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次に顔を上げたときには、陽が暮れかけていた。この様子だと、寮へ着く頃にはきっと真っ暗になっている。海沿いの夜道はぞっとしないというのに、つい時間を忘れてしまっていた。
小夜は手元のタブレットで動画を見ていた。どうせジブリの映画か好きなアニメでも見ているのだろう。イヤホンを耳に引っかけ、眉間にはしわを寄せていた。弱まっていく陽光が、彼女を横から照らしていた。
ぼくは本や飲みかけのペットボトルを鞄にしまい、ヘルメットを脇に抱え、立ち上がった。小夜は顔を上げなかった。
「今日はもう帰ることにするよ」
小夜はうーんと唸った。ぼくは鞄を肩にかけ、出口へ向かった。途中で振りかえって声をかけた。「また土曜日にくるよ」
小夜はタブレットをにらんだままだった。ぼくが引き戸の取っ手に手をかけたとき、背後でつぶやく声が聞こえた。「運転、気をつけてね」ぼくは部屋をあとにした。
階段をおり、受付カウンターや待合室の前を通って建物を出た。中庭ではまだ人々が談笑していた。ぼくは夕光が照らすレンガ敷きの遊歩道を歩き、花のない染井吉野の細腕を見上げながら、敷地の西側へと向かった。波打つトタン屋根つきの駐輪場には、関係者の自転車が綺麗に列を成して停められていた。そのなかに混ざっているただひとつの異物——二五〇cc、ホンダのホーネットがぼくの脚だ。ぼくは屋根の下からバイクを引っぱり出し、キーホルダーのついた鍵を鍵穴に突っこんだ。チョークレバーを微妙に調節してスターターを押すと、一発でエンジンがかかり、車体が電気モーターを同時に十台くらい動かしているような唸り声をあげた。エンジンがあたたまるまで、ぼーっとその場に突っ立っていた。顔を上げて城のある公園の方角を見た。天守閣の頂の角部分だけが、木々の向こうにわずかにのぞいていた。城は灰色の薄いシートで上から下まで覆われていた。耐震補強の工事をするとかで、この年の秋から作業が進められていた。工事が完了するのは一年後の夏になる予定らしい。日曜日以外は無骨で疲れたように色褪せたトラックが、朝から列を成して公園に集う。日中は作業がつづくのだけど、その音はこの病院までは聞こえない。小夜はいつもそれを残念がっていたっけ。
エンジン音が、高く、凝縮したような音に変わっていた。ぼくはチョークレバーを元に戻し、足を振り上げてシートに跨った。フルフェイスのヘルメットを頭に被ると、まわりのすべての音がくぐもって聞こえ、自分の鼓動や呼吸音が頭蓋骨のなかで響いた。グレープフルーツのにおいが鼻をくすぐった。小夜の残り香だ。手袋をはめ、クラッチを握り、左足でスタンドを払った。車体の重みが右足にかかり、太腿が緊張した。背後を振りかえり、軌道上にだれもこないことを確認した。ギアを入れ、クラッチを徐々に繋ぎ、ゆっくり発進させて出口へ向かった。東海道は仕事帰りの人々が乗る車で混みあっていた。渋滞でいらつく彼らを尻目に、左折して一三五号線に乗り入れた。車の流れがぐっと減った。山並みの向こうに沈む夕日を横目に見ながら、海岸沿いを南へと走った。




