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「わたしがいま思い出せる最初の記憶って、九歳か十歳頃のものなの」しばらくしてから律子さんはしゃべりはじめた。「わたしの特別な記憶、涼ちゃんに話すわね。当時、学校では問題児扱いされていてね。友達と三人でよく職員室に呼び出されて、先生に叱られてた。まあたしかに仕方ないのよ。それくらいひとに迷惑をかけていたのは事実だから。
よくおぼえているのは、用務員のおじさんが怒ったときの凝乳みたいな顔色。いまではもうなくなっちゃったけど、当時は校庭の片隅に用務員のひとが詰めるプレハブ小屋があったの。壁は灰色で、ぎざぎざの屋根は悲しいくらいカレーみたいな色をしていた。壁には断熱材が埋めこまれていて、冬でもなかはあたたかいの。隣あった倉庫には、芝刈り機やら、古くて硬くなった竹ぼうきやら、泥まみれの長靴やらが積みあげられていて、わたしたちにはそれが宝の山に思えた。壁にかけられていたボロいレインコートの下に、アルミ製のはしごが寝かされていてね。放課後にそれを拝借して、友達と三人でプレハブ小屋の屋根の上によくのぼっていたわ。もちろんだれにも見られないように動かなくちゃならないのだけど、その場所は校舎からは死角になっててそんなに難しいことじゃなかったし、用務のひとたちって終業時間がはやいから、小屋は無人であることが多かったの。三人で寝転んで空を見上げながらおしゃべりしてたら、あっというまに時間が過ぎていった。一度は夜に忍びこんで、いっしょに流星群を眺めたこともあるくらい、その場所がわたしたちにはお気に入りでね。すごかったのよ。流れ星がほとんど間断なく、ありとあらゆる方向に向かって夜空を横切っていくの。ひとりが、『星だ! 星が降ってくる!』って叫んだ。その声は夜にしてはちょっと大きすぎるくらいで、空気に反響しながらあたりに響いた。それからもうひとりが、「これだけ大きな街なのに、こんなにくっきりと見えるんだね」ってつぶやいた。わたしはその言葉に賛同して、「きっと街のひとたちも明かりを消して見てるんだよ。今日はひとの一生のなかでも特別な日なんだ」なんて特に意味のない返事をした。夜空へ吸い寄せられるみたいに、わたしが人差し指を宙に掲げると、残りの二人も真似をしはじめた。わたしは天に彫られた星の軌跡を、指の先端でなぞった。何度も何度もなぞった。残りの二人もわたしの真似をしていた。普段は光瞬く点の集合でしかない夜空が、ひとつ高位の次元に達したような、世界を満たしている法則を垣間見たような、そんな感覚があったの。
三人ともそんな光景を見たのはそのときが初めてだった。わたしたちはひと言ずつ、壊れそうな間を大事に渡しあいながら、ゆっくりしゃべってた。でも次第に口数が少なくなっていって、やがて三人同時に言葉を失ったわ。願い事を口にするなんて思いつく余裕もなかった。その瞬間のわたしたちはたしかに通じあったの。同じ想いを共有していたの。でもその何日かあと、たまたま用務のおじさんがはしごをつかおうとしていたときにわたしたちがつかってて、それでなにもかもばれちゃった。さんざん怒られてからは、もう屋根にはのぼれなくなったわ。どうせ言っても聞かないってことを向こうもわかってたから、それからは倉庫に鍵をかけるようになったものね。何度も大人たちに叱られた記憶があるわ。あたしたちに『じゃじゃ馬トリオ』ってあだ名をつけたのは、その用務員のおじさんだったの」