●13
「缶コーヒーといっしょに吸うと、これがまた絶妙なんです」桧山さんは言った。たしかにそのとおりだと、ぼくは煙を吐きながらこたえた。
ぼくらはしばらく黙ったまま、コーヒーと煙草を鼻腔で味わった。心地よい沈黙だった。時折前屈みになり、人差し指で煙草の腹を叩く。灰皿の上に、徐々に灰が積もっていった。やがて桧山さんがぽつりと語りだした。
「さっきは次の目的地はまだ決まってない、なんて言いましたがね。実際そのとおりなんですが、冬が終わって、雪が解けたら、そのときに行く場所はすでに決まっているんです」
ぼくは黙って耳を傾けた。お互いに、今日はいつも以上によくしゃべる日だ。桧山さんは言葉をつづけた。
「自覚もしていますが、これまではさんざん好き勝手をしてきました。ぼくは運よく車を持っているので、行きたいと思った場所に自由に走っていけるんです。山奥で働いていた頃は渓流釣りにのめりこみました。休日は林道に車を乗り入れて、熊に出会いはしないかとびくびく怯えながら、流れ落ちる川に釣り糸を垂らしたもんです。スキー場ではスノーボードを無料で借りて、朝からライトが点灯するほど暗くなるまで滑っていましたし、ここでは休みのたびに湯河原や宇佐美の砂浜まで出かけて、ほかの物好きな連中と肩を並べてサーフィンをしていました。あちこち巡って、その場で適当なものを選択してきて、最近になって、ようやく自分がむかしからほんとうに好きだったものに、手を伸ばしてみようかという気になってきたんです。春になったら、北海道の牧場で、動物たちの世話をすることになってるんですよ」
「北海道」ぼくはその単語を舌の上で転がした。慣れているようで慣れていない、そんな奇妙な味がした。
「はい、北海道です。津軽海峡を越えたその先へ」
「なぜ北なんですか? 桧山さんが好きなものってなんなんですか?」
「ぼくは馬が好きなんですよ」桧山さんは二本目の煙草を吸いはじめた。二人の煙でぼくらの視界が霞んだ。彼は言った。「死んだ親父が競馬好きのろくでなしだったんです。休日は母に黙って、よく近所の競馬場に連れていかれたもんです。もちろん、母には全部ばれていたんでしょうけどね」彼は笑った。「汚えとこですよ、競馬場なんてのは。少なくともうちの近所のはね。道端には焼酎の空き瓶や、雨で濡れて地面にへばりついた段ボールの切れ端やなんかがあって、正体のわからない黒い染みが建物の外壁や床にぽつぽつと、霊の足跡みたいについているんです。だれかが吐いた痰を踏んづけて、何度むかっ腹を立てたことか。敷地内が汚けりゃ訪れる人間も汚いもんです。汗染みのついた野球帽に、何年つかってるかわからない穴だらけのジャンパー。歯が欠けてない人間なんかいやしません。不思議なことに、全員が似たような格好なんです。いつも片方しかレンズのはまっていない眼鏡をかけたおっさんは、親父の顔見知りでした」