●120
病室の扉をノックし、返事も待たずになかに入った。まずはじめに意識したのは、柑橘系のにおいが、どこかへ運び去られてしまったこと。この部屋へ入るたびに、ぼくはそれに迎え入れられていたのだ。それはこの部屋を離れ、持ち主の終わりのない旅路についていってしまったのだろう。寂しさがぼくの胸倉をつかみ、崩れ落ちそうな足腰を引き立たせた。しっかりしろ、と自分に言い聞かせ、ぼくは奥へと歩を進めた。
窓は閉め切られ、カーテンは左右できれいに留められていた。ベッドに人影はなく、シーツは剥がれ、布団はほかの空室と同様に、しわひとつなく規律正しく畳まれていた。机の上の花瓶はすでに持ち去られていた。床やソファ、床頭台などに溜まっていた埃はなくなり、部屋は彼女がいた頃よりも清潔で近寄りがたかった。部屋の隅に置かれたパイプ椅子は元の場所から動かされていなかった。だれからも触れられず、気づかれなかった。ぼくはこの部屋で唯一ぼくの所有物だったそれに歩み寄り、荷物を床に置いて腰かけた。待っていればそのうちくるだろう。ほどなくして、病室の扉が開かれる音が聞こえた。ゴム底のスニーカーが床と擦れあう音が響き、壁の陰から律子さんが姿を現した。それはいつもどおりの律子さんなのだけど、だれかが精妙に写実したかのような、どこかこことはひとつずれたところにいるような立ち姿だった。彼女はぼくをまっすぐ見て口を開いた。
「おとといのお昼。あなたが最後に会った次の日」
ぼくは頷いてため息をついた。防波堤に座って海を眺めていた頃かな、とぼんやり考えた。
「ちゃんとあなたに電話をかけたのよ。そしたら電源を切っているんだもの」
ぼくはふたたび頷いた。視界がぐるぐると渦巻き、律子さんの姿も歪んで見えた。しっかりしなくては。そのためにぼくは言葉を紡いだ。
「痛みはあったかな?」
「わからない。でも横から見ていると、穏やかに眠っているみたいだった」
「そうか」
「せめて最後くらい、そばにいてあげたらよかったのに」
「いいんだ。彼女だって、そんなこと望んでいなかった」