五章 私は見たのです、王妃が墓場で人を食らっているのを。(2)
肌着を編むための刺草を、どうやって手に入れればいいのだろう。
エリサは苦悩していた。
最後の一枚を編みあげるには、手もとにある糸では足りない。
刺草から糸を作らなければならない。
期限の一年まで残り一ヶ月を切った。
一日も早く刺草から糸をとり編みはじめなければ、間に合わないわ。
エリサは刺草をとってきてもらえないかと、身振りや手振り侍女に訴えてみたが、みんな首をかしげるばかりで伝わらない。
刺草が生えていた洞窟は遠く、エリサの足で誰にも見咎められずに行くのは難しいだろう。
どうすればいいの?
胸が潰れそうなほど苦悩していたとき、教会の墓場に刺草が群生していることを、侍女の会話から耳にした。
「あの教会は、夜になると悪い霊が彷徨い歩くというわよ。魔女や悪魔が集まって、死体を掘り起こして食べるんですって」
「みんな怖がって昼間も近づかないし、神父さまのなり手もいないから荒れ放題の草ぼうぼうで、わたし、このあいだお使いで外へ行ったとき、遠くからちらっと見たんだけどゾッとしたわ。刺草……だっけ? あのチクチクする草。あれが墓石が隠れるほど伸びて、死人の手みたいに、風にゆらゆら揺れているの」
刺草がたくさん!
エリサの胸は高鳴った。
その教会なら、城から歩いていける。
けど、万が一、誰かに見られたら──。
王妃の夜歩きを、人はなんと噂するだろう?
ハドリークが聞いたら、どう思うだろう?
あれやこれやと気が迷って、なかなか決断がつかなかった。
緑の部屋で椅子に座ってじっと考え込んでいると、トントンと音がした。
エリサは驚いて、ドアのほうを見た。
トントン、とドアとは別のほうから、また音が聞こえた。
部屋に張り巡らせた緑のカーテンを、エリサは急いで持ち上げた。
窓ガラスの向こうに一羽の白鳥がいて、くちばしで窓を叩いていた。
エリサは夢中で窓を開け放ち、中に入ってきた白鳥を思いきり抱きしめた。
◇◇◇
その日の夕食の席に、金の百合の姿はなかった。
ハドリークはこれ以上ないほど不機嫌で、むっつり黙り込んでいた。
(もう我慢できない! なぜおれを避けるのか、はっきり問いただしてやる)
しかし、いくら責めても口のきけない王妃から弁解の言葉を聞けるわけもなく、また泣かれたらと思うと、弱気になってしまう。
王妃の部屋へ行くまいか行くべきか悶々としているうちに、夜は刻一刻とふけてゆく。
◇◇◇
エリサは緑の部屋で、兄ジークハルトの腕に抱かれ、ぴったりと肩を寄せ合っていた。
兄は他の兄弟たちの様子などを話していたが、エリサと寄り添っているうちに子供のころのことを思い出したのか、あたたかな口調で語りはじめた。
エリサが肖像画でしか知らない母との思い出。
父が、母をどんなに愛していたか。
母が、父や兄弟や従兄弟たち、そしてはじめての女の子であるエリサを、どれほど慈しみ、愛したか。
兄弟たちはみんな、たった一人の女の子に夢中だった。
みんなが、エリサの騎士のつもりだったんだよ、と。
エリサの胸にもよみがえる。
エリサたちが過ごした城は、この城よりもずっと小さかったし、庭も狭かった。
大きな池も、立派な礼拝堂もなかったけれど、あの小さな庭がエリサと兄弟たちにとって、この世で一番美しくて楽しい場所だった。
みんなで手つなぎ鬼をしたり、隠れんぼうをしたりして遊んだ。
高い木にのぼっておりられなくなったエリサを助けに来てくれたのは、ラスターだった。
綺麗な絵本を読んでくれたのはユリウスだ。
お腹が空くと、木陰で、みんなで焼き林檎や、干し葡萄の入ったケーキを食べて、冷たい水をのんだ。
毎日毎日楽しくて、いつも笑っていた。
あの小さな庭で、小さなエリサと小さな兄弟たちは、なんと幸せだったのだろう。
あそこで日々は、なんと優しく流れていたのだろう。
それはエリサたちにとって、どんなことがあっても忘れることのできない楽園の記憶で、十一人と一人を結びつける、血以上に固い絆だった。
「たった一人の女の子のきみを幸せにすることが、私たち全員の望みだった。今でもその気持ちは変わらないよ」
ジークハルトの声は、胸にしみ入るように優しかった。
「きみが幸せになることが、私たちも幸せにするんだ。いいかい、エリサ? そのことを決して忘れてはいけないよ。きみは、きみの愛や幸福を決して手放してはダメだ。なにが、きみにとって一番大切か、よく考えるんだ。私たちはきみのためなら、いつだって剣をとって戦うし、命だって惜しくはない。だから、きみは幸せにならなければならない」
そうしてジークハルトは、エリサの瞳をのぞきこみながら尋ねた。
「エリサは、ここに、いたいのかい?」
兄の優しい眼差しに、エリサは胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
嘘はつけず、小さくうなずく。
「ハドリーク王のことを、愛しているのかい?」
今度は答えることができなくて、涙をこぼした。
ジークハルトがエリサの涙を、指でぬぐってくれる。
「無理に答えなくてもいい。自分でわかっているんだろう?」
エリサがかすかにうなずくと、兄は笑った。
「思うとおりにすればいい。私たちはみんな、どんなときでもエリサを愛しているよ。エリサを見守っている」
エリサは兄の胸にすがりついて泣いた。
ジークハルトはエリサを抱きしめ、髪を撫でたり優しい言葉をささやいたりして、なぐさめてくれた。
◇◇◇
夜明け近くに金の百合の部屋を訪れたハドリークは、人の話し声を聞いて、耳をそばだてた。
涼しげな、若い男の声だ。
今日はもうお別れだ、というような言葉が聞きとれた。
それから、いつもきみを愛しているよ、と。
誰だ!
ハドリークはカッとなって、叩きつけるようにドアを開いた。
開け放たれた窓から朝の一番最初の光が射し込み、ハドリークはまぶしさに目を細めた。
羽ばたきの音が聞こえたような気がして、目を開けて、あらためて部屋の中を見渡したが、声の主らしき男はどこにもいなかった。
金の百合が一人、驚いている顔で床に座っている。
その目は泣き腫らしたあとのように真っ赤で、うるんでいて、頬にも涙のあとが残っていた。
間違いない、金の百合はこの部屋で男と会っていたのだ。
ハドリークは彼女が怯えるのもかまわず、ベッドのシーツをはぎ、戸棚を乱暴に開け、男を探した。
しかし男は見つからず、ハドリークは怒りに我を忘れたことが悔しくて、いたたまれなくなってきた。
(王であるおれが、嫉妬に狂った間抜けな男どもみたいに……)
男の声を聞いたと思ったのも、気のせいだったのだろうか?
(いや、確かに聞いた。涼しげで品のある、若い男の声だった)
ハドリークの脳裏に浮かんだのは、舞踏会でみんなの前で歌った竪琴弾きの青年だった。
あの美しい青年を見て、金の百合はとても驚いていた。
二人はやはり知り合い──恋人同士だったのでは?
疑惑はハドリークの胸を、どうしようもなくしめつけた。
今ここで彼女の肩をつかんで、おまえが話していた男は誰だと問いつめてやりたい。
しかし肝心の男がいなくてはどうしようもなく、怒りをこらえて部屋をあとにした。
次に男が訪ねてきたら、必ず切り殺してやろうと誓いながら。
◇◇◇
荒々しく遠ざかってゆく足音を聞きながら、エリサはうろたえていた。
ハドリークはどうしたのだろう。
あんなに怒った彼を見るのは、はじめてだった。
(まさかジークお兄さまとわたしが抱き合っているのを、見られてしまったんじゃ)
不安が胸を暗くしたが、エリサの気持ちはもう決まっていた。
(それでもかまわない。たとえ国王さまの怒りにふれて殺されても、わたしはお兄さまたちの呪いを解くわ)
自分の幸せを考えろという兄の言葉が、皮肉にもエリサにより強い決意をさせたのだった。
(あの優しいお兄さたちを見殺しにすることは、絶対できない)
ジークハルトは、兄弟たちはみんな、エリサのために命を投げ出すだろうと言った。
(わたしだってできる)
(お兄さまたちのためなら、なんだってできる)
夜の墓場へ行くことも、もう怖いとは思わなかった。
その夜エリサはこっそりと城を抜け出し、墓場への道を歩いていった。
◇◇◇
月もない暗い夜だった。
風の音さえ聞こえない。
代わりに、静まり返った墓場のどこからか、低い笑い声が流れてきた。
(ほら、ごらんよ。生きている人間が来たよ)
(綺麗な子だ。血も体も綺麗だろう)
(食べたいなぁ)
(食べたいなぁ)
墓石の上や木のあいだから、いくつもの目が、じっとエリサを見つめている。
エリサの足は震え、大きな籠を持った手は汗ばんだ。
侍女が言ったとおり、刺草は墓場のあちこちに群れ集まって生えている。
悪霊たちの声を聞かないようにしながら、エリサはかき集めるようにして刺草を籠の中に入れていった。
(ねぇ、あの子、食べようよ)
(食べよう)
(食べよう)
青白い手が、いくつもエリサのほうへのびてくる。
エリサは身をすくめた。
しかし、どの手もエリサのすぐそばまでくると、恨めしそうな声を発したまま触れられずにいた。
かといって、髪の毛一本分もないところで無数の手がうごめいているのが、気持ちの良いものであるはずがない。
兄たちの名を心の中で唱えながら、エリサは必死に恐ろしさに耐えた。
(さわれない)
(さわれない)
(くやしい)
(くやしい)
悪霊たちが恨めしげに唱和するのを、微笑んで聞いている女がいた。
黒いフードを頭からすっぽりかぶって闇に溶け込んでいる女は、隣の、やはり黒いマントを着た小男に、楽しそうに話しかけた。
「ごらんなさい、やっぱりあの娘はやってきたわ。これであの娘は破滅する。愛ゆえに、善良さゆえに、破滅するのよ」
女はアガーテで、男はスネフィルだった。
謀略を持って自分を見つめる邪悪な存在に気づかず、エリサは胸に刺草の入った籠を抱え、早足で去っていった。
「あの娘は破滅するわ……」
アガーテはもう一度、満足そうにつぶやいた。
◇◇◇
王妃が墓場で人を食らっていたという噂は、ひそやかに城内に広まっていった。
「まさか、あの女神のように清らかなかたが」
「王妃さまにかぎってそんな」
あまりに意外な話だったが、それだけにインパクトは絶大で、みんなが、もしや、という気持ちになる。
「夜中にこっそりお城を抜け出して、魔女の集会に参加していたそうよ」
「素手で土を掘り起こして、死体の首にかぶりついているのを見た人がいるって。王妃さまの目は真っ赤に染まっていて、口からは牙が突き出ていたって」
「あの華奢な手で土を……? でも、そういえば王妃さまはいつも手袋をしておられて、実際に手を見た人はいないのよね」
「魔女の手は清らかなものにふれると、炭みたいに真っ黒になるというわよ。だから王妃さまも人前で手袋をはずせないのかも」
そんなふうに考えてみれば、王妃は謎だらけだった。
どこから来たのか?
本当はなんという名なのか?
今まで王妃の美しさに惑わされて気づかなかったことが、あらためて奇怪な謎として、みんなの胸に疑惑を生じさせた。
「王妃さまが口をきけないのも、よく考えてみたら、なんだか薄気味悪い感じがするわね。おなかのなかで、なにを考えているのかわからないんだもの」
「わたしもそう思う。ほら、野原で王妃さまが熊に襲われたのだって、全部自分で仕組んだのかもしれない。魔女なら獣を操るくらい簡単よ」
「これは言おうかどうか迷っていたんだけど……」
ついに王妃づきの侍女まで、みんなに注目されるという誘惑を抑えきれず、秘密を打ち明けた。
緑のカーテンを張り巡らした王妃の部屋の有様。
その部屋に閉じこもって、王妃がなにをしているのか。
「刺草を、こう、足で思い切り踏みつけてね、そこから糸をとって、肌着を編んでいるのよ。一日中ずっと! あんまり熱心に編んでいて、わたしたちが声をかけても気づかないことがあるくらい。はじめはゾッとしたわ。だって足も手も傷だらけで、火ぶくれまでできているのに、黙々と刺草をもみしだいているんですもの」
この話はあっという間に広まり、今まで王妃を弁護していた人たちも「やっぱり魔女に違いない」と言い出した。
「あんな美しい女が、人間であるはずがない」
「みんな今まで、あの女に騙されていたんだ」
今や王妃に関する『噂』は、城のここかしこで平然とささやかれていた。
この事態を「それ見たことか」と喜んだのは、もちろん大僧正だった。
ライバルの大臣が王妃にすっかり骨抜きにされたあとも、彼一人は執念で、王妃の排斥をハドリークに訴えていたのだ。
「やはり私の目に狂いはなかった。はじめからあの女の周囲には不吉な気配が満ちていた。さぁ、国王さまも今度こそ目を覚ましたはず。王妃を捕らえて、魔女として処断するのです」
力を込めてハドリークに迫った。
「バカなことを言うな! 王妃が魔女のはずがあるものか! あんな、か弱げな魔女がいるか。首をしめたらすぐに折れてしまいそうじゃないか」
ハドリークは憤慨して噂を否定した。
(そうだ、そんなはずはない)
金の百合の清らかな微笑みを、真珠のような涙を、ハドリークは思い浮かべる。
そこにいるだけで空気を優しくするあの娘が、魔女なものか。
ハドリークが疑念を抱くとすれば、もっと別のことだった。
つまり男女間の──。
(金の百合が夜ごとに城を抜け出し、墓場に通っている……?)
(なんのために?)
みなが言うように彼女を魔女とは思わない。
ならば、おのずから出てくる答えはひとつだ。
(城の外で、恋人に会っているのではないか?)
あの竪琴弾きが彼女の昔からの恋人で、愛する男に城に忍び込む危険を冒させるよりはと、自分から会いにいったのかもしれない。
それほど好きな相手なのか?
おれに心を開かないのは、すでに愛する男がいるためか?
そう考えれば、なぜ金の百合が、ああもかたくなにハドリークを拒むのか──ハドリークが好きだと言うたびに哀しそうな顔をするのか、よくわかる。
金の百合は恋人のために、必死で身を守っていたのだ。
胸が激しい痛みに攻め苛まれた。
(いや、まだ恋人と会っていると決まったわけじゃない。そもそも金の百合が墓場に通っているという噂も、本当なのかわからんではないか。自分が確かにこの目で見たというものは、いないのだから)
打ち消しても打ち消しても、疑惑があとからわいてでる。
そんなハドリークの気持ちを見透かしたように、大僧正が提案した。
「では今夜から王妃さまに見張りをつけて、噂が真実かどうか確かめてみればよろしいのでは?」
「そんな卑劣なことができるか。おれは王妃を信じている」
「ならば見張りをつけても不都合はないはず。王妃さまが部屋でおとなしくしてらっしゃれば、なんの問題もないわけですから」
「……」
ハドリークは迷った。
もしこれで金の百合に恋人がいることがはっきりしたら──。
(おれは平静でいられるだろうか)
けれど、なにもわからぬまま想像しているのは、もう耐えられない。
「見張りを立てる必要はない」
ハドリークは険しい声で言った。
「おれが、自分の目で確かめる」
◇◇◇
エリサは苦しんでいた。
噂はエリサの耳にも入っていた。
(わたしは魔女なんかじゃない)
口に出してそう否定したいが、そんなことをすれば今までの苦労はすべて水の泡になってしまう。
エリサはハドリークに対して心を閉ざしたように、人の噂にも耳をふさいだ。
(今はなんと言われてもいい。お兄さまたちを助けるためだもの。どんなことでも耐えられるわ)
十枚目の上着もあと半分ほどで完成する──。
そんなとき、墓場からとってきた刺草からとった糸が、部屋からそっくり消えていた。
誰かが間違って捨ててしまったのだろうか?
今までそんなことは一度もなかったのに!
一年の期限は迫っている。
ぐるぐるする頭で、エリサはもう一度墓場へ行くことを決めた。
(今夜……あと一度だけ)
◇◇◇
その日、エリサは久しぶりにハドリークと夕食をともにした。
夜、城を抜け出すのに、なるべく疑いをもたれないためだった。
食事のあいだ、ハドリークはずっと無言だった。
(このひとも、わたしを魔女だと思っているのかしら)
そう考えると哀しかった。
突然ハドリークが口を開いた。
「今晩は、おれの部屋で一緒に休むように」
「……」
静かだが有無を言わせぬ口調だった。
エリサは胸がしめつけられるような気がした。
いやとは言えなかった。
食事が終わると、ハドリークはエリサについてくるよううながした。
寝室で二人きりになってから、ハドリークはずっと黙っていた。
エリサもうつむいたまま、彼の顔を見ることができずにいる。
「……金の百合」
ふいにハドリークが呼びかけた。
エリサが思わず顔をあげると、ハドリークは、ひどく辛そうな淋しそうな顔でエリサを見ていた。
「みんなが……おまえを魔女だと言うが、本当か?」
エリサは哀しかった。
やっぱりハドリークも疑っている。
「どうなんだ?」
エリサは激しく首を横に振った。
哀しくて、辛くて、消えてしまいたかった。
するとハドリークは、かすかに笑った。
「そうだ、おまえは魔女などではない。おれはずっと信じていた。ただ、おまえに直接訊いてみたかったんだ」
ハドリークの表情は以前よりも、もっと優しかった。
(わたしを信じると言ってくれた……)
エリサは嬉しくて泣きそうになった。
ハドリークへの感謝の気持ちでいっぱいになった。
ハドリークがエリサを抱き寄せた。逞しい腕にすっぽりと包まれ身を固くするエリサに、彼は哀願するするようにささやいた。
「今夜はここにいてくれ。ただこうしておれの腕の中にいてくれるだけでいい。頼む……」
込み上げる愛情と切なさに、エリサは張り裂けそうだった。
ハドリークはエリサを試しているのだとわかった。
試しながら、信じようとしている。
声にならない声で「行かないでくれ」と懇願している。
信じようとしているから、エリサを引き止めようとしているのだ。
腕に抱いて、離すまいとしているのだ。
ハドリークの切ない愛情を感じて、エリサは息がつまった。
この腕を振りほどくことはできない。
自分からハドリークの胸にすがりついた。
ハドリークはハッとし、それからエリサの顔をじっとのぞきこむと──切なく愛おしそうな目をして、おずおずと口づけた。
はじめての口づけだった。
嬉しいはずなのに哀しくて哀しくて、エリサは泣いた。
ハドリークはそれ以上はなにもせず、ただ黙ってエリサを抱きしめていた。
兄たちの腕とは、なんと違うことだろう。
こんなにドキドキして切ないのは、彼だからなのだろうか。
ハドリークが灯りを消す。
そうやって抱きしめあったまま、二人でひとつのベッドに入った。
ハドリークはほどなく目を閉じたまま動かなくなった。
エリサは、すぐ隣にあるハドリークの寝顔を、息をひそめて見つめた。
どんな形であれ、このひとを裏切りたくないと思う。
抱きしめられたまま朝を迎えたいと思う。
──地上でたった一人の、愛する人に出会いたいの。
──その人と幸せに暮らしたいの。
遠い昔、そうつぶやいた少女はいったい誰だったのか……。
(ごめんなさい)
ハドリークの腕から抜け出し、エリサはそっと床に足を降ろした。
(わたしはお兄さまたちを見殺しにできません)
(許してください)
◇◇◇
ひそかやな足音がドアの向こうに消えるのを、ハドリークは絶望して聞いていた。
(行くな)
(行くな、金の百合)
(これは、罠だ──)
追いかけて腕をつかんで、引き戻したかった。
けれどハドリークは動けなかった。
目を開けて体を起こした彼は、急に百年もの歳月が経ったように疲れきっていた。
大僧正が待っているだろう。
行かなければならない。
金の百合のあとをつけ、最後まで見届けなければ──。
◇◇◇
追うほうも追われるほうも、息をひそめ静かだった。
いい気になって話しかけた大僧正も、ハドリークに凄まじい目で睨まれて口をつぐんだ。
真っ暗な夜の道を、金の百合は迷いもせずに進んでゆく。
少しも怯えた様子のないその姿は、やはり奇異だった。
しかしハドリークの目には、金の百合が死を覚悟して愛する者のもとへ向かおうとする殉教者に見えた。
墓場の錆びついた門の向こうに、金の百合は消えていった。
ヒュー、ヒュー、と死者の声のような風が吹いた。
大僧正は臆する様子を見せたが、憎い王妃を追い落とすためと心を奮い立たせたようだった。
ハドリークと大僧正、他に付き従う家来が二名、計四人も門を通り抜け、墓地へ入っていった。
「ひっ──」
大僧正が奇妙な声を発した。
墓石の上で黒い髪の女が、死人の腕に白い歯を突き立てていたのだ。
女の周りには青白い影が無数に浮遊していた。
腰を抜かす大僧正を、家来たちが慌てて支える。その彼らも、女がいきなりこちらを向いて、ニィ──ッと笑うのを見たとたん、三人仲良く地面にへたりこんだ。
「も、いい。もう戻ろう。これ以上は危険──。こ、国王さま──」
ハドリークは一人でどんどん先へ進んでいった。
恐怖よりも、真実を確かめたい気持ちのほうがはるかに強かった。
(魔女でもいい)
(他に男がいるよりは、魔女のほうがましだ)
(たとえ魔女でも、おれは、おまえが好きだ)
金の百合は──いた。
刺草の茂みに埋もれ、それをひきむしっては籠の中に入れることを繰り返していた。
その姿には鬼気迫るものがあったが、
(刺草をつみにきていたのか)
ハドリークは納得し、安堵しかけた。
が、そのとき、一人の男がハドリークの視界に入ってきた。
闇のため顔がよく判別できないが、すっきりした姿の男だ。
彼が金の百合に激しい口調で、なにか話しかけている。
それから金の百合を、すっぽりと抱きしめた。
金の百合は逆らわない!
ハドリークは愕然とした。
やはり──という思いが、怒りとともに胸に突き上げた。
(やはり金の百合には、恋人がいた!)
ほんの数刻前、ハドリークの腕にしおらしく抱かれていたのも、同情をかうように泣いてみせたのも、ハドリークの胸に身をもたせかけて目を閉じたのも──。
あの口づけさえ!
すべては恋人に会うため、ハドリークを油断させるための演技だったのだ!
怒りでおかしくなりそうだった。
血がにじむほど強く、ハドリークは歯を噛みしめた
(清らかな顔でおれを欺いていたおまえを、おれは決して許さない)
そうとも、金の百合はハドリークを騙していたのだ。
恋人のためにハドリークを拒絶したのではなく、ただ邪悪な意図から欺いていた。
なぜなら彼女は魔女だから。
そのほうがずっと苦しみが癒やされるとでもいうように、ハドリークは己の心に言い聞かせた。
(金の百合は魔女だ──)
墓石の上で死者を食らっていた女は、忍び笑った。
◇◇◇
数日後、聴衆の前で王妃の裁判が行われた。
彼女が魔女であることは、もはや疑う余地がなかった。
「魔女は火炙りにすべし」
大僧正が重々しく告げた。
王妃は暗い牢獄に閉じ込められ、刑の執行を待つ身となった。