●45
ここでシロさんは扇子で扇ぐのをやめ、口を開いた。「屋上からの景色は綺麗ですか?」
「ええ。よかったら見に行ってみます?」
階段をのぼって、屋上へとつづく鉄の扉を開いた。空気の塊がぼくらの脇を吹き抜けていく。ここからの眺めは馴染み深い。街の外れに位置しているため、高いところから街中を見下ろす形になる。ぼくらのホテルが若干陰になったけど、その向こうには海が見えた。
開いていた扇を閉じて、シロさんは転落防止の柵へ歩み寄った。ぼくは少し離れたところから彼の背中を見ていた。邪魔になりそうだったら自分の部屋へ戻ろうと思っていたけれど、そういうわけでもなさそうだった。ぼくらはしばらく無言で海を眺めた。シロさんのジャケットの色が、夕方の海の青みとひとつに溶けあわさりそうに見えた。そのときのぼくには、それが限りのない調和に思えた。ああ、この淡い感覚にはおぼえがある。いつか溺れた夢で抱いたものだろうか。
やがてシロさんがこちらへ向き直り、戻ってきた。途中でなにかを踏みつけたみたいで、ぱきんという小気味よい音が響いた。彼は屈みこんで自分の踏んだものをたしかめた。ぼくも近づいた。
それは親指ほどの大きさをした蟹の甲羅だった。手足はなく、色は抜け落ちている。シロさんはそれを指でつまみ上げ、不思議そうに眺めた。
「鳥が食い散らかしたあとに残したものかもしれません」ぼくは前屈みになっていっしょにそれを見つめた。「散歩をしていても時々見かけますよ。鋏だけだったり、脚だけのこともあります」
「蟹が目につくところで歩いているんですか?」
「ええ。海沿いの街ですから。この間は、この寮の二階のトイレで生きているのを見かけましたよ。階段を通ってくるんだか、排水管を泳いでくるんだかわかりませんが」
シロさんはしばらく観察をつづけたあと、立ち上がってそれをジャケットの隙間に突っこんだ。
部屋に帰って一時間ほどのんびりしてから、外の空気を吸いに行こうと思って扉を開けた。目の隅でもぞもぞと動く影があったのでそちらを見ると、トイレの前でシロさんが腰を曲げた姿勢で床を調べていた。ぼくは一瞬だけ迷ったあと、近寄って声をかけた。
「どうかしました?」
シロさんは拡大された目でぼくを見上げた。
「探しているんですが、なかなかみつかりません」と彼は言って、またなにかを探す作業に戻った。
「探しているって、なにを?」思わずぼくは問いかけた。
「蟹ですよ」
ぼくは彼の後頭部をじっと見つめた。ぼくの存在を気にも留めてないようだった。しばらくしてからぼくは言った。
「風邪はひかないでくださいね」