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プロローグ 昔、一人の乙女がおりました。


 不思議な雰囲気の少女だった。


 こもれびのようなまばゆい金色の髪を、二本の長いおさげに編んで肩からたらし、うつむいた白い頬にやわらかな巻き毛がふんわりかかっている。緑の草の上に花びらのように広がる水色のスカートの裾からしとやかにのぞく足首も、白く華奢で、愛らしい。

 小道の向こうから、村の若い娘たちがにぎやかな笑い声をあげてやってきた。

 みんなで薬草を摘みにきたのだ。

 少女に気づいて、

「あ、エリサ」

 と声をかけようとした一人が、仲間たちから、

「しーっ、だめよ」

 と止められて、慌てて自分の口に両手でふたをする。


 彼女たちの目に映るおさげの少女の周りには、なにかしら神聖な空間があって、それはみだりに声をかけて踏み込んだりしてはいけないものだった。

 エリサ──それがこの乙女の名前だったが、エリサは口もとに優しい微笑みを浮かべ、誰かと語らっているようだった。


「きっとエリサには、木とか、風とか、花とか、あたしたちには聞こえない声が、聞こえているのね」

 つぶやく娘たちの声は、聖なるものを語るようにつつましくひそやかだ。

「エリサって本当に不思議よね。雲がひとつもない青空のときも、エリサが雨が降るっていったら、そのとおりになるんだもの。足を怪我してもう立てないって言われてたニルスのとこの馬が、エリサの看病でもと通り走れるようになったのよ」

「肌も髪も物語みたいに綺麗だし、『特別な女の子』って感じよね。男の子たちはみんなエリサに夢中だけど、あの人たちの中からエリサが旦那を見つけるなんて、とても考えられないわ。だからローディがエリサのことを好きでも、悔しいと思わないのかしら」

「あーわかる。完全に高嶺の花だもん。あたしは女だけど、エリサにじーっと見つめられると、恥ずかしくて顔を上げられなくなっちゃう。エリサを驚かせたり困らせたりなんて、絶対にできないって気がする。本当に外見も中身も綺麗なんだもの」

 娘たちはため息をつき、うなずきあった。


「……エリサの恋人って、どんな人がなるんだろうね」


 きっと途方もない人なのだろう。

 それから娘たちはエリサの邪魔をしないよう息をひそめ、忍び足でそっとその場から通り過ぎた。


 ◇◇◇


「ノンナ母さんが呼んでいるの?」

 鈴のような声でエリサは尋ねた。

 今、耳もとをかすめていったやわらかな風が、エリサにそっと教えてくれたのだ。

 子鹿のように敏捷に立ち上がると、エリサは森の友人たちにお別れの挨拶をして、優しい養父母の待つ家に帰った。

 緑の屋根が愛らしい小さな田舎家のドアを開け、

「ただいま、ノンナ母さん、ボリス父さん」

 朗らかに声をあげると、

「ああ、エリサ、待っていたんだよ」

 ふっくらした顔に悲しそうな表情を浮かべたノンナがエリサを抱きしめようとして、

「バカ、もうそんなことしたら」

 と夫のボリスにたしなめられて、ハッとした顔で立ち止まり、すぐに泣くのを無理やりこらえているような笑みを作った。

「どうしたの? ノンナ母さん。なにか悪い知らせ? わたし平気よ。早く言ってちょうだい」

 ノンナがぎこちなく首を横に振る。

「悪い知らせなんかであるもんか。さっきお父さまからお使いが来たんですよ。十六歳の誕生日に姫をお城に戻すようにと」

「まぁ……ノンナ母さん」

「いけません、姫さま。もともとわたしらは、父上のご領主さまからあなたをお預かりしてただけなんですから。母さんとか父さんなんて呼んでいただける身分じゃないんです」

 しゃべりながらノンナは、ついに我慢しきれず、わっと泣き出した。

「申し訳ありません。本当なら心からお喜びしなければいけませんのに。いえ、ご領主さまが姫さまをお城に呼び戻してくださる気になったのは嬉しいんです。六年前、まだ十さいの姫さまがたった一人の従者に連れられて、こんな田舎のボロ屋においでになったときは、ご領主さまはなんてむごい仕打ちをなさるのか、わたしのお仕えしたミアーナお嬢さまのお子さまが、こんな不遇な目にあわれていいのかと。天国にいらっしゃるミアーナお嬢さまのお気持ちを思って、胸が張り裂ける気がしました。せめてわたしたち夫婦が精一杯姫さまをお守りしようと今日までお仕えしてまいりました」

 エリサの目にも涙があふれ出す。


「ノンナ母さんもボリス父さんも、本当によくしてくださったわ。わたしずっと淋しくも辛くもなかったわ。本当よ」


 しがみついてくるエリサに、ノンナもますます涙を流して、

「もったいない、わたしらはなんて幸せものなんだろう。ねぇ、あんた」

 と声をつまらせた。

 夫のボリスが目を赤くしてたしなめる。

「そんなにいつまでもボロボロ泣くのはおやめよ。姫さまがやっとお城に戻れるんだ。おれはずっと姫さまはこんな場所にいてはいけないかただと思っていたんだよ」

「そうだね、これほど美しくおなりだもの。成長した姫さまをご覧になれば、ご領主さまも、もう二度と手放したりせず、そばに置いて可愛がろうと思うに違いないさ」

 その言葉に、エリサが不安そうに眉を下げる。


「本当にそう? お父さまはわたしを愛してくださるかしら? ノンナ母さん、わたし、ずっとここにいてはいけない?」


「なんてことをおっしゃるんですか! あなたはご領主さまのたった一人の姫君なんですよ」

 エリサの眉がさらに下がり、声が頼りなくうるむ。


「だって、わたしはここが好きなんですもの。ボリス父さんやノンナ母さんや、お友達と別れたくないんですもの。なんだかお城に戻ったら、とても怖いことが待っているような気がするの」


 ぶるっと震えるエリサに、ノンナが一生懸命に言う。

「そんなことを考えてはいけませんよ、姫さま。不幸なことを考えたり口にしたりしたら、本物の災いを呼び寄せかねない。なーに、姫さまには十一人もの頼もしい騎士さまがおいでなんですから、怖いことなんてありませんとも。ミアーナさまがお産みになった六人の王子さまがたと、ご領主さまの弟君が残された五人の若君たち。一番上のジークハルトさまは今年で確か二十五歳。いたずらっ子だったミルト坊やだって、姫さまより一足先に十六歳におなりだからねぇ。みんなどんなにご立派な青年になられたでしょう」


「お兄さまたち……」


 エリサの頬にみるみる赤みがさし、瞳にやわらかな希望がにじむ。

「大好きなお兄さまたち。懐かしくてたまらないわ」

「そうでしょうとも。ここに来たばかりのころ、姫さまは毎晩ベッドの中で『お兄さまたちに会いたい』と言って、こっそり泣いてらっしゃったんですからねぇ。わたしはちゃぁんと知ってたんですよ。今でもお兄さまがたに会いたいでしょう?」

「……ええ」

 おだやかな群青色の目をした長男のジークハルト。

 竪琴の名手でサロンの花形だった、次兄のユリウス。

 陽気で優しいラスター。

 遠国のフローラ姫に恋をして、山のように手紙を書き送るリーヴェランセ。

 双子のサラフィンとアルディン。

 酒豪で腕自慢の従兄のバートラディ。

 ユリウスと同じくらい美形だけれど、ぼーっとしているフェラン。

 双子が尊敬している剣士のヘルマン。

 学者のエニセイ。

 小悪魔だけれどエリサの前ではおとなしかったミルト。

 

 大好きな、大好きな、十一人のお兄さまたち。


 懐かしさと慕わしさに、エリサの胸はしめつけられた。

「会いたいわ、心から」

「その望みはすぐに叶えられますよ。明日、姫さまはお迎えのかたとお城に帰るんですから」

 今ではすっかり落ち着いて、ノンナが言った。

「明日? 早すぎるわ」

「そのほうがいいんです。あんまり長くいると別れが辛くなりますから」

「ノンナ母さん……」

「姫さま、だからその呼びかたは──」

 困った顔でたしなめようとするノンナに、エリサははっきりと言った。


「今はまだ、母さんと父さんだわ。そうでしょう?」


 その言葉にノンナがまた顔をくしゃっとさせて泣きそうになり、エリサの体に両手を回しあらんかぎりの力で抱きしめた。

 そして震える声で──六年年分の愛情をこめた声で、

「そうだね、エリサ。わたしのエリサ」

 と耳元で言ってくれた。

 ボリスもまた、抱きしめ合うエリサとノンナを目に涙をにじませて見ていた。


 ◇◇◇


 その夜、エリサが寝室に入ってから夫婦は遅くまで話し合った。

「姫さまここへ来てから今日まで六年、本当にあっという間だったねぇ。たった六年だったけど、天使と暮らしてるみたいに幸せだったよ」

「実際天使だったさ、姫さまは。村の娘たちみたいににぎやかにさえずっているわけじゃなかったが、言葉のひとつひとつに心がこもってて、そこに黙っているだけで空気がこう、綺麗に澄んでゆくようなさぁ」

「ご領主さまは今度こそ姫さまを可愛がってくださるよね」

 それだけが気掛かりだという顔でノンナが言う。


()()()の言いなりになって、姫さまを不幸なめにあわせたりしないよね」


「ああ……」

 そうつぶやくボリスの声も、重く歯切れが悪い。

 ノンナが恐ろしそうに顔をしかめる。

「嫌な予感がするんだよ。姫さまをこのまま、あの女がいる城に帰していいのかって」

「おい、姫さまに災いを口にすれば現実になると言ったのはおまえだろう」

「わかってる。でも、姫さまの予感はとてもよく当たるし、こんなこと言うのはいけないことで、あんたの前でしか口にしないけど……十歳の姫さまがはじめてこの家に来たときから、あたしは不安な気持ちでいっぱいだったんだよ。姫さまは、普通に幸せになるにはあんまりお美しすぎるような気がして……」


 妻の心配はボリスにも理解できた。

 ただ領主の娘に生まれたというだけではない。同じ年頃の娘たちとエリサは、姿から魂の色や形まで、ことごとく違う。

 春の女神のような神聖な美しさ、風や木々と話をし、天候を読む不思議な力。

 すべてが他の人間よりも過酷な運命を歩むがゆえに、神さまからあらかじめ与えられたもののように思われたのだ。

 そして妻が懸念するように、エリサの父の隣にいる美貌の女は、エリサの清らかな美しさを見過ごしにするだろうか。


「だけど、それが姫さまに与えられた試練なら、姫さまはご自分の運命に立ち向かって乗り越えなきゃならんよ。そんな予感があったから、おれたちは姫さまを、ただあまやかして育てたりはしなかったろう?」


 苦難にあって心を明るく保つこと。

 忍耐すること。

 精神を澄ませ、解決の糸口をなんとか見出そうとすること。

 自分の頭で考え、自分の判断で行動すること。


 お金がなくなったときのために機織りや籠編みの技術から、食べられる野草とそうでない野草の見分け方まで──いつかエリサが困ったときに助けになるよう、教えられることはすべて教え込んできた。

「ちょっとやそっとの困難では、あのかたの無垢な心を濁らすことはできないよ。おれたちの娘は、強い子だ」

 ノンナが目に涙をためたままうなずく。

「そうだね、そうだね、あんた。それに、兄上さまたちも今では大きくおなりだから……きっと姫さまを守ってくださるだろう。姫さまがお生まれになったとき、やっと妹ができたというんで、若君たちはそりゃあお喜びだったんだから。ミアーナお嬢さまはご自分がお亡くなりになる前に、若君たちをお集めになって言ったんだよ。『あなたたち、エリサを守ってね。わたしの分まで愛してあげてね』って……。若君たちはみんな口々に誓っていたよ」

 あの兄たちがいれば、そしてエリサの強い心があれば、どんな運命も乗り越えられるだろう。

 ボリスもノンナも、エリサの人生における勝利を心から願った。


 神さま、六年間大切に見守ってきたわたしたちの宝物が、じきに身一つで世の中に出てゆこうとしています。とても白くて澄んだ心を持った子です。どうかその白さが傷つくことのないようご加護をください。


 優しく幸せな微笑みが失われることのないよう、どんな苦難のときにも、ひとかけらの希望を残してやってください。


 ああ、わたしたちはもう、この子を守ることができない。

 嫌な予感がする。

 嫌な予感がする。

 どうか、どうか神さま──。


 その晩、ノンナとボリスの寝室は灯りがついたままだった。

 六年間の最後の夜を、夫婦は愛しいエリサを守って明かしたのだ。

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