涙の先に、強さを
洞窟を飛び出したティアは、岩肌にぶつかるのも構わず駆け続けた。
視界は滲み、息は上がり、喉は焼けついていた。
──それでも、止まれなかった。
カイルが……リセが……あの場所に残されたままなのだ。
「ごめん……ごめんなさい……!」
無意識に口からこぼれる懺悔。
何度目かのつまずきで、膝が割れ、鮮血が滲んでも、立ち上がって走った。
夕焼けに染まる森は音もなく、枝葉が肌を掠めていく。獣の気配があったかもしれないが、それを認識する余裕はもうなかった。
ようやく、街の輪郭が見えた。
ティアはギルドの扉を押し開け、ずぶ濡れのまま中へ駆け込む。
「だ、だれか──っ! お願い、助けてっ!!」
受付にいた壮年の職員が驚いて立ち上がる。
「どうした!?」
「洞窟の奥で……魔物がっ……リセさんとカイルくんがっ──!!」
ティアの震える言葉に、空気が凍る。
周囲にいた冒険者たちがざわめく。
「黒い蜘蛛の魔物で、金属みたいな身体をしてて……お、おっきくて……!」
「最近似たような事件多いな……こっちも何人か死んでるんだよな…」
「とりあえず騎士団に連絡とけ!」
冒険者はあくまでも自己責任。進んで助けようとする者は少ない。
「おい、事務官!任務依頼は後処理でいいよな!?」
熟練らしき男が舌打ちしながら武器を肩に担ぎ、仲間と共に駆け出す。
「お前はもういい。よく戻ってきた。あとは休んどけ」
その一言で、ティアの膝が砕けるように崩れ落ちた。
「……っ……!」
あたたかな手が肩を支える。さっきの職員だった。
「君、大丈夫かい?」
「……わたし……っ……逃げたんです……!」
職員の目がわずかに揺れる。
「でも、それで君が死んでたら、報せも届かなかった。君を責めることができる人などいないさ」
それが真実だと分かっていても──心は、赦してはくれなかった。
その夜。宿の部屋で、ティアはひとり、震える毛布に包まれていた。
ベッドに横たわっているが、眠れるはずもなかった。
《ティア……辛い選択をさせてしまったこと、謝罪します。申し訳ありません》
ルシッドが静かに言った。
《私は人命を何よりも優先します…。しかし、命を切り捨てる必要があるのならば……それが合理的であるならば、私はその判断を下さなければいけません。……あの人たちを、置いていくように促したのは、私です。》
ティアは毛布の中で小さく首を振った。
「ルシィのせいじゃ、ないよ……」
《………》
「わたし、わかってる。ルシィは、一番正しいことを言った。助けたいって気持ちに流されて、全員だめになったら、それこそ、誰も戻ってこれなかった……」
その言葉は事実であり、ルシッドの判断は冷静で正確だった。
だけど。
「……でも、わたし……なにも、できなかった……」
呟きは震えていた。
「魔法も……全然、効かなくて……ルシィが教えてくれても、攻撃が、当たっても……ぜんぜん……倒せなくて……!」
悔しさと無力感が込み上げる。
「リセさんも……カイルくんも、あんなに戦ってたのに……」
毛布の奥で、ティアの目から涙がこぼれ落ちた。
「わたしだけ、逃げたの……!」
《……あなたは逃げたのではなく、生き延びたんです。未来に繋ぐために──》
「……やだ……やだよ、そんなの……!」
心はすでにぐちゃぐちゃだった。
正しさと、悲しさと、怒りと、恐怖と、悔しさと……。
心が壊れてしまいそうだった。
──強くなりたい。
その思いが、ティアの胸に何度も繰り返し響いた。
脅威的な敵に立ち向かえる、自身の力。
《……私も、考えます。あなたが力を手に入れるために、何ができるのかを》
ルシッドの言葉は、どこかティアと同じく悔しさを滲ませていた。
《私の演算能力、戦闘支援アルゴリズム、そしてあなたの魔法。そこにまだ伸び代はあるはずです。》
「……ありがと、ルシィ」
ティアは目を閉じた。重いまぶたが落ちる感覚は、ようやく心が少しだけ緩んだ証だった。
「……強くなる。わたし、強くなるから……」
眠りに落ちる直前、その言葉だけが確かに響いていた。
翌朝。
ティアは夜が明けると同時に、ギルドへと足を向けた。
気持ちはまだ不安定なままだったけれど、それでも結果を知らなければ前に進めなかった。
重たい扉を開けると、ちょうど昨夜洞窟に向かった冒険者の一人である、槍使いの男が受付前にいた。
「あのっ……昨日、洞窟はどうでしたか……?」
男はティアを見て、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
だが、すぐに静かに首を振る。
「……残念だが、何も見つからなかった」
「え……?」
「君の言う蜘蛛のような魔物は、姿を消していた。崩落が起きたのか洞窟の一部が塞がっていて、最奥までの探索は難しい…。リセとカイルって子たちも……反応なしだ」
「…………」
「おそらく……だが、もう……な」
その言葉の続きを聞く必要はなかった。
ティアは小さく頭を下げて、ギルドの壁際に歩き、腰を落とした。肩が震え、足元に視線が落ちる。
わかっていたつもりだった。
でも、こうして“結果”として聞かされると、心にずしりと重くのしかかってくる。
「……やっぱり……わたしが、置いていったから……」
《違います》
ルシッドがきっぱりと言った。
《あなたが戻らなければ、彼らを助ける手段は永遠に失われていました。それでも、悔しいと思う気持ちは否定しません。……けれど、責任を全て背負う必要性は皆無です》
「…………」
その言葉も、今はただ遠く、ぼんやりとしか届かなかった。
すると──
「ティアちゃん!」
聞き覚えのある声が駆け寄ってきた。
振り返ると、そこにはレオンの姿があった。
「……レオン、さん……」
「探したよ。君が強力な魔物に襲われたって聞いて……」
彼は息を整えると、ティアの横に腰を下ろす。
「話したいことがあるんだ。ちょっとだけ、場所変えよう」
ギルドの裏手、小さな噴水のある広場。
涼しい風が吹き抜ける中、ティアは背中にルシッドを背負ったまま、ベンチに腰掛けていた。
レオンは静かに、彼女の背中に視線を向ける。
「ねぇ……その、背中にあるの。俺、気づいてたけど、今まで聞けなかったんだ」
「……」
「それ、なんなんだい? 魔導具? それとも……もっと別の何か?」
ティアは少し迷ったが、やがてこくりと頷いた。
「これは……わたしの友達というか…パートナー?みたいなもの……名前はルシッド。喋ることができて、いつも私を助けてくれるの」
《こうしてお話しするのは初めてですね。レオン=グランズ。あなたの情報は過去のギルド記録から照合済みです。信頼レベルは初期値より高めと判断します》
「へぇ…自発的に話すアイテムか…今まで見たことないや」
「ルシィ、きっと初めてわたし以外と会話したね」
ティアが少しだけ微笑む。ルシッドもまた静かに返答を続ける。
《あなたに害意がないと判断したためです。私たちの現状と課題を共有することは、状況改善に有益と見なされました》
「……なるほどねぇ」
「……それで、あの、わたしたち強くなりたくて…強いモンスターにも立ち向かえるように……」
レオンは腕を組み、少し考えるように空を見上げた。
「……俺、便利屋やってるから、いろんな話が耳に入るんだ」
「…うん」
「ここから北にある山岳地帯の、“ファルツ鍛治街”っていう所があってね。そこ、職人と技師の街なんだけど……魔導具とか、装備の研究もしてるらしい」
《興味深い情報です。詳細な位置とルートを地図に反映します》
ルシッドが反応し、記録を開始する。
「そこでなら、もしかしたら君の魔法……それにルシッドも、何か強化できるかもしれない。戦う力が、手に入るかもしれない」
その言葉に、ティアは目を見開いた。
「……本当に?」
「あぁ。保証はできないけど。でも、試す価値はある」
ティアはベンチから立ち上がった。
その瞳には、迷いがなかった。
「行く……! 行くよ、レオンさん。わたし、強くなる。今度は、誰も……置いていかないって、決めたから」
《……その決意、確認しました。目標地点『ファルツ鍛治街』への最短ルートを提示。必要物資の一覧を表示します》
背中のルシッドもまた、ティアの決意に呼応するように動き出していた。
──ティアの新たな旅が、始まろうとしていた。