二章 白鳥と乙女は、北の国を目指して海を渡る。
「ダメだよ! そんな結びかたじゃ!」
双子の片割れのアルディンが、従兄のフェランの手つきを見ながら注意した。
「縄がほどけてエリサが海に落ちたらどうするんだよ。ほんっと不器用なんだから。ほら、こうやるんだよ」
アルディンは縄をぎゅっと引っ張ってみせた。
「え? え? もう一度」
三つも年下の従弟に頭ごなしに言われても、おっとりしたフェランはちっとも怒らず、真剣にのぞきこんでくる。
一族の中では領主の二番目の息子のユリウスと並んで、従兄弟のこのフェランが際立って見目麗しかったが、テンポのずれた性格とのギャップがありすぎて、みんないつもフェランがとびきりの美形だということを忘れてしまうのだった。
フェランに向かって偉そうにしている双子を横目で見ながら、フェランの弟のミルトがせせら笑った。
「あんたたちだって下手くそじゃないか、アディ、サティ」
これまた一番年下の十六歳とは思えない、ふてぶてしい発言だ。
フェランたちの父は領主の弟で、若くして亡くなった。恋上手な遊び人で知られており、正妻とのあいだに長子のバートラディと三男のエニセイをもうけた他、異国の女性に次兄のヘルマンを、美貌で有名だった歌姫とのあいだに四男のフェランと末子のミルトを産ませた。
つまりフェランとミルトは一番血の繋がりが濃いはずなのだが、顔はともかく性格はまるで正反対だった。
一方が天使(少々とぼけた天使ではあるが)なら、もう一方は小悪魔で、こんなふうに毒舌を振りまいて相手を怒らせるのはミルト愉しみのひとつだった。わかっていながら乗せられてしまう双子はますます面白くない。
やいのやいのと言い合って、ちっとも作業が進まないのを見て、四男坊のリーヴェランセが怒って言った。
「こうやるんだヨ!」
と器用に縄と縄を結んで、網状にしてゆく。
フェランが心の底から感心している顔でため息をついた。
「すごいなぁぁぁ、リーヴは。着物だってぱぱっと繕えるし、料理も上手だもんなぁ」
領主の若君にしては珍しい特技といえよう。
「大好きなフローラ姫のために、花ムコ修行してるんだもんねぇ」
ミルトがすかさずからかう。
「あんたホントにユーリやラスターの弟? フローラ姫とは式典で一度会っただけなんだろう? そんときいくつだっけ? 十ぉ? あっちは六つ? で、結婚の約束をしたと。毎日毎日山ほど手紙を書いちゃあ送ってさ。会ってみて姫がとてつもないブスになってたらどうする気?」
「そんなことはない! それにぼくはフローラ姫の顔だけを好きになったわけじゃないし」
「パチパチ、素晴らしい純愛だ。でもフローラ姫のほうはどうかな? まさか本当のことは書いてないよね。あんたが白鳥になっちまったと知ったら──」
「「黙れこいつ!」」
ぐっと声をつまらせるリーヴの代わりに、双子が殴りかかった。
そこへエリサが割って入る。
「ねぇ、喧嘩をするのはやめて、アディ、サティ。ミルトも言いすぎよ」
小悪魔ミルトも同じ歳の綺麗な従妹にはてんで弱かったので、唇をちょっと尖らせて顔を赤らめたあと、一応リーヴに謝った。
この様子をフェランは、うっとりと見ている。
「なにさ」
と、ミルトがすねた顔で睨むと、
「え、あの、ははは……」
と照れ笑いする。
きっと双子とミルトの喧嘩をエリサが止めに入るというのが、六年前はしょっちゅうあった光景だったので、昔に帰ったような気持ちになったのだろう。
フェランがエリサに恋をしていることは、エリサをのぞいた全員が知っていた。
そんなフェランには、エリサがみんなに希望を運んできた女神のように見えただろうし、長いあいだ欠けていたものがようやく完全になったという安堵を覚えているに違いない。
実に単純で愛すべき性格だったので、フェランの考えていることは、これまたみんなにお見通しだった。
網造り班とは別に、手製の木のテーブルに地図を広げてノースラントまでの道行を練っていたエニセイとユリウスのうち、ユリウスがフェランのほうを見て、形の良い唇に笑みを刻んだ。そうやって微笑むと『領内一の美貌』『月の王子』の評判通りの優雅さだ。
顔以外は平凡なフェランと違って、こちらは芸術方面に秀で、竪琴の名手で、恋も手練れだった。
城にいたころから艶聞が絶えなかったユリウスにしてみたら、フェランの一途さや不器用さは可愛らしくて、つい目を細めてしまうのだろう。
「やっぱりこの海をこう超えてゆくのが一番近道だと思うんだが、ユーリの意見は?」
エニセイに訊かれてユリウスは、
「ああ」
と意識を地図のほうへ戻した。
「エリサを連れて飛ぶととなると、人目につかないほうがいいしね。海を渡るしかないだろうな。もうぎりぎりで日数もないことだし」
季節は冬を終え、春がはじまろうとしている。
昼間の白鳥の体に、春のあたたかい陽射しは命を断つ刃のようなものだ。
アガーテが賞金を出してエリサを探させているのも問題だった。
それらの事情から、一日も早くこの地を離れ、北の国へ渡らなければならなかったのである。
「だが、陽があるあいだにこれだけの距離を渡り切れるかな。途中で人間に戻ったら、みんな海に落ちて溺れてしまう」
「もちろん途中で休みながら行くのさ」
エニセイが地図に赤いインクでバツ印を書き込んでゆく。
「こことここと、ここと、ここ……。五日間でノースラントに着く計算だ」
「これまでの移動とは事情が異なることを忘れないでおくれよ」
ユリウスが念を押す。
「エリサの乗った網をくわえた状態で、そんな速さで飛べるだろうか」
「なんの、エニセイさまの計画にぬかりがあるものか。エリサが一緒だから、少々の無茶もできちゃうのさ。あの子は昔からぼくらの勝利の女神だったろう? みんなあの子の前じゃ一番勇敢で一番立派な姿を見せたくて、がむしゃらに頑張ったもんだよ」
その言葉にユリウスの表情もやわらぐ。
「なるほど、やっぱりきみは天才だ、エニセイ」
「あ、やっとわかってくれました?」
エニセイが鼻をうごめかしたところへ、ジークハルト、バートラディ、ラスターの三人が、にぎやかに帰宅した。
もっとも、にぎやかなのはバートラディとラスターの二人だけで、ジークハルトはやれやれという顔で従弟と弟を見守る役割だったが。
「ほらエリサ、上等の絹だろう? 綿も大量に仕入れてきたぞ。これで網の上の敷くクッションを作るといい。リーヴ、手伝ってやれ、得意だろう?」
ハンサムで陽気なラスターが薔薇色の絹を得意そうに広げた。
「こいつがどうやってこの絹を手に入れたと思う? お忍びで夜遊びに来てたご婦人たちを引っかけて、貢がせたんだぜ。いやぁー、なかなかケッサクだったよ」
大男のバートラディがラスターの肩に寄りかかり、豪快に笑う。
「城を出てから新たな才能を開花させたというわけだな、ラスター。おまえさんは立派な詐欺師になれるぞ。ユーリと組んだら無敵の女たらしコンビだ」
ユリウスが綺麗な眉をひそめ、
「人聞きが悪い」
と反論する。
「私は自分から言い寄ったことなんてないよ。いつでも寄ってくるのはご婦人のほうからだったからね」
これは本当のことで、城にいたころユリウスの周りには常に誰かしら女性がいて、『ユリウス様の◯番目の恋人』と呼ばれていたが、ユリウス自身はどんな美女相手でも割と淡白で冷めていた。
それに比べれば、いい女と見れば口説かずにいられないというラスターのほうがまだ誠実かもしれない。
ラスターの場合はどの女性も等しく愛しているというだけだ。
それはそれで始末が悪いという兄弟たちの意見もあるが……。
「ヘルマンはまだ戻ってないのかい?」
異国の血を感じさせる漆黒の髪と翳りを帯びた黒い瞳の青年の姿がないことに気づいて、ジークハルトが尋ねた。
「いつものことさ。ヘルマンは一人でいるのが好きなんだ」
エニセイが親愛のこもる口調で言う。
双子たちも、
「きっと狩の獲物をいっぱい持って帰ってくるよ!」
「この前もすごい大鹿を射止めてさ!」
と前のめりに語る。
ストイックな剣士を、双子は熱烈に崇拝していた。
今日だって本当は嫌なガキ(もちろんミルトのことだ)と顔を突き合わせて網作りなぞするより、ヘルマンのお供をして狩りに行きたかったのだ。
しかしヘルマンは誰かとつるむことを好まず、一人で行動することが多かった。
そこがまた、
「「カッコいいんだよなぁぁぁぁ!」」
と双子の憧れは高まるのだった。
強さという点では、巨大な剣を振り回すバートラディも負けず劣らずだし、ラスターもこの二人には少々劣るものの、かなりの腕前だ。
ただ、バートラディとラスターは素行に問題があった。
ラスターは女好きの遊び人で、バートラディも型にはまり切らない自由人だった。
城で女性たちの人気を二分していたのはユリウスとラスターだったが、男たちに人気があったのはヘルマンとバートラディだった。
バートラディは長兄のジークハルトの親友で、ラスターの遊び仲間、ヘルマンとは武人としてのライバルといったなかなか重要な位置にいる人間で、兄弟たちからも頼りにされることが多かった。
このように、それぞれに個性的な十一人の若者たちだが、エリサをなにより大切にしているという点では共通していた。
昔からエリサは他の少女たちと、どこか違っていた。
子供のころから群を抜いて美しかったが、それだけではない。
彼らにとってエリサは、ただ妹や従妹というだけではなく、もっと神聖な存在だった。
エリサを産んでほどなくして亡くなった母親が、死の間際に兄弟たちを呼び集めて言い残した言葉──『エリサを守ってね』という言葉は、いつも彼らの胸に誓いとともにある。
そのとき赤ん坊だったアルディン、サラフィン、それにミルトでさえ、兄たちと一緒にその神聖な言葉を聞いたような気持ちになっていた。
エリサが十歳になった年、父である領主の命令で、エリサは城を出て田舎の家で暮らすことになった。
エリサが新しい奥方になじまなかったためだ。
──おまえたちがちやほやするせいで、エリサは我が儘になりすぎた。このままでは将来どんな傲慢な娘になるやもしれん。エリサを想うからこそ、あえて遠くへやるのだ。
父の言葉は、当時少年だった彼らに、とてつもなく不条理に聞こえた。
エリサが我が儘だって?
傲慢だって?
それは嘘だ!
父は奥方に吹き込まれたことを、そのまま信じているだけだ。
娘ほど年の差のある美しい奥方を失いたくないために、エリサを手のつけられない悪い娘にしてしまった。
そうして、エリサは兄弟たちが知らないうちに、城から連れていかれてしまった。
アルディンやサラフィン、リーヴェランセといった年少のものたちはわんわん泣いた。
フェランもエリサと遊んだ城の中庭を歩き回ってはぽろぽろ涙をこぼした。
いつも陽気なラスターやエニセイたちでさえ、笑うことがなくなった。
そんな彼らをバートラディが励ました。
──なぁ、いつまでも落ち込んだままでいるのはよせ。伯父上だっていつか自分の間違いに気づいて、エリサを呼び戻すはずだ。二年後、五年後、十年後になるか──それはわからんが、再会したエリサがどんな素晴らしい貴婦人になっているか想像してみろ。
──エリサを守るために、おれたちも同じくらいイイ男にならなきゃならんと思わんか?
──剣の腕を磨けよ、アディ、サティ。エニセイも、もっともっと賢くなれ。フェランも強くならなきゃな。
──おれたちが立派な男になって、それでも伯父上が石頭でエリサを許さないっていうんなら、そのときはみんなでエリサを迎えに行けばいい。
力強く語るバートラディの言葉は、それぞれの胸に響いた。
サラフィンが赤い目で一途に念を押した。
──ほんとだな、バート兄上。おれたちが大人になって強くなったら、ほんとにエリサとずっと一緒にいられるんだな?
──もちろんだ。
バートラディは断言した。
あとでラスターがあきれて言った。
──あんな大嘘、よくつけたな。ガキどもはすっかり信じちまってるぞ。
バートラディは、けろりとしたもので、
──いつまでもガキじゃなかろう。エリサの嫁入り先にまでくっついてったりはせんさ。しかし女というのは不自由なもんだな。いつかは嫁に行って、たった一人の男のものになってしまうんだから。
男は何人愛人がいてもよいと鼻から決めてかかっているあたり、名うての色事師で母親違いの子供を次々もうけた亡き父の影響だろう。
ラスターもそのことに異論を唱えるつもりは、さらさらない。
バートラディが預言者のような口調で続けた。
──まぁ、今はあれでいいさ。可愛いエリサのためにイイ男になるべく努力して悪いことはない。きっといつかおれたちの力がエリサに必要なときがくると思うのさ。
このときバートラディの脳裏には、おそらくアガーテの不吉な笑みが浮かんでいたのだろう。
エリサのために、自分たちの故郷のために、いつかアガーテと正面きって対立する日が来ることを、動物的カンを持つ彼は予測していた。
それゆえに一抹の不安を抱いていた。
彼の親友で、領主の跡取りであるジークハルトは大丈夫だろうかと……。
エリサがいなくなってから五年後──。
アガーテとの対決は、訪れるべくして訪れた。
彼ら十一人の父であり伯父である領主は、五年のあいだにすっかりアガーテに骨抜きにされていた。
アガーテの願いなら、どんな残酷なことでも正義に反したことでも叶えた。
領主自身も変わった。
部屋の奥に引きこもり、人と会うのを好まず、ちょっとしたことで激しく怒った。
変化は痩せ細った体や、飢えたように光る目にも表れており、このままでは領主は奥方にすべての生気を吸い取られ、死ぬ運命と思われた。
その前に、たとえ武力を用いてでもアガーテを廃し、領主の目をさまさせなければならない。
兄弟たちはそう決心した。
計画は秘密のうちに練られた。
いたずらに領内を混乱させぬよう、短い時間で決着をつける必要がある。
しかしアガーテの企みも、着々と進行していた。
運命のあの日、兄弟たちはアガーテの部屋に招かれた。
──あなたがた兄弟と、一度ゆっくりお話ししたいと思っていたのよ。大切なお知らせもあることだし……。
アガーテは意味ありげな言葉で、兄弟たちを誘い出した。
──ヤバイな。やめたほうがよさそうだぞ。
バートラディは反対したが、他の兄弟たちはアガーテ一人でなにができると笑いとばした。
知恵者のエニセイが、
──もし罠だとしても、逆に利用させてもらえばいいさ。
と提案した。
アガーテの部屋の周りに信頼できる兵士たちをひそかに配置し、アガーテがなにかしかけてきたら、城主の息子たちを傷つけようとした罪で処断するというものだった。場合によってはその場でアガーテの息の根を止めてもかまわないと。
──いや、確実に殺すべきだ。
バートラディははっきりと断言した。
──下手に情けをかけて生かしておいたら、あとで必ず災いのもとになるぞ。あれは改心なんて一生しない女だ。
──そのとおり、根っからの悪女だ。
ラスターもいつになく厳しい表情で言い、無口なヘルマンもうなずいた。
リーヴェランセや双子、フェランは戸惑いがあるようで、長兄のジークハルトをちらりと見た。
バートラディたちにしても、最後に決定を下すのはリーダーでまとめ役のジークハルトだと思っていたから、自然に一同の眼差しはジークハルトに集まった。
少しの沈黙のあと、ジークハルトは言った。
その声は静かで落ち着いていた。
──それが父や領内を守るためなら、殺すしかない。……彼女は、それだけの罪を重ねてきた……。
兄弟たちは思わずため息をついた。
しかし、これでことは決まった。
巧みに配置された兵士たちの指揮は、ジークハルトの腹心のレジナルドが任された。
兄弟たちは緊張を隠して席に着いた。
この日のアガーテは飾り気のない黒いドレスをまとっていた。長い髪の一部を耳の横でとめ、赤い花を飾り、残りはそのままたらしている。その花の芳香だろうか。部屋の中に甘ったるい匂いがたちこめている。
──ようこそいらっしゃいました。
アガーテが濡れた赤い唇をつりあげて微笑んだ。
──わたしくし、来ていただけないかと思っておりましたわ。あなたたちは、わたくしを嫌いだから。
ラスターが軽口を叩く。
──おれは美人はみんな好きですよ。素直で控えめならもっといいな。
──うふふ、わたくしは図々しくて野心家だと思ってらっしゃるのね。やっぱり誤解しておりますわ。わたくし、城を離れるつもりですのよ。今日集まっていただいたのは、そのことをお知らせするためですわ。
アガーテの言葉は、まったくの予想外だった。兄弟たちは顔を見合わせた。
エニセイが、
──それは一体なぜ?
と、つっかえながら尋ねると、この女らしくもなく、そっと目を伏せたりする。
──わたくしがご領主さまを操って、城内を乱しているとか、いろいろと心無いことを言うものがおりますので。このままわたくしがおそばにいれば、ご領主さまにも迷惑がかかるでしょう。いいえ、いまさらそんなことを言っても、白々しく聞こえるでしょうね。
開き直ったようにアガーテは顔をあげた。
──わたくしが去るのは、自分の身が可愛いからです。わたくし、性格は悪くとも愚かな女ではないつもりですわ。引き際は心得ております。もちろん、ただで引き下がるつもりはありませんけれど。わたくしが望むだけの金貨と宝石、それに領地も少しわけてほしいわ。
──大した女だぜ。
ラスターが感心してつぶやいた。
みんな、あっけにとられている。
アガーテは赤い飲み物の注がれた盃をかかげた。
──具体的なお話は、これからゆっくりするとして、まずは乾杯いたしましょう。さぁ。
アガーテの思わぬ発言に、みんなすっかり気を取られていた。
思えばそれがアガーテの策だったわけだが……。
すすめられるまま、盃の酒を飲み干した。
兄弟たちに油断があったとすれば、それはアガーテをただの悪女と見誤っていたせいだろう。
アガーテを見たままの年齢の女性と考えたのは間違いだった。
毒々しいまでの美しさの中に、どす黒い炎を持つもの。
人と似て非なるもの。
時を経ても若いままで、血の盟約によりさまざまな黒い力を手に入れたもの。
それが女である場合、人は『魔女』と呼ぶ。
アガーテは魔女だった。
酒を飲み干してから少しもたたないうちに、兄弟たちは臓腑を切り刻まれるような苦痛にのたうちはじめた。
皮膚が裂け、そこから別の組織が急激に成長をはじめたように、骨がきしみ、鼓動が爆発し、血が燃え上がった。
いつしか彼らの手は白い翼に変わっていた。
異変を察してレジナルドが兵を率いて飛び込んできたときにはもう、兄弟たちの姿はなかった。
ただアガーテが一人、白い羽のちらばる部屋の中で勝ち誇った笑いを浮かべていた。
──ジークハルトたちが、わたくしを殺そうとしたのよ。彼らは失敗して逃げ出したわ。なにをしているの? 早く追いかけなさい。領主の妻を殺害しようとした罪人よ!。
アガーテは鋭い声で言った。
レジナルドたちが混乱しながら部屋を走り出てゆくと、細い喉をのけぞらし、大声で笑った。
開け放たれたバルコニーの窓の向こうでは、十一羽の白鳥が乱れ飛んでいる。
それが領主の息子たちだと誰が知ろう。
──わたくしに逆らおうなんてするからよ。イモムシやトカゲにされなかっただけ、マシと思いなさい。あなたたちは一生、その姿のままよ。夜は人間に戻れるけれど、それがなにになるのかしら? ここではもう、あたたたちは謀反人よ。父上さまは自分を裏切った息子たちを決して許さないでしょう。あなたたちの帰る場所はない。どこへでも行っておしまい!
そのときのアガーテの顔──。
目は邪悪な悦びに満ち、赤い口からさらに赤い舌がちらちらとのび、燃える炎のような不気味さと恐ろしさを感じさせるその顔。
黒い服に包まれた体の上の、恐ろしいその顔──それが兄弟たちがこれまで古い言い伝えのなかでしか知らなかった魔女の顔であった。
領主の六人の息子と五人の甥たちは、謀反人として追放された。
かくして城はアガーテの手に落ちた。
昼間は白鳥、夜は人間の身となった兄弟たちは、それでも反撃の機会をじっとうかがっていた。
ジークハルトを慕うレジナルドが、ひそかに城の様子を伝えてくれた。
レジナルドは兄弟たちの身に起こったことを知って、はじめは茫然としていた。そして自分たちの敵が人間を鳥に変えるほどの力を持つ魔女であるという事実に、息をのんだ。
彼女を倒すのは、兄弟たちにも絶望的に思われた。
しかし、やらなければならない。
このような忌まわしい身に落としたアガーテへの復讐。
そして父を、故郷を、救うために。
子供のうちに田舎へ追いやられたエリサの身も案じられた。
ジークハルトはレジナルドに、エリサが城に戻ってくることがあれば、どんなことをしても守ってほしいと頼んだ。
自分たちは、城でエリサを守れない。レジナルドだけが頼りだと。
──ジークさまたちにとって、エリサ姫は本当に大切なかたなのですね。
そう言ったあと、レジナルドは強い眼差しで誓った。
──承知しました。私の命にかえてもエリサ姫をお守りします。
その言葉通り、レジナルドはエリサを城から逃す途中で死んだ。
彼はたった一人でアガーテの放った兵士たちに向かってゆき、四方を囲まれ、切り捨てられたのだ。
エリサは一人森をさまよい、賞金目当ての男に襲われそうになっていたところを、兄弟たちが見つけて助けた。
そうしてエリサは六年ぶりに彼らのもとへ戻ってきたのだ。
美しく聡明で、なによりも心清らかな貴婦人に成長して──。
ちょうど慌ただしい時期だった。
昼間は白鳥の彼らは、春が来る前に北の国へ渡らねばならない。
エリサをどうするか、みんなで真剣に話し合った。
次の冬が来るまでボリス夫妻に匿ってもらおうかという意見もあったが、アガーテがボリスの家を探さないわけがないというので却下された。
結局、エリサを連れてゆくという結論に達したのだった。
エリサをノースラントまでどう運ぶのかが問題だったが、もう兄弟の誰もエリサと離れていたくなかったのだ。
エニセイの案で、大きな網が作られた。周りに十一本の紐を輪の形にしてつけ、それぞれを白鳥になった兄弟がくちばしにくわえて飛ぶ。エリサの居心地が良いよう、網にはクッションが敷きつめられ、日除けのシーツも用意された。
ノースラントまでの道のりも念入りに検討された。何度も通った道なので、だいたい頭に入っていたが、地図の上で繰り返し確認し、六箇所の休憩場が決められた。
◇◇◇
当日。この不思議な旅に、エリサも緊張を隠せない様子だった。
薔薇色のクッションを敷きつめた網の上に、華奢な足をそっとのせ、それからぎくしゃくと身をうつぶせにした。
白鳥になった兄弟たちは、十一個の輪をそれぞれくわえ、エリサの、
「いち、に、さん」
の合図で飛び上がった。
エリサはぎゅっと目を閉じた。
エリサをのせたまま、彼らはどんどん空に上がっていった。
やがてエリサがおそるおそる目を開け、
「わぁ」
と小さく叫んだ。
日除けの白いシーツを頭からかぶったまま、顔だけ出して遥か下に広がる景色を見つめるエリサの瞳は生き生きと輝いた。
「なんて……素敵なのかしら」
そうつぶやくのがやっとで、感動で胸がいっぱいの様子だ。
そんなエリサを見て、兄弟たちはそれぞれにほっとした。
頬を薔薇色に染め、目を一生懸命に見開いて地上を見下ろしているエリサが、たまらなく可愛かった。
エリサはとても軽く、誰もまったく疲れを感じない。エリサがただじっと黙ってそこにいるだけで、落ち着いた澄んだ気持ちになり、飛ぶことに専念できた。
守っているつもりで守られている──エリサはそんな不思議な少女だった。
やがて眼下に海が広がった。
船で航海していた人たちは、甲板から空を見上げ驚いていた。
白鳥が女の子を連れて飛んでいる!
風をはらんだ白いシーツからこぼれる女の子の金色の髪がきらきらと輝き、まぶしい光に包まれているようだ。
あれは妖精だろうか? 天使だろうか?
ぽかんと空を見上げたまま、そんなふうにつぶやくのだった。
◇◇◇
風はエリサの頬を心地よく撫でていった。
こんなにドキドキしたことは、今までなかった。
怖いだなんて少しも思わず、エリサはただ目に映る海の青さに感動していた。
くじらが潮を吹いて虹がかかるのも、飛び魚が宝石のように輝きながらアーチを描くのも見た。
遠くに雪をかぶった白い山や、豆つぶのように小さな街並みを見ることもあった。
空から見おろす世界はなにもかもが新鮮で、胸が躍る。
神さまは、こんなふうにわたしたちを見守ってくださっているんだわ。
そう考えて、ますます胸が震えた。
世界はなんて綺麗なんでしょう。
なんて愛おしいんでしょう。
ここから世界を眺めていると、とても優しい気持ちになる。
旅は順調に続いた。
日没が近づくと休憩所の島に降り、白鳥は人間の青年に戻った。
身を寄せ合うようにして眠り、夜明けとともにまた空を飛んだ。
エニセイの計画は、今のところうまくいっているようだった。
ところが、もう明日はノースラントに到着という日に、いきなり天気が変わった。
晴れていた空に黒い雲が広がり、矢のような雨が降り注いだ。
海は荒れ、激しく吹きつける風に、エリサをのせた網はぐらぐらと揺れた。
口に輪をくわえたまま、白鳥がキーッと鳴いた。
──がんばれ、もうじき最後の島に辿り着くはずだ。
そう声を掛け合っているようだった。
水を吸って重くなったクッションを、エリサは次々海へ投げ捨てていった。
高い波が爬虫類の舌のようにクッションを巻き取り、飲み込む。
そろそろ島についても良いころなのに、ちらりとも見えない。
嵐のため方向を誤ってしまったらしい。
しかも陽がすぐにも落ちようとしている。
一刻も早くどこか降り立つ場所を見つけなければ、エリサも兄弟たちも海に転落してしまう。
──近くに小さい岩山があったはずだ! そこまで急げ!
白鳥の姿をした兄弟たちは、力のかぎり跳び続けた。
目指す岩山は城の塔の先端ほどしかない。それさえも立ち上がる波に阻まれ、何度も見失いそうになった。
太陽が沈む!
兄弟たちが人間に戻った。
岩山に足をつける、ほんの一瞬前だった。
エリサを真ん中にして、兄弟たちは肩と肩を組んでしっかり固まった。
小さな岩山に十一人と一人は、あふれそうだ。荒れ狂う波は彼らの頭を超えるほど高く盛り上がる。
波が襲ってくるたび、兄弟たちは体を張ってエリサを守った。
「朝までなんとか乗り切りんだ! 朝が来れば嵐も少しはおさまる!」
長兄のジークハルトが弟たちを励ました。
ラスターがこんなときなのに陽気に片目をつむってみせる。
「目を閉じてじっとしてな、エリサ。大丈夫だから」
フェランもリーヴェランセも、必死にエリサを守ろうとしている。
ヘルマンが無言でエリサにおおいかぶさり、波を背中で受け止めた。
みんながエリサを守ろうと力を合わせている。
エリサの胸に熱いものが込み上げた。
こんな激しい嵐の中、小さな岩山に立っていても、少しも不安はなかった。
この十一人の兄たちがいるかぎり、エリサに恐れるものなどない。
昔からずっとそうだった。エリサの周りに輪を作り、すべての災いと苦しみから身を挺してエリサを守ろうとしてくれた。
お兄さまたちがわたしを守ってくれたことを、わたしは絶対に忘れない。
いつかわたしが、お兄さまたちを守るわ。
それが嵐の中でたてた、エリサの小さな誓いだった。
夜が明けると嵐もやみ、再び青空が広がった。
同じ日の午後、エリサたちは真っ白な百合の花が咲き乱れる北の国、ノースラントに辿り着いた。
◇◇◇
その夜、エリサは夢を見た。
それはエリサが小さなころによく見た夢だった。
どこかうんと高い場所から、エリサは下界を見ている。
そこでは綺麗で優しそうな金の髪の女性が、木の下で編み物をしていた。
彼女の周りでは、小さな男の子たちが元気いっぱいに駆け回っている。
──母上ぇ! 母上ぇ!
──ほら見て、お花をつんだんだよ。
──おれの芋虫もあげる。
にゅっと突き出された虫を、彼女は目を白黒させて、でも子供の心を傷つけないようそっと手のひらにのせて微笑む。
──よーく見ると、とっても綺麗な色をしているわね。ありがとう、バート。
へへっ、と男の子は照れて赤くなった。
この光景を見るのが、エリサは大好きだった。
毎日毎日飽きもせず、優しい女性と小さな男の子たちを見つめていた。
ときどき、明るい目をした男性がやってきて、女性の隣に寄り添う。
そのときの彼女が、エリサは一番好きだった。
隣の男性に向かって彼女が微笑むと、花が咲いたようだった。
なんておだやかに満ち足りて笑うのだろう。
見つめ返す彼の眼差しの、なんて優しげで甘やかなことか。
──愛しているよ。私の奥方さま。
彼がこっそりささやく。
彼女もうっすらと頬を染めて、つぶやく。
──ええ、愛しているわ。私の旦那さま。
そうしてまた見つめ合う。
愛しているわ……。
愛している。
愛──。
それは一体どういうものなのかと、エリサは考える。
すべてのものに広く注がれる愛とは違う、ただ一人の相手に向かってゆく愛とは──。
わたしも、たった一人の誰かを愛してみたい。
エリサの胸に憧れが満ちる。
いや、当時は別の名前で呼ばれていた天界の少女の胸に──。
──ねぇ、お母さま、ぼくたち妹が欲しいな。
──うん、欲しい。妹がいたら、うんと可愛がるのに。
──そうねぇ、ユーリ、ラスター。
目を細めて笑いながら、彼女も言う。
──お母さまも女の子が欲しいわ。あなたたちも大好きだけど、女の子がいたら素敵でしょうね。神さまにお願いしてみましょうね。
──ぼく、毎晩お祈りするよ!
エリサの胸が、とくとく音を立てる。
女の子?
それならここにいるわ。
わたしが、あなたたちの妹になるわ。
──なにを言い出すの? まさか本気じゃないでしょうね?
仲間たちはみんなあきれた。
光のベールをまとった美しいかたもおっしゃった。
──下界に堕ちれば、きっとあなたは苦しむことになりますよ。あそこはあなたが思っているほど美しい場所ではないのよ。
でも、わたしはあそこへ行きたい。
たった一人の愛する人と出会いたい。
──どうしても?
──はい。
愛する人を見つけたい。
愛とはどんなものだろう。
きっと海から生まれる虹色の泡のように透明で震えやすく、美しいもの……。
下の世界で生まれ変わり、わたしは一体誰を愛するのだろう。
誰と見つめ合うのだろう。
そうしてエリサは夢から覚める。
◇◇◇
まぶしい陽の光が、エリサが眠っていた洞窟の中まで射し込んでいた。
身を起こすと気持ちの良い冷気が素肌にまといついた。
膝まで伸びた長い髪をラスターからもらった金の櫛で丁寧にすいて二本に編むと、エリサは洞窟の中に下げられた絹のカーテンを上げた。
白鳥が三羽、長い首をもたげてエリサを見上げる。
「おはよう、フェランお兄さま、アディお兄さまとサティお兄さま」
エリサは身をかがめ、一羽ずつキスした。
フェランの白鳥がもじもじする。双子がフェランの羽をくちばしで、ツンと引っ張った。
それから三羽は、赤や黄色のみずみずしい木の実をくわえて、エリサの前に置いた。
「ありがとう」
と笑って、エリサはそれで朝食をとった。
「ジークお兄さまは、街へ行ってらっしゃるのかしら? ヘルマンお兄さまはきっと森の中を飛んでらっしゃるわね」
兄たちはそうやって、故郷に関する情報を集めているのだ。
アガーテを倒し、父と故郷を救うため、兄たちは常に準備し計画を練っていた。
博学のエニセイはユリウスと一緒に、自分たちにかけられた呪いを解く方法を調べていた。
みんな必死だ。
けれど兄たちはエリサの前では、そんな態度は少しも見せず、いつも明るく陽気に振る舞った。
エリサも兄たちが過ごしやすいよう、細々と気を配る。
朝食を終えたエリサは、兄たちがとってきた鹿や鳥の肉を乾燥させたり、塩漬けしたりして保存した。
毛布やシーツを木の枝に干して日光にあて、洗濯物も全部干し終えると、いつものように海へ散歩に出かけた。
三羽は集まってなにか言い合っていたが、アルディンとサラフィンにぐいぐい押し出されるようにして、フェランがお供についてきた。
エリサと一羽の白鳥は、爽やかな風に吹かれながら森の小道を抜け、白い砂浜に辿り着いた。 エリサはここから海を見るのが大好きだった。
海は青く澄んでいて、ずっと遠くまで続いている。
寄せては返す波の音をただ聞いているだけで、心が洗われるようだ。
海に吹く風は、エリサにいろんな物語を語ってくれる。
勇ましいちびの剣士の冒険、海の上に白い船をいっぱい浮かべて行われたお祭り、霧の立ち込める朝、たった二人で異国を目指して旅立った恋人たちの話……。
田舎の森でそうであったように、この異国の海でも、風や光はエリサの友達だった。
腰をかがめてエリサは貝を拾った。その隣に角を削られて丸くなった石が落ちている。
そっとつまんで指の甲で撫でる。
すべすべしている。
エリサはてのひらに石を乗せたまま、海のほうへ目を向けた。
この石がこんなふうになめらかになるまで、どのくらいの年月がかかったのかしら。
幾度も、幾度も、寄せては返す波は、なんて辛抱強いのかしら。
わたしの力は本当に弱いけれど、この波のように辛抱強くひとつの作業を続ければ、尖った石がいつか形を変えるように、素晴らしいことができるかもしれない。
どんなときも希望を捨てずに、努力を続けなければならないのだとエリサは思った。
白鳥になった兄たちを救う方法も、いつか見つかるかもしれない。
「お兄さまたちと一緒にいられて、わたしは幸せよ、フェランお兄さま。でもお城へ戻ってお父さまも一緒に暮らせたら、もっといいでしょうね」
フェランの羽をそっと撫でながら、エリサは独り言のようにつぶやいた。
フェランの青い目が、じっとエリサを見上げている。
なにか言いたげだ。
「心配してくれているの? ごめんなさい。わたしは平気よ」
エリサは笑った。
内気で綺麗な従兄が、自分に恋していることをエリサは知らない。
少し離れたところから、たまたま遊びに出かけていて通りかかった末っ子のミルトが、
(まったく、フェランは情けないんだから。全然ダメダメだ)
とでも言いたげに、一人と一羽を見守っていた。
◇◇◇
兄たちとの生活がはじまってから、毎日がおだやかで幸せだった。
ただ、兄たちにかけられた呪いのことを思うと、エリサの胸はいつも痛んだ。
なんとかお兄さまたちを救いたいと思うけど、方法がわからない。
そんなとき、不思議な夢を見た。
光に包まれた美しいひとが、エリサの前に立っていた。
懐かしい優しい香りのするそのひとは、エリサに向かってこう尋ねた。
──兄たちを助けたいですか? エリサ?
──はい。
──ひとつだけ方法があります。でもそれはとても大変なことですよ。あまりに苦しくて、あなたの心は耐えきれず、張り裂けてしまうかもしれない……。
──お兄さまたちのためなら、どんなことでも耐えてみせます。どうかその方法を教えてください。お願いします。
美しいひとは、まつ毛をそっと伏せ瞳をくもらせた。
このひとのそんな顔を、エリサはずっと前にも見たことがあるような気がした。
遠い昔、空よりもっと高い高い、美しい国で。
どうしても行くのですか?
瞳をくもらせ、哀しそうにため息をついたひとが、いたような気がする。
美しいひとはまっすぐにエリサを見すえた。
そうして最後の警告を与えるように言った。
──そのために、一番愛するひとを失っても?
エリサは息をのんだ。
愛するひとなんて、兄たちの他にあるわけがない。
けれど美しいひとの言葉には、エリサの心を不安な気持ちで満たし、ためらわせるような含みがあった。
──兄たちを救うために、あなたは得られるはずの幸せをなくすことになるかもしれません。辛い試練の道を歩まねばならないでしょう。あなたの恋と、兄たちと、どちらが大切かよく考えなさい。
エリサは震えながら、きっぱりと答えた。
──お兄さまたちより大切なものなんて、わたしにはありません。救えるというのなら救いたいのです。どうかその方法を教えてください。
──……わかりました。後悔は、しませんね?
──はい、決して。
美しいひとがため息をついて、語る。
──洞窟の周りに、イラクサという植物が群生していますね。このイラクサを踏み潰すと、細い糸がとれるのです。その糸で、鎧の下に着る長袖の肌着を人数分編んで、白鳥の姿の兄たちにかぶせれば、魔法は解けるでしょう。
お兄さまたちを人間に戻せる!
エリサの心は明るく晴れ渡ったが、美しいひとはさらに瞳をくもらせ、言葉を続けた。
──ただし、これは作業をはじめてから一年以内に終わらなければなりません。また一年の間、あなたは一言もしゃべってはいけません。もしたった一言でも口にすれば、その言葉は鋭いナイフとなって、兄たちの心臓を貫き息の根を止めるでしょう。魔法を解くためには清らかな処女の献身と忍耐、愛情と沈黙が必要なのです。あなたにできますか? エリサ。
──できます。海辺の波だって何度も打ち寄せ返しては、尖った石を丸く変えます。わたしもじっと耐えて、お兄さまたちの呪いを解いてみせます。
──波に心はないけれど、エリサ、あなたには辛さを感じる心があるのよ? それに一度はじめたら、決して途中でやめることはできない。それでもやるというのですか?
──心があるから……お兄さまたちを愛しているから、耐えられます。
エリサはすでに決意していた。
一年の沈黙がなんだというのだろう。
試練がなんだというのだろう。
嵐の海でエリサを守ってくれた兄たちに恩返しするためにも、決して途中で弱音を吐いたりしない。
美しいひとは哀しそうに微笑み、消えた。
最後につぶやいた言葉が、エリサの耳の奥で繰り返し響いていた。
──愛しているから、あなたの心は引き裂かれてしまうでしょう……。
◇◇◇
目覚めてからも、夢か現実か判断がつかなかった。
体を起こし絹のカーテンをそっとめくると、兄たちの誰の姿も見えなかった。まだ早朝だから、朝食をさがしにいってくれているのかもしれない。
エリサは手櫛で髪をすいて、薄い夜着のまま洞窟の外へ歩いていった。
見渡すと、夢の中で美しいひとが教えてくれたイラクサが、本当にたくさん生えている。色は緑で、丈はエリサの腰ほどもあり、心臓の形をした葉っぱのふちはギザギザで、その表面にも茎にも、細かい棘がびっしりついている。
そっと手を伸ばしふれたとたん、火傷したような痛みが走った。
痛い!
思わず声に出しそうになって、エリサはハッと唇を結んだ。
一年間、作業が終わるまでのあいだ、なにがあっても沈黙を続けなければならない。
焼けるような痛みをこらえて、両手でイラクサの茎をつかんで引き抜き、裸足で踏みつけると、蜘蛛の糸のように細い糸がとれた。
ぼろぼろになった指に透明な糸をまきつけ、エリサは頬をほころばせていた。
これで肌着を編める。
お兄さまたちを救うことができる。
嬉しくて、ほろほろと涙がこぼれてきた。
お兄さまたちを人間に戻せる。
心の中で何度も何度もつぶやきながら、エリサはそのためならどんな辛いことも耐えようと、もう一度決意した。
エリサの沈黙の戦いがはじまったのだ。