光は届かず
洞窟の奥へと進むティアの足取りは、緊張に縛られていた。
《光灯》の淡い光が岩壁を照らし出すが、その光もまるでこの奥の“何か”を恐れているかのように頼りなく揺れる。湿気はさらに濃くなり、空気は重く、鼻をつく鉄のような匂いが混じっていた。
やがて、視界がひらける。
岩天井は高く、空間の中央には苔に覆われた岩がいくつも転がっている。その中央、鍾乳石の下に──カイルとリセの姿があった。
「ティアちゃん!」
リセが微笑み、駆け寄ってくる。
「無事で、よかった……」
カイルは岩を削りながら、軽く振り返った。
「だから言ったろ? ちょっとだけってさ」
「もぉ……ほんとに、びっくりしたんだからぁ……!」
ティアがふくれっ面になるのを見て、カイルとリセが苦笑する。その空気は、ほんのひととき、穏やかだった。
──だが。
《警告:魔力反応、さらに接近。距離三十メートル。強度上昇中。高位魔物の可能性あり。》
ルシッドの声が、重く空気を裂いた。
「っ……やっぱり、いるの……?」
ティアが周囲を見渡す。だが、何もいない。動く影も、音も、ない。
その“静けさ”こそが、不気味だった。
《再スキャン。……魔素の乱れ方に異常あり。風の流れも途絶しています。》
「無風……?」
リセが呟いた。
「……鍾乳石が多すぎるからじゃない?」
カイルは気にも留めない様子で岩を砕き続ける。リセも一度ティアの顔を見たあと、少し肩を落としながら隣に戻る。
《ティア。上空、天井の一部に魔力の滞留反応。視覚に対する違和感あり。鍾乳石ではない──何かがいます。》
その瞬間、ぞわりと背筋が冷える。
「……リセさん、カイルくん……天井……見て……」
ティアの声は震えていた。けれど、二人が見上げるより先に──
“それ”が動いた。
──ドンッッ!!
まるで天井が崩れ落ちたかのような衝撃音。岩を割り、苔を吹き飛ばして、黒い影が落下する。
八本の大きさが歪な脚。巨大な黒甲殻。濁った六つの眼。それに金属片が身体中に混じっている。
あの時、森で遭遇した狼の魔物と、どこか特徴が似ている。
異形の蜘蛛のような魔物だった。
「な──!?」
「ちょ、嘘……あんなの聞いてない……!」
「ティア、下がれ!!」
カイルの叫びと同時に、地が揺れる。
蜘蛛が咆哮を上げ、突進してきた。
カイルが最前線で剣を構え、ルシッドの指示が飛ぶ。
《左の足元、岩陰を利用して巻き込まれを避けてください。右斜め前方、落石ポイントあり──引き込めば崩落を狙えます》
「くっ、うんっ!」
リセが風の魔法で蜘蛛の左足を狙い、ティアも光弾の詠唱を始める。
「……瞬き、照らせ──《閃光弾》!」
光が迸り、蜘蛛の体に命中。
だが、その身体は怯むことなく前進を続けた。まるで光など意に介さぬように。
「効いてない……っ」
《外骨格の強度が異常。閃光は視界撹乱にはなるが、痛覚を与えられません》
カイルが岩を飛び越え、蜘蛛の横腹に斬撃を加える。
「食らえっ──!!」
ガンッ!!
……まるで鉄を叩いたような音。
「な、なんだこれ……斬れない……!」
その刹那──蜘蛛の脚がしなる。まるで投石機のように、巨大な岩を跳ね飛ばしてきた。
「うわっ!? リセ、ティアっ!!」
岩が地面に激突し、破片が散る。ティアは転がり、背中を擦った。
「いたっ……!」
《ティア、後退を。左斜め後ろに自然の段差あり。そこを超えれば一時的に死角へ》
「わ、わかったっ!」
ティアが駆ける。だが、その背を追うように蜘蛛の糸が放たれた。
――ズバッ!
糸が段差の上の岩を裂き、焼け焦げた匂いが漂う。
追撃は止まらない。蜘蛛は岩壁をもよじ登り、天井から再度落下──連撃を繰り出す。
その動きは規則的だった。
《分析:落下→脚による薙ぎ払い→毒液散布→待機→糸攻撃。この四拍子のローテーションを繰り返している模様》
「ルシィ、そのリズムで攻撃タイミングを教えてっ!」
《了解。カウント開始──》
リセが風刃を三連発で放つ。ティアも再度《閃光弾》を準備。
だが、蜘蛛は予測を上回る行動を取る。
──二回目の落下直後、脚を突き立てる代わりに、脚先の爪を地面に引っ掛け、跳ねた。
「速いっ──!!」
予測外の軌道。カイルが避けきれず、腹部を薙がれる。
──バシュッ!!
肉が裂ける音。鮮血が霧のように舞った。
「カイルッ!!」
彼は地面に転がり、呻き声一つあげることもできなかった。
《致命傷ではないが、意識混濁。自力戦闘不能。》
リセが駆け寄ろうとする。
「ちょっと! ティア、援護して!」
「う、うんっ!」
ティアが光弾を放ち、蜘蛛の視線を逸らす。蜘蛛の巨体が一瞬だけティアに向いた。
《今! 右へ回り込み、蜘蛛の後脚へ誘導を──》
「リセさん! 後ろに!」
リセが振り返りざまに《風防壁》を展開し、迫る毒液を防ぐ。
「っ……く、るし──」
しかし攻撃は終わらない。
《緊急ルート確保中。洞窟西壁、落石によって脱出口が出現》
「ルシィ、じゃあ今のうちに──!」
《しかし、カイルの右足が糸に固定されています。切断不可。急いでください。最後の好機です》
リセは走り、カイルの元へ。
「糸……切れない……っ!」
《三人全滅の可能性が非常に高いです。ティア、彼らを置いて逃走してください》
ティアの手が震える。
カイルの顔を見つめる。リセも涙を浮かべている。
「ティア、お願い!糸切るの手伝って!」
《ティア!時間はもうありません!》
ルシッドはいつもより語気を強める。
その言葉に、ティアの目が見開かれた。
……走らなきゃ。
涙が頬を伝う。
「ごめんなさいっ……! ごめんなさいっ!!」
ティアは叫び、振り返らず、闇の中を駆け出した。
背後から、蜘蛛の咆哮が響いた。