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一章 美しいお城には、悪い魔女が住んでいる。


 ささやきはエリサが進むたび、虫の羽音のように響き合い広がっていった。

「あら、あの娘さんは?」

「ほら、前の奥方さまの……」

「ああ、一番下の……戻ってこられたのね」

 女官たちの唇から、ひそかなため息がこぼれた。そのすぐあとで、今度は好奇心に満ちた目が、噂の少女を上から下まで観察しはじめる。

 ボリス夫妻がエリサのために用意してくれた服は、田舎の家では立派に見えたかもしれないが、華やかな城内にあっては、どうしても地味だった。

 またエリサも緊張のため歩きかたがぎくしゃくし、視線もおどおどと心細げで、いかにも今さっき田舎から出てきたばかりの垢抜けない小娘に見えた。

 この小娘が、かつて城内を思うままに駆け回り、明るい笑いを振りまいていたことを、誰が信じるだろう。

 それでも、ゆらめく長い金色の髪の美しさだけは認めざるをえず、それがいっそうエリサを哀れに痛々しく見せていた。

「アガーテ王妃は、どうするおつもりかしらね」

「きっと黙ってはいないでしょう」

「戻ってこなかったほうがよかったのに」

 女官たちの意地悪なささやきは、幸いなことにエリサの耳には届いていなかった。

 ただ影から自分を見つめるいくつもの視線と、まといつくような空気がエリサを怯えさせていた。

 

 どうして?

 昼間なのに、まるで闇の中にひとりぼっちで立ちつくしているような気がする。


 闇に身を潜めた黒い邪悪な生き物が、じっとこちらを睨んでいるみたい。

 怖い。


 風の声も、鳥のさえずりも、ここでは聞こえない。


 それに、お兄さまたちも……いない。


 小さなころ、エリサのそばには必ず兄たちの誰かがいた。

 一人で城内を歩き回っていても、少しもしないうちに陽気なラスターとバートラディが肩を組んで向こうからやってきたし、本をうずたかく積み上げたエニセイに曲がり角で出くわした。

 双子のサラフィンとアルディンが息を切らして駆けてきて『エリサは小さいんだから、一人でいたらダメじゃないか』と、たった二つしか違わないのにお説教をはじめたり……。

 男の子ばかり十一人もいるのだ。うるさくならないわけがない。


 なのに城に入ってから、十一人の誰一人、姿どころか声も聞こえない。


 エリサを驚かそうと、わざと隠れているのだろうか?

 それでも兄たちが柱の後ろや曲がり角から、くすくす笑いながらのぞき見ているのなら、すぐに気づいただろう。

 エリサを見つめる視線は、どれも意地悪だったり冷ややかだったりで、兄たちの気配は感じられない。

 エリサの世話役としてつけられた侍女の態度も冷淡だった。

 ずっと黙りこくったままエリサの前を歩いている。どちらが主人だかわからない横柄な態度だ。


「どうぞお入りください」


 人形のように感情のない声と表情で、侍女がドアを開けた。

 とたんに、妙な匂いがエリサの鼻を刺した。

 肉を腐らせたような、甘くて酸っぱい匂い。

 気分が悪くなり、吐きそうだ。

 部屋に足を踏み入れると、今度は額を貫くような激しい視線を感じて、エリサはたじろいだ。

 

 誰かに見られている……?


 部屋の壁には赤い天鵞絨(ビロード)のカーテンがはりめぐらされており、中央に金の浴槽が置かれている。

 匂いはそこからただよっているようだった。

「お召し物をお脱ぎください」

 侍女が機械的な声で言った。

 エリサは身を守るように両手で胸を抱きしめ後ずさった。

 が、侍女は容赦のない冷たい声で繰り返す。


「お召し物を……お父上さまがお待ちでございます」


 蛇のように長くしんねりした手が、エリサのほうへのびた。その手でふれられることを考えただけで背筋が寒くなり、エリサは首を横に振った。

「自分でやります」

 上着のボタンをはずし、スカートを脱ぎ捨て、下着を一枚一枚脱いでゆくあいだ、誰のものともわからない視線は、肌に吸いつくようにエリサを見つめていた。

 一糸まとわぬ裸身を邪悪な目にさらして、エリサの白い肌は恥辱に染まった。

 長い金色の髪をたらしただけのエリサは、露に濡れた白い花にほんのり紅がかかっているように初々しく美しく、侍女も無表情のまま息をのんだようだった。

「……どうぞ、お湯におつかりください」

 

 いやっ。


 できることなら入りたくなかった。

 視線を落として見た浴槽の湯は、てらてらと不気味な光沢を帯びている。

 その下になにか(うごめ)くものがある。 

 ギョロッとしたふたつのまなこが、エリサを見上げている。

 鼻を突くあまったるい腐臭もいっそう強くなり、エリサは気が遠くなった。

 侍女はこの醜悪な匂いをなんとも思わないのだろうか?

 油のような湯の底で「ゲゲッ、ゲゲッ」と気味の悪い声をたてる得体の知れない生き物が見えないのだろうか?

 侍女はただ無言のまま、冷たい表情でエリサを見つめている。

「……」

 この監視者に逆らって部屋から逃げ出すことは不可能だった。脱いだ服もいつのまにかなくなっている。

 

 神さま──。


 エリサは目をぎゅっと閉じ、口の中で祈りの言葉を唱えながら、白いつま先を湯の中に入れ、ゆっくりと体をひたした。

 ぬめぬめしたものが足に、腰に、腕に、胸に、絡みつく感覚がした次の瞬間──突然、高貴な甘い香りがエリサを包んだ。

 なにが起こったのか、エリサにもわからなかった。

 濁っていたお湯は透明に澄み、浴室の底から虹色のバラが一輪ゆらゆらと揺れながら浮かび上がり、赤い天鵞絨の幕に囲まれた部屋を、素晴らしい芳香で満たしていた。

 お湯の底に気味の悪いものがいるように感じたのは、気のせいだったのだろうか。

 侍女の顔は死人のように青ざめている。


 エリサは華奢なほっそりした両手で、虹色の薔薇をそっとすくいあげ、口づけた。

 うっとりするような甘い芳香を振りまいて、 花びらがきらきら輝きながら、湯の中に散り落ちてゆく。

 澄んだ高貴な香りはエリサの心を落ち着かせ、唇が自然とほころんだ。

 侍女がエリサの体を白いタオルで拭き、優美な青いドレスを着せ、金の髪を結い上げる。

 その手が、エリサを恐れるように震えている。

 逆にエリサは、もうずっとそんなふうに服を着せてもらったり髪を結ってもらったりするのが当たり前だったみたいに、ゆったりと落ち着いていた。


 やがて支度を終えて立ち上がったエリサの姿を前にして、侍女は、

「あっ」

 と声をあげ、ほとんど倒れそうなほど足をがくがくと震わせ、赤いカーテンにしがみついた。


「手伝ってくださって、ありがとう」


 女神のように犯しがたい威厳に満ちて、エリサは微笑んだ。


 ◇◇◇


 通路の中央を歩いてゆくエリサの姿を見た大臣や騎士たちは、立ち止まり、大きなため息をもらした。

「なんというお美しさだ。まるで奇跡を見ているようだ」

「六年も田舎でお暮らしとは思えぬほど、優美な物腰でいらっしゃる」

 次々と身をかがめる大臣たちのあいだを、うなずいたり、微笑んだりして進みながら、エリサの目はずっと兄たちの姿を探していた。

 

 どうして? どうしてお兄さまたちは誰も会いにきてくれないの?


 それにお父さまに会うために、こんなにもいくつものドアを抜け、厳重な警備をくぐり抜けなければならないのはなぜだろう?

 以前の父は、人と話をするのが大好きな気さくなひとで、領地の農民たちの前にも気軽に姿を現し、慕われていた。

 少なくとも()()と再婚するまでの父は、笑顔のあたたかい、子煩悩なひとだった。

 

 新しいお義母さまが来たときから、お父さまは変わってしまわれた。


 義理の母になったアガーテの、美しく艶やかではあるが毒を含んだ顔を思い出し、エリサの体は氷のように冷たくなった。

 はじめて会ったときから、エリサはアガーテに不吉なものを感じていた。

 アガーテがそばに来ると、わけもわからずただ怖くて、背筋が震えて、なるべく遠くへ走って逃げた。

 頭を撫でられると、怯えて泣き出した。

 

 ──あのひとは、いやだわ。なんだかとってもこわいの。あのひとのお口は血で真っ赤よ。頭からねじれたツノがにほん生えているわ。


 むずがる幼い娘をもてあまし、父の領主はエリサを亡くなった妻の侍女にあずけ、城から遠く離れた田舎で育てさせたのだった。

 父の部屋が近づくにつれて、小さなころに義母に感じたのと同じ不快感と恐怖がよみがえってくる。

 胸が苦しい。

 空気が邪悪な意志に満ちている。

 その真っ黒な意志は、エリサに対してはっきりした敵意を含み、鋭い矢のように向かってくる。

 

 変だわ。

 この城も、お父さまも、お兄さまたちの姿が見えないことも全部──。


 やっと最後のドアが開かれ、領主である父が、妻のアガーテに支えられるようにしてエリサを出迎えた。

 父の姿があまりにも変わってしまったのに、エリサは驚いた。

 幽鬼のように痩せ細り、落ち窪んだ目が険しい光を放っており、どこか狂人めいた雰囲気をまといつかせている。

 

「エリサ……」


 百を超えた老人のように、しわがれた声だった。

 

「エリサ、どこにおる?」


 ぎょろりとした目が宙をさまよう。

 エリサは愕然とした。

 父は目が見えていない!

 父の隣で、アガーテがニヤリと笑った。赤い唇がつーっとつりあがる。

 ゾッとした。

 エリサは父に近づき、骨張った手をそっととり、自分の頬にあてた。


「お父さま、エリサはここです」


 胸がいっぱいになって、泣いてしまいそうだった。

 六年のあいだになんと多くのことが変わってしまったことか。

 優しく朗らかだった父の姿が次々脳裏に押し寄せ、長いあいだ忘れていた父への愛情が込み上げてきた。


「これからはエリサがずっとおそばにいて、お父さまの看病をします」


 父の足もとにひざまづき、しわがれた手の甲に精一杯の愛情を込めて口づけた。

 そのとき、どこからか教会のオルガンのような荘厳な調べが聞こえたような気がした。

 固く閉じられていた部屋の窓が、誰も手をふれていないのに左右に開き、涼しい風が澄んだ花の香りとともに吹き込んできた。

 よどんでいた空気が爽やかな風に浄化され、室内は気高い光で満ちたようだった、

 父が驚いている声で言った。


「エリサ?」


 その目は驚きと喜びにあふれんばかりになって、エリサを見つめている。


「エリサなんだな」


「見えるんですね、お父様」

 手を強く握るエリサを、父がますます目を細めて見つめる。

「ああ、はっきりと見える。なんという奇跡だろう。私の娘が、こんなに美しく成長し、それをこの目で見られるとは! 神よ、これまであなたに向かって吐いた卑しい言葉の数々をお許しください」

 エリサも嬉しさに震える。

「これからはずっと一緒よ、お父さま。お兄さまたちも一緒に。以前のように楽しく暮らしましょう」


「兄、だと……?」


「そうよ、ジーク兄さま、バート兄さま、ラスター兄さま……みんなお姿が見えないのはどうして?」

「あれらは追放した」

 父は急に厳しい表情に戻って言った。


「謀反を企んでいたのだ。許すわけにはいかん」


「うそよ」

 エリサはすっかり気が動転してしまった。

「お兄さまたちが、お父さまに剣を向けるはずがないわ」

 そこに、毒々しい声が割って入った。


「いいえ、父上のおっしゃることは本当ですわ、エリサ」


 アガーテが邪悪な笑みを浮かべている。

「お兄さまたちは父上に弓矢を向けた罰で、領内から永久に追放されたのです」

「うそです、うそです、きっとお父さまは誤解してらっしゃるんです。わたしがお兄さまたちに本当のことを聞いてまいります。お兄さまたちは今、どこにいらっしゃるのですか?」

「許さん! そんなことを言っておまえまで私を裏切って、兄たちのもとへ逃げるつもりだろう。それならいっそこの場で殺してやる! ああああああっ」

 急に両手で目を押さえ、父はうずくまった。

「目が、目が、大きな黒い鳥が私の前で羽ばたいて、光をさえぎっている! 助けてくれ! 誰か!」

「お父さま!」

 抱き起こそうとするエリサの手を、父は突き放すようにしてこばみ、妻を呼んだ。


「アガーテ! アガーテ! 助けてくれ、アガーテ! 息ができない、頭が割れそうだ。()()()()()()! 早くっ!」


「仕方のないご領主さま。駄々っ子みたい」

 アガーテが薄く笑う。


「お義母さま、お父さまは一体……」

「いつもの癇癪(かんしゃく)ですわ。すぐにおさまります。でもあなたはもう自分のお部屋に戻ったほうが良さそうね、エリサちゃん。それと、お兄さまたちのことは二度とお父上の前で口にしてはいけませんよ。お父上を苦しめるだけですからねぇ」

 お兄さまたちは絶対に、お父さまを裏切ったりしない。

 エルサの気持ちは揺るがなかったが、口に出してそう言うことは、父の狂乱を見たあとではできなかった。

 

 だけど、きっとわたしが真実をつきとめて、お兄さまたちがお城に戻れるようにしてみせる。


 そう決意して、エリサは部屋を出た。

 後ろで扉がギーッっと音を立てて閉じてゆく。

 とたんに、とてつもなく不吉な予感がエリサの胸にわきおこった。

 引き返そうか迷ったけれど、そんな気持ちになった理由を問われても説明のしようがなかった。

 閉ざされた扉を息がつまる思いでしばらく見つめてから、エリサは自分の部屋に向かって歩き出した。

 心はずっと晴れなかった。


 お兄さまたちがいてくれたら……。


 中庭に面した長い渡り廊下を不安な気持ちで歩いていると、小さな光がエリサの目に飛び込んできた。

 思わず庭のほうを見ると、背の高い若い兵士が通りかかったところだった。

 光ったのは制服の金ボタンらしい。


 あっ……。


 その顔に、見覚えがある。

 兵士はすぐにひざまずいたが、そのあとほんのわずかに顔をあげ、エリサに目で合図をした。

 エリサも彼にだけわかるように、小さくうなずいた。


 ◇◇◇


 領主の部屋の中を、血のように赤い煙が流れてゆく。

 秘薬の効果で苦もなく眠りに落ちた夫を見おろして、アガーテはこのうえなくいまいましい気持ちで唇を噛んだ。


「あの小娘、六年前のようにわたしの邪魔をする」


 薬と魔術で領主の心をむしばみ、じきこの地は完全にアガーテの手に堕ちるはずだった。

 領主はアガーテに頼り切っている。

 アガーテが精神を落ち着かせる薬だと言って与えるこの赤い粉こそが、病の原因であることに、少しも気づかない。

 愚かにも、自分の守りとなるはずだった十一人の息子たちさえ、アガーテの助言通り追放した。

 なのに急に弱気になって、田舎にあずけた娘を呼び戻そうなんて言い出して。

 アガーテにとってエリサほど苦手で、しゃくにさわる存在はない。

 

 六年前もそうだった。

 なんの力もないはずの小娘が、わたしの正体を一目で見抜いて……。


 さらにいまいましいのは、アガーテのどんな魔力も、なぜかエリサには通じないことだった。

 エリサが城に戻ってきてから、アガーテはずっとエリサを見張っていた。

 六年ぶりに見るエリサの美しさは地味な服を着ていても輝くばかりで、悔しさに胸が焦げつきそうだった。

 そうやってすましていられるのも今のうちだけだ。その真っ白な顔を、いぼだらけの醜いひきがえるに変えてやる。

 手下の小魔が乗り移った侍女をエリサの世話係につけ、百日のあいだ毒にひたしたひきがえるを浴室の底にひそませ、呪いをかけようと企んだ。

 赤い天鵞絨のカーテンの隙間から目をこらし、アガーテはその瞬間を待ちかまえていた。 なのにどうだろう。

 エリサの清らかな体が湯にふれたとたん、醜いひきがえるは虹色の薔薇に姿を変え、高貴な香りで彼女を包んだ。

 

 なぜ?

 なぜなの?


 屈辱と敗北感にアガーテは息が止まりそうだった。同時にこの小娘に脅威を感じていた。 なぜ自分の魔法はエリサには通じないのか?

 エリサの無垢で気高い心はあらゆる邪を受けつけず、逆に浄化してしまうようだった。

 

 ただの人間のはずなのに、どうしてこんなことができるの?


 領主にかけた呪縛さえ、エリサはたやすく解こうとした。

 アガーテが長い時間をかけて行ってきた魔法が、エリサのたった一度のくちづけで、壊されるところだった。

 

 何者なの? あの娘は。


 握りしめた手が震えるほどエリサが憎かった。

 殺しても殺したりないくらいだ。

 あの小娘は、アガーテの計画を台無しにしようとしている。

 このまま父親のそばにおいておくのは、あまりに危険だ。

 

 よくわからないけれど、あの娘はなにか強い力に守護されている。いまいましいことに、わたしの魔法はエリサには通じないだろう。


 本当に腹立たしい。

 けれど、方法がないわけではない。

「旦那さま、ねぇ、お目覚めになって」

 領主の耳元で、アガーテはあまくささやいた。

「ねぇ、旦那さま、あなたの可愛いエリサちゃんが、あなたの命を狙っておりますわ。あの子は兄王子たちに頼まれて、あなたを殺すために城へ戻ってきたのですよ」

 領主の顔が眠りに落ちたまま、苦痛にゆがんでゆく。こめかみや唇がひくひくと震え、しわがれた声でうめく。

「そんな……はずは……エリサは……エリサは……」

「あら、そうですわね。そんなことがあるはずございませんわね。だとしたら、きっとあの娘は本物のエリサではなく、偽物に違いありませんわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「!」

 自分の言葉が領主に与える効果を楽しみながら、アガーテはさらに言う。

「可愛いエリサちゃんを殺して、エリサちゃんになりすましている偽物に罰を与えねばなりませんわ。生きたまま手足をばらばらに引き裂き、野良犬に食わせましょう。迷うことはありませんわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「エリサでは……ない?」


「ええ」

 空気を求めて苦しそうにあえぐ唇に、アガーテはしっとりと口づけた。

 そして命令口調で言った。

「目覚めたら、兵士を呼び集めなさい。エリサを殺すよう命じるのです。あら、ごめんなさい、あれは偽物でしたわね」

 喉の奥でアガーテはクックッと笑った。


 ◇◇◇


 鍵のかかっていないドアは音もなく開き、若い兵士がエリサの部屋にするりと入ってきた。

「レジナルド?」

「はい、エリサ姫」

 エリサの頬が輝いた。

「やっぱりあなただったんですね。ジークお兄さまのおそばにいつもいらした」

「姫が私ごときを覚えていてくださって幸いでした。姫が合図に気づいてくださらなかったら、どうやってお話しすれば良いかと案じていたのです。人目のある場所でできる話ではなかったので」

 レジナルドはもともと低い声をいっそうひそめた。

「お兄さまたちのことですね?」

 しっかりと聞きとるため、エリサは顔を寄せた。

「お兄さまたちが謀反を企んだなんて、嘘でしょう?」

「半分は真実と言えるかもしれません。残りの半分は、悪意ある者によって作られた偽りですが」

「どういうことでしょう?」

「お父上にはもうお会いになられましたか?」

「……はい」

 別人のようだった父の姿や言動を思い出し、エリサの声はくもった。レジナルドの目にも影が落ちる。

「ご領主さまは変わってしまわれた。以前はあれほど情け深いおかただったのが、今では少しでも気に入らないことがあると平気で人を殺める。姫のいないあいだに、ご領主さまに忠言した多くの心あるかたたちが死刑台に送られました。残ったの奥方さまにおべっかを使って取り入ったような、ろくでもない(やから)ばかりです」

「そんな……」

 レジナルドの語る内容にショックを受けながら、エリサは気丈に尋ねた。

「お兄さまたちも、お父さまをお諌めしようとしたのですね?」

 その結果、父の怒りを買ったのだろう。

 レジナルドがうなずく。

「ジークさまたちを支持するかたがたは、大勢いらっしゃいました。ジークさまの聡明さはみんなご存じでしたし、ラスターさまも従兄のバートさまも人気者です。ヘルマンさまは兵士たちに軍神のように崇拝されていました。ジークさまたちは武力を用いてでも父上さまの目を覚まさせるおつもりだったのです。しかし……」

 レジナルドはここで一旦、言葉を切った。眉根を寄せ苦しげな表情になり、続ける。

「それよりも前に、若君たちは城を去られてしまいました」

「なぜですか?」

「それを今ここで説明することは、とても困難です。姫はおそらく私の言葉を信じられないでしょう」

 レジナルドの声にはいっそう強い苦悩がにじんでいる。

「私たちの常識を超えた邪悪な企みが、この城で行われています。すべては奥方さまの手によってなされました。奥方さまは私たちと同じ人間ではありません。もっと邪智に満ちたものです。そういう存在を『魔女』というのでしょう」


 魔女!


 エリサはびくっとした。

 けれど予感はあった。

 義母から感じる毒々しい空気を、エリサは昔から恐れていた。

 レジナルドの言うとおり、人智を超えた力が父とこの城を支配している。

 魔力を持たない人の子たちに、一体何ができるのか。

 エリサが顔をこわばらせて黙り込んでいるので、怯えていると思ったのだろう。

 レジナルドが落ち着いた青い目でエリサを見つめ、励ますように言った。

「兄上さまたちは、今は姫に会うことはできません。が、姫の身を大変案じていて、私に『エリサを守ってくれ』と頼まれました。私が城に残ったのはそのためです。姫のことはこのレジナルド・ギースが命に変えてもお守りします」

 レジナルドの強い忠誠心にあふれた言葉にエリサは心を震わせた。兄たちが彼にエリサのことを頼んでくれたことも嬉しかった。

 

 わたしが兄さまたちを想っていたように、兄さまたちも、わたしを心配してくれていたんだわ。


 エリサはレジナルドの手をとり、澄んだ笑みを浮かべた。

「心からあなたを信頼しています、レジナルド」

 レジナルドは戸惑ったようだった。そうして、ため息をもらしながら言った。

「ジークさまたちに、早く姫を会わせてさしあげたい。小さかった妹姫がこんなにも美しく清らかな貴婦人に成長されたのをご覧になったら、どんなにお喜びでしょう。六年前も──そして今も、姫は兄上さまたちの宝物だったのですよ」

 エリサの声もうるむ。

「わたしも離れていた六年のあいだ、お城でお兄さまたちと過ごした日々を、宝物のように思い返していました。お兄さまたちとお父さまと……また以前のように穏やかに暮らすことができれば──」

 ひどく心細い気持ちになったが、それを振り払うように微笑んだ。

「ええ、きっといつか。だってお兄さまたちは会えなくても生きてらっしゃるのですし、わたし、これからなるべくお父さまのお部屋を訪ねて、お父さまの心がやわらぐように、お話ししてみます」

 そんなエリサをレジナルドは目を細めて見ていたが、微笑んで言った。


「姫は見た目よりはるかにお強いのですね」


 次に来るときは兄上たちの伝言をもってきますと、嬉しい約束して、レジナルドはやってきたときと同様に、ひっそりと足音を忍ばせて出ていった。


 ◇◇◇


 その夜、エリサは兄たちの夢を見た。

 長兄のジーク、次兄のユーリ、ラスター、リーヴ、双子のサティとアディ。従兄のバート、ヘルマン、エニセイ、フェラン、ミルト……。

 全員、長いテーブルに座っている。

 エリサの知っている六年前の兄たちよりも、みんな成長している。

 テーブルの一番上座に、アガーテがいる。赤いドレスを着たアガーテの頭にはねじれた角が二本生えている。

 アガーテの指示で、兄たちに赤い飲み物を注いだ盃が配られた。

 血のような不吉な赤だ。

 アガーテが嫣然と微笑み、盃をかかげる。

「さぁ、どうぞ召し上がって」

 最初に盃をとりあげたのは、長兄のジークハルトだった。

 盃のふちを口に近づけ、かたむける。

 

 ──ダメっ!


 夢の中でエリサは叫んだ。


 ──ダメっ! 飲んではダメ!


 けれどジークハルトに続いてユリウスが、バートラディが、次々盃から飲み干してゆく。


 ──ああ……。


 エリサの胸は押しつぶされそうだった。

 アガーテの笑みは、ますます邪悪さを増してゆく。

 突然、兄たちが胸を押さえて苦しみだした。

 床に転がって激しくもがきながら、その手や足がしだいに人ではないものに変化してゆく。


 ──お兄さま、お兄さま、お兄さま!


 エリサがいくら叫んでも、その声は届かない。

 アガーテの嘲笑だけが、高らかに響き渡る。

 羽ばたきがエリサの耳を打った。

 白い羽毛がエリサの周囲をふぶきのように舞い、視界を閉ざす。


 ──お兄さまぁぁぁぁぁぁっ!


 兄たちの姿はもうどこにも見えず、エリサは舞い踊る白い羽の中で一人叫びながら、立ちつくした。


「!」

 目が覚めた。

 全身が汗でびっしょりで、悪寒が止まらない。

 ──なにか来る。

 夢のせいだけではない。

 危険が迫っている。

 もうこれは理屈では説明のできない、エリサの本能だった。

 ベッドからそっとおり、息をひそめてドアの前まで進み、細く開けて廊下の様子をうかがっていると、背後で窓ガラスが音を立てた。

 振り返るとレジナルドが真剣な表情で、窓を叩いている。

 エリサは駆け寄って窓を開けた。

「姫を亡き者にしようと、城主さまの命を受けた兵がやってきます。ここにいては危険です。私と一緒に来てください」

「お父さまが、わたしを殺すよう命じたのですか?」

 レジナルドに助けられバルコニーから降りながら尋ねる。

「ご領主さまは奥方に操られています。姫を偽物と思い込んでいらっしゃるのです」

 今脱出したばかりの上階の部屋が、騒々しくなった。兵士たちが駆け回る足音と、エリサを探す声が聞こえてくる。

 それがだんだん迫ってきて、鋭い声がした。


「いたぞ! 偽物だ!」

「手引きしているやつがいるぞ。そいつも仲間だ、殺してしまえ!」


 あらためてエリサはぞっとした。

 彼らは本気でエリサたちを殺そうとしている。

 立ち止まって話そうとしても聞き入れはしないだろう。手にした剣で有無を言わせずエリサの胸を貫くはずだ。それだけではなく、レジナルドのことも──。


「姫さま、手を!」


 庭にあらかじめ用意しておいてた馬にまたがり、レジナルドはエリサを自分の前に引き上げた。

 門はすでに兵士たちにかためられている。

 黒い人影が密集し、明かりが揺らめている。

「しっかりつかまっていてください」

「はい!」

 レジナルドは馬を門と反対の方向に走らせ、城の背後の崖をそのまま馬で駆け降りた。

 なんとか城を出ることができたものの、しばらくすると背後から何本もの矢が飛んできた。

 一本が馬の後脚に当った。

 馬が高くいななき、崩れる。

 草の上に投げ出されたエリサを、レジナルドがとっさに下になって庇う。


「レジナルド!」


「大丈夫です。それより、私が追っ手を引きつけます。ここをまっすぐ行くと森がありますから、姫はなんとかそこまで逃れてください」

「そんなわたしだけ──」

「行ってください。私は姫を守ると、私のただ一人の主君に──ジークさまに約束しました。どうか行ってください。森で兄上たちに会ってください」

「お兄さまたちは森にいるの?」

「今ならきっとお会いできます。さぁ、後ろを見ないで。走って!」

 レジナルドはそう叫ぶなり、剣を抜き、追ってのほうへ向かっていった。

 剣が触れ合う音や馬の足音、人の怒声が遠ざかってゆく。

 エリサは泣きそうになりながら夢中で走った。

 自分を守るために一人で残ったレジナルドのことを思うと、胸が張り裂けそうだった。

 エリサがいても足手まといにしかならない。

 わかっている。

 わかっていても喉も心臓もしめつけられて、視界がぼやける。

 泣いている場合ではない。

 レジナルドの忠義に応えるためにも、走らなければ。

 

 神さま、神さま、どうかレジナルドをお守りください。

 お兄さま、わたしたちを助けて!


 草や石に足をとられて、何度も転びそうになりながら走り続けるうちに、暗い森がエリサの前に広がった。

 密集した木々の中を、エリサは兄たちの名前を一人一人呼びながらさまよった。

「ジーク兄さまぁ! バート兄さまぁ! ヘルマン兄さまぁ! ラスター兄さまぁぁぁ!」

 ふくろうが、ホーッ、ホーッと鳴くだけで、兄たちの声は返ってこない。

 長い長い時間が過ぎ、夜が明けて木々のあいだから灰色の光が射し込んできた。

 一晩中歩き回ったためエリサは疲れはて、泉の近くに座り込んだ。

 泉の中に髪を振り乱し顔をゆがませた、惨めな娘が映る。

 

 ひどい顔だわ……。


 泉の水をすくって顔や足を洗い、立ちあがろうとしたがまたへなへなと座り込んでしまった。

 疲れてもう一歩も動けない。

 目を閉じたら、そのまま泥の中に引きずり込まれるように眠りに落ちていった。

 目覚めてからはまた、兄たちの姿を探して森の中を歩った。

 淋しくて心細くて、どうしようもなかった。

 兄たちに会えなかったら、たった一人でどうすればいいのだろう。

 おなかがすいて、エリサは木の実と泉の水で飢えをしのいだ。

 陽は再び落ちようとしている。

 木々が朱色に染まってゆく。

 

 お兄さまたちは、どこにいるのかしら。


 レジナルドは『今ならきっとお会いできます』と言った。

 『今』とは昨夜のことをさしていたのだろうか? だとしたらもう兄たちとは会えない?

 不安でたまらなかった。

 それにもう、疲れて歩けない。

 後ろで低い唸り声が聞こえた。

 ぼんやりと振り向いたエリサは、ハッとし身をすくめた。

 大きな黒い犬が鋭い目でエリサを見つめている。

 犬は高い声で鳴き、主人に獲物を見つけたことを知らせた。


 逃げなければ!


 駆け出そうとしたエリサに犬が飛びかかってくる。足がもつれてエリサが倒れると、鋭い爪のついた前脚が、エリサの寝巻きのスカートの裾を踏みつけた。

 すぐに弓矢をかついだ粗暴な感じの男が現れ、歯をむきだして笑った。


「でかしたぞ、ジャン。これで賞金は俺さまのものだ」


 震えるエリサのほうへ男が近づいてきて、上から下までじろじろと眺め回す。

「ふん、ふん、金の髪に、抜けるような白い肌、城の兵士が言ってたとおりだ。しっかし美人だなぁ。上品そうで、お城の姫の名をかたったアバズレには見えんが」

 男はエリサのやわらかな金色の髪をつかんで、引っ張った。

 恐ろしさのあまりエリサは声も出ない。

「死体でもかまわんということだったが、ただ殺すにはあまりにも惜しいぜ。城に連れてゆくより、どっかの大金持ちに売り飛ばしたほうが儲かるんじゃないか? おい、どっちがいい? それとも俺の女房になるか? ん?」

 太い腕が乱暴にエリサを抱きすくめ、にやけた顔が近づいてくる。

「はなしてください」

 エリサは必死に逃れようとした。

 男が笑いながらエリサを組み敷く。

「お兄さま!」

 エリサが叫んだとき、夕暮れの紅に染まった空から白い光が降ってきて、男の右肩を突き刺した。


「うわっ!」


 白い光は次々降り注ぎ、男と犬を多方から攻撃した。

 バサッ、バサッという嵐のような羽ばたきが、エリサたち取り巻く。

 光と見えたのは、何羽もの白鳥だった。

「やめろ、やめてくれ!」

 男は手で目を隠してわめいた。犬はとっくに逃げ出している。


「魔女め!」


 と叫んで、男も消えた。

 白い羽を大きく広げた白鳥たちは、エリサを守るように周囲をぐるぐると飛び、また空に舞い上がった。

 エリサも顔を上に向ける。

 空は朱色から紫へ、紫から紺へと色を変え、今最後の光が地上から消え去った。

 その瞬間、エリサは信じられないものを見た。


 白鳥が──。


 人間の若者に姿を変えてゆく!


 二枚の白い翼はすらりとした腕に。足も体もしなやかに伸び、くちばしも目も人間のものになった。

 金の髪の優しげな若者、黒髪の陽気な笑みを浮かべた若者、銀の髪と青い目の若者、知的な緑の目の若者、鳶色の巻き毛の少年たちはそっくり同じ顔で、水色の目の華奢で綺麗な若者は頬を赤らめてエリサをじっと見ている。

 彼らの中で一番年上で、落ち着いた青い目をした黒髪の青年が近づいてきて、エリサの名前を呼んだ。

「エリサ」

 懐かしい優しい声は、一番上の兄ジークハルトのものだった。


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