一歩目の証
ティアは息を詰めたまま、目の前の女を見つめていた。
強すぎる。そう直感できた。魔力の残滓が空気に震えている。肌がぴりぴりとするのは、熱ではなく、威圧だ。
「返答がないな。……怯えたか」
女は、表情ひとつ変えずに言った。
「……あ、あのっ、助けて、くれて……ありがとうございますっ」
ようやく絞り出した声は、かすれていた。ティアの小さな身体が震えているのに気づいたのか、女は一歩、静かに距離を詰める。
「名は?」
「……ティア、です」
「ティア。ふむ。一般の子供かと思ったが、ギルドのライセンスを持っているな。」
ティアは、胸ポケットにしまっていた石板をぎこちなく取り出す。
「はい、でも、仮ライセンスで、まだほんとに始めたばっかりで……」
女はしばらく無言でティアを見下ろしていた。
その視線には侮蔑も怒りもない。ただ、興味のなさ――あるいは「何かを測っている」ような、冷静すぎる思考の残響があった。
「ごめんなさい……。ちゃんと、森の外側にいただけ、だったのに……あんなのが、突然……!」
その言葉を聞いた女の眉が、わずかに動いた。
「……なるほど。あの個体……自然発生にしては妙だな。まるで、人の手によって創り変えられたように見える」
その言葉に、ティアの背筋がぞくりと冷えた。
《選択肢の一つとして――「何者かの犯行」の可能性を排除すべきではありません》
ルシッドの言葉は、予感というより仮説だった。
だが、それは冷たい現実の一端をティアに突きつける。
「……ごめんなさい。でも、本当に、知らなくて……」
ティアがそう言った瞬間――女はふっと息を吐いた。気配が和らぐ。
「責めているわけではない。生き残っただけ、上出来だ」
それだけ言うと、女は魔獣の骸を一瞥した後、森の奥へと視線をやった。
「この森にしては、やけに“質”の悪い魔獣だった。……上に報告する必要があるな」
そう呟き、踵を返す。
ティアがはっとして叫ぶ。
「あ、あの……っ!」
女が歩みを止めた。振り返りはしない。
「……なんていう名前なんですか……っ?」
しばしの沈黙の後、女はわずかに口元を動かした。
「……ガーネット。ガーネット・ヴァレンティナ。忘れていい」
その言葉を最後に、彼女は森の奥へと消えた。
ティアはしばらく動けなかった。目の前に転がる獣の焼け焦げた骸と、あの圧倒的な魔法の余韻が、現実だったとは信じがたかった。
「ルシィ……今の、ほんとに人間の、魔法だったの?」
『映像・音響記録に誤差はありません。事実です。
解析結果:人為的な魔力行使。威力、精度、速度ともに生活魔法とは一線を画しています』
戦闘に特化した《攻撃魔法》である。
「……すごい……。あんな魔法が使える人がいるなんて……」
ティアの声には怯えと、そして――どこか、憧れの色が混じっていた。
《ティア。今後もあの様な事に巻き込まれる可能性を考慮し、対策を講じましょう》
「うん。うん……わかった。ルシィ、私……頑張るね」
少女は、小さく笑った。
その手の中には、少しだけ潰れてしまった薬草の束。
それでも、彼女はそれを大切に袋に入れて歩き出した。
◆
都市に戻った頃には、日は西へ傾きかけていた。ティアの小さな影が石畳の上に長く伸びる。体中が草の匂いと汗にまみれていたが、それでも足取りは今までで一番、力強かった。
腰には薬草を詰めた袋。その重みは、努力の証。
「ルシィ……ちゃんと、報告できるかな」
《緊張の兆候:心拍数増加。だが問題ありません。今回の任務は十分に“達成”されました》
ギルドの扉を押すと、いつも通りあの男の事務官が受付カウンターにいた。
「おう、お疲れさん。……ちゃんとできたか?」
「し、仕事は、終わりました。薬草、これです」
ティアは袋を差し出す。その中には《緑涙草》や《クレソリ草》、その他指定された薬草が丁寧に仕分けられて入っていた。泥や傷みの少ないものが大半で、見る者が見れば、真面目な作業ぶりが分かる出来だった。
男は袋の中を一瞥し、ふぅんと鼻を鳴らす。
「まあ……量は悪くないな。品質も許容範囲。……よし、じゃあ、報酬払うぞ」
木箱の中から銀貨を数枚取り出し、カウンターに並べる。
「基本分と、品質加算。……これが、今日の“稼ぎ”だな」
銀貨五枚。2日分の宿代と食費に値する。
ティアは目を見開き、小さな声で呟く。
「……ほんとに……?」
《確認。相場価格と比較しても、誤差範囲内。妥当な対価です》
そっと銀貨を手に取るティアの手が、震えていた。こんな額、人生で触れたことがない。
「よかった……ちゃんと、できたんだ……」
受付の男は、そんなティアの様子にやや呆れたように言った。
「なあ……そんなことで感動するなよ。ここは冒険者のギルドだ。いくら低難易度の任務だって、お前ら冒険者は体を張っている。その対価はそれ相応じゃなきゃならない。だろ?」
「……はい」
ティアは小さく頷いた。その目には恐れではなく、決意のような光が宿っていた。
◆
ギルドを後にして、ティアはまっすぐ宿へと向かった。
その道すがら、ルシッドが低く響く声で話しかける。
《ティア。任務と納品を終えた今、次の目標を定めるべきです。提案は以下の三点》
──①:回避行動と地形把握のため、都市外縁のマッピング
──②:攻撃魔法の知識取得のため、魔法を使用する冒険者への接触
──③:ギルド上層への“変異個体”情報の提出および記録照合
ティアは少し考えた末、ぽつりと答える。
「……2番、かな。あのモンスターの報告はきっとガーネットさんがやってくれてるし、いつまでもルシィに頼って逃げてちゃダメだと思う…」
《了解。明日は任務に充てる時間を短縮し、ギルドに所属している冒険者と接触を計りましょう》
ティアは頷いた。まだ、やらなきゃいけないことが山のようにある。それでも、今日一日で確かに「前へ進めた」のだ。
夕暮れの中、宿の看板が見えてくる。ふわりと、安堵の吐息が漏れた。
「……帰ってきた、ね」
《本日、初めての“自発的成功”です。記録保存中──》
その声を聞きながら、ティアは静かに扉を開ける。
まだ、始まったばかりの物語。
だが少女は、確かに歩き始めていた。