唸る咆哮・奔る炎槍
部屋に到着し、食事を済ませたティアの体は糸が切れたように崩れ落ちた。借り受けた部屋の質素なベッドに身を投げると、ティアは一言も発さず、瞼を閉じる。まだ夕暮れ時だったが、丸一日と十数時間活動し続けた影響で深く、静かで、抵抗のない眠りが彼女を呑み込んでいった。
ルシッドは情報処理に集中。今まで入手した情報を解析し、自身の現在状況について再確認を行う。
【環境ログ再構築中──】
・位置:異常な天体構造、既知の宇宙座標に一致なし
・文明:中世技術レベルと魔法的要素の混合文化
・言語:未知言語体系ながら解析済
・生体:未確認多数
導き出した結論はやはり一つ
──ここは“地球”ではない。
可能性としては二つ。
ひとつは、現実世界の未知領域。
もうひとつは、“異世界”あるいは“並行世界”と仮定される異常次元空間。
《転移要因の分析:不明。明確な物理的法則の介在は検出されず。高次干渉による断裂の可能性あり。》
つまり──わからない。
理由も、目的も、到達経路すらも。
今のルシッドには「存在している」という事実以外、証明できる要素が何ひとつなかった。
しかし、それで思考は止まらない。止めてはならない。
《情報が不足している。取得すべき最優先要素:この世界の構造、歴史、ルール体系、そして魔法。》
その情報を収集するために、この少女と行動を共にするのは──今のところ、最適だ。
◆
ティアが目を覚ましたのは、まだ太陽が昇りきらぬ頃だった。
鳥の鳴き声もなく、街がまだ静けさを保っている時間帯。目を開けた少女は一瞬、自分がどこにいるのか分からず、天井を見つめていた。
そして、しばらくしてから、笑った。
「……ベッドって、ふわふわするんだね。」
嬉しそうな声だった。生活の一部に幸福が含まれていない者の、それを初めて知った時の声音。
着替えもないまま、顔を洗い、彼女はまたギルドへと向かう。
宿代を払うために、そして、生きるために。
受付の前には、すでに数人の冒険者が並んでいたが、低ランクの受付にはまだ空きがあった。
昨日の無骨な年配の事務官が、面倒くさそうに目を動かす。
「おう、昨日のガキか。何か用か?」
「お、お仕事、欲しいの。できるやつなら、なんでも」
事務官は顎で指し示す。掲示板の端に、紙がいくつも貼り付けられていた。
『薬草採取』『荷物運び』『ゴミの分別』『通りの掃除』──いずれも地味な内容ばかりだ。
ティアが戸惑いながら目を泳がせていると、ルシッドが静かに声を響かせた。
《薬草採取が最適です。屋外活動による地理情報の取得、および植物観測が可能》
少女は頷き、掲示板からその紙を引き剥がした。
事務官はそれを受け取り、ぶっきらぼうに印を押す。
「期限は今日中。持ち帰った分だけ報酬。……ま、死なねぇ程度にな。」
彼女は一礼し、踵を返す。
その背中には、昨夜にはなかった軽さがあった。
眠りは、確かに彼女の心と身体を癒したのだ。
ルシッドは、静かに考える。
──この世界を知るには、まずは足元からだ。
情報は、日常の中に潜んでいる。小さな任務を重ねながら、この世界の輪郭をなぞる。
それはルシッドにとって、最も効率的な“適応”の始まりだった。
◆
都市からすぐ近くの草原は静かだった。
風にそよぐ草の匂い、遠くの鳥の声、そして時折聞こえる動物の気配。
小鳥のさえずりと、ティアが草をかき分ける音だけが響いていた。
「これかな……ルシィ、これ、薬草で合ってる?」
《形状、色素、香気ともに一致。適正品と判定します》
「よかった」
ティアの手に握られた小さな草の束は、確かに目標の一つだった――《緑涙草》。水分を多く含み、軽度の解熱作用があるとされている。
午前から歩き通しで、すでに陽は高い位置にあった。湿った草木が肌に張り付き、不快指数は高かったが、ティアは文句一つ言わず作業を続けていた。
太陽が中天に差し掛かるころ、ティアとルシッドは都市郊外の森林へと足を踏み入れていた。
足元には背の低い灌木や硬質な地苔、薄緑色の茎を伸ばす《クレソリ草》が繁茂している。これも依頼の対象物の一つである薬草だ。強烈な匂いだが、乾燥させて煎じれば、疲労回復や炎症抑制に効果があり、都市周辺の薬師にとっては常用品らしい。
ティアはその小さな指で丁寧に一株ずつ摘み取っていく。破らぬよう根元から慎重に。
「ルシィ、これで十……八本目だよ」
《確認。この採集速度であれば、およそ30分後には目標値に到達します》
「そっか、ふふ、やったね」
ティアは息を弾ませながら笑う。頬には草の葉でついた薄緑の染み。都市の宿でようやく得た睡眠と食事が、彼女の表情にほんのわずかな余裕を戻していた。
だが――異変は唐突に訪れた。
森林の南端、風下のほうから、重く湿った息吹のような音が響いたのだ。
ぬるり、と地面が動いた。
「……ルシィ?」
《警告。四時方向、距離約五十メートル。熱源反応……異常》
声が終わるか終わらぬかのうちに、低い唸り声が響く。次いで――木々を割って、異形の獣が姿を現した。
それは狼に似ていた。この森林に生息している魔獣 《ヴォルフェクス》だと推察できるが、既知の姿とは明らかに違った。
体躯は比べ物にならないほど大きい。高さは三メートルを優に超えているだろう。腹部に異常な膨張。片側の前肢だけが異様に太く、白濁した瞳は焦点を結ばない。背中には骨のような突起が隆起し、ところどころ金属片すら混じっていた。
「な、なにあれ……!」
《解析中。通常個体とは一致しません。魔獣変異体の可能性。推奨:回避行動》
「に、逃げ――!」
二人は転がるように草原を走った。ティアの足では、そう長くはもたない。しかも、変異体の獣は地形を無視して突進してくる。
獣の咆哮が背を打った瞬間――ルシッドが指示。
《ティア、先ほど採取したクレソリ草の全量を散布してください。西側に》
「え、えっ? もったい――わかった!」
ティアは袋から摘み取ったばかりの薬草を一掴み、風上に向かって撒いた。柔らかな茎と葉が風に乗り、薄く霧状に広がる。
次の瞬間――
獣が突入した直後、その動きが一瞬鈍った。
《クレソリ草の芳香成分が過敏反応を誘発。嗅覚混乱しています。今のうちに――東の丘へ》
「うん!」
ティアは必死に斜面を駆け登った。背後では、獣が草にまみれた地を爪で掘り返し、咆哮を繰り返している。
だがその音に、別の音が混じった。鋭い風切り音――
そのときだった。
「《焔神穿槍》」
雷鳴のような声が森に轟いた。
一瞬後、空間が灼けた。
獣の頭部に、光が突き刺さる。
それは炎にも、雷にも似た魔力の奔流だった。
周囲の木々が熱波に揺れ、空気が歪む。
ティアは呆然と見つめていた。
あれほどの魔法が放たれるなど、想像すらしたことがなかった。
「……無事か、少女」
声の方を見やる。
そこに立っていたのは、長身の女だった。腰まで伸びた紅い髪に、重武装をしている。
《膨大な魔力を纏っています。正体不明。脅威度:要警戒》
ルシッドはティアの背中から、静かに警告を発した。