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熱海の街の朝は決してはやくはない。観光客はそれほど急いで宿を引き払ったりはしないし、街は彼らにあわせて目覚める。犬の散歩や気まぐれな宿泊客、ホテルの朝食をつくるコックなど、少数の人間が昇りはじめた朝日を浴びる。
朝日は昇ったばかりで街は薄暗い。海岸線が南北につづき、海に出っぱったデッキは遊歩道として北のサンビーチまでつづいている。ここは海の街なのに、海岸から数十メートルも内陸へ行けば急勾配ののぼり坂がはじまり、そのまま緑成す山へと繋がっている。遊歩道に設えられた欄干の向こうの桟橋には、からっぽの遊覧船が何艘か繋がれていて、波が寄せるにつれ、船も上下した。デッキを北へ進みつづけると、サンビーチに辿り着く。人工のビーチは灰色で、まだ日中の時間帯ほど輝きを取り戻してはいない。朝日が昇ってまだまもない頃、子供のいる家族連れと出会うことがある。子供はぬいぐるみや車輪のついたおもちゃを腕に抱え、寝起きで元気がない。親が連れだしたのか、子供が無理についてきたのか。この街のような温泉街では珍しい光景でもなかった。
信号を渡ると街中へ道がつづく。坂をのぼり、旅館やホテルがくっつきあいそうなほど密集する地帯を抜ける。宿の前は無人で、まだ浴衣姿の宿泊客も、黒スーツのコンシェルジュも姿を現していない。側溝の隙間や流れる川のところどころで、白い蒸気が宙に向かって噴き出している。あちこちで温泉が湧いているため、地熱で街全体が茹でられているみたいにあたたかい。土産屋や、ストリップ劇場や、風俗店が押しこめられた、寂びれた商店街がある。キャバクラの前には何倍にも拡大された人気嬢の写真が貼られていて、太いマジックペンで塗られたようなつけまつげの下から、コケティッシュな目線を通行人に送っている。ぼくはこの前を通るたびに、なんだかひどく申し訳ないような気持ちになって顔を伏せ、足早に通り抜けてしまう。ひとたび観光客が足を踏み入れないような細い路地に入れば、表向きの顔は鳴りを潜める。建物は古く、無駄が多い。敷石の上には毎日、新鮮な犬の糞を見かける。このあたりに陽の光が訪れるのは最後の最後だ。