瘴気の森にて その1
朝の光が、ファルツの街並みを淡く照らしていた。
通りを行き交う人々のざわめきの中を、ティアは小さな息を吐いて歩いていた。
目的地は──《黎明の錬魔団》。
この街のギルドであり、冒険者や魔導士が多く所属している。
重厚な鉄の扉が開かれると、ファルツ鍛治街特有の技術が使われた、機能的で無機質な空間が広がる。
受付で名前を伝えると、案内された先の部屋に、栗色の髪の女性が立っていた。
──シルマ。
その人は、ティアに光属性の魔法を教えた師であり、この街でも屈指の魔導士。
いつもと変わらない無表情のまま、シルマは視線を上げた。
「来たのね」
「はい。お呼びと聞いたので」
「ありがとう。座って」
淡々とした声。抑揚が少なく、必要な言葉だけが発せられる。
ティアは少し緊張した面持ちで椅子に腰を下ろした。
シルマは机の上の書類を一枚めくり、視線を走らせながら口を開く。
「今回の件──あなたにも手伝ってほしいの」
「……件、というのは?」
「先日、私が遠征に行った北の森で瘴気が発生している。
想定より範囲が広く、かなりの人手‥…光属性の魔法が使える魔導士が必要なの」
「瘴気……」
「空気中の魔力が汚染され、魔物が凶暴化する現象。
放っておけば森全体が侵される。時間の問題よ」
ティアは静かに息を呑む。
「……それで、私が?」
「正直、あなたはまだ未熟だけれど、それほど人が足りていないの。──同行して欲しい」
無機質なほどまっすぐな言葉。
ティアは一瞬ためらい、それから小さく頷いた。
「危険なんですか……?」
「危険はある。けれど、あなたは私の後ろにいればいい。
先導も戦闘も私がやる」
淡々としたその口調に、確信だけがあった。
ティアは唇を噛み、それから少しだけ表情を和らげた。
「わかりました。行きます」
「決まりね。道中の費用はすべてこちらで負担する。報奨金も色をつけるわ。支度を済ませたら馬車乗り場へ」
「はい」
立ち上がったティアの背に、シルマが一言だけ付け加える。
「……頼りにしてるわ」
「──はい!」
振り向いても、彼女の表情は変わらない。
けれどその無表情の奥に、どこか温かさがわずかに感じられた。
森へ向かう馬車の中。
木の軋む音と、車輪が砂利を踏む音が心地よいリズムを刻んでいた。
ティアは小窓から外の景色を眺めながら、小さく声を落とす。
(ねぇ、ルシィ。シルマさん、やっぱり強そうだよね)
《はい。魔力の安定度、制御精度、いずれも非常に高水準です。》
(無表情だけど……なんか、怖くはないんだ。たぶん優しい人なんだと思う)
《優しさの定義にもよりますが、”守る”ことへの責任感は強いでしょう》
(うん。私も、そんな風になりたい)
《……あなたは、もうその方向にいますよ》
ティアは少しだけ目を細めた。
(ルシィ、私ね。今回の任務で、ちゃんと力になりたい)
《その気持ちは、十分に力になります。……ですが、無理はしないでください》
(わかってる。シルマさんの後ろで、できる限り頑張る)
小さな笑みを浮かべながら、ティアは息を整えた。
森に入ってしばらく進んだころ、空気の質が目に見えて変わった。
木々は黒ずみ、地表には瘴気の膜のようなものが漂っている。
吐き出す息さえ重たく感じた。
「……ここから先は、もう瘴気の中よ」
シルマの無表情な声が、静かな森の中に落ちた。
「ティア。私から三歩後ろの距離を保って」
「はい」
短いやり取りだけが続く。
(ねぇ、ルシィ。この森、なんか変な感じ)
《はい。瘴気の濃度が高いようです。深い呼吸は避けて、魔力を外へ漏らさないように》
(うん……シルマさんは平気そう)
《あれほどの魔力密度なら、外気の干渉をほとんど受けません》
(……やっぱり、すごいな)
そんな会話を交わしていたとき、シルマが唐突に立ち止まった。
「……今、誰かと話してた?」
「え? あ、い、いえっ! 何でもないです!」
「そう。……不用意に喋ると危険よ。気をつけなさい」
「は、はい……」
ティアが慌てて頷くと、再び無言のまま歩き出す。
その背中はまっすぐで、静かに圧を放っていた。
だが次の瞬間、空気が変わった。
「止まりなさい」
シルマの短い声と同時に、前方から地響き。
木々の間を裂いて、黒い猪のような魔物たちが飛び出してきた。
《ティア、反応複数。距離、三十──接近中》
「わかった!」
ティアが迎撃しようと前に出ようとした瞬間、シルマの声がそれを遮る。
「言ったはずよ、私の後ろにいて」
「でも──!」
「下がりなさい」
命令のような冷たい声。
ティアは言葉を失い、後方に退いた。
シルマは手を静かに掲げる。表情は微動だにしない。
「──《光烈群撃》」
放たれた光が幾重にも分裂し、獣たちを正確に貫く。
ティアは目を見張る。
その精度、威力、制御──まるで一瞬の芸術だった。
だが、その時。
「っ──!」
一体だけ、光を受けながらも立ち上がった魔物がいた。
胸を貫かれているのに、怨嗟の唸りを上げながらティアの方へ突っ込んでくる。
「な、なんで!?」
ティアが反応するより早く、横を光が閃いた。
シルマが動いたのだ。
無表情のまま、腰の短剣を抜き放ち、一閃。
銀光が走り、魔物の首が宙を舞う。
動きは静かで、無駄がなく──まるで息をするように自然だった。
ティアは言葉を失う。
血が地に散る音さえ、森の闇に吸い込まれていった。
シルマは剣を軽く払って血を落とし、鞘に収める。
「……だから忠告したのよ」
「瘴気に呑まれた魔物は、感覚が麻痺する。痛覚も。傷を負っても動きを止めない。そういう個体は、最後まで気を抜いてはいけないの」
「……すみません」
ティアはうなだれた。
シルマは短く息を吐き、わずかに首を横に振る。
「謝る必要はないわ。結果、私の言うことを聞いてくれたから守れたの。これも経験。次は覚えておきなさい」
シルマはその場に佇み、淡々と呟いた。
「──この魔物は、温厚だから普段は滅多に人間を攻撃しないの。」
「……哀れね。穢れに呑まれるのは一瞬」
ティアは小さく唇を噛みしめた。
「……ひどい」
「そうね。危険なだけでなく、森の生態にも悪影響。一刻も早く解決するわよ」
「はい!」
二人は決意をより強固なものにし、森のさらに奥へ歩みを進めた。




