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都市環境への初期侵入ログ

 夜が明けきらぬ頃、二つの影が都市の外縁にたどり着いた。ひとつは、ボロをまとった小柄な少女。もうひとつは、彼女が背負う袋の中にいる無骨な金属片。

 

 歩き続けて十数時間。道は平坦ではなかった。獣道を進み、丘を越え、湿った草の匂いに満ちた夜を抜け、ようやく都市の輪郭が現れた。

 

 貿易都市 《アーゼルグラッド》である。巨大な石壁が広がり、鉄製の門には鎧を着込んだ門番が二名。彼らは警戒を解かず、目の前に立つ異物に冷たい視線を向けた。


「……通行証を出せ」


 門番の言葉は単調で、感情に乏しい。手に持った槍が地面に突き立てられ、小さな衝撃がティアの足下を震わせた。


「……えっと、その……ないの……。わたし、身分証も何にもなくて……」


 ティアの声はか細く、喉の渇きにひび割れていた。だが門番たちは、彼女の困窮にも哀れみを見せなかった。


「ならば立ち去れ。ここは身元の知れぬ者を入れる場所ではない」


 門がゆっくりと閉じられようとする。逃走の余地は、すでに一度限界まで使われていた。疲労は限界に近い。だが、それでも前に進まなければならない理由があった。


《都市外縁部の側壁に隙間を確認。排水路と推定。身長一五〇センチ未満であれば通行可能と判断》


 背中の金属が、低く冷たい声で告げた。命令ではない。だが、選択肢は提示された。


「……やってみる」


 街壁の南側、わずかに崩れた排水溝。その先に広がる地下道は、雨水の通り道にしてはあまりに整っていた。かつての防衛用の抜け道か、あるいは商人たちの密輸路か――今はただ、目立たずに外から街へ入る手段でしかない。


ティアは膝をつき、湿った石床を這うように進んだ。途中、何度か小動物の骨や捨てられた衣類を踏みつけたが、声は上げなかった。


《この経路の使用は違法行為と見なされますが、現時点においては妥当な選択です》


ルシッドの指摘に、少女は小さく苦笑した。


「うん……知ってる。入れないよりマシだもんね」


やがて薄明かりが差し込む地点にたどり着いた。格子の緩んだ排水口を抜けると、そこは市街の裏路地だった。ごみと湿気の臭いが鼻を突くが、壁の向こうには石畳の通りが広がっている。


こうして、少女は街に足を踏み入れた。


 ティアは人目を避けながら、通りの影を縫って歩いた。身なりの整った市民たちは、彼女のようなよれた服の少女を見れば、すぐに警戒する。ときおり、衛兵の姿も遠くに見える。怪しまれて身分証の提示を求められれば一巻の終わりだ。


《右手前方に商業区域。生活施設が集中しています。宿屋と推定される建物は、路地を一本挟んだ先です》


 案内を受けながら進むと、それらしい木製の看板が見えた。ワインのグラスと、壁に立てかけられた剣。その描かれた建物は、他と比べて灯りが温かく、人の気配も濃い。


 少女は呼吸を整え、小さく頷いた。そして、扉を押し開ける――。


 ティアが扉を押し開けると、かすかに香ばしいシチューの匂いが鼻をかすめた。木造の内装はくたびれていたが、暖かい灯りに包まれている。宿屋の帳場にいた中年の女性が、疲れ切った少女の姿に気づいて眉をひそめた。


「悪いけどね、うちは身分証がない子には部屋を貸せないよ」


 声は冷たくはなかったが、拒絶に迷いはなかった。


 ティアは小さく息を飲み、背負っていた袋をぎゅっと握りしめる。


《補足:この施設の利用には身分証等の提示が求められるようです。宿泊に限らず、多くの都市活動がそれを前提としています》


 ティアはわずかにうなずく。ルシッドの声は、袋越しに胸元で微かに響く。宿屋の女主人は、少女の様子を見て、ほんの少し表情をやわらげた。


「……泊まれないけど、忠告ぐらいはしてあげる。身分がないなら、冒険者ギルドに行くといい。あそこなら素性が不明でも登録してくれる。うまくやれば飯にも寝床にもありつけるさ」


 そう言って、女主人は大通りに面した扉を指さした。


「北の門の方角。通りを三つ越えた先、看板に剣とコップの絵が描いてある建物だよ」


 ティアはふかぶかと頭を下げると、再び通りへと出ていった。歩きながら、ひとりごとのように声を漏らす。


「ルシィ……ギルドって、危なくないかな?」


《相対的には低リスクと判断されます。少なくとも、現在のように野宿を重ねるよりは生存確率が高い》


「うん、わかった。……がんばってみるね」


 少女の声はか細くも、決意の色を帯びていた


 宿屋を出て五分と歩かずに、ティアは目当ての建物にたどり着いた。


 通りの一角、三階建ての石造りの建物。門扉の上には「蒼鋼の翼」と刻まれた鉄板が掲げられていた。内側からは金属の打撃音や、人々のざわめきが漏れてくる。昼前だというのに、中はすでに賑わっているらしい。


 ティアは扉を押し開けた。


 そこには、鍛え上げられた体格の男や、マント姿の女、獣の耳を持つ青年など、雑多な人々が集っていた。掲示板には紙がびっしりと貼られ、カウンターの奥では、眼鏡をかけた事務員らしき人物が忙しなく書類を束ねていた。


受付に近づくと、年配の男が彼女に気づいた。


「ああん? 子供の登録か? ……まあ、規約上は問題ねえけどな。仮ライセンスからだぞ?」


「はい。お願いします」


「種族、名前、年齢、出身地、あと印を。文字が書けないなら口頭でもいい。おい、書類出してやれ」


事務員が紙束から一枚を抜き出し、彼女の前に差し出した。ティアは迷いながらも答えていく。


名前:ティア

年齢:14

種族:人間

出身地:リンテール


 最後に、簡易な魔法陣の描かれた手のひらサイズの石板を手渡される。


「仮ライセンスの魔力石板だ。中に名前と登録番号が刻まれてる。落とすなよ」


 石はひんやりとして、重さは感じられない。それでも、ティアはそれを両手で丁寧に受け取った。


《初期登録完了。該当ギルドとのネットワーク接続……この世界における社会基盤構造の一端を確認。引き続き情報収集中》


 ルシッドの声は静かだったが、その背後には微かな緊張が混じっていた。


「最初は雑用任務からだ。薬草集めだの掃除だの、地味で退屈なことばっかだが、そこで腕を磨け」


ティアは目を丸くして、


「そ、そうなんだ……」


男は少しだけ声を低くして続けた。


「それで実績積んで、やっと本ライセンスの申請資格がもらえるって寸法だ」

「ガキは多少手こずるだろうが、精々励め」


「ありがとう! がんばる!」


男は少しだけ笑みを見せ、


「その意気だ。何かあったら、遠慮せず言いやがれ。こちとら、手は抜かねぇぜ」


そう言い放ち、男はカウンターの向こうに戻っていった。


ギルドを後にしたティアは、仮ライセンスを胸元にしっかりとしまい込みながら、再び宿屋の前に立っていた。あの時と同じ木の扉。暖かい光が隙間からこぼれ、かすかにシチューの匂いが鼻先をくすぐる。


「……だいじょうぶ。今度は、ちゃんと……」


自分に言い聞かせるように呟いてから、ティアは扉を押した。


カラン――と小さな鐘が鳴り、帳場にいた女将が顔を上げる。彼女の目がわずかに見開かれた。


「おや……またあんたかい。ギルド、行ったの?」


ティアはこくりとうなずくと、懐から仮ライセンスを取り出して差し出す。


「うん……ちゃんと、冒険者になったの」


女将はそれを受け取ってざっと目を通し、鼻を鳴らすように笑った。


「よし、これで泊めてやることができるね」


ティアの顔が少しだけほころぶ。

だが、すぐにその表情が曇る。


「お代は先払いだから今払っておくれ。一泊につき銅貨二十枚だよ」


ポケットをまさぐり、小さな袋を開いて――そして固まった。


金がない。


完全に忘れていた。


目の前が真っ白になる。手のひらの中には、ルシッドを包んだ布袋しかない。仮ライセンスはある。でも、払うべきコインがない。


「……ご、ごめんなさい。お金……ないの、忘れてて……」


顔を伏せ、声が震える。女将は一瞬黙り込んだ。が、すぐにため息混じりに言葉を続けた。


「――やれやれ、まったく世話の焼ける」


ぶっきらぼうなその声に、ティアは顔を上げる。


「部屋、空いてるよ。今夜だけ、って条件ならね。明日からは……ギルドで稼ぎな」


「え……でも……」


「いーの、うちはね、たまにそういうのもあるさ。あんたの顔見たら、なんか昔の自分思い出してね。そういうの、嫌いじゃないのよ」


女将はティアの手から布袋を受け取ると、それをふわりと返した。


「それ、大事そうだね。落とさないように。部屋は二階の一番奥、鍵はかかってないから。シチューも残ってる、食べたら寝な」


「……ありがとう、ございます」


涙がこぼれそうになるのをこらえながら、ティアは何度も頭を下げた。背中越しに女将の声が聞こえてくる。


「ちゃんと生きなよ。せっかく身分も得たんだからさ。今度は、あんたの番でしょ?」


ティアは小さくうなずきながら、温かな空気に包まれた廊下を、そっと歩き出した。






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