で向き合えば、王妃さまが魔女であるはずはないと、国王さまもわかってくださいます。大僧正にばれぬよう、牢番は私がしっかり口止めしました。今、鍵を開けますから、こっそり国王さまの部屋におこしください」
しかしエリサはフェランにそうしたように、大臣にも首を横に振って拒絶の意を示した。
大臣は小さな窓にすがりついて叫んだ。
「王妃さまは、このまま火炙りになるつもりですかっ! もう無実をはらす機会は、今しかないのですぞ! 国王さまは王妃さまを愛しておられます! 王妃さまを処刑などしたくなくて苦しんでいるのですっ! どうか──どうか、王妃さま!」
エリサは大臣のほうを見ようともせず、首を横に振るばかりだった。
エリサの頭の中には十一枚の肌着を編み上げることしかなかった。
今、編む手を止めたら、この一年間の苦しみも哀しみも、すべて無駄になってしまう。
たとえ命の最後の一砂まで使い果たしても、これだけはやりとげなければならない。
大臣は絶望のため息をついて、ドアから離れた。
◇◇◇
大臣の言葉を聞いたハドリークは、さらに絶望した。
「あれが会いたくないというなら、仕方あるまい。予定通り刑を行うまでだ」
口では冷たく言い捨てながら、心の中は気も狂わんばかりだった。
(なぜだ! なぜ、おれに許しを乞わない?)
(おまえが、おれの足もとに身を投げ出して許しを乞えば、おれに、おまえを殺すことなどできはしないのに)
(なぜ、おれを拒む?)
(おれに背を向ける?)
(おまえを火炙りになどしたくないのに──!)
ハドリークは眠れぬ夜を明かした。
エリサも眠らなかった。
十一枚目は、まだ完成していない。
◇◇◇
年老いた馬の引く荷車に乗せられ、エリサは広場に連れてゆかれた。
うつむいて仕事を続けるエリサの顔に、長い髪がばらばらに垂れ下がっている。
足もとには編み上がった十枚の上着がおいてあった。
大僧正はエリサと一緒に、いまわしい魔女の持ち物もすべて焼いてしまうよう命じたのだ。
かつて金の百合さまと呼ばれた面影はどこにもない。
ハドリークは胸をつかれた。
しかしもう、どうにもならない。
見物人たちは王妃だった女を嘲り、石を投げた。
いくつかが、女の肩や額に当たったが、女はみじろぎひとつせず手を動かしている。
その様子に人々はぞっとし、ますます女を憎んだ。
これから火炙りになるというのに、女は罪を悔い改める様子もなく、手には讃美歌の本すら持っていないのだ。
「魔女から緑の肌着を取り上げろ! きっと悪い魔法に使うに違いない! ずたずたに引き裂いて踏みつけろ!」
見物人たちが、女のほうへ押し寄せた。
兵士が槍を振り回して近づけまいとし、ひどい騒ぎになった。
「魔女!」
「売女!」
「よくもおれたちを騙したな!」
近くで罵声を浴びせられ、女は肌着をかかえながら、それでもまだ指を動かす。
ハドリークはこの有様を、とても見ていられない。
目を閉じ、顔を背けた。
逆に、肩に白鳥をとまらせた美女は、爛々と目を輝かせて見つめている。
白い手には乳白色の壺を抱えていた。
それに語りかけるように女はつぶやいた。
「ほぉーら、よく見るといい。清らかな聖女だった、あなたたちのエリサちゃんが、魔女として憎しみのまとになっているのを」
ついに一人の手がエリサの持っている肌着の袖をつかんだ。
エリサの顔が恐怖に引きつった。
そのとき。
まさに、そのとき。
アガーテの肩にとまっていたジークハルトが、鋭いくちばしでアガーテの手から壺を叩き落とした。
壺は砕け散り、そこから十羽の白鳥が空高く舞い上がった。
「なにをするの! ジーク! なにをするの!」
アガーテは半狂乱になった。
自由になった兄弟たちは、白い羽をはばたかせ、エリサのほうへ飛んでいった。
まずラスターが、肌着の袖をつかんで引っ張っている男目がけて突っ込んだ。
「うわっ、なんだ!」
男は頭を押さえて逃げ出した。
白鳥の姿をした兄弟たちは、エリサに近づくものは誰一人として容赦しないというように、その周りを飛び回った。
白い鳥に守られた乙女は崇高なまでに美しく、その姿に人々は心打たれた。
「王妃さまは……無実だっ」
誰かが喘ぐように叫んだ。
「あの白鳥は天の使いだ!」
鋭い鳴き声とともに、今度は巨大な黒い鳥が現れた。
鳥は体中から嫌な匂いを発散させ、十一羽の白鳥に向かっていった。
黒い怪鳥と白鳥たちとの闘いが、群衆の前で激しく展開した。
白鳥たちは黒い鳥の羽をくちばしで挟んだり、数羽で一斉に飛びかかったりするが、 黒い鳥のほうが圧倒的と思われた。
黒い鳥は羽ばたきひとつで白鳥たちを振り払い、さらに荒れ狂った。
そのときだ。
エリサが荷車の上で立ち上がり、白鳥目がけて緑の肌着を投げつけた。
一枚、
また一枚、
さらに一枚、
必死で投げた。
そして人々は奇跡を見たのだ。
緑の肌着をかぶった白鳥は、次々地面に降り立ち、人間の若者に変わった。
典雅な物腰の美青年がいた。
落ち着いた青い目の青年。
日に焼けた肌の偉丈夫。
まだあどけなさの残る少年たち。
彼らは互いに顔を見合わせ、唖然としていた。
エリサは荷車の上で、泣き出さんばかりの顔で震えている。
空から怪鳥がけたたましく鳴きたてた。
青年たちは腰の剣を抜いた。
まずバートラディが、怪鳥の右の羽を切りつけた。
ラスターが、左の肩を突き刺す。
双子も、勇敢に剣を振るった。
ヘルマンの剣は神技的だった。アガーテの左の羽を一振りで切り落とし、時を待たずに喉もとに剣を突き立てようとした。
その手を、バートラディがつかんで止めた。
アガーテにとどめを刺すのは、ヘルマンであってはならない。
ジークハルトの剣が、アガーテの心臓をまっすぐにつらぬいた。
「裏切り者! わたくしを騙したのね!」
恐ろしい恨みの声が広場の隅々まで響き渡り、怪鳥の体が一瞬にして燃え上がり、灰になって消えた。
ジークハルトは静かな表情でそれを見つめていた。
エリサはまだ声を出せずにいる。
様々な気持ちが込み上げて、胸がつまって声が震えた。
兄たちがエリサのほうへ走ってくる。
ラスターがエリサの体を罪人の車から、軽々と抱きおろした。
エリサは兄の首にしがみついた。
「エリサ!」
「エリサ」
「エリサ!」
兄たちは次々エリサのもとに集まり、彼女を抱きしめた。
エリサの愛と献身が、兄たちにかけられた魔法をついに解いたのだ。
ジークハルト、
バートラディ、
ユリウス、
ラスター、
ヘルマン、
エニセイ、
リーヴェランセ、
フェラン、
アルディン
サラフィン、
ミルト、
今度こそ、みんなエリサのもとに帰ってきた。
「ありがとう、エリサ」
ジークハルトが優しく言った。
エリサは兄の胸にしばらく顔をうずめ、この奇跡がひとときのものではないことを確認していたが、やがて顔を上げてハドリークのほうを見た。
ハドリークは唖然としている。
エリサは目に涙を浮かべたまま、真っすぐに彼を見つめた。
そして言った。
「わたしは魔女ではありません」
ハドリークの反応を待つ間もなく、緊張の糸が切れ、エリサは兄たちの腕の中に崩れ落ちた。