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三章 金の髪の乙女は、沈黙のまま王を見つめる。


「ちッ、はずしたか!」

 勢いよく放たれた矢が獲物の脇をかすめ、ごつごつした木に突き刺さるのを見て、ハドリークは悪態をついた。

「大僧正のバカやろうが! とっととくたばれ!」

 馬上から続け様に矢を放つが、怒りで手もとが狂って、なかなか当たらない。

「大臣の間抜け! いつまでも子供扱いしやがって!」

 銀色の髪に鋭い青い瞳。弓を引く腕は硬く引きしまっているが、品のある様子をしている。身につけている衣服も腰に刺した剣も豪奢で、一目で身分のある者と知れたが、行儀のほうはだいぶ問題だった。

 あとからついてくる彼の従者たちが、目を白黒させている。


「こ、国王さま! そのようなお言葉を吐かれては──」


「なンだ、外で言ってはまずいというなら、城のど真ん中で叫んでやってもいいんだぞ。もちろん、あいつらを全員集めてな。そうしたくってうずうずしてるんだ」

「大僧正も大臣も、国王さまのためを思って」

「ほぉー、おれの意志を無視して、それぞれ花嫁を押しつけてくることが、おれのためか?」

 しかも大僧正のご推薦は彼の姪で、大臣は孫娘だ。

 下心が見え見えではないか! 腹が立つといったらない!

 うちの姪のほうが王妃にふさわしい。いや、それがしの孫のほうがと、やいやいうるさい二人にすっかり頭に来て、ハドリークは言ってやった。


 ──おれの理想は、おまえたちが思っているよりずっと高いんだ! 陽の光みたいな金色の髪で、目は春の泉のような青でなきゃイヤだ。もちろん肌は白く透きとおるようでなきゃならん。息をしているのが不思議なくらいの美女で、外見だけでなく心ばえも清らかでなければならない。ぴーぴーうるさい女はごめんだ。


 ──うん、そうだな、妖精みたいに神秘的な娘がいい。妖精なら、誰それの姪とか孫とかいった面倒くさい閨閥(けいばつ)もないだろうからな。そういう女でなきゃ、絶対王妃に迎えるもんか。


 最大限の嫌味だったはずが、大僧正も大臣も声をあげて笑い出した。


 ──いや、やはり国王さまはお若い。


 ──なるほど、素晴らしい理想でいらっしゃる。そんな女性がいたら、私も、たちまち恋に落ちてしまうでしょう。しかし理想は理想ですな。


 ──まことにそのような乙女がいるなら、ぜひお目にかかりたい。


 ──うむ、妖精ですからな、妖精。


 逆にバカにされ、ハドリークは怒りが抑えきれず、

「狩りへ行く!」

 と荒々しく言い捨て部屋から出てゆき、真っすぐに厩舎へ行き、公用のきらびやかな服装のまま馬に飛び乗ったのだった。


 ──森で理想の乙女に出会えるといいですね。


 ──妖精でしたら、我々の考えの及ばないところに隠れ住んでいるやもしれませんぞ。


 部屋を出る直前、大僧正たちがにやにやしながらそんなことを言ったことを思い出し、さらに頭に血がのぼった。


「くそっ、どうにかして、あいつらの顔を青くさせてやりたい」

 そのためにはハドリークが自分で口にしたとおりの乙女を連れ帰るのが一番だが、もちろんそんな女、どこにもいるわけがないのである。

 

 ちょっと言い過ぎたな……。

 好きな女がいる、くらいにしておけばよかった。

 いや、その女に会わせろと迫られたらまた困ったことになるし、会わせたら会わせたで、おれがやつらの姪や孫にしたようにさんざん文句をつけて『王妃にふさわしくない』と追い払うに決まってる。


 やはり二人が沈黙せざるを得ない女でなければならない。

 そんな女が現実にいるのか?


 いっそ、おれは男のほうが好きだとでも言ってやろうか。

 

 もうなにもかもうんざりだ。

 ハドリークは怒りにまかせて、どんどん森の奥へと進んでいった。

「国王さま、いけません。この森の奥には、仙女が住むと言われているのですよ。むやみに荒らし回っては罰がくだります」

「仙女? そりゃいい! つかまえて城に連れて帰ろう。仙女なら大臣たちも納得するだろうさ」

 ハドリークは皮肉を飛ばすばかりで、はらはらする従者たちのことなどおかまいなしだ。


「なにが神罰だ、あほらしい」


 金髪の妖精がいないなら、神罰もあるものか。

 そのとき、見事な角を生やした鹿が前方を横切った。

 ハドリークは矢をつがえ、音がするほど強く放った。

 矢が鹿の肩をかすめる。

 鹿はそのまま走ってゆく。

 逃してなるものかと、ハドリークは後を追った。

 そうするうちに、さらに森の奥まで入り込んでしまった。

 従者たちは神罰が気になるのか、不安そうだ。

 この森は以前から奥のほうで泣き声がしただの、満月の夜に小鬼たちが踊っていただのといった噂が絶えず、神域と思われていたのだ。

 しかし、もともと怖い者知らずの上に、嫁取り問題でカッカしているハドリークには神域など関係なかった。

 鹿の姿がいきなり視界から消え失せたとき、従者たちは震え上がったが、ハドリークは大胆にも木々を剣でかきわけ、馬をすすめた。

 すぐに大きな洞穴が目に止まった。

 鹿はその中に逃れたらしい。

「ほら見ろ、びくびくすることなんてなかろうが」

 ハドリークは得意げに言い、馬から降り、弓に矢をつがえたまま洞窟に踏み入った。

 とたんに、息を止めた。


 仙女が──いたのだ。


 正しくは、仙女と見まごうほどの美しい乙女が。


 中は想像したよりずっと広かった。

 木のテーブルがあり、食器や壺が並べられ、人が生活している気配があった。なんのまじないか、緑の長襦袢(じゅばん)が四枚、岩壁にかけてある。

 もっとも周囲の様子に目がいくようになったのはずいぶんあとで、ハドリークの目は乙女に釘づけになっていた。

 乙女の肌は透きとおるように白く、目は春の泉のような淡い青で、長い金色の髪が光のベールのように肩から腕、腕からその下へと、ゆらゆらきらきらと流れ落ちていた。

 黄金の光に包まれた乙女の横には、緑の草がこんもりと積み上げられていて、乙女の白い手には編みかけの緑の襦袢があった。

 もう片方の手は、先ほどまでハドリークが追っていた鹿の背にそっと置かれている。

 鹿は乙女に助けを求めるように、その腕に顔をうずめていた。


 森の精か……?


 止めていた息を、ハドリークは飲み込んだ。

 ほっそりした手を、吸い寄せられるようにしてつかむと、乙女はビクッとして体をこわばらせた。

 その儚げで繊細な顔は、突然の侵入者に対する驚きと不安を隠せないでいる。

 乙女の細い指を、口づけでもするかのように自分のほうへ引き寄せたハドリークは、ハッとしてその動きを止めた。

 白い指は引っ掻き傷だらけで、血がにんじんでいた。小さな火ぶくれがあちこちにある。


「こんなに美しい指を、なぜ傷つける?」


 ハドリークの口からこぼれた声は、怒っているようであり、切なげでもあった。

 乙女は目を伏せ、首を横に振った。

「おまえは……森の精か? 人の子ではないのか? なぜ、こんなところに隠れるように住んでいる? いや、人でも森の精でも仙女でも、かまわん」

 ハドリークは空いているほうの腕で、いきなり乙女の腰を抱き寄せた。


「おまえなら、誰にも文句は言わせない。おまえを連れ帰り、おれの妃にしよう」


 ハドリークの顔は子供のように無邪気な喜びであふれている。

 逆に乙女の顔は恐怖に青ざめた。

 助けを求めるように唇を動かしたが、声が出ることはなかった。

 ハドリークはそんなことにも気づかず、ただもう有頂天だった。


「おれの花嫁が決まったぞ! 見ろ、この金の髪と青い瞳を。大臣の孫も大僧正の姪も比べ物にならんわ、ははは」


「国王さま、そのようなお戯れを」

「我々が大臣に叱られます」

 もがく少女を軽々と抱き上げ馬に乗せるハドリークを、従者たちが必死で止めようとする。

 乙女はあまりに美しく、人間離れしていた。

 森の奥で、へんてこな肌着を編んでいるというのも不気味である。


 それこそ乙女は本物の仙女で、神罰がくだるかもしれない!


 なのにハドリークは耳を貸そうとしない。

「おれは国王だ。大臣や大僧正より偉いはずだ。おれが、おれの妃を決めてなにが悪い? さぁ、城に戻るぞ! あいつらがどんな顔をするか楽しみだ」

 少女を胸に抱いたまま、ハドリークは思い切り馬の脇腹を蹴った。

 失踪する馬の上で、少女はしきりに手を動かし逃れようとしたが、無駄な抵抗だった。

 乙女の唇から、叫びがこぼれることはなかった。 

 ただ、その右手には編みかけの緑の襦袢が、これだけは死んでも離したりしないというように、しっかりと握られていた。


 ◇◇◇


 国王が森から花嫁を連れ帰ったと聞いて、大臣も大僧正も慌てて駆けつけた。

 ハドリークは汚れた服を、小姓に手伝わせて着替えている最中だった。

「こ、こく、国王さま!」

「なんだ、大臣」

「花嫁を拾ってこられたというのは、まことですか!」

 叫んだのは大僧正だった。

「ああ、おまえたちにもすぐに会わせてやる」

 ハドリークは、わざとすまして答えた。

「その女は、どこのものともわからぬ浮浪者というではありませんか」


「いや、妖精だ」


 ハドリークはにやりと笑った。

「お戯れを申している場合ではありません。どこに妖精がいるというのです。我らをからかうつもりならーー」

「戯れではない!」

 鋭く一喝されて、大臣も大僧正も思わず身を縮めた。

「狩に出て、獲物の代わりに理想の乙女と出会った。まさに、おれが心に思い描いていたとおりの女性だ。彼女以外の女を妻に迎える気はない」

「しかし王妃にするには、それにふさわしい気高さや麗しさが必要です。森で拾った浮浪者ではとても……」

「彼女を見れば気が変わるさ。もっともおれは、おまえたちがなんと言おうと、彼女を妻にするつもりだ。それも今すぐに」


「今すぐ!?」

「そ、そういえば、そのご衣装はっっ!」


 ハドリークが着替えているのは、袖と首にダイヤをちりばめた白い礼服だった。光沢のある白いマントまで用意して身につける。

 どう見ても花婿衣装なのだ。


 国王さまは本気か──!


 二人の権力者は、冷や汗をかいた。

 

 いや、本気だ。

 昔から、とんでもないことをやってのけられるかただった。


 しかし、いくら型破りの不良国王とはいえ、どこの誰ともわからぬ女をいきなり王妃にしてよいものか。

 国民たちは、若い国王の暴走を止められなかった大臣たちの力不足を嘲笑(あざわら)うだろう。

 国王はもはや二人の力の及ばないところにいると、証明するようなものだ。

 もしかしたらハドリークの真意も、そのへんにあるのかもしれない。ならばなおのこと、この婚礼は阻止せねばならない。

 いつもは互いの足を引っ張り合っている大臣と大僧正だったが、今日ばかりは無二の親友の気持ちで、花嫁が来るのを待ちかまえた。


 どうせ、ろくな女のわけがない。

 美しいといっても田舎娘だ、たかが知れている。宮中の作法もわからず、教養もない女に違いない。ちょっとつつけば、すぐにおどおどしてボロを出すだろう。


「花婿の支度は終わりだ。花嫁の準備がすむまで、礼拝堂で待つとしよう。城内の者を呼び集めろ。あの無駄に金がかかっている建物が、やっと役に立つときが来たな。まぁ、もしおまえが神父の役をしたくないというなら、別の僧侶を呼んでもいいが」    

「い、いや、ぜひ私が(うけたまわ)りましょう」

 みんなの前で大恥をかかせてやると、大僧正は心の中でつぶやいた。


 ◇◇◇


 礼拝堂に集められた家臣たちは、当然ながら混乱してざわめいていた。

 国王さまが花嫁を迎える。

 森で拾ってきたらしい。

 一体どういうおつもりか?

 当のハドリークだけが、祭壇の前で平然とした様子で花嫁が来るのを待っていた。

 やがて、つきそいの貴婦人に手を引かれ、白いドレスと白いベールをつけた花嫁が、正面の開き扉から入ってきた。


「あっ!」

「なんと!」


 大臣も大僧正も、そう口にするなり絶句してしまった。

 長い裾を引きずった優美なドレスを着た乙女は、ほっそりしていて、歩きかたも物腰もこのうえなく優雅だった。

 ゆらめく金色の髪は、そのまま背中に垂らされ、小さな頭の上でダイヤモンドの冠が光っている。

 さらにベールの下の淡い青い瞳は、ダイヤモンドよりずっと澄んだ輝きを放っていた。

 とても青ざめていて、哀しそうだったが、それがますます儚気で神秘的で、見るものの心をざわめかせる。

 珊瑚色の唇も、雪のように白く透きとおる肌も、とにかくすべてが清らかさに満ち、誰もこんな美しい娘は見たことがなかった。

 

 国王さまは、森から女神を連れてきたのか?


 その若い国王さえ、息をのむようにして花嫁に見惚れたあと、今度は凛々しい顔つきになり威厳のある声で、

「大僧正、式をはじめろ」

 と命じた。

 大僧正は、へどもどしてしまった。

 欠点を並べ立てて(おとし)めるつもりが、文句のつけようのない美しさなのだ。

「あ……ううっ、(なんじ)はこの女を妻とし、幸いなるときもまたそうでないときも永遠に変わらぬ愛を誓うか」


「誓う!」


 礼拝堂の端まで届く声で答えるハドリークは、してやったりといった表情で、実に嬉しげだった。

「汝もこの男を夫とし、生涯愛することを誓うか?」

 乙女は黙ったままうつむいている。

 代わりにハドリークが、

「誓う」

 と、もう一度答えた。

「国王さま、彼女が誓いの言葉を述べなければ、この結婚は成立しません」

「おれがよしと言えば、それで決まりだ」

 ノースラントの真の支配者が誰であるのか、家臣たちの前でことさら印象づけるような自信に満ちた態度で、ハドリークは無茶を押し通した。

 城のものたちには、狐につままれたような結婚式であった。


 式が終わってから、みんな今日のこの出来事の真相について、あれこれと話し合った。

「あれは国王さまのデモンストレーションさ。身分もなにもない娘を王妃にすることで、大僧正と大臣の支配から離れて、王として一人で立つことを示されたのだ」

「だとしたら国王さまらしい派手なやりかたというべきだろうな」


「いや、やはり国王さまは、彼女に一目惚れしたんだろう。どこの娘でもかまわないという気になったのかもしれない。実際夢のような美しさだもの」

「たしかにあれほどの美しさでなければ、大臣たちも黙っていなかっただろうよ。ただ美しいとうだけではなく、なんというか──他の娘たちは違った空気がある。気高さ……とでもいえばいいのだろうか。身分はないが、王妃にぴったりのかただ」

「まったくだ。国王さまが大臣たちの候補を蹴って、自ら花嫁を選んだことで、国民の若い王に対する好感も高まるだろう」


「しかし、大臣たちがこのまま黙っているだろうか」

「うむ……大臣と大僧正の二人を一度に敵に回せば、国王さまも苦しい立場になるぞ」


 あまり大きな声でできる話ではなく、人々の声はひそやかだった。

 その中で一人、しきりになにか考え込んでいる小男がいた。

 背が低い以外は大した特徴もなく、みんな彼が近くにいることを失念しがちなのだが、そこが彼──スネフィルの狙い目だった。

 そっと忍び寄って、じっと聞き耳をたてるのは、スネフィルの得意技である。

 また、ちらりと見ただけでは見過ごされてしまうが、よくよくその顔を見れば、灰色の目ははてしない深淵に落ちてゆくように暗く、その奥に邪悪に満ちたどろどろしたものがうごめいていることを、知ることができたかもしれない。

 スネフィルはしきりに身震いしながら、口の中でつぶやいていた。


(ぞっとした。ああ、ぞっとしたぜ)

(なんなんだ、あの娘っ子は。あんな白さがあるのか? 本当にただの人間なのか? このスネフィルさまに冷や汗をかかせるなんて……)

(きっとおれは、彼女の前では震え上がって言葉も出ないに違いない。あの真っ白で清らかな顔が見えないように、かたく目を閉じてしまうだろう)

(前にもこんなふうに背筋がブルブルと震えたことはなかったか? もう十年近く前だ……確かアガーテのところで見かけたあのお嬢ちゃんが……)

(そう、あの小さかったお嬢ちゃんだ。まったく、どうなってるんだ)


 なんであれ、アガーテの不始末の害をこうむるのは面白くないし、相手があの娘では、こっちの命取りだと、スネフィルは顔をしかめる。

 大臣と大僧正──二人の権力者のあいだを巧妙に行き来し、双方に取り入り、これまでうまく操ってきた。

 だんだん扱いづらくなってきた若い国王は、そのうち始末してしまうつもりだった。

 なのにその国王の隣に、あの娘がいるとなれば、うかつに近寄れない。

「さぁ……どうしてくれよう」

 邪悪な頭の中で、彼は計画ををめぐらせはじめた。


 ◇◇◇


「見たか、大臣と大僧正の間抜けづらを! おれは胸がすっとした!」

 婚礼の儀式が終わってからも、ハドリークはずっと上機嫌だった。

 父である先代の国王の急な死により、わずか六歳で王の位についてから十数年、実権はずっと大臣と大僧正に握られてきた。その二人にようやく一矢報いることができたのだ。

 これで彼らも、ハドリークが自分たちの意のままの操り人形ではないことを認識しただろう。


「おまえだ、と思ったおれの目に、狂いはなかったな。洞窟で見たときも美しいと思ったが、こうしてドレスを着た姿は生まれながらの女王みたいじゃないか。おまえ、本当は何者だ? 実は身分のある女なんじゃないか? そういえば名前もまだ聞いていなかったな。なんという?」

 しかし乙女は哀しそうにうつむいたまま、答えようとしない。

 ハドリークはなんとか返事をさせようと、なだめたり怒ったりしてみたが、口を閉じたままじっと身を縮めている。

 そういえば、ハドリークが洞窟からひっさらうように連れ帰ったときも、悲鳴ひとつあげなかった。

 口がきけない?


 まさか──。


「おまえは……言葉がしゃべれないのか?」

 戸惑いながら尋ねると、乙女がそっと顔をあげてハドリークを見た。

 冬の星か、澄んだ湖のような青い目は、哀しそうにうるんでいて、そのふちに真珠のような涙が浮かび、ほろほろとこぼれた。

 ハドリークはいきなり強い罪悪感に襲われた。

 出会ったばかりの男に(さら)われて、突然わけもわからず夫婦の誓いをさせられた乙女は、どんなに心細い思いをしただろう。怖くて哀しかっただろう。

 口のきけない身であれば、恨み言も言えず、ただ静かに泣くだけの乙女が、ハドリークにはひどく哀れで、自分が彼女を哀しませていると思うと、どうしていいのかわからなかった。

「すまない」

 ズキズキと、胸まで痛みだす。

 こんなに居心地の悪い思いをしたことはなかった。

 自分が世界一の悪人のような気がした。

「すまない。だが、みんなに、おまえを王妃として紹介してしまった以上、森へ帰すわけにはいかんのだ」

 そんなことをすれば、大臣も大僧正も、ますます図に乗るだろう。

 他の家臣たちからも、国王は自分の行動に責任もとれない、いいかげんな人間だと思われてしまうに違いない。


(本当にいいかげんだ。考えなしの子供(ガキ)だ。彼女が、おれが思い浮かべていた花嫁と、あんまりぴったりだったから……)


 我を忘れて、有頂天になってしまった。

 黙って泣き続ける乙女を、どうやって泣きやませればよいか見当もつかず、ハドリークはおろおろするばかりだった。

「おまえには森にいたころより、ずっといい暮らしをさせてやるから。服も靴も宝石も一番いいものを身につけさせよう。おまえの心を慰めるために、最高の音楽家を招いて楽を奏でさせよう。この美しい手を──」

 と、ハドリークはエリサの手をとり、傷を隠すためにつけられた、肘まである白い絹の手袋をするりとはずすと、その小さな手を、自分の手のひらでそっと包み込んだ。


「この美しい手を、二度と切り傷だらけになんてさせない。約束する」


 しかし、ハドリークの中にある小さな手は、恐ろしさと羞恥に震えていた。

 ハドリークはすぐに手をはなした。

 今の彼には、乙女のどんな仕草も表情も気になって、彼女の意に染まないことはなにひとつしたくなかった。

「おまえが嫌だと思うなら、もうふれない。ただそうやって美しく(よそお)って、おれのそばにいてくれればいい。それも嫌なのか?」

 乙女は、はっきりとうなずいた。そして哀しみがまた深まったのか、両手で顔をおおって、ますます泣いた。


(どうすりゃいいんだ)


 もはや完全にお手上げで、おろおろしている自分にも腹が立ち、泣いている乙女を見ているのが辛くもあり、ハドリークはぷいっと顔を背けて部屋を出た。

 胸の痛みは、ずっとおさまらなかった。


 ◇◇◇


 口のきけぬ乙女に、ハドリークは『金の百合』と呼び名をつけた。

「我が国の旗には百合の花が描かれている。おまえは王妃だし、その、百合の花はおまえに、なかなか似合いだと思うが、どうだろう?」

 ハドリークは横目でちらちらと乙女を見ながら──というのは、正面からじっと見るには、あまりに緊張してあがってしまうからだった──言った。


 乙女は、相変わらず哀しそうに黙ったままだ。


 ハドリークがなにを言おうと、なにを与えようと、洞窟から持ってきた編みかけの緑の肌着をじっと抱きしめ、自分の世界に閉じこもったきりだった。

 ときどき、その美しい目から涙がこぼれる。

 ほろほろ、ほろほろと。

 泣くときまで静かだった。


 王妃になった娘が口がきけないと知って、大臣も大僧正も、ここぞとばかりにハドリークを責め立てた。

「一国の王妃が、口がきけないかたでは困ります。早々に追い出すべきです」

「まったくです。そんな大事なことを黙っておられるなんて、反則です」

 毎日毎日、入れ替わり立ち替わりやってきては、王妃と別れるべきだと主張する。

 そうするとハドリークは、なにがあっても彼女を手放すまいと決意を新たにするのだった。


「おれは、うるさい女は嫌いだ。隣でピーチクパーチクさえずられたら頭が痛くなる。男でも女でも、中身のないやつほど言葉で自分を飾り立てようとするものだ。王妃には、そんな浅ましさは少しもない。それこそ女王の威厳というものだろう」


 別れるつもりは毛頭ないと、大臣たちにきっぱり宣言した。

 だからこそ悩みもまた多くなる。

 ハドリークの気持ちは一向に晴れなかった。

 乙女を無理やり妻にした自分が悪いのだ。

 よーくわかっている。

 心から反省している。


(どうしたら、彼女の気持ちを慰めることができるんだ)


 服や宝石を贈っても、全然嬉しそうではなかった。

 街で評判の芸人を呼んで芸を披露させたが、やはりなんの反応もない。


(城よりも、あの森のほうがいいっていうのか?)


 悩みに悩んだあげく、ハドリークは家来に命じて森の洞窟から、岩壁にかかっていた肌着と、積み重ねてあった刺草(いらくさ)の山を、そっくり運ばせた。

 部屋一面に緑の布を張り巡らし、木の椅子やテーブルを配置し、真ん中に刺草を積み上げ、木の蔦を張って上着をぶらさげた。

 彼女がいた洞窟と、なるべく同じようにしてみたつもりだった。

 しかし、ダイヤの首飾りも毛皮のマントも見向きもしなかったのが、こんなもので喜ぶだろうか……。

 まったく自信がなかったが、もうこれ以上なにも考えつかなかった。


 部屋を開けて中を見せると、『金の百合』は驚いている顔で、しばらく部屋の中を見回していた。

 それから首を小さくかたむけ、不思議そうにハドリークのことを見た。


 彼女は、おれを馬鹿な男と思っているのではないか……。

 ハドリークは、顔がじわじわと赤くなった。


「これなら森にいる気分になれるだろう? あの肌着も、大事なものらしいから持ってこさせた。おまがそうしたいなら、ここで好きなだけ肌着を編めばいい」

「……」

「やっぱりダメか?」

「……」

「いや、本物の木を植えさせようかとも思ったんだが、そこまではさすがにな。庭に小屋を建てることも考えてみたが、大臣らがなにか言いそうだったので……。それに、外はやはり冷える。風邪をひいたりしては大変だ。緑の壁掛けとカーテンを、木の葉っぱと思って我慢してほしい。あ、どうしても庭のほうがいいというのなら、大臣たちのことなど気にせんでもいいが……」


 乙女の頬が薔薇色に輝いた。


 いつも哀しげだった顔に、こぼれるような笑みが広がる。

 ハドリークの心臓が、ドキッ! と大きく音を立て、そのまま停止する。

 乙女の微笑みに、すっかり魅了されていた。


(喜んでくれたのか? そうなのか?)


 はじめて見せてくれた微笑みが、あんまり可憐で愛らしくて、清らかで美しくて晴れやかで、まぶしくて。

 ハドリークは固まったまま動けない。

 乙女の瞳は、ハドリークに対する感謝の気持ちでいっぱいだった。

 ふわりと腰をかがめると、乙女はハドリークの右手を両手でうやうやしくとり、そっと口づけた。


 お礼のつもりらしかった。


 ひとひらの淡雪が落ちたような軽いキスだったが、ハドリークは少年のようにドキドキしていた。

「金の百合……」

 と呼びかけると、乙女はにっこり笑ってうなずいた。

「この部屋が気に入ったんだな? 嬉しいんだな? そうなんだな? 金の百合」

 ハドリークの言葉に、乙女はにこにこと微笑みをたたえたまま、いちいちうなずき、ハドリークは自分のほうがもっと嬉しくなって、思わず金の百合を抱きしめた。


「!」


 乙女の唇から驚きの声が漏れるかと思われた。

 ハドリークもハッ! として両腕を広げた。

「す、すまん、つい……」

 考えてみたら夫婦なのだから、抱き合おうが口づけようがかまわないはずなのだが、自分からはふれないと誓ってしまった以上、守らねばならない。

 金の百合は真っ赤になって、警戒するように身を引いている。

 ここでまた嫌われてはもともこもないと、ハドリークは焦ったが、それにしてもほんの少し戸惑ったようにハドリークを見上げる金の百合の様子はこのうえなく愛らしく、ついつい抱きしめたくなってしまう。

「おまえが犬か猫ならよかったな」

 ハドリークの口から、軽いぼやきがこぼれた。

 それなら思いきり抱きしめて可愛がれるのに。    

 金の百合のほうは、ハドリークの言葉の意味がわからない様子で、不思議そうにじっと見た。


「あ……つまり、今はおれを夫として見ろと言っても無理だろうが、頼むから嫌いにはならんでくれ。おれは、おまえのことを愛しいと思っている。おまえがだんだんと心を開いて、おれのことを好きになってくれたら嬉しい。女の扱いは慣れていないが、おまえの気に入るように努力するから」


 不良国王の一世一代の告白だった。

 あとで一人になってから、ハドリークは死ぬほどの恥ずかしさに襲われた。

 少し前の自分からは、考えられない台詞である。

 金の百合と出会ってから、ハドリークの中でなにかが変わったのだ。

 そんなハドリークの必死の思いは、金の百合にも通じたらしい。

 もう彼女はハドリークに怯えてはいなかった。

 ただ、だからといってハドリークを夫として愛する気持ちにはなれないのだろう。困っている顔をしていた。


 あなたの気持ちに、こたえることはできません。


 乙女の瞳は哀しげにそう語っていたが、ハドリークはとりあえず良しとすることにした。

 今は、彼女の信頼を得られただけで嬉しかった。


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