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「なるほど。勤務証明書を会社に発行してもらうのと、身分証明書、それと寮の住所が必要になるんですね」


「図書館なんて小学生の頃から通ってませんよ」耳のでかいほうは退屈そうに言った。「興味のないことには指一本触れたくない性質なんです。本を読む時間があったら、パソコンかタブレットをいじってしまいます。漫画は読みますけどね」


「ぼくは小説はあまり読まないんです」背の高いほうはメモ帳を胸ポケットに仕舞って言った。「歴史が好きでしてね。こうしてしばらく住むことになったわけですから、熱海の街について詳しく調べてみたいんですよ。実はここへくる前にも一冊、日本の温泉宿について取りまとめた、分厚い本を読んできました」


「どんなことが書かれてました?」興味をおぼえてぼくは訊いた。


「いまでさえ客足は遠のいてますが、経済が弾けてた頃の熱海はすごかったみたいですよ。シーズンがくれば東京や横浜のほうからひっきりなしに大型バスが流れてきましてね。社員旅行の定番だったんです。いまじゃひとりも見ませんが、当時は着物を着た芸妓さんが街中を歩いてても珍しくありませんでしたし、大きいホテルになると食堂にスケートリンクが設けられていて、プロのスケーターが食事中の客の前で滑っていたんだとか」


「はあ」とぼくはため息を漏らした。


「いまの閑散とした街並みからじゃとても想像がつきませんね」と眼鏡は言った。


「まあ、栄枯盛衰は熱海に限ったことじゃありませんけどね。この国全体に言えることです」


「むかしの日本が異常だったんですよ」眼鏡がしみじみと言った。「なにしろ施設ごとに何億って金が平気で動いてたんですから。田舎へ旅行に行けば、経営難で打ち捨てられた廃墟がごろごろと転がってます」


「廃墟と言えば」背の高いほうが思い出したように言った。「このホテルの隣にももうつかわれてない建物がありましたね。ひと気もなく、鉄骨の上から幌がかけられていて、まるで解体作業をはじめる準備だけしてあるという有様でしたけど」


 たしかにぼくが勤めるホテルの隣には廃墟があった。外壁は漆喰がところどころ剥げていて灰色の地肌が露出していた。左右の建物に圧迫され、上の空間に逃げ道を求めたかのような、六階建ての細長いつくりだった。強い風が吹くと幌が音を立ててうねり、漆喰の欠片がぱらぱらとアスファルトの上に零れ落ちた。入口のガラス扉からなかをのぞくとロビーが見えた。埃を被った洋風のソファ。テーブルの上には煤けたクリスタルの灰皿と木材の破片。受付のカウンターには錆びたペン立てや造花の花瓶などが取り残されていて、埃さえなんとかすれば、黒スーツのコンシェルジュが立っていても不思議ではない空気が漂っていた。

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